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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第二部 軍団を治療する者

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第31話 一人でやるな

軍医幕僚となった主人公に、最初に与えられた仕事。


それは新しい手術でも、新しい治療法でもありません。


人に任せることでした。


救護所。


衛生。


搬送。


医療物資。


記録。


部隊との連絡。


これまで自分一人で抱え込んできた仕事を、役割ごとに分け、他人へ任せる。


しかし、それは主人公にとって手術より難しいことでした。


一人の名医ではなく、動き続ける医療組織を作る。


軍医幕僚としての最初の一歩です。


どうぞお楽しみください。

軍医幕僚となった翌朝。

俺は、自分の天幕を与えられた。

正確には、以前は予備の帳簿や壊れた盾を置いていた、小さな物資用天幕である。

中には粗末な机が一つ。

椅子が二脚。

地図を掛けるための柱。

そして、木板の山。

「幕僚の執務室としては、ずいぶん狭いですね」

俺が言うと、案内役の兵士は真顔で答えた。

「昨日まで物置でしたので」

「知っています」

「物置よりは出世しています」

慰めになっていない。

天幕の入口には、小さな木札が掛けられていた。

そこには、書記官のぎこちない文字で記されている。

軍医幕僚 ルキウス・アエリウス

正式な官職ではない。

カエサルが便宜的に作った肩書である。

それでも、木札を見た者たちは足を止めた。

軍医なのか。

幕僚なのか。

医師なのか。

商人の息子なのか。

俺自身にも、まだよく分からない。

「まず、人を集めなければ」

俺はつぶやいた。

昨日、カエサルから言われた。

自分にしかできない仕事と、他の者にもできる仕事を分けろ。

言うのは簡単だ。

実行するのは難しい。

患者を自分で診れば、結果を把握できる。

木板を自分で書けば、記録の誤りに気づける。

水場を自分で見れば、汚染の危険を判断できる。

人に任せれば、必ず誤りが起きる。

だが、俺一人で六個軍団の衛生、疾病、負傷者、荷車、物資を管理することは不可能である。

俺は木板へ、必要な役割を書き出した。

救護所責任者。

衛生責任者。

搬送責任者。

医療物資責任者。

記録責任者。

部隊ごとの連絡担当者。

少なくとも六人。

実際には、その数倍が必要だ。

「呼ばれたぞ」

天幕の外から、ディオニュシオスの不機嫌な声がした。

中へ入ってきた彼は、木板を見るなり眉をひそめた。

「私を救護所責任者にするという話は本当か」

「本当です」

「誰が決めた」

「私です」

「お前は医師ですらない」

「以前も聞きました」

「以前とは立場が違う。今のお前は、カエサルの名を使って医師へ命令しようとしている」

痛い指摘だった。

「命令ではありません」

「では、断ってよいのか」

「困ります」

「命令ではないが、断ると困る」

「依頼です」

「権力を持つ者の依頼は、命令と同じだ」

ディオニュシオスは椅子へ座った。

「なぜ私だ」

「外科処置以外の診療経験は、私より豊富だからです」

「お前が、それを認めるのか」

「私は外科医です。熱病、腹の病、薬草、慢性疾患のすべてに詳しいわけではありません」

現代でも、外科医がすべての病気を診られるわけではない。

感染症。

内科。

小児。

産婦人科。

専門家がいる。

この時代では専門分化が不十分だとしても、経験の差はある。

「それに、ギリシャ医学を学びたい」

俺が言うと、ディオニュシオスの表情が少し変わった。

「お前は体液説を笑っていた」

「すべてを否定したつもりはありません」

古代医学の理論には誤りがある。

だが、観察。

食事。

運動。

季節。

環境。

患者ごとの差。

現代へつながる知見も多い。

既存の医学をすべて無能として扱えば、現場から反発されるだけでなく、使える知識まで失う。

「あなたには、この時代の患者が何を信じ、何を恐れるかが分かります」

「お前には分からないのか」

「まだ完全には」

