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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第3章 追う者も飢える

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第27話 遅れた四分の一

夜明け前。


ソーヌ川を渡りきれなかったヘルウェティイ族の一部へ、ローマ軍が襲いかかります。


軍事的には正しい奇襲。


しかしそこにいるのは、戦士だけではありません。


家族。


荷車。


老人。


子供。


渡河途中で取り残された人々。


主人公は、戦場の勝敗ではなく、運び込まれる負傷者たちと向き合うことになります。


医師として、そして軍医幕僚として、最初の本格的な試練です。


どうぞお楽しみください。

最初の衝突は、一方的だった。

夜明け前。

渡河作業の途中。

戦士たちは分散し、荷車と家族を守るため各所に配置されている。

対するローマ軍は、武装を整え、隊列を組み、丘の上から一気に突撃した。

投槍が飛ぶ。

まだ薄暗い空を、黒い線が埋めた。

ヘルウェティイ族の戦士たちが盾を上げる。

間に合わない者も多い。

投槍が盾へ刺さり、重みで腕が下がる。

その隙へローマ兵が踏み込んだ。

剣。

盾。

叫び。

木材が割れる音。

荷車が横倒しになる。

牛が暴れ、人の列へ突っ込む。

俺は丘の上から、その光景を見ていた。

見ていた、という以外に言葉がない。

「何をしている!」

クィントゥスの怒鳴り声で我に返る。

「救護所へ行け!」

その通りだ。

俺は戦場を観察するためにいるのではない。

患者を受け入れるためにいる。

仮設救護所は丘の裏側へ設置されていた。

敵の矢が届きにくく、前線から担架で運びやすい場所である。

負傷者は、すでに運び込まれ始めていた。

「右上腕切創!」

「大腿へ槍!」

「頭を打っています!」

声が重なる。

俺は入口へ立った。

「歩ける者は右!」

軽傷者を一か所へ集める。

「歩けない者は中央!」

担架患者。

意識。

呼吸。

脈。

出血。

瞬間的に確認する。

赤。

黄。

黒。

「この者は赤。圧迫止血!」

「こちらは黄。傷を洗って待機!」

「頭部が潰れている者は……黒」

言葉にするたび、胸が削られる。

だが迷えば、全員の処置が遅れる。

「外科医殿!」

兵士がクィントゥスを支えて入ってきた。

一瞬、心臓が止まりそうになった。

「どこを負傷しました」

「俺ではない!」

クィントゥスが怒鳴る。

彼が抱えていた若い兵士の腹部から、血が流れていた。

右下腹部。

剣による刺創。

腸管損傷の可能性がある。

だが出血量はまだ多くない。

「赤です。奥へ」

「助かるか」

「診なければ分かりません」

「助けろ」

「最善を尽くします」

クィントゥスが俺の肩を掴んだ。

「最善ではない」

目が血走っている。

「助けろ」

三年前、父が同じことを言った。

死なせたら、お前を許さない。

患者の家族も、仲間も、確実な答えを求める。

だが外科医は、保証できない。

「治療を始めます」

俺はそれだけ答えた。

腹部負傷者を横たえる。

麻酔はない。

葡萄酒。

押さえる兵士。

小刀。

出血源を探すため傷を広げる必要がある。

現代の開腹手術とは比べものにならない環境である。

腹膜を越えた瞬間、血と腸液の臭いが広がった。

「腸が切れています」

ディオニュシオスが息を呑んだ。

小腸に裂創。

腹腔内汚染。

現代でも緊急手術が必要だ。

この時代では、極めて死亡率が高い。

損傷部を確認する。

壊死はまだない。

裂けた部分を縫合する。

針。

糸。

手が震える。

照明が揺れる。

患者が暴れる。

「押さえて!」

「これ以上は無理です!」

「押さえなければ腸を傷つけます!」

叫びながら処置を続けた。

完全な洗浄などできない。

腹腔内へ汚染が残る。

術後に腹膜炎を起こす可能性が高い。

それでも、何もしなければ確実に死ぬ。

「縫合します」

腹壁を閉じる。

完全には閉じず、排液のため布を残す。

手術が終わった時、腕は汗と血で濡れていた。

「次!」

休む時間はない。

外では戦闘の音が続いている。

ヘルウェティイ族は抵抗を始めていた。

最初の混乱から立ち直った戦士たちが、荷車を防壁にしている。

女性や老人が荷物を運び、石を投げる。

非戦闘員と戦闘員の境界が消えていく。

境界を消したのは彼らではない。

夜明け前に、こちらが消した。

ローマ側の負傷者も増え始めた。

「敵の負傷者です!」

担架が一つ運び込まれた。

若いガリア人。

脚に投槍が刺さっている。

「後回しだ」

ローマ兵が言った。

「出血が多い。赤です」

「敵だぞ」

「今は患者です」

「味方が待っている」

周囲を見る。

