第35話 最初の戦列
ビブラクテの戦いが始まります。
丘を登るヘルウェティイ族。
投槍を放つローマ軍。
第一列がぶつかり、負傷者が次々と救護所へ運ばれます。
主人公は手術へ飛び込みたい衝動を抑え、入口で患者の流れを管理します。
自分が直接救うのではなく、仕組みで多くを救う。
しかし戦場はすぐに予定を壊します。
前方の敵。
側面から現れる新手。
二方向から流れ込む負傷者。
軍医幕僚としての最初の本当の戦いが始まります。
どうぞお楽しみください。
投槍の雨が、ヘルウェティイ族の盾へ降り注いだ。
重い鉄製の投槍は盾板を貫き、柄が大きく曲がる。
盾を捨てなければ動けない。
捨てれば身体が露出する。
ヘルウェティイ族の戦士たちは、それでも斜面を登ってきた。
叫び。
角笛。
盾を打ち鳴らす音。
ローマ軍第一列が剣を抜く。
最初の衝突。
人と人がぶつかる音は、金属音だけではなかった。
骨。
肉。
息。
恐怖。
丘全体が低くうなる。
◇
最初の負傷者は、戦闘開始からわずか数分で運ばれてきた。
「白!」
前腕の軽い裂傷。
自力歩行可能。
「血を止め、後方へ歩かせろ!」
次。
大腿へ槍。
出血が多い。
「赤!」
衛生兵が圧迫する。
担架で丘裏へ。
「黄!」
肩の脱臼。
激痛だが、生命の危険は低い。
判断が続く。
俺は入口に立ち、患者の流れを管理する。
手術へ入りたい。
傷を見れば、手が動こうとする。
だが今、俺が一人の処置へ入れば、入口の判断が止まる。
「ディオニュシオス!」
「聞こえている!」
彼は内部で大腿の止血を行っている。
「二人目の赤が来ます!」
「空いている寝台へ!」
救護所が機能している。
俺が処置しなくても、嬉しい。
同時に、奇妙な寂しさがある。
自分が必要ではない。
それこそ目指すべき状態なのに、心のどこかが抵抗していた。
◇
「前線が押しています!」
伝令が報告する。
ローマ軍の第一列は、斜面を利用して敵を押し返している。
ヘルウェティイ族は後退を始めた。
「勝てる」
衛生兵の一人がつぶやいた。
その瞬間。
丘の側面から角笛が鳴った。
別方向。
背後に近い。
「ボイイ族とトゥリンギ族!」
伝令が叫ぶ。
「敵の後続が、右翼へ攻撃しています!」
戦場が二つに分かれた。
前方では、後退するヘルウェティイ族。
側面からは、新たな敵部隊。
ローマ軍は追撃へ移ろうとしていた。
その側面を突かれた。
「第三列が向かいます!」
予備としていた第三戦列が、向きを変える。
前方の敵を追う第一、第二列。
側面の新手を受け止める第三列。
カエサルの予備兵が機能した。
使わずに残していたものが、この一瞬のために存在していた。
◇
「救護所を二方向へ対応させます」
俺は患者搬入路を見た。
前方からの負傷者。
右翼からの負傷者。
同じ入口へ集めれば詰まる。
「入口を二つに分けます!」
「天幕は一つです」
搬送責任者が言う。
「右翼側の布を外してください」
「壁がなくなります」
「出口を作る!」
天幕の側面を開き、第二の入口にする。
前方戦線の負傷者は従来の入口。
右翼の負傷者は新しい入口。
内部で交差しないよう、寝台配置を変える。
「赤は中央!黄は外周!」
「白は?」
「天幕へ入れず、外の処置場所へ!」
患者の流れを分ける。
入口が詰まれば、治療できる患者も治療できない。
前の人生で、俺は救急外来の動線図を三度書き直した。ここでは、三呼吸で決めている。
「担架が足りません!」
「盾を使え!」
ローマ兵の盾は大型で、人を載せられる。
戦場へ戻せなくなるが、今は搬送が優先。
「盾が足りなくなれば戦えません!」
「壊れた盾を先に使え!」
完全な物でなくてよい。
患者を運べればよい。
◇
「ルキウス!」
ディオニュシオスが叫んだ。
「腹部刺創!私では無理だ!」
俺にしかできない仕事。
「入口を任せます」
搬送責任者へ言う。
「私が?」
「基準通りに分類してください」
「判断を誤ったら」
「迷ったら赤へ」
過剰分類になる。
資源を消費する。
だが、救命可能者を見逃すよりよい。
俺は手術区画へ入った。
患者は若いローマ兵。
左上腹部へ剣創。
脈が速い。
顔面蒼白。
腹腔内出血。
脾臓か、胃か、大血管か。
「開きます」
葡萄酒を飲ませる。
兵士が押さえる。
切開。
腹腔へ入る。
大量の血があふれた。
吸引装置はない。
布で吸う。
血を拭き、出血源を探す。
脾臓付近。
臓器の裂傷。
現代なら脾摘、止血器具、輸血。
ここでは、圧迫と結紮しかない。
「光を近づけて!」
油灯が揺れる。
手が血で滑る。
出血点を押さえる。
縫う。
結ぶ。
布で圧迫する。
患者の脈が弱くなる。
「水を」
口から飲ませても、循環血液量はすぐには戻らない。
輸血があれば、点滴があれば、何度目か分からない思い。
「外科医殿」
患者がかすかに言った。
「はい」
「勝っていますか」
外では叫び声が続く。