ルキウスの記憶はある。

だが高瀬真一の感覚が強すぎる。

患者へ説明する時、現代の医学知識をそのまま話しても伝わらない。

「救護所を任せたい」

俺は改めて言った。

「ただし、記録様式は統一します」

「結局、それか」

「記録がなければ比較できません」

「医師は木板を治療するのではない」

「患者を治療した結果を木板へ残すのです」

ディオニュシオスは長く息を吐いた。

「条件がある」

「何でしょう」

「私の診断へ、治療前から口を出すな」

「危険な場合は出します」

「なら条件にならない」

「議論しましょう」

「救護所でか」

「患者の前では避けます」

ディオニュシオスは腕を組んだ。

「お前は、自分の知識を疑うことがあるか」

不意を突かれた。

「あります」

「本当に?」

クィントゥスを切開した夜。

感染が治まらず、不安で眠れなかった。

赤痢対策が偶然ではないかと疑った。

黒に分類された患者が、救命可能な状態だった。

間違いはすでに起きている。

「あります」

今度は、はっきり答えた。

ディオニュシオスは立ち上がった。

「なら、引き受けよう」

「ありがとうございます」

「ただし、私の方法が正しかった時は認めろ」

「もちろんです」

「お前の方法が誤っていた時もだ」

「認めます」

「言ったな」

救護所責任者が決まった。

次に呼んだのは、書記官のティロだった。

赤痢患者の記録を担当していた、痩せた若者である。

「私が記録責任者ですか」

「嫌ですか」

「嫌というより、怖いです」

「何が」

「数字を間違えれば、軍団の配置が変わるのでしょう」

ソーヌ川の奇襲。

工事区間への人員配分。

穀物供給。

すでに、記録が意思決定へ使われ始めている。

責任の重さを理解している。

「間違えることはあります」

俺は言った。

「間違えてよいのですか」

「隠さなければ」

「間違いで兵士が死ぬかもしれません」

「隠せば、もっと死にます」

ティロは黙った。

「一人で記録しないでください」

俺は続けた。

「各部隊から報告を受けた後、別の書記がもう一度確認する」

「二度書くのですか」

「重要な数字は」

「手間が倍になります」

「誤りを見つける可能性も増えます」

現代のダブルチェックと同じである。

ただし、ダブルチェックは万能ではない。

二人とも同じ思い込みを持てば、同じ誤りを見逃す。

それでも、一人よりはよい。

「記録の定義を木板へ書きます」

発熱。

下痢。

血便。

歩行不能。

戦闘任務離脱。

死亡。

同じ言葉を、同じ意味で使う。

「死にそうな者は、死亡に入れますか」

「入れません」

「ほとんど助からなくても?」

「生きている間は、生存者です」

ティロは頷いた。

記録責任者も決まった。

搬送はクィントゥスが推薦した百人隊長補佐。

衛生担当は、第5話から手洗い所を管理していた兵士。

医療物資は父の部下だった倉庫番。

六人が天幕へ集まる。

全員が、互いを疑うような顔をしている。

軍人。

医師。

書記。

商人。

役割も身分も違う。

「今日から、この六人で軍団医療を動かします」

俺が言うと、搬送担当者が尋ねた。

「誰が一番上ですか」

「私です」

答えた直後、カエサルの言葉が頭に浮かんだ。

お前が必要な仕組みにするな。

「ただし、私がいない場合は、各責任者が自分の範囲を判断します」

「意見が対立したら?」

「患者の生死に関することはディオニュシオス。軍事行動と搬送路は百人隊長。物資不足は倉庫責任者。記録はティロ」

「最終判断は?」

「緊急時は、その場にいる担当者です」

皆の顔に不安が浮かんだ。

権限を与えられることは、自由になることではない。

責任を負うことである。

「失敗したら?」

衛生担当兵が尋ねる。

「検証します」

「罰は」

「故意に隠した場合は別です。正しい手順で判断し、結果が悪かった場合は、次の方法を考えます」

軍隊では異質な考えだろう。

失敗した者を罰する。

それが規律維持の基本である。

だが医療安全では、失敗した個人だけを責めても再発を防げない。

なぜ、その判断をしたのか。

情報は十分だったか。

手順は明確だったか。

資源は足りていたか。

組織の原因を見る必要がある。

「甘すぎる」

