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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第3章 追う者も飢える

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第29話 川向こうの家族

ソーヌ川の戦いから二日後。


ヘルウェティイ族の使者ディウィコが、カエサルの前に現れます。


彼らが求めるのは、自分たちが住む土地。


しかしローマは、安全保障と同盟関係を考えます。


土地。


人質。


家族。


民族としてのまとまり。


主人公は、合理的な提案が必ずしも人間に受け入れられるわけではないことを知ります。


どうぞお楽しみください。


第29話 川向こうの家族 後書き

白い布を槍へ結んだ舟が、川をゆっくりと渡ってきた。

戦いから二日後である。

ローマ兵は弓を構えたまま、上陸を許した。

使者は三人。

中央にいたのは、初老の男だった。

衣服は上質だが、泥と血で汚れている。

背は高くない。だが、周囲の兵士が自然に半歩下がった。

「ディウィコ」

通訳が名を告げた。

ヘルウェティイ族の指導者の一人。

かつてローマ軍を破った戦いにも関わった人物とされる。

半世紀前、執政官カッシウスを討った側に、この男はいた。

彼はカエサルの前へ立ち、堂々と口を開いた。

「ローマ人は、眠っている者を襲った」

天幕内の空気が張り詰める。

「渡河中の軍は、眠っていたとは言わない」

カエサルが答える。

「家族もいた」

「武器を持つ者もいた」

「だから子供も殺したのか」

俺の胸が痛んだ。

カエサルは表情を変えない。

「川を渡ろうとした時、私は警告した」

「我々は属州を通らなかった」

「同盟部族の土地を荒らした」

「食料が必要だった」

「購入ではなく奪った」

「売らなかったからだ」

双方の論理は、どこまでも平行線だった。

ヘルウェティイ族は、生きるために進む。

アエドゥイ族は、自分の食料を守る。

ローマは、同盟者を守り、勢力を拡大する。

誰も、自分を侵略者とは呼ばない。

「何を求める」

カエサルが尋ねた。

「我々が住む土地を示せ」

ディウィコは言った。

「そこへ向かう」

「ローマが命じた場所へ住むと?」

「我々にふさわしい場所なら」

「人質を出せ」

ディウィコの目が鋭くなる。

「なぜだ」

「約束を守る保証だ」

「我々は、人質を受け取る側だ」

過去の勝利を示唆している。

カエサルの顔から笑みが消えた。

「過去の勝利を誇るのはよい」

声は静かだった。

「だが、今日の敗北を忘れるな」

二人の間に、目に見えない剣が交差しているようだった。

「ローマが戦争を望むなら、我々は戦う」

ディウィコは言った。

「我々が敗れたのは、全軍がそろっていなかったからだ」

事実である。

攻撃されたのは、渡河が遅れた一部だけ。

本隊は対岸にいる。

まだ数万の戦士が残る。

「我々の本隊が戦えば、結果は違う」

「試してみるか」

カエサルの言葉に、ラビエヌスがわずかに身を乗り出した。

交渉は決裂寸前である。

俺は口を開くべきか迷った。

幕僚とはいえ、外交交渉へ勝手に割り込む権限はない。

だが、このままでは戦争が続く。

「土地の条件を整理してはどうでしょう」

全員の視線が俺へ向いた。

ラビエヌスの顔には、またか、という色が浮かんだ。

カエサルは止めなかった。

「何を整理する」

ディウィコが尋ねる。

「あなた方が必要とするものです」

「土地だ」

「どのような土地です」

「民が住める土地だ」

「人口は二十万人前後。家畜も多い。必要な耕地、水、森林、交易路を考えれば、どこでもよいわけではありません」

「我々を数えた男か」

「はい」

ディウィコが俺を見た。

「お前は、我々を二十万人と数えたそうだな」

「推定です」

「間違っている」

「正確な人数を教えていただけますか」

「なぜ教える」

「必要な土地と食料を計算するためです」

「ローマの罠だ」

「人数を隠したまま、十分な土地を求めることはできません」

ディウィコは黙った。

交渉には、共通の基礎情報が必要だ。

だが情報を出せば、軍事的弱点も知られる。

「全員が同じ場所へ住む必要がありますか」

俺は続けた。

「分けるつもりか」

「共同体単位で複数の土地へ移る方法もあります」

「民を分断する気だ」

「食料が足りなければ、一か所に集まる方が危険です」

「分かれて弱くなれば、ローマの思い通りだ」

その通りでもある。

合理的な分散移住は、政治的にはヘルウェティイ族の力を解体する。

医療や物流の最適化が、そのまま支配の手段になる。

俺は正しい配置を考えているつもりで、解体の設計図を描いていた。

「ルキウス」

カエサルが言った。

「十分だ」

声に怒りはない。

だが交渉の主導権を戻せという意味だった。

「ディウィコ」

カエサルは言う。

