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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第3章 追う者も飢える

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第25話 捨てられた荷車

ローマ軍は、ついにヘルウェティイ族の後尾へ追いつきます。


しかし主人公が最初に見つけたのは、敵兵ではありませんでした。


壊れた荷車。


捨てられた家財。


子供の靴。


そして、移住集団から取り残された老人、女性、子供、病人たち。


軍団の速度を優先するのか。


目の前の患者を救うのか。


主人公にとって、医師としての信念が試される回です。


どうぞお楽しみください。

最初に見つけたのは、死体ではなかった。

荷車だった。

街道脇に傾き、片方の車輪が外れている。

荷台には割れた壺、濡れた毛布、子供用の小さな靴が残されていた。

ヘルウェティイ族の後尾へ追いついたのは、軍団出発から七日目である。

「故障して捨てたのだろう」

クィントゥスが言った。

「荷物はほとんどありません」

「持てるものだけ持っていった」

少し先には、二台目。

さらに三台目。

道を進むほど、捨てられた荷車が増える。

壊れた車輪。

死んだ牛。

使えなくなった農具。

重すぎる家具。

移住開始時には人生のすべてを積んだはずである。

だが行軍が長引くにつれ、不要な物から捨てる。

最後には、必要な物さえ置いていかなければ進めない。

俺は数えながら進んだ。

十七台目で、機織り機を見た。

二十四台目で、石臼を見た。

どちらも、新しい土地で生きるために必要なものである。

それを捨てたということは、生きて着くことより、着くことを優先し始めている。

「移動速度が上がります」

俺は言った。

「荷車を減らしているからか」

「はい。ただし、運べる食料も減る」

「先頭は、もうソーヌ川へ向かっているとの報告だ」

ソーヌ川。

古代の名はアラル川。

流れが非常に緩やかで、どちらへ流れているか分からないと評される川である。

ヘルウェティイ族が渡河するなら、長い列が分断される。

一部が対岸へ渡り、一部がこちら側へ残る。

軍事的な好機となる。

「カエサル様は、渡河中を狙うでしょう」

「当然だ」

クィントゥスが答えた。

「敵が最も弱い時だ」

「家族も分断されます」

「戦争では、敵の都合を待たない」

分かっている。

それでも、胸に重さが残った。

前方の偵察兵が戻ってきた。

「街道脇に人がいます」

「戦士か」

「違います。老人と病人です」

俺は馬を進めた。

林の陰に、二十人ほどが座り込んでいた。

老人。

女性。

子供。

負傷者。

移住集団から遅れ、置き去りにされた者たちである。

ローマ兵を見ると、何人かが逃げようとした。

だが立つ力もない。

一人の老女が、両腕を広げて子供たちの前へ立った。

武器は持っていない。

「捕虜にする」

クィントゥスが命じた。

「食料は与えますか」

「最低限だ」

「治療は」

「進軍を遅らせない範囲で」

俺は馬から降りた。

患者を診る。

脱水。

発熱。

足の潰瘍。

荷車から落ちたと思われる骨折。

一人の少年は、足首から先が黒く変色していた。

強く腫れ、悪臭がする。

壊死。

感染。

切断しなければ死ぬ可能性が高い。

「この子は、ここで処置が必要です」

「どれくらいかかる」

クィントゥスが尋ねる。

「準備を含めて一刻以上」

「軍団は止められん」

「医療班だけ残します」

「護衛が必要だ」

「数人で構いません」

「敵の後尾が近い」

「このままでは死にます」

クィントゥスが少年を見る。

「助かるのか」

「切断できれば、可能性はあります」

「切断して、その後どうする」

答えられなかった。

足を失った少年。

移住集団から置き去りにされている。

ローマ軍とともに連れていくのか。

捕虜として売られるのか。

どこで暮らすのか。

手術で命を救っても、その後の人生を保証できない。

「外科医は、切った後まで考えないのか」

クィントゥスの問いは非難ではなかった。

純粋な疑問である。

「考えます」

「では、この子をどうする」

少年の母親らしい女性が、ガリア語で必死に何か訴えている。

通訳が聞き取った。

「置いていかないでくれ、と」

「誰に」

「我々にです」

ヘルウェティイ族ではなく、ローマ軍へ。

敵に助けを求めている。

自分たちの民に置き去りにされた者にとって、敵と味方の線は、もう別の場所にある。

「軍団へ連れていきます」

俺は決めた。

クィントゥスが眉をひそめる。

「捕虜としてか」

「患者としてです」

「同じ荷車に、何人乗せる」

周囲には二十人。

全員が軍団の速度についてこられない。

一人を乗せれば、他の者も求める。

「全員です」

「無理だ」

「空いている医療用荷車があります」

「負傷兵が出れば使う」

「今、負傷者がいます」

「ローマ兵のための荷車だ」

「患者のためです」

クィントゥスの顔が険しくなった。

「お前は軍団の外科医だ」

「人間の外科医です」

「その考えで、軍を動かせると思うか」

「全員を助けられないから、目の前の患者も助けないのですか」

言い争っている間にも、少年の呼吸は速くなっている。

感染が全身へ広がりつつある。

「ルキウス」

クィントゥスの声が低くなる。

