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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第4章 ビブラクテの戦場

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第34話 撤退に見える進軍

ローマ軍は逃げているのか。


それとも、敵を誘っているのか。


ビブラクテへ向かう進軍は、ヘルウェティイ族から見れば撤退に見えました。


そして彼らは追ってきます。


カエサルは丘を選び、軍団を展開し、決戦の場を整えます。


主人公は、前線救護、担架班、色木片による分類、救護所の配置を準備します。


今度の戦いは、ソーヌ川の奇襲とは違います。


一つの民族とローマ軍が、正面からぶつかる戦いです。


どうぞお楽しみください。

「ヘルウェティイ族が進路を変えました」

夜明け前の報告だった。

カエサルは、すぐに地図を広げた。

「どちらへ」

「南東です。我々を追っています」

天幕内に緊張が走る。

敵はローマ軍の転進を撤退と判断した。

予測通りである。

「距離は」

「半日ほど」

「戦士だけか」

「荷車と家族も動いています。ただし先頭は戦士が多い」

ヘルウェティイ族は、ローマ軍を追い払えると考えたのだろう。

ソーヌ川で攻撃された一部の仇を討つ。

弱った敵を倒す。

追撃を止める。

政治的にも軍事的にも、好機に見える。

「戦う場所を選びます」

ラビエヌスが言った。

カエサルは周辺地形を確認した。

街道の北側に丘。

緩やかな斜面。

背後には補給路。

軍団を展開できる広さがある。

「ここだ」

カエサルが指した。

「先に丘を取る」

「敵が来なければ?」

騎兵担当者が尋ねる。

「来る」

確信があった。

「なぜです」

俺は尋ねた。

「彼らは、我々が食料のために逃げたと思っている」

「実際、食料のために進路を変えました」

「すべてを知る必要はない」

カエサルは言った。

「相手が何を信じるかが重要だ」

事実ではなく認識。

戦争では、相手の認識が行動を決める。

俺が三年かけて集めようとしているのは事実の方だ。

この男は、その事実で相手の認識を作る方法を、教わらずに知っている。

「ビブラクテへの道を続けるように見せる」

カエサルが命じる。

「荷車と一部部隊は進ませる。主力は丘へ展開」

「軍を分けるのですか」

「敵から見れば、前進中の隊列に見える」

後方の軍団が丘へ登り、戦列を作る。

前方の荷車と一部部隊は進み続ける。

敵がローマ軍の後方を攻撃しようと近づけば、丘上に展開した主力とぶつかる。

「医療用荷車は?」

俺が尋ねる。

「前進する隊列へ入れる」

「戦場から離れます」

「敵の騎兵に狙われにくい」

「負傷者搬送が遅れます」

「丘の裏へ臨時救護所を置け」

二段階にする。

前線近くの臨時救護所。

後方の医療用荷車。

前線で止血と分類を行い、安定した患者から後送する。

「担架班を増やします」

「何人必要だ」

「各軍団から最低二十人」

ラビエヌスが首を振る。

「百二十人も戦列から外すのか」

「全員を常時外す必要はありません。予備兵から選び、負傷者が出た時だけ動かします」

「担架を持って戦列の後ろに置く?」

「はい」

「敵が突破すれば、戦うことになる」

「その場合は担架を置いて戦います」

役割を固定しすぎない。

状況に応じて変える。

「衛生兵は?」

「各百人隊に二人」

「二人では少ない」

「多くすれば戦闘員が減ります」

また最適化である。

医療担当者を増やせば救護は改善する。

だが前線の兵が減り、戦線が崩れれば負傷者そのものが増える。

「最初は二人。必要時に予備から追加します」

俺は決めた。

「色木片は?」

ティロが尋ねる。

「赤と黄だけを前線で使います」

「黒は?」

「丘裏の救護所で判断します」

戦場で、訓練の浅い者に救命困難の判断をさせるのは危険だ。

ソーヌ川での誤分類を繰り返さない。

「歩ける者には白を」

「色が増えます」

「白は自力で後方へ移動できる者です」

赤。

即時処置。

黄。

待機可能。

白。

歩行可能。

黒は医師が判断する。

分類を増やしながら、現場が使う色は減らした。

判断の難しい色だけを、後ろへ移す。

「全員へ説明する時間は」

「一刻です」

「短い」