クィントゥスが入口から言った。

「呼んでいませんが」

「軍医幕僚殿の初会議を見に来た」

「患者は寝ている時間です」

「俺は患者ではない」

「包帯が取れるまでは患者です」

クィントゥスは無視して続けた。

「失敗しても罰せられないなら、誰も真剣に働かん」

「隠した者、怠けた者は罰します」

「判断を誤った者は?」

「誤り方を見ます」

「面倒だな」

「人間は面倒です」

クィントゥスは六人を見回した。

「こいつは、自分一人で全部やろうとして失敗した」

俺は反論できなかった。

「だから、お前たちへ仕事を押しつけるつもりだ」

「押しつけるのではありません」

「同じだ」

六人の間から、わずかに笑いが起きた。

緊張が少し解けた。

クィントゥスなりの配慮だったのかもしれない。

「だが」

彼は続けた。

「こいつ一人よりは、お前たち六人の方がましだろう」

褒められている気はしない。

「まず、何をする」

ディオニュシオスが尋ねた。

俺は地図を広げた。

「本日から、軍団はヘルウェティイ族を追撃します」

進行方向。

水場。

宿営予定地。

医療用荷車。

患者数。

部隊ごとの衛生担当。

「各責任者は、日没前に自分の範囲を確認してください」

「お前は?」

ティロが尋ねた。

「全体を見ます」

口にした瞬間、妙な寂しさを感じた。

手術台から離れる。

患者のそばから離れる。

人へ任せる。

外科医として、自分の手で救うことに価値を感じてきた。

だが今、俺が行うべき仕事は、一人の患者へ集中することではない。

六個軍団の中で、救える命を増やすことだ。

天幕の外で、出発の角笛が鳴った。

「行きましょう」

俺が言った。

誰も動かない。

「どうしました」

ディオニュシオスが呆れたように言った。

「最初に誰が何をするか、まだ命じていない」

全員の視線が集まる。

仕組みを作ったつもりで、最初の具体的な行動を示していなかった。

「……では」

木板を取り直す。

組織を動かすことは、手術より難しいかもしれない。


第31話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、主人公が軍医幕僚として最初の組織作りに挑む回でした。


これまでの主人公は、自分で診て、自分で切って、自分で記録し、自分で判断していました。


それは一人の患者を救うには有効です。


しかし六個軍団全体を相手にするには、まったく足りません。


救護所責任者。


記録責任者。


搬送責任者。


衛生責任者。


医療物資責任者。


それぞれに役割を与え、判断を任せる。


これは主人公にとって大きな転換点です。


自分が直接手を下すことから、自分がいなくても動く仕組みを作ることへ。


カエサルに言われた「お前にしかできない仕事と、お前以外にもできる仕事を分けろ」という課題が、ここから本格的に始まります。


次回、第32話。


軍団を動かすもう一つの敵、「消えた穀物」と向き合います。


【ローマ豆知識㉙ ローマ軍の医療と本作の創作】


ローマ軍には、負傷兵を治療する医療従事者が存在しました。


しかし本作で主人公が作ろうとしているような、衛生、搬送、記録、物資管理を一体化した「軍医幕僚組織」は、現代的な発想をもとにした創作です。


古代ローマ軍は高い組織力を持っていましたが、細菌学や近代的な公衆衛生、標準化された医療記録を持っていたわけではありません。


主人公の改革は、古代に存在した経験知を否定するものではなく、それを記録し、整理し、再現できる仕組みに変えていく試みです。


第32話 消えた穀物 前書き


戦争を動かすものは、勇気や戦術だけではありません。


穀物です。


予定されていたアエドゥイ族からの補給は届かず、軍団の食料は日ごとに減っていきます。


敵を追うローマ軍。


しかし、その足元では飢えが迫っていました。


補給を待つのか。


追撃を続けるのか。


ビブラクテへ向かい、食料を求めるのか。


そして、穀物の遅れの背後にドゥムノリクスはいるのか。


主人公は、事実と疑惑を分けながら、軍団の飢えと向き合います。


どうぞお楽しみください。

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