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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第3章 追う者も飢える

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第26話 ソーヌ川の夜明け

ローマ軍の角笛が、夜明け前の街道に響きます。


ヘルウェティイ族の一部が、ソーヌ川の渡河途中で取り残されている。


それは軍事的には絶好の好機でした。


しかし主人公のそばには、置き去りにされた患者たちがいます。


本隊へ急ぐのか。


患者を守るのか。


医師としての責任と、カエサルの幕僚としての責任。


二つの立場が、初めて真正面から衝突する回です。


どうぞお楽しみください。

角笛は三度鳴った。

緊急招集。

敵発見。

即時戦闘。

ローマ軍の合図を理解した瞬間、護衛兵たちの顔色が変わった。

「本隊へ戻ります」

最年長の兵士が言った。

「負傷者は?」

俺は荷車を指した。

脚を切断した少年。

発熱した老人。

歩くことも難しい子供。

置いていくことなどできない。

「戦闘が始まれば、我々も命令へ従う必要があります」

「患者を道端へ捨てるのですか」

「敵の民です」

「今は患者です」

「何度同じことを言う!」

兵士が声を荒らげた。

俺たちの前には、二つの方向がある。

前へ進めば本隊。

後ろへ戻れば安全な宿営地。

だが、後方の宿営地までは遠い。

夜道で患者を運べば、いつ到着できるか分からない。

「護衛二人は本隊へ戻ってください」

俺は決めた。

「残り二人は、医療班と患者を守る」

「あなたは?」

「ここに残ります」

「カエサル様の幕僚です」

「だからこそ、患者を捨てたという前例を作れません」

「前例?」

「軍団が、治療中の患者を戦闘のたびに捨てる組織になれば、兵士も医療班を信じなくなります」

敵か味方かという話だけではない。

兵士が見ている。

医療班は命令一つで患者を置き去りにする。

そう思われれば、重傷者は治療を拒む。

負傷を隠す。

搬送されることを恐れる。

制度への信頼は、積み上げるのに三年かかり、崩れるのに一晩で足りる。

「本隊へ伝えてください」

俺は木板を取り出した。

「医療班は患者搬送のため遅れている。夜明けまでに追いつく予定。戦闘が始まった場合は、前方へ臨時救護所を設置するように、と」

兵士は不満そうだった。

それでも命令を受け、二人が馬で走り去った。

残った者たちは荷車を進める。

夜道は暗い。

松明の明かりだけが、ぬかるんだ街道を照らしている。

患者のうめき声。

車輪の軋む音。

牛の荒い呼吸。

遠くでは、時折、角笛が鳴った。

一度。

短く二度。

さらに長く一度。

「合図の意味は?」

俺は護衛兵へ尋ねた。

「軍団の集合です」

「攻撃開始では?」

「まだです」

カエサルは戦闘準備を進めている。

ならば、間に合う可能性がある。

「急ぎます」

「これ以上速くすれば荷車が壊れます」

工兵が答えた。

修理したばかりの車軸が悲鳴を上げている。

速度を上げれば、再び故障する。

患者の身体にも負担がかかる。

急げ。

だが壊すな。

相反する要求の中で、最適な速度を選ばなければならない。

「先頭の荷車だけ、速度を上げます」

俺は言った。

「歩ける者は後続と来てください。重症者を先に運ぶ」

「集団を分けるのですか」

「全員を同じ速度で動かす必要はありません」

少年と発熱した患者を最初の荷車へ移す。

医療器具。

布。

水。

最小限の人員。

俺はその荷車へ乗った。

他の患者は工兵と護衛が運ぶ。

「外科医殿」

老人が俺の服を掴んだ。

「我々を置いていくのか」

通訳が訳す。

「違います。先に治療所を作ります」

「戻るのか」

「必ず」

昨日も、同じことを言った。

最後まで診る。

必ず戻る。

約束が増えていく。

守れなければ、ただの嘘になる。

「行ってください」

俺は御者へ命じた。

荷車が速度を上げる。

車輪が石へぶつかるたび、少年の身体が跳ねた。

「ゆっくり!」

「急げと言ったのは、あなたです!」

その通りだった。

指示が矛盾している。

現場では、上司の曖昧な命令が部下を苦しめる。

「平地では速く。石や穴の前では減速してください」

「最初から、そう言ってください!」

御者に怒鳴られた。

反省する。

夜明け前。

丘を越えたところで、無数の灯火が見えた。

ローマ軍の野営地。

だが通常の宿営とは違う。

兵士は休んでいない。

武装し、隊列を整え、静かに移動している。

火は最小限。

声も抑えられている。

数千人の男が、ほとんど音を立てずに動いていた。

奇襲。

カエサルは夜明け前に攻撃するつもりだ。

荷車を止めた兵士が叫んだ。

「ルキウス様!」

クィントゥスだった。

馬から降り、こちらへ走ってくる。

「無事だったか」

「患者も生きています」

「お前がいなかったせいで、救護所の設置が遅れた」

責める声だった。

「申し訳ありません」

「言い訳は」

「ありません」

助けた患者のことを説明することはできる。

