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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第三章 ソーヌ川の夜明け

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第33話 騎兵が逃げた日

ローマ軍はビブラクテへ向けて進路を変えます。


しかし、その動きはヘルウェティイ族には「逃げている」ように見えました。


敵騎兵が接近し、同盟騎兵が迎え撃ちます。


そして、味方騎兵が敗走します。


本当に敗れたのか。


逃げたのか。


裏切りなのか。


それとも局地的な判断ミスなのか。


ドゥムノリクスへの疑惑がさらに深まる中、主人公は結果だけで人を裁く危うさと向き合います。


どうぞお楽しみください。

二万人が同時に向きを変えるには、数刻かかる。

夜明けとともに、軍団は進路を西から南東へ変えた。

ビブラクテへ向かう。

長い隊列が曲がる様子は、巨大な蛇が身体を捻るようだった。

先頭の部隊が新しい道へ入っても、最後尾はまだ以前の方向へ進んでいる。

ヘルウェティイ族の斥候が、この動きを見逃すはずはない。

見逃されては困る、というのがカエサルの計算である。

「敵の騎兵が接近しています!」

昼前。

伝令が走ってきた。

「数は」

ラビエヌスが尋ねる。

「千騎以上!」

「こちらの騎兵を出せ」

ローマ側には、アエドゥイ族などガリア同盟部族の騎兵がいる。

その中にドゥムノリクス配下の騎兵も含まれていた。

敵騎兵の目的は、決戦ではない。

ローマ軍の進路確認。

荷車への攻撃。

隊列の混乱。

そして、本当に撤退しているのかを確かめること。

◇

「医療用荷車を中央へ」

俺は搬送責任者へ命じた。

「最後尾ではないのですか」

「騎兵は後方の荷車を狙います」

「前方へ移せば、負傷者の搬送距離が伸びます」

「中央なら前後どちらにも対応できます」

医療物資。

患者。

手術器具。

失えば、今後の戦闘に響く。

「護衛を増やしますか」

「兵力は戦闘へ必要です」

限られた兵をどこへ置くか。

また選択である。

「医療用荷車を工兵の車に見せます」

「どうやって」

「壊れた道具を外側へ載せてください」

敵から見て価値の低い車両にする。

穀物車に見せる案も出たが、飢えた敵にとって穀物は最優先目標だ。

価値がないように見えることが、この場合の防御である。

その時。

前方から角笛が鳴った。

騎兵戦が始まった。

◇

丘の向こうで、馬の蹄が地面を打つ音がする。

叫び。

金属音。

砂埃。

ローマ軍の歩兵は隊列を維持したまま、戦闘の行方を待つ。

しばらくして、最初の騎兵が丘を越えてきた。

味方である。

だが、こちらへ向かって全速力で走っている。

逃げている。

「味方騎兵が崩れた!」

声が広がる。

次々と戻ってくる同盟騎兵。

その背後から、ヘルウェティイ族の騎兵が追ってくる。

ローマ兵の隊列に動揺が走った。

「逃げるな!」

百人隊長たちが叫ぶ。

歩兵の盾列が作られる。

敵騎兵は投槍を投げ、すぐに方向を変える。

深く突入せず、挑発するように周囲を走る。

同盟騎兵の敗走を見せつけ、ローマ軍の士気を削る。

戦果ではなく、光景を作りに来ている。

「負傷者を!」

敗走した騎兵が運び込まれる。

落馬による骨折。

槍傷。

馬に踏まれた胸部外傷。

俺は救護所へ走りかけた。

足が止まる。

お前にしかできない仕事と、他にもできる仕事を分けろ。

ディオニュシオスが救護所責任者である。

俺が行く必要はあるか。

手術が必要な患者がいれば呼ばれる。

今の俺の役割は、全体を見ることだ。

それでも患者の叫びを聞くと、身体が救護所へ引かれる。

十九年、そちらへ走り続けた身体である。

一日で変わるはずがない。

「ルキウス!」

ティロが俺を呼んだ。

「同盟騎兵の所属別人数が分かりません」

「今、それが必要ですか」

「ドゥムノリクスの部隊だけ、戻りが早いという話があります」

意識が切り替わった。

「誰の報告です」

「第十軍団の百人隊長です」

「他の目撃者は」

「まだ」

またドゥムノリクス。

彼の騎兵が意図的に戦線を離れ、他の部隊を崩した可能性。

あるいは、最も激しい攻撃を受け、最初に崩れただけかもしれない。

