第22話 一日何を食べる
戦争を動かすものは、剣だけではありません。
軍団も、人間の集まりです。
食べなければ動けません。
飢えれば規律は崩れ、救援軍は略奪者にもなり得ます。
今回は、アエドゥイ族からの救援要請をきっかけに、主人公がローマ軍の食料消費を計算します。
敵を追う者もまた、食べ続けなければならない。
兵站の現実が見えてくる回です。
どうぞお楽しみください。
アエドゥイ族の使者は、泥にまみれていた。
馬を乗り潰す勢いで走ってきたのだろう。
総督の天幕へ入ると、礼も簡単に済ませ、すぐに訴え始めた。
「ヘルウェティイ族が、我々の土地へ入りました」
使者の名はリスクス。
アエドゥイ族の行政実務に関わる男である。
ローマ人のような服装を身につけ、ラテン語も話せた。
「村から穀物と家畜を奪っています。畑は踏み荒らされ、抵抗した者は殺されました」
「セクアニ領内では略奪しないと誓ったはずだ」
ラビエヌスが言った。
「誓いはセクアニ族へのものです」
リスクスの声には怒りがあった。
「我々への誓いではありません」
予想していた通りだった。
誓約は、誓った相手の数だけしか効かない。
カエサルは落ち着いて尋ねる。
「被害を受けた村は」
「現在確認できているだけで十二」
「死者は」
「分かりません」
「奪われた穀物は」
「分かりません」
「敵の進路は」
「西です」
情報が粗い。
だが使者の目的は、正確な被害報告ではない。
ローマ軍を動かすことである。
「アエドゥイ族は、ローマの友人であり同盟者です」
リスクスは言った。
「我々が助けを求めているのに、ローマは壁の後ろへ隠れているのですか」
挑発的な言葉だった。
ラビエヌスの顔が険しくなる。
カエサルは笑わなかった。
「ローマ軍は動く」
即答だった。
リスクスの肩から力が抜ける。
「ただし」
カエサルは続けた。
「軍が動くには、穀物が必要だ」
使者の顔が固まった。
「アエドゥイ族は、ローマ軍へ穀物を供給できるか」
「我々の村は襲われています」
「すべてではない」
「収穫前です」
「備蓄があるはずだ」
「民が冬を越すための穀物です」
政治的な友情と、食料の現実は別だった。
ローマ軍が助けに来れば、数万人の兵士がアエドゥイ領へ入る。
彼らも食べる。
ヘルウェティイ族に奪われなかった穀物を、今度は同盟軍へ供給しなければならない。
被害者を助ける軍が、被害者の食料を消費する。
古代の戦争における避けがたい矛盾である。
◇
「必要量を出せ」
カエサルが俺へ言った。
突然、全員の視線が集まった。
「いつまでの分でしょうか」
「まず二十日」
「参加する軍団数は」
「六個軍団。騎兵、工兵、随行者も含める」
正規兵だけではない。
奴隷。
商人。
御者。
職人。
医療担当者。
馬。
駄獣。
軍団とともに動く人と動物すべてが食料を必要とする。
「今日中に計算します」
「今、概算を言え」
カエサルは待たない。
俺は頭の中で計算を始めた。
一個軍団の実員は一定ではない。
完全編成なら五千人を超えるが、欠員もある。
六個軍団でおよそ二万五千から三万人。
騎兵。
補助兵。
非戦闘員。
合計三万五千人前後と仮定する。
一人一日当たりの穀物。
兵士は穀物を受け取り、自分たちで製粉、調理する。
肉や豆、油、葡萄酒も使うが、中心は穀物である。
「兵士と随行者を合わせ、三万五千人と仮定します」
俺は言った。
「一人当たり一日、標準配給の穀物を使用すると、二十日分では――」
木板へ数字を書きながら換算する。
「約十数万モディウス規模が必要です」
天幕内が静まった。
リスクスが顔をしかめる。
「その量を、我々に出せというのか」
「一度に全量ではありません」
俺は答えた。
「軍は移動します。複数の集積地から分けて供給する必要があります」
「馬の飼料は?」
ラビエヌスが尋ねる。
「別です」
「荷車を引く牛は?」
「別です」
「予備は?」
「雨、遅延、敵の妨害を考えれば、最低でも数日分を上乗せすべきです」
「もっと増えるではないか!」
リスクスが声を荒らげた。
「ヘルウェティイ族に奪われ、次はローマ軍へ差し出せと言うのか」