「戦いは待ちません」

以前、ラビエヌスに言われた言葉を使った。

彼がわずかに笑う。

「少しは軍人らしくなったな」

丘の斜面へ、ローマ軍が展開した。

熟練した四個軍団が前方。

新たに編成された二個軍団は丘の上へ置かれ、荷物と防御を担当する。

前線は三列。

第一列。

第二列。

第三列。

疲労や敵の動きに応じて交代できる。

医療班は丘の裏側。

敵から直接見えにくい。

担架班は各軍団の後方へ配置した。

「赤はすぐに運ぶ!」

俺は衛生担当者たちへ繰り返す。

「黄は安全な場所へ移し、待たせる!白は自分で歩かせろ!」

一人が尋ねた。

「敵兵は?」

「同じです」

ざわめきが起こる。

「敵まで運ぶのですか」

「戦闘が続いている間は、味方を優先します」

言葉が苦い。

「戦闘後は、救命可能な者を治療します」

「味方と同じように?」

「資源がある限り」

完全な平等はできない。

戦場では、自軍の維持が優先される。

理想だけでは運用できない。

「外科医殿」

若い衛生兵が言った。

「怖いです」

正直な言葉だった。

「私もです」

周囲の兵士が驚く。

指揮する者は、恐怖を見せるべきではないのかもしれない。

だが俺は軍人ではない。

「怖くても、決めたことを行います」

「間違えたら?」

「後ろに医師がいます。分からなければ運んでください」

完璧を求めない。

迷った時の行動を決めておく。

それが重要だ。

丘の向こうに砂埃が見えた。

地面が震える。

ヘルウェティイ族の先頭が近づいている。

戦士。

盾。

槍。

その後ろに、荷車の列。

女性や子供の姿もある。

一つの民族が、ローマ軍へ迫っていた。

カエサルが馬上から軍団を見渡す。

「荷物を下ろせ」

兵士たちが私物を置く。

「逃げ道を作るな」

将校たちの馬も、後方へ送られる。

カエサル自身も馬から降りた。

指揮官も兵士と同じ地面に立つ。

勝つか。

死ぬか。

それ以外の道を消す。

ヘルウェティイ族が家を焼いたのと、同じ方法だった。

ヘルウェティイ族の戦士たちが、丘の下で隊列を整えた。

彼らはローマ軍が逃げていると思って追ってきた。

今。

丘の斜面に並ぶ軍団を見て、自分たちが誘われた可能性へ気づいたはずである。

だが、後ろには家族がいる。

退けば、再び追撃される。

彼らにも逃げ道がない。

角笛が鳴った。

俺は救護所の入口に立つ。

「始まります」

ディオニュシオスが言った。

「はい」

「今度は、ここへ残るのか」

「全体を見る必要があります」

「患者が来ても?」

「手術が必要なら呼んでください」

口にするのは簡単だった。

本当に任せられるか。

丘の上から、ローマ軍の投槍が一斉に放たれた。

空が黒く染まった。


第34話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ビブラクテの戦い直前の準備回でした。


ローマ軍は補給のために進路を変えました。


しかしその動きは、ヘルウェティイ族には撤退に見えます。


カエサルは、その認識を利用します。


事実として何が起きているか。


相手がそれをどう受け取るか。


戦争では、この二つが必ずしも一致しません。


また、主人公にとっても大きな準備の回でした。


前線で赤と黄を分類する。


歩ける軽傷者は白とする。


黒は前線ではなく、医師が再確認して判断する。


ソーヌ川で起きた誤分類の反省が、今回の仕組みに生かされています。


制度は一度作って終わりではありません。


失敗を通じて修正していくものです。


次回、第35話。


ビブラクテの戦いが始まります。


主人公は、軍医幕僚として初めて、自分がいなくても動く救護所を試されることになります。


【ローマ豆知識㉜ ローマ軍の三列戦術】


ローマ軍は戦場で、複数の列を作って戦うことがありました。


前列が敵とぶつかり、後列が支援や交代、予備として機能します。


これにより、長時間の戦闘でも疲労した兵を入れ替えたり、側面から新たな敵が来た時に対応したりできます。


本作でカエサルが第三列を予備として使う場面は、ローマ軍の組織的な強さを示しています。


主人公の医療体制も、この軍事的な予備の考え方から学び、前線救護所と後方医療用荷車を分ける形へ発展していきます。

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