「帰還した騎兵の所属を記録してください」

「負傷者も?」

「生存者全員です」

「戦闘中に尋ねるのですか」

「今でなければ記憶が混ざります」

「治療が先では」

「重傷者には聞かない。歩ける者だけです」

ティロが書記を集める。

◇

俺は丘の上へ向かった。

カエサルとラビエヌスが戦況を見ている。

敵騎兵はすでに退き始めていた。

追撃せず、ローマ軍を試すだけで目的を達したのだろう。

「こちらの騎兵は?」

俺が尋ねる。

「醜態をさらした」

ラビエヌスが吐き捨てる。

「数では大きく劣っていなかったのですか」

「劣っていない」

「なら、なぜ」

「指揮が悪い。士気が低い。あるいは――」

ラビエヌスはドゥムノリクスのいる方向を見る。

「あの男が裏切った」

カエサルの表情は動かない。

「確認する」

「今、捕らえるべきです」

「戦闘直後に同盟騎兵の指導者を捕らえれば、他の騎兵も離れる」

「放置すれば、次も逃げます」

「だから確認する」

今度はカエサルが、俺と同じ言葉を使った。

「ルキウス」

「はい」

「何を見れば、意図的な敗走と分かる」

難しい質問だった。

敗走したという結果だけでは判断できない。

「最初に接敵した位置」

「続けろ」

「敵との距離。崩れるまでの時間。死傷者数。捨てられた武器の数。そして、部隊ごとの差です」

「差?」

「同じ戦場で、ある部隊だけ損害が極端に少なければ、理由があります」

「戦い方が上手いのかもしれん」

「その可能性もあります」

ラビエヌスが苛立った。

「またそれか」

「一つの数字では決まりません。複数を並べます」

「並べて、どうなる」

「それでも決まらなければ、決まらないと報告します」

カエサルが初めてこちらを見た。

「決まらないと報告することに、意味があるのか」

「あります」

「言え」

「決まらないのに決めた者は、後で必ず、決まっていたと言い張ります」

天幕の外で、まだ砂埃が舞っている。

カエサルは長い間、それを見ていた。

「並べろ」

◇

夕方近く、救護所から俺を呼ぶ兵士が来た。

「外科医殿!腹部を馬に踏まれた患者です!」

今度は迷わなかった。

「ディオニュシオスの判断は?」

「手術が必要だと」

俺にしかできない仕事である。

「行きます」

走り出す。

背後でカエサルが言った。

「ルキウス」

振り返る。

「手術が終わったら、明日の負傷者受け入れ計画を出せ」

「明日、戦うと?」

「敵が決める」

救護所へ走る途中、ティロが横へ並んだ。

木板を抱えている。

「騎兵の所属、数え終わりました」

「後で聞きます」

「一つだけ」

ティロは走りながら言った。

「ドゥムノリクスの部隊から、一人も死んでいません」


第33話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、同盟騎兵の敗走とドゥムノリクス疑惑の回でした。


ローマ軍はビブラクテへ向かって進路を変えました。


しかし敵から見れば、それは撤退にも見えます。


ヘルウェティイ族の騎兵はその動きを試し、ローマ側の同盟騎兵は崩れました。


問題は、なぜ崩れたのかです。


恐怖か。


指揮の乱れか。


兵力差か。


それともドゥムノリクスの意図的な裏切りか。


ラビエヌスは結果を重く見ます。


主人公は、意図と状況を分けて考えようとします。


カエサルは、その両方を見ながら、今処罰することで生じる政治的損失も計算しています。


正しいかどうかだけではない。


今、何が最も損失を少なくするか。


このカエサルの考え方は、主人公にとって強烈な学びになります。


次回、第34話。


ローマ軍の「撤退に見える進軍」は、ついにヘルウェティイ族を決戦へ引き寄せます。


【ローマ豆知識㉛ ガリア騎兵とローマ軍】


カエサルの時代のローマ軍は、歩兵を主力としていました。


一方で騎兵については、同盟部族や属州民の協力を受けることが多くありました。


ガリア人騎兵は機動力に優れ、偵察や追撃、側面攻撃で重要な役割を果たしました。


しかし同盟部隊である以上、政治的な忠誠や部族内部の利害も絡みます。


本作で描かれるドゥムノリクス配下の騎兵問題は、単なる軍事問題ではなく、ローマとガリア同盟部族の信頼関係にも関わる問題です。

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