「無償で差し出せとは言っていません」
俺はカエサルを見た。
支払い条件は政治判断である。
「ローマは購入する」
カエサルが言った。
「価格は?」
リスクスが即座に尋ねる。
「平時価格だ」
「現在は平時ではありません」
「だからこそ、同盟者として協力せよ」
「穀物価格はすでに上がっています」
交渉が始まった。
リスクスは被害と不足を強調する。
カエサルは同盟義務を持ち出す。
双方とも正しい。
双方とも、自分に有利な数字を使おうとしている。
◇
「ルキウス」
カエサルが言った。
「アエドゥイ領の穀物価格を調べているな」
やはり情報を把握されていた。
「父の商人網へ依頼しています」
「いつ届く」
「早ければ二日後です」
「遅い」
「市場価格を正確に――」
「正確でなくてよい。今日の価格を知る者は、この町にもいる」
確かに、軍へ出入りする商人へ聞けば、おおよその価格は分かる。
「三人以上から聞け」
カエサルが言った。
「最も高い価格と、最も低い価格を除く。残りの中央を使え」
俺は驚いた。
現代統計の厳密な中央値ではない。
だが外れ値や意図的な誇張を除く発想である。
誰かがこの男へ教えたのではないだろう。
金を出す側に何十年もいれば、そこへ辿り着く。
「総督閣下は、以前からその方法を?」
「商人の最初の価格を信じるほど、私は裕福ではない」
実務から生まれた統計的思考だった。
「リスクス」
カエサルは使者へ向き直った。
「市場価格を確認し、ローマが購入する。輸送にはアエドゥイ族が協力する」
「量が多すぎます」
「ならば軍団数を減らすか」
リスクスが黙る。
軍が少なければ、ヘルウェティイ族を止められない可能性がある。
「助けを求めることにも費用がかかる」
カエサルは冷静に言った。
「ローマだけが負うものではない」
厳しいが、組織間の協力としては合理的だった。
一方がすべてを負担すれば、持続しない。
「承知しました」
リスクスは苦々しく答えた。
◇
会談が終わった後、俺は軍団の食料表を作った。
人間の穀物。
馬の飼料。
牛。
塩。
油。
乾燥肉。
葡萄酒。
薪。
医療用の布。
軍団が一日動くたび、倉庫が一つ消えていくような量を消費する。
「ヘルウェティイ族だけではない」
俺は木板を見ながらつぶやいた。
「追うローマ軍も、食べ続ける」
敵の食料が尽きる場所を予測する。
だが、こちらの食料が先に尽きれば追撃できない。
戦争は、剣を持つ者だけでは成り立たない。
畑を耕す者。
穀物を集める者。
袋へ詰める者。
荷車へ載せる者。
牛を引く者。
街道を整える者。
彼らが軍を動かす。
「一日何を食べる」
俺は表の上に題名を書いた。
そして一番下へ、もう一行だけ足した。
補給が途絶えた場合、軍団が動ける日数。
八日。
第22話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「兵站」の回でした。
アエドゥイ族はローマに助けを求めます。
しかし、助けに来るローマ軍もまた大量の食料を必要とします。
数万人の兵士。
騎兵。
工兵。
荷車を引く牛。
馬。
奴隷や商人、職人などの随行者。
軍団が一日動くだけで、膨大な穀物と飼料が消えていきます。
助けを求める側も、助ける側も、食料の問題から逃げられません。
主人公にとって、戦争はだんだん「戦場で敵を倒すこと」ではなく、「人と物をどう動かすか」という巨大な経営問題に見え始めています。
次回、第23話。
アエドゥイ族の有力者ディウィキアクスが登場し、ガリア内部の複雑な政治がさらに見えてきます。
【ローマ豆知識⑳ 兵站とは何か】
兵站とは、軍隊を動かすために必要な物資や輸送、補給の仕組みのことです。
兵士がどれだけ勇敢でも、食料がなければ戦えません。
武器が壊れ、馬が倒れ、靴が破れ、水が不足すれば、軍は前へ進めなくなります。
古代の軍隊では、現地調達や同盟部族からの供給が非常に重要でした。
本作で主人公が作る兵站表は、戦争を「戦闘」ではなく「継続可能な組織運営」として見るための道具です。