「人質を出せ。アエドゥイ族へ賠償し、略奪をやめろ。そうすれば処遇を協議する」

「拒否すれば?」

「追撃する」

「なら、戦場で会おう」

使者たちは立ち上がった。

交渉は終わった。

天幕を出る前、ディウィコが俺を振り返った。

「土地を数える男」

「はい」

「お前の家族を、三つの土地へ分けて住ませることができるか」

答えられなかった。

母。

父。

姉。

ルキウスが愛した家族。

合理的だからと、別々の土地へ送れるか。

「できないだろう」

ディウィコは去った。

天幕に沈黙が残る。

「交渉を複雑にしたな」

ラビエヌスが言った。

「申し訳ありません」

「だが、必要な情報は見えた」

カエサルは地図を見ていた。

「彼らは土地だけを求めているのではない」

「民族としての力を残したい」

俺は言った。

「そうだ」

カエサルの指が、地図上のヘルウェティイ領へ触れる。

彼らが焼き払った故郷。

「ならば、戻すのが最もよい」

「故郷へ?」

「西へ移住させれば、ローマ属州の近くに巨大な勢力が生まれる。土地を与えれば、与えた者へ服従するとは限らない」

「元の土地は焼かれています」

「再建させる」

「食料は?」

「アッロブロゲス族と周辺部族から供給する」

敵へ食料を与える。

俺が提案した時には理想論と言われた。

だが、カエサルは慈善ではなく安全保障として同じ結論へ至った。

ヘルウェティイ族を元の土地へ戻せば、ライン東岸のゲルマン勢力に対する緩衝地帯となる。

彼らを生かすことが、ローマの利益になる。

同じ結論へ、別の理由で辿り着く。

そして採用されるのは、いつも彼の理由の方だった。

「人質は?」

ラビエヌスが尋ねる。

「必要だ」

「拒否するでしょう」

「なら、拒否できなくなるまで追う」

交渉案と軍事作戦が、一つの線でつながっている。

カエサルは敵を皆殺しにしたいわけではない。

服従させ、ローマにとって有用な位置へ戻したい。

合理的である。

同時に、他民族の未来をローマが決めるという傲慢でもあった。

「ルキウス」

「はい」

「彼らを戻す場合に必要な穀物量を計算しろ」

「まだ戦争中です」

「戦争が終わってから計算しては遅い」

数日前、俺が父の商人たちへ言ったことを、そのまま返された。

戦争を望まなくても、準備する。

和平を望むなら、和平後の食料も準備する。

「承知しました」

「それと」

カエサルは俺を見る。

「今後、交渉へ割り込む前に私を見ろ」

「許可を求めるためですか」

「止めるべきか判断する」

「今回は止めませんでした」

「面白かったからだ」

「次も?」

「次は分からん」

ラビエヌスが額を押さえた。

俺は天幕を出た。

川の向こうでは、ヘルウェティイ族が再び移動を始めている。

俺たちが交渉している間にも、家族は歩き、食料は減り、負傷者は増える。

戦争は会議を待たない。

その夜、補給担当者が俺の天幕へ来た。

顔色が悪い。

「集積地の穀物が、まだ届きません」

俺は木板を開いた。

一、天候。二、道路と橋。三、商人の思惑。四、意図的な妨害。

四番目の欄が、また少し重くなった。


今回は、ヘルウェティイ族の使者ディウィコとの交渉回でした。


ディウィコは、ローマから見れば敵の代表です。


しかし彼は、敗者として頭を下げに来たのではありません。


自分たちの民を守るために、堂々と交渉へ来ています。


この回で主人公は、合理的な分散移住案を口にします。


人口、食料、耕地、家畜。


数字だけで見れば、一つの巨大集団を分けた方が管理しやすいかもしれません。


しかしディウィコは問い返します。


お前の家族を、三つの土地へ分けて住ませることができるか。


この問いは、主人公に強く刺さります。


数字としての人口。


制度としての移住。


そして、実際に引き裂かれる家族。


主人公は、合理性だけでは人間を動かせないことを学んでいきます。


一方、カエサルはヘルウェティイ族を故郷へ戻すという選択肢を見出します。


それは慈悲だけではなく、ライン方面から来る別勢力への緩衝地帯として彼らを利用するためでもあります。


人道と戦略。


救済と支配。


その区別が、少しずつ曖昧になっていきます。


次回、第30話。


主人公は、軍医から一歩進み、軍医幕僚としての役割を与えられます。


【ローマ豆知識㉗ ディウィコとは】


ディウィコは、カエサルの『ガリア戦記』に登場するヘルウェティイ族の指導者です。


彼は過去にローマ軍を破った戦いにも関わった人物として描かれています。


そのため、カエサルとの交渉では、単なる敗者ではなく、ローマに対して過去の勝利を背負った人物として登場します。


本作では、ディウィコを「敵の代表」であると同時に、民の行き場を求める指導者として描いています。


彼の言葉は、主人公に「人間は数字のように簡単には分けられない」という事実を突きつける役割を持っています。

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