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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第3章 追う者も飢える

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第30話 軍医から幕僚へ

第30話 軍医から幕僚へ


ソーヌ川での戦いを経て、主人公の役割は大きく変わろうとしています。


一人の患者を治療する医師。


救護所を動かす責任者。


負傷者、荷車、水、布、穀物、行軍速度をつなげて考える分析者。


カエサルは、主人公を単なる軍医としては扱わないと告げます。


医療と兵站を結び、軍団全体を支える存在へ。


主人公が「軍医幕僚」となる節目の回です。


どうぞお楽しみください。

総督の天幕には、地図が七枚広げられていた。

追撃開始の前夜である。

ラビエヌス、工兵隊指揮官バルブス、補給担当者、騎兵隊の指揮官が集められていた。

ソーヌ川。

アエドゥイ領。

ヘルウェティイ族の推定進路。

穀物集積地。

街道。

河川。

俺が作った患者数と食料の木板も、その端に並べられている。

「明朝、追撃を再開する」

カエサルが言った。

「敵は西へ進む。速度は?」

俺は答える。

「先頭部隊は一日に二十ローマ里近く進む可能性があります。ただし、本隊全体では十から十五程度です」

「なぜ差がある」

「荷車、家畜、患者、子供がいるためです」

「荷車をさらに捨てれば?」

「速度は上がりますが、食料と生活物資を失います」

「いつ、食料が尽きる」

「現在の略奪量が分からないため幅があります。早ければ十日以内。長ければ二十日以上です」

ラビエヌスが地図へ手を置いた。

「その前に決戦へ持ち込む」

「敵が避ければ?」

騎兵指揮官が尋ねる。

「騎兵で圧力をかける」

「ローマ側の穀物は」

補給担当者が答えた。

「アエドゥイ族からの供給が予定通り届けば二十日以上。届かなければ六日です」

大きすぎる差である。

「まだ届いていないのか」

ラビエヌスが声を荒らげた。

「一部だけです」

「ドゥムノリクスだ」

「証拠はありません」

俺は言った。

ラビエヌスが睨む。

「また、お前か」

「出荷の遅れと彼の関与を分けるべきです」

「荷車所有者の多くが、彼に従っている」

「影響力があることと、直接命令したことは同じではありません」

「戦場では、裁判の証拠を待てん」

「だからといって、疑いだけで同盟部族の有力者を処罰すれば反乱を招きます」

ラビエヌスが反論しようとした。

カエサルが手を上げた。

「ルキウス」

「はい」

「お前は、ドゥムノリクスが無実だと思うか」

「分かりません」

「有罪だと思うか」

「分かりません」

「では、何が分かる」

「彼が穀物輸送へ影響を与えられる立場にあること。輸送が遅れていること。複数の荷車所有者が彼へ債務を負っていることです」

「十分ではないか」

ラビエヌスが言う。

「疑うには十分です」

俺は答えた。

「断罪するには不足しています」

「なら、監視する」

カエサルが決めた。

「騎兵の動き、荷車所有者、使者との接触を調べろ。だが今は捕らえない」

「ディウィキアクスへの配慮ですか」

俺が尋ねる。

「それもある」

カエサルは認めた。

「兄はローマに必要だ。弟を処罰すれば、兄の立場を壊す」

個人の罪だけでは決めない。

政治的関係全体を考える。

医療とは違う。

患者一人に最善の処置を行えばよいわけではない。

一人を処罰すれば、部族全体が動く。

「次に医療だ」

カエサルは俺が作った報告へ目を移した。

「ソーヌ川の戦闘で、ローマ側の負傷者は?」

「確認済みで四百十二人です」

「死亡者は」

「戦場で百三十七。救護所搬入後に四十一。今後死亡する可能性が高い者が二十六人」

「戦列復帰可能者は」

「一週間以内に百五十人前後。一か月以内なら、さらに百人程度」

「戻れない者は?」

「切断、重度の神経損傷、失明などを含め、少なくとも六十人です」

天幕が静かになった。

軍の報告では、死者と現在の負傷者を数える。

だが復帰時期までは整理されていなかった。

「一週間後に百五十人戻る」

カエサルが確認する。

「感染が増えなければ」

「増える可能性は」

「高いです」

「なぜだ」

「行軍中は傷の洗浄、包帯交換、休息が不十分になります。負傷者を通常の荷車へ詰めれば、悪化します」

「必要なものは」

「医療専用の荷車。担当者。煮沸用の鍋。清潔な布。水。毎日の再分類です」

補給担当者が顔をしかめた。

「荷車は食料輸送へ必要だ」

「負傷者を歩かせれば、治癒が遅れます」

「置いていくか」

「敵や住民へ保護を頼める保証はありません」

「では穀物を減らすのか」

医療と兵站が、同じ荷車を奪い合う。

どちらも必要。

「修理可能な鹵獲荷車を医療用へ回します」

俺は提案した。

「敵の荷車か」

「ソーヌ川で多数を得ています」

「規格が違う」

バルブスが言った。

「車輪や車軸が壊れた場合、部品を共用できない」

「使える型を二、三種類へ絞ります」

「残りは?」

「解体し、木材と金具を修理部品へ回す」

バルブスが地図の横へ荷車一覧を広げた。

「選別に時間がかかる」

「明朝までに外観だけで分類します。詳細確認は移動中に」

「誰がやる」

「工兵一人と医療班二人を一組にします」

俺はすでに役割表を作っていた。

荷車選別。

洗浄。

患者配置。

重症度表示。

水の補給。

包帯交換。

記録。

カエサルが表を見た。

「ソーヌで、医療班が遅れた」

「はい」

「また患者を拾えば、同じことが起きる」

責められている。

「今回は、私の判断だけで医療班を分けました」

「誤りだったと思うか」