状況は分からない。
「勝ちます」
俺は答えた。
根拠はない。
「そうですか」
患者は目を閉じた。
「眠らないでください」
「少しだけ」
「駄目です」
頬を叩く。
反応が弱い。
出血は、完全ではないが減った。
腹壁を閉じる。
「運ばず、ここで経過を見ます」
◇
手術を終えて外へ出る。
救護所の流れは維持されていた。
搬送責任者が分類している。
ティロが患者数を記録する。
衛生兵が圧迫止血を行う。
俺がいなくても動いていた。
「誤分類は?」
俺が尋ねる。
「分かりません」
「再確認は」
「ディオニュシオスが行っています」
役割が回っている。
だが、負傷者は増え続ける。
前線から伝令が来た。
「第一、第二列が敵を押し返しました!」
「右翼は?」
「第三列が持ちこたえています!」
ローマ軍は二方向の敵を相手にしている。
敵も退かない。
ヘルウェティイ族の荷車陣では、女性や老人が戦士へ武器を渡している。
逃げれば家族を失う。
ローマ兵は背後に馬を置いてきた。
逃げ道はない。
双方が、退くことのできない戦いへ入っていた。
◇
夕刻。
戦場から新しい報告が届いた。
「敵が荷車陣へ退いています!」
第一段階の勝利。
だが、戦いは終わらない。
荷車を円形に並べ、その内側へ家族を置く。
即席の城壁。
ローマ軍はそこを攻めなければならない。
「夜まで続きます」
クィントゥスが救護所へ現れた。
盾には無数の傷。
左頬から血を流している。
「座ってください」
「かすり傷だ」
「白です」
「何だ、それは」
「自分で歩ける軽傷者です」
「百人隊長へ白とは何だ」
「階級は分類へ影響しません」
「少しは影響させろ」
衛生兵が笑った。
クィントゥスは不満そうに傷を洗われる。
「前線は?」
俺が尋ねる。
「敵は荷車の内側へ退いた」
「非戦闘員がいます」
「分かっている」
「攻撃するのですか」
「攻撃しなければ、夜に逃げる」
「包囲は」
「兵が疲れている。包囲線を作る前に突破される」
また選択。
今攻撃すれば、非戦闘員を巻き込む。
待てば、敵戦士が逃げ、戦争が長引く。
「カエサル様は?」
「攻撃を続ける」
俺は目を閉じた。
外科医として、救護所へ来る患者を助ける。
幕僚として、戦闘継続による損失を考える。
二つの役割が衝突する。
「ルキウス」
クィントゥスが言った。
「今は患者を見ろ」
「ですが」
「戦うかどうかはカエサル様の責任だ」
「負傷者を受け入れるのは私の責任です」
「なら、責任を混ぜるな」
厳しいが、必要な言葉だった。
自分がすべての責任を負おうとすれば、何も果たせない。
「分かりました」
◇
救護所の入口へ戻る。
夕日が赤く丘を染めていた。
遠くでは、荷車の防壁へ向かうローマ兵の隊列が動き始めている。
今日だけで、何人が運ばれた。
赤、百十二。
黄、二百八十七。
白、四百以上。
黒、三十九。
まだ増える。
俺は木板へ数字を刻んだ。
数字の一つ一つに、人間がいる。
だが今は、立ち止まって顔を思い出す時間がない。
「次の患者!」
叫ぶ。
担架が入ってくる。
載っていたのは、ローマ兵ではなかった。
荷車陣の内側から運び出された、五つか六つの子供だった。
第35話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ビブラクテの戦いの開始と、救護所運用の回でした。
主人公は、これまでのようにすぐ手術へ入るのではなく、救護所の入口で患者の流れを管理します。
赤。
黄。
白。
そして医師が判断する黒。
負傷者を分類し、搬送し、処置へ回す。
一人の患者に集中したい外科医としての本能を抑え、全体を見ようとする姿が描かれました。
しかし戦場は、準備通りには進みません。
前方の戦線に加え、側面から新たな敵が現れる。
救護所の入口は一つでは足りなくなる。
担架も足りない。
盾を担架代わりに使う。
この場面は、主人公が「現場で制度を変える」ことを学ぶ回でもあります。
そして重要なのは、主人公がいない間も救護所が動いていたことです。
ディオニュシオスが処置し、ティロが記録し、搬送責任者が分類する。
主人公が目指している「自分がいなくても動く仕組み」が、少しずつ形になり始めています。
次回、第36話。
敵は荷車を城壁に変え、戦いはさらに長く、苦しいものになります。
【ローマ豆知識㉝ 投槍ピルム】
ローマ軍の代表的な武器の一つに、ピルムと呼ばれる投槍があります。
これは敵へ投げつけるための槍で、盾に刺さると重みで盾を使いにくくする効果がありました。
敵が盾を捨てれば防御力が落ち、盾を持ち続ければ動きが鈍ります。
この投槍によって敵の隊列を乱し、その直後にローマ兵が短剣で接近戦へ入るのが典型的な戦い方の一つでした。
本作のビブラクテの戦いでも、投槍の雨がヘルウェティイ族の盾を貫き、最初の戦列が崩れていく様子を描いています。