「選べ」

「何を」

「医療用荷車一台を、この者たちへ使う。そうすれば今夜、ローマ兵が負傷した時に運べないかもしれない」

限られた資源。

目の前の患者。

未来の患者。

どちらを優先する。

赤と黄と黒の木片を並べた夜と、同じ形の問いだった。

「荷車を一台増やします」

「どこから」

「捨てられた荷車を修理します」

クィントゥスが街道脇の壊れた車両を見る。

「車輪がない」

「後ろの荷車から交換部品を持ってきます」

「時間がかかる」

「工兵を二人借ります」

「進軍が遅れる」

「全軍を止める必要はありません。医療班と工兵だけ残ります」

問題を二者択一にしない。

ある資源を奪い合うのではなく、資源自体を増やす方法を探す。

MBAでケース分析をした時、何度も言われた。

与えられた選択肢だけから選ぶな。

前提を変えろ。

教室では退屈な標語だった。

ここでは、少年の脚の話である。

「護衛四人」

クィントゥスが言った。

「工兵二人。医療班五人。日没までに本隊へ追いつけ」

「ありがとうございます」

「礼は追いついてから言え」

クィントゥスは本隊とともに進んだ。

俺たちは街道へ残った。

工兵が壊れた荷車を確認する。

「車軸も曲がっています」

「直せますか」

「部品があれば」

後続の補給車から車輪と木材を回してもらう。

その間に少年の手術準備を始めた。

煮沸した小刀。

布。

葡萄酒。

蜂蜜。

止血用の帯。

麻酔はない。

少年の母親へ、脚を切らなければ死ぬ可能性が高いと伝える。

彼女は泣きながら、何度も首を振った。

「脚を切れば、生きられる可能性があります」

通訳が伝える。

「歩けなくなる」

母親が答えた。

「今切らなければ、死にます」

「ローマ人は、すぐ身体を切る」

その言葉に胸が痛んだ。

外科医は切る。

救うために切る。

だが患者にとって、切られる恐怖は時代が変わっても同じだ。

「私が、最後まで診ます」

約束した。

本当に守れるかは分からない。

それでも、今は約束するしかない。

手術が始まった。

少年の叫びが林へ響く。

母親が泣く。

兵士が身体を押さえる。

腐った組織を切り進める。

出血を止める。

脚を失う。

命を残す。

外科医としての俺は、手を動かし続けた。

夕方。

少年は生きていた。

呼吸は弱いが、脈はある。

修理された荷車へ乗せる。

老人と子供も、交代で乗れるようにした。

歩ける者は荷車の横を進む。

本隊へ追いつくには、夜まで歩かなければならない。

出発しようとした時、一人の老人が俺の外套を掴んだ。

「なぜ助ける」

通訳が訳した。

「患者だからです」

老人は理解できない顔をした。

「我々は、お前たちの敵だ」

「戦場では、そうかもしれません」

「今は?」

俺は壊れた荷車と、脚を失った少年を見た。

「今は、遅れた旅人です」

老人は何も言わなかった。

俺たちは暗くなり始めた街道を進んだ。

前方では、ローマ軍がヘルウェティイ族を追っている。

そのさらに先には、ソーヌ川。

渡河中の敵を攻撃する絶好の機会。

俺が助けた二十人のために、医療班は本隊から遅れた。

この遅れが、戦闘に影響するかもしれない。

正しかったかは分からない。

だが、数字の中からこぼれ落ちた人間を、一人も拾わない軍団を作りたいとは思わなかった。

夜半。

遠くから、角笛の音が聞こえた。

一度。

二度。

三度。

三度目が鳴り終わる前に、護衛たちは走り出していた。

ローマ軍の緊急招集である。

荷車の上で、脚を失った少年が目を覚ました。

何が起きているのか尋ねる目だった。

答えないまま、俺も走った。


第25話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ヘルウェティイ族の後尾に取り残された人々を描きました。


移住する民族は、全員が同じ速度で進めるわけではありません。


壊れた荷車。


疲れた牛。


歩けなくなった老人。


熱を出した子供。


負傷者。


前へ進むためには、何かを捨てなければならない。


時には、人さえ置き去りにされます。


主人公は、彼らを敵ではなく患者として見ました。


しかし、その判断は軍事的には簡単ではありません。


医療用の荷車を使えば、未来のローマ兵を運べなくなるかもしれない。


医療班が遅れれば、戦闘に間に合わないかもしれない。


それでも主人公は、壊れた荷車を修理し、資源そのものを増やす道を選びました。


これは医師としてだけでなく、MBA的な問題解決でもあります。


与えられた選択肢だけで選ぶのではなく、前提を変える。


その考え方が、主人公の強みになっていきます。


次回、ローマ軍はソーヌ川へ迫ります。


ガリア戦争最初の本格的な戦闘が始まろうとしています。


【ローマ豆知識㉓ 移住する民族と非戦闘員】


古代の戦争では、軍隊だけが移動するとは限りません。


ヘルウェティイ族のような大規模移住では、戦士だけでなく、女性、子供、老人、職人、家畜、荷車も一緒に動きます。


そのため、移動速度は遅くなり、食料消費は膨大になります。


また、進軍が長引けば、病人や負傷者、老人が集団から遅れることもありました。


本作では、ヘルウェティイ族を単なる「敵軍」ではなく、移動する社会として描いています。


戦争の背後には、いつも戦えない人々がいるからです。

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