赤の患者が三人。

ガリア人を含めれば四人。

処置できる者は俺とディオニュシオス。

優先順位をつけなければならない。

「圧迫で出血が止まる」

俺はガリア人の脚を確認した。

「衛生兵に圧迫させて待機」

「衛生兵?」

軍医見習いとして集めた者たちである。

まだ正式な名称はない。

俺は布を渡す。

「ここを強く押せ。血が染みたら上から布を重ねろ。外すな」

「私が?」

若い兵士が怯えた。

「できる」

「医師ではありません」

「押さえるだけならできる」

任せる。

俺一人で全員を診ることはできない。

七日間の試験の最後に、カエサルへ指摘された通りだ。

俺が必要な仕組みでは、拡大できない。

「ルキウス!」

外からディオニュシオスの声がした。

「黒が増えている」

黒。

救命困難者。

戦場の隅へ移された患者たち。

うめき声。

助けを求める手。

俺は目を向けないようにした。

今は赤を救う。

それが全体を救う方法である。

だが黒の患者の一人が、俺の名を呼んだ。

「外科医……」

ローマ兵だった。

胸部へ深い槍傷。

呼吸のたびに傷から空気が漏れている。

開放性気胸。

適切に処置すれば助かる可能性がある。

黒ではない。

「誰が黒にした!」

俺は叫んだ。

記録担当者が青ざめた。

セクストゥスだった。

三個コホルスの試験の時、腹痛を軽症として書かなかった若者である。

あの時、俺は彼を罰するなと言った。

「息が苦しく、脈も弱かったので……」

分類を任せた結果、また誤りが起きた。

同じ人間が。

だが今度は、隠していない。

「赤へ変更!」

傷を湿らせた布で塞ぐ。

三辺だけ固定し、空気が外へ逃げるようにする。

患者の呼吸がわずかに改善する。

「分類は固定ではありません!」

俺は全員へ叫んだ。

「状態が変われば色を変えろ! 黒も必ず再確認する!」

制度を作れば誤りがなくなるのではない。

制度が新しい誤りを作ることもある。

判断基準。

再評価。

教育。

監督。

すべてが必要だ。

セクストゥスが震える手で木片を持ち替えた。

「私が殺すところでした」

「まだ殺していません」

「次も間違えます」

「間違えたら、すぐ言ってください」

それしか言えなかった。

午後。

戦闘音が遠ざかり始めた。

勝敗が決したのだろう。

だが救護所では終わっていない。

戦場が静かになった後も、外科医の戦争は続く。

夕方。

クィントゥスが再び現れた。

鎧は血で汚れている。

「勝った」

彼は言った。

俺は腹部を手術した若い兵士の脈を取っていた。

「そうですか」

「敵は崩れた。川へ逃げた者も多い」

「そうですか」

「喜ばないのか」

俺は周囲を見た。

赤。

黄。

黒。

泣いている兵士。

死者の布を掛ける者。

腕を失った者。

敵の言葉で母を呼ぶ若者。

「まだ、こちらでは勝っていません」

クィントゥスは何も言わなかった。

その夜。

俺は木板へ、この戦いの最初の数字を書いた。

救護所へ運び込まれた者、二百九十四。

処置を終えて生存している者、二百三十一。

黒と分類した者、三十八。

そのうち一人は、翌朝まで生きていた。


第27話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ソーヌ川での奇襲と、主人公にとって初めての本格的な戦場医療の回でした。


ローマ軍の攻撃は、軍事的には非常に効果的でした。


渡河中の敵は分断され、隊列も整っていません。


その瞬間を狙うのは、指揮官として合理的です。


しかし、主人公が見ているのは戦術的成功だけではありません。


救護所へ運ばれてくる負傷者。


黒に分類されたが、実は助かる可能性があった兵士。


敵兵か味方兵かで揺れる治療の優先順位。


制度を作ればすべてがうまくいくわけではない。


むしろ制度が新しい誤りを生むこともある。


主人公はこの回で、トリアージや分類が「完成された答え」ではなく、常に見直し続けなければならない仕組みなのだと学びます。


次回、第28話。


勝利の後、主人公は「何を数えれば勝ったと言えるのか」と向き合うことになります。


【ローマ豆知識㉕ 渡河中の軍は弱い】


古代戦争において、川を渡っている最中の軍や集団は非常に危険な状態にあります。


隊列は分断され、武器を構えにくく、荷車や家畜の移動にも時間がかかります。


一部が対岸へ渡り、一部がまだこちら側に残るため、指揮も統制も難しくなります。


そのため、渡河中の敵を攻撃することは、古代から非常に有効な戦術の一つでした。


ただし、ヘルウェティイ族のような民族移動の場合、渡っているのは兵士だけではありません。


家族、老人、子供、荷車、家畜も一緒です。


本作では、この軍事的合理性と人道的な痛みの両方を描いています。

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