答えるまでに時間がかかった。

「二十人を助けたことは、誤りだと思いません」

ラビエヌスの顔が険しくなる。

「だが」

俺は続けた。

「軍団の医療責任者が、代行者を決めずに離れたことは誤りでした」

カエサルが無言で聞いている。

「私がいなくても救護所が設置される手順を作るべきでした」

「できるのか」

「作ります」

「いつまでに」

「明朝までです」

「また眠らないつもりか」

「必要なら」

「それでは、お前が倒れる」

カエサルの指摘に言葉を失った。

自分がすべて行えば早い。

自分が判断する方が正確だ。

現代から持ち込んだ悪い癖である。

「他の者へ任せます」

口にすると、不安が湧いた。

間違えるかもしれない。

分類を誤るかもしれない。

昨日、救命可能な患者が黒に分類されていた。

書いたのはセクストゥスだが、任せたのは俺である。

「任せて、確認します」

俺は言い直した。

「誰に」

「ディオニュシオスを救護所責任者にします。衛生担当者から、記録と搬送の責任者を一人ずつ選びます」

「名は」

「記録はティロ。搬送はセクストゥスです」

ラビエヌスが眉を上げた。

「昨日、分類を誤った男だな」

「はい」

「なぜ使う」

「誤りを隠さなかったからです」

天幕が静かになった。

「隠す者は、次も隠します」

俺は言った。

「言う者は、次は違う場所で間違えます。そちらの方が直せます」

カエサルが小さく息を吐いた。

笑ったのかもしれない。

「お前は?」

ラビエヌスが尋ねた。

「全体の医療と兵站を見ます」

自分で手術をするだけではない。

患者数。

復帰率。

荷車。

水。

人員。

行軍速度。

すべてをつなげて考える。

カエサルは椅子から立ち上がった。

「ルキウス・アエリウス」

「はい」

「本日より、お前を単なる軍医としては扱わない」

胸が鳴った。

「軍団の衛生、負傷者後送、医療資材、疾病記録について、総督幕僚団へ直接報告せよ」

「ラビエヌス様の指揮下では?」

「軍事行動はラビエヌスに従う。医療と兵站に関する分析は、私にも提出する」

ラビエヌスは反対しなかった。

ただ俺を見ている。

「肩書は?」

俺が尋ねると、カエサルは少し笑った。

「必要か」

「役割が曖昧だと、誰も命令を聞きません」

「権限を欲しがるな」

「責任を果たすためです」

「では、軍医幕僚とでも名乗れ」

正式なローマの官職ではない。

カエサルが便宜上与えた役割である。

それでも、医師から一歩外へ出た。

「一つ、条件がある」

カエサルが言った。

「何でしょう」

「手術をするなとは言わない」

「はい」

「だが、お前にしかできない仕事と、お前以外にもできる仕事を分けろ」

七日間の試験で、俺自身が語った言葉だった。

医師にしかできないこと。

誰でもできること。

今度は、自分自身へ適用しなければならない。

「承知しました」

「本当に分かったか」

「努力します」

「よい」

カエサルは地図を巻いた。

「自信がない時だけ正直だな、お前は」

天幕に小さな笑いが起きた。

外へ出ると、夜の宿営地では出発準備が続いていた。

医療用へ選別される荷車。

煮沸される布。

穀物を積む兵士。

傷を負いながら武器を磨く者。

明朝、軍は再び動く。

俺は自分の天幕へ戻った。

机の上に、木板が一枚置かれていた。

俺が置いたものではない。

削り方も、俺の板とは違う。

灯りを近づける。

アエドゥイ族の荷車所有者の名簿だった。

十一人。

そのうち九人の横に、同じ記号が付いている。

しばらく見つめて、意味が分かった。

ドゥムノリクスへの債務額である。

誰が置いたのか。

なぜ俺の机なのか。

木板を裏返した。

何も書かれていなかった。


第30話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、主人公が正式に「軍医幕僚」として扱われる回でした。


ただし、これはローマに実在した正式官職ではありません。


カエサルが主人公の能力を利用するために与えた、便宜的な役割です。


それでも意味は大きいです。


主人公はもう、ただ手術をするだけの医師ではありません。


負傷者が何人いるのか。


いつ戦列へ戻れるのか。


医療用荷車は足りるのか。


穀物輸送と医療搬送は競合しないか。


自分がいなくても救護所が動くのか。


医療、兵站、人員配置、記録、後送。


それらをつなげて考える立場になりました。


そしてカエサルは、主人公に重要な条件を出します。


お前にしかできない仕事と、お前以外にもできる仕事を分けろ。


これは、この作品全体の大きなテーマでもあります。


一人の天才がすべてを救うのではなく、誰かがいなくても動く仕組みを作る。


主人公はここから、本当の意味で制度を作る側へ進んでいきます。


次回からは、軍医幕僚としての組織作りが始まります。


【ローマ豆知識㉘ 軍医幕僚という創作役職】


本作に登場する「軍医幕僚」は、厳密な意味で古代ローマに存在した正式官職ではありません。


ローマ軍には医療に関わる者や、軍団の管理・補給に関わる者はいましたが、現代的な意味での医療参謀や公衆衛生担当官が整備されていたわけではありません。


本作では、主人公の現代知識をローマ軍の中で機能させるため、カエサルが便宜的にそのような役割を与えた、という設定にしています。


重要なのは肩書そのものではなく、医療を個人技ではなく組織の仕組みとして扱い始めたことです。


一人の医師が目の前の患者を救う段階から、軍団全体の死亡率、復帰率、衛生、搬送、物資を管理する段階へ。


ここから主人公の改革は、軍団医療制度へと発展していきます。

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