第35話 最初の戦列
ビブラクテの戦いが始まります。
丘を登るヘルウェティイ族。
投槍を放つローマ軍。
第一列がぶつかり、負傷者が次々と救護所へ運ばれます。
主人公は手術へ飛び込みたい衝動を抑え、入口で患者の流れを管理します。
自分が直接救うのではなく、仕組みで多くを救う。
しかし戦場はすぐに予定を壊します。
前方の敵。
側面から現れる新手。
二方向から流れ込む負傷者。
軍医幕僚としての最初の本当の戦いが始まります。
どうぞお楽しみください。
投槍の雨が、ヘルウェティイ族の盾へ降り注いだ。
重い鉄製の投槍は盾板を貫き、柄が大きく曲がる。
盾を捨てなければ動けない。
捨てれば身体が露出する。
ヘルウェティイ族の戦士たちは、それでも斜面を登ってきた。
叫び。
角笛。
盾を打ち鳴らす音。
ローマ軍第一列が剣を抜く。
最初の衝突。
人と人がぶつかる音は、金属音だけではなかった。
骨。
肉。
息。
恐怖。
丘全体が低くうなる。
最初の負傷者は、戦闘開始からわずか数分で運ばれてきた。
「白!」
前腕の軽い裂傷。
自力歩行可能。
「血を止め、後方へ歩かせろ!」
次。
大腿へ槍。
出血が多い。
「赤!」
衛生兵が圧迫する。
担架で丘裏へ。
「黄!」
肩の脱臼。
激痛だが、生命の危険は低い。
判断が続く。
俺は入口に立ち、患者の流れを管理する。
手術へ入りたい。
傷を見れば、手が動こうとする。
だが今、俺が一人の処置へ入れば、入口の判断が止まる。
「ディオニュシオス!」
「聞こえている!」
彼は内部で大腿の止血を行っている。
「二人目の赤が来ます!」
「空いている寝台へ!」
救護所が機能している。
俺が処置しなくても。
嬉しい。
同時に、奇妙な寂しさがある。
自分が必要ではない。
それこそ目指すべき状態なのに、心のどこかが抵抗していた。
「前線が押しています!」
伝令が報告する。
ローマ軍の第一列は、斜面を利用して敵を押し返している。
ヘルウェティイ族は後退を始めた。
「勝てる」
衛生兵の一人がつぶやいた。
その瞬間。
丘の側面から角笛が鳴った。
別方向。
背後に近い。
「ボイイ族とトゥリンギ族!」
伝令が叫ぶ。
「敵の後続が、右翼へ攻撃しています!」
戦場が二つに分かれた。
前方では、後退するヘルウェティイ族。
側面からは、新たな敵部隊。
ローマ軍は追撃へ移ろうとしていた。
その側面を突かれた。
「第三列が向かいます!」
予備としていた第三戦列が、向きを変える。
前方の敵を追う第一、第二列。
側面の新手を受け止める第三列。
カエサルの予備兵が機能した。
「救護所を二方向へ対応させます」
俺は地図上の患者搬入路を見た。
前方からの負傷者。
右翼からの負傷者。
同じ入口へ集めれば詰まる。
「入口を二つに分けます!」
「天幕は一つです」
搬送責任者が言う。
「右翼側の布を外してください」
「壁がなくなります」
「出口を作る!」
天幕の側面を開き、第二の入口にする。
前方戦線の負傷者は従来の入口。
右翼の負傷者は新しい入口。
内部で交差しないよう、寝台配置を変える。
「赤は中央! 黄は外周!」
「白は?」
「天幕へ入れず、外の処置場所へ!」
患者の流れを分ける。
病院の救急外来と同じである。
入口が詰まれば、治療できる患者も治療できない。
「担架が足りません!」
「盾を使え!」
ローマ兵の盾は大型で、人を載せられる。
戦場へ戻せなくなるが、今は搬送が優先。
「盾が足りなくなれば戦えません!」
「壊れた盾を先に使え!」
完全な物でなくてよい。
患者を運べればよい。
「ルキウス!」
ディオニュシオスが叫んだ。
「腹部刺創! 私では無理だ!」
俺にしかできない仕事。
「入口を任せます」
搬送責任者へ言う。
「私が?」
「基準通りに分類してください」
「判断を誤ったら」
「迷ったら赤へ」
過剰分類になる。
資源を消費する。
だが、救命可能者を見逃すよりよい。
俺は手術区画へ入った。
患者は若いローマ兵。
左上腹部へ剣創。
脈が速い。
顔面蒼白。
腹腔内出血。
脾臓か、胃か、大血管か。
「開きます」
葡萄酒を飲ませる。
兵士が押さえる。
切開。
腹腔へ入る。
大量の血があふれた。
吸引装置はない。
布で吸う。
血を拭き、出血源を探す。
脾臓付近。
臓器の裂傷。
現代なら脾摘、止血器具、輸血。
ここでは、圧迫と結紮しかない。
「光を近づけて!」
油灯が揺れる。
手が血で滑る。
出血点を押さえる。
縫う。
結ぶ。
布で圧迫する。
患者の脈が弱くなる。
「水を」
口から飲ませても、循環血液量はすぐには戻らない。
輸血があれば。
点滴があれば。
何度目か分からない思い。
「外科医殿」
患者がかすかに言った。
「はい」
「勝っていますか」
外では叫び声が続く。
状況は分からない。
「勝ちます」
