第21話 彼らは別の道を選んだ
第21話 彼らは別の道を選んだ
ローヌ川での通行を拒まれたヘルウェティイ族。
しかし、彼らはそこで止まりません。
ローマ属州を通れないなら、別の道を探す。
セクアニ族の領域を通る険しい道。
そこには、部族間の交渉、婚姻関係、人質、そしてガリア内部の政治が絡んでいました。
今回は、戦場ではなく「道」と「交渉」が歴史を動かす回です。
どうぞお楽しみください。
ヘルウェティイ族の野営地から、煙が消えた。
数日前、俺は高台から数え始めて三十でやめた。
今は、ゼロである。
ローヌ川を渡ろうとした夜から三日後。
川の対岸に並んでいた無数の天幕は畳まれ、荷車も家畜も見えなくなっていた。
残されているのは、踏み荒らされた草地と、燃え尽きた焚き火だけである。
近づけば、まだ灰は温かいのかもしれない。
「本当に行ったのか」
クィントゥスが目を細めた。
「行き先は一つです」
俺は地図を広げた。
ローヌ川とジュラ山脈の間。
セクアニ族の領域を通る、狭く険しい道。
片側は山。
もう片側は川。
荷車が一列にならなければ通れない場所もある。
ローマ属州を通る道より、はるかに危険で遅い。
「セクアニ族が通行を認めたということか」
「認めなければ、この人数は通れません」
「なぜ認める」
クィントゥスの疑問は当然だった。
数十万人の集団を自国領へ入れる。
食料を奪われる可能性がある。
畑を荒らされる。
一度入れれば、出ていく保証もない。
セクアニ族にとって大きな危険である。
「取引があったはずです」
俺は言った。
「人質。通行料。婚姻関係。あるいは、仲介者」
「仲介者?」
「両方から信用される人物です」
背後から、馬の足音が聞こえた。
父の商人の一人が、息を切らして到着する。
「ルキウス様!」
「何が分かりました」
商人は馬から降りると、膝へ手をついた。
「セクアニ族は、最初は拒否したそうです」
「やはり」
「ですが、あるアエドゥイ族の有力者が仲介しました」
「名は?」
商人は周囲を気にするように声を落とした。
「ドゥムノリクス」
クィントゥスの表情が変わった。
「アエドゥイ族の男が、なぜヘルウェティイを助ける」
俺はその名を知っていた。
ドゥムノリクス。
アエドゥイ族の有力貴族。
富裕。
民衆への人気。
強い政治的野心。
ヘルウェティイ族の指導者オルゲトリクスの娘を妻としている。
カエサルの記録では、ローマへの反感を持ち、ガリア内部で自らの影響力を広げようとした人物として描かれる。
だが、カエサル側の記述だけで判断してよいのか。
二千年後に残るのは、この男の言い分ではなく、この男を敵と呼んだ側の文章である。
「ドゥムノリクスは、