だが戦場の医療責任者として、予定時刻へ戻れなかったのも事実である。

正しかったと主張するだけでは、組織の問題は解決しない。

「負傷者受け入れの準備は?」

「ディオニュシオスが始めている。しかし配置が分からんと言っている」

「すぐ行きます」

「その子は?」

クィントゥスが荷車の少年を見る。

「切断後です」

「生きているのか」

「今のところは」

クィントゥスは何か言おうとして、やめた。

「カエサル様がお呼びだ」

「今ですか」

「攻撃前に、一つ確認したいことがあるそうだ」

「救護所の方が先です」

「総督命令だ」

拒否できない。

俺は少年を医療班へ引き渡し、総督のもとへ走った。

カエサルは丘の上で、暗い平原を見下ろしていた。

その先に、ソーヌ川がある。

流れがあまりに緩く、薄明かりの中では水面が止まっているように見えた。

どちらへ流れているか目では分からない、と聞いていた通りだった。

川の向こう岸には、無数の荷車と人影。

こちら側にも、まだ大勢が残っている。

ヘルウェティイ族の一部はすでに渡河を終えた。

だが最後尾の集団は、こちら側に取り残されている。

「来たか」

カエサルは振り返らなかった。

「医療班が遅れました。申し訳ありません」

「理由は聞いた」

「処分は後で受けます」

「今は質問へ答えろ」

カエサルは川岸を指した。

「彼らは全体のどれほどだ」

暗闇。

荷車。

焚き火。

移動する人々。

正確には見えない。

「四分の一前後です」

歴史上の記憶では、ティグリニ族を中心とする約四分の一が取り残されたとされる。

だが、その記憶を答えにはしない。

数える。

数えてから、記憶と合っているか確かめる。

「根拠は」

カエサルが尋ねた。

「対岸の野営地面積。こちら側に残る荷車の列。渡河開始からの日数です」

「戦士は?」

「比率が同じなら一万から二万人。ただし、最後尾に護衛戦士が多く配置されている可能性があります」

「逃げ道は」

ラビエヌスが尋ねた。

「川を渡るか、東へ戻るかです」

「渡河には時間がかかる」

「はい」

「東はローマ軍が塞ぐ」

「はい」

カエサルは静かに言った。

「なら、今叩く」

俺は川岸を見た。

戦士だけではない。

荷車。

家族。

老人。

あの取り残された患者たちと同じ人々がいる。

「非戦闘員が多数います」

口にすると、ラビエヌスの目が鋭くなった。

「だから攻撃するなと言うのか」

「区別できる範囲で、戦士を優先すべきです」

「夜明け前の混戦で、敵味方と戦士、非戦闘員を選べと?」

「難しいことは分かっています」

「難しいのではない。不可能だ」

ラビエヌスの言葉は正しかった。

兵士へ、槍を持つ相手だけを攻撃しろと命じても、恐怖と混乱の中で完全には守られない。

「ルキウス」

カエサルが言った。

「お前は今夜、二十人を救うために医療班を遅らせた」

「はい」

「その結果、戦闘開始時に救護所が不完全になる可能性があった」

「はい」

「同じことを、今も考えているか」

答えに詰まった。

目の前の患者を救う。

集団の損失を減らす。

両方を選べない時がある。

「分かりません」

正直に答えた。

「なら覚えておけ」

カエサルは剣を抜いた。

「指揮官は、分からなくても決める」

東の空が、わずかに白み始めた。

川面が、初めて流れているように見えた。

カエサルの剣が下りる。

角笛が鳴った。

ローマ軍が丘を駆け下りた。


第26話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ソーヌ川の奇襲直前の回でした。


主人公は、置き去りにされたヘルウェティイ族の患者たちを守るため、本隊への合流が遅れます。


医師としては正しい判断です。


しかし軍の一員として見れば、救護所設置の遅れを招く危険な判断でもありました。


ここで重要なのは、主人公が「患者を捨てない」という個人的な信念だけでなく、「医療制度への信頼」を考えていることです。


もし治療中の患者を戦闘のたびに置き去りにする軍団だと思われれば、兵士も患者も医療班を信じなくなります。


制度は手順だけでは成り立ちません。


信頼によって支えられます。


一方で、カエサルは夜明け前の攻撃を決断します。


相手が渡河途中で分断されている以上、指揮官としては見逃せない好機です。


主人公はここで、「分からなくても決める」指揮官の現実を突きつけられます。


次回、第27話。


ソーヌ川の夜明けとともに、ローマ軍の奇襲が始まります。


【ローマ豆知識㉔ ソーヌ川とは】


ソーヌ川は、現在のフランス東部を流れる川です。


古代ではアラル川とも呼ばれました。


流れが非常に緩やかで、どちらへ流れているのか分かりにくい川として古代資料にも言及されています。


ヘルウェティイ族が西へ移動する途中、この川の渡河は大きな障害となりました。


大人数の民族移動では、川を渡るだけでも何日もかかります。


そのため、集団の一部が渡り終え、一部がまだこちら側に残るという状況が生まれます。


カエサルはその分断を見逃さず、渡河途中の一部集団へ攻撃を仕掛けることになります。

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