俺は答えた。
根拠はない。
「そうですか」
患者は目を閉じた。
「眠らないでください」
「少しだけ」
「駄目です」
頬を叩く。
反応が弱い。
出血は、完全ではないが減った。
腹壁を閉じる。
「運ばず、ここで経過を見ます」
手術を終えて外へ出る。
救護所の流れは維持されていた。
搬送責任者が分類している。
ティロが患者数を記録する。
衛生兵が圧迫止血を行う。
俺がいなくても動いていた。
「誤分類は?」
俺が尋ねる。
「分かりません」
「再確認は」
「ディオニュシオスが行っています」
役割が回っている。
だが、負傷者は増え続ける。
前線から伝令が来た。
「第一、第二列が敵を押し返しました!」
「右翼は?」
「第三列が持ちこたえています!」
ローマ軍は二方向の敵を相手にしている。
敵も退かない。
ヘルウェティイ族の荷車陣では、女性や老人が戦士へ武器を渡している。
逃げれば家族を失う。
ローマ兵は背後に馬を置いてきた。
逃げ道はない。
双方が、退くことのできない戦いへ入っていた。
夕刻。
戦場から新しい報告が届いた。
「敵が荷車陣へ退いています!」
第一段階の勝利。
だが、戦いは終わらない。
荷車を円形に並べ、その内側へ家族を置く。
即席の城壁。
ローマ軍はそこを攻めなければならない。
「夜まで続きます」
クィントゥスが救護所へ現れた。
盾には無数の傷。
左頬から血を流している。
「座ってください」
「かすり傷だ」
「白です」
「何だ、それは」
「自分で歩ける軽傷者です」
「百人隊長へ白とは何だ」
「階級は分類へ影響しません」
「少しは影響させろ」
衛生兵が笑った。
クィントゥスは不満そうに傷を洗われる。
「前線は?」
俺が尋ねる。
「敵は荷車の内側へ退いた」
「非戦闘員がいます」
「分かっている」
「攻撃するのですか」
「攻撃しなければ、夜に逃げる」
「包囲は」
「兵が疲れている。包囲線を作る前に突破される」
また選択。
今攻撃すれば、非戦闘員を巻き込む。
待てば、敵戦士が逃げ、戦争が長引く。
「カエサル様は?」
「攻撃を続ける」
俺は目を閉じた。
外科医として、救護所へ来る患者を助ける。
幕僚として、戦闘継続による損失を考える。
二つの役割が衝突する。
「ルキウス」
クィントゥスが言った。
「今は患者を見ろ」
「ですが」
「戦うかどうかはカエサル様の責任だ」
「負傷者を受け入れるのは私の責任です」
「なら、責任を混ぜるな」
厳しいが、必要な言葉だった。
自分がすべての責任を負おうとすれば、何も果たせない。
「分かりました」
救護所の入口へ戻る。
夕日が赤く丘を染めていた。
遠くでは、荷車の防壁へ向かうローマ兵の隊列が動き始めている。
今日だけで、何人が運ばれた。
赤、百十二。
黄、二百八十七。
白、四百以上。
黒、三十九。
まだ増える。
俺は木板へ数字を刻んだ。
数字の一つ一つに、人間がいる。
だが今は、立ち止まって顔を思い出す時間がない。
「次の患者!」
叫ぶ。
担架が入ってくる。
軍医幕僚となった俺の最初の戦いは、まだ半分も終わっていなかった。
第35話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ビブラクテの戦いの開始と、救護所運用の回でした。
主人公は、これまでのようにすぐ手術へ入るのではなく、救護所の入口で患者の流れを管理します。
赤。
黄。
白。
そして医師が判断する黒。
負傷者を分類し、搬送し、処置へ回す。
一人の患者に集中したい外科医としての本能を抑え、全体を見ようとする姿が描かれました。
しかし戦場は、準備通りには進みません。
前方の戦線に加え、側面から新たな敵が現れる。
救護所の入口は一つでは足りなくなる。
担架も足りない。
盾を担架代わりに使う。
この場面は、主人公が「現場で制度を変える」ことを学ぶ回でもあります。
そして重要なのは、主人公がいない間も救護所が動いていたことです。
ディオニュシオスが処置し、ティロが記録し、搬送責任者が分類する。
主人公が目指している「自分がいなくても動く仕組み」が、少しずつ形になり始めています。
次回、第36話。
敵は荷車を城壁に変え、戦いはさらに長く、苦しいものになります。
【ローマ豆知識㉝ 投槍ピルム】
ローマ軍の代表的な武器の一つに、ピルムと呼ばれる投槍があります。
これは敵へ投げつけるための槍で、盾に刺さると重みで盾を使いにくくする効果がありました。
敵が盾を捨てれば防御力が落ち、盾を持ち続ければ動きが鈍ります。
この投槍によって敵の隊列を乱し、その直後にローマ兵が短剣で接近戦へ入るのが典型的な戦い方の一つでした。
本作のビブラクテの戦いでも、投槍の雨がヘルウェティイ族の盾を貫き、最初の戦列が崩れていく様子を描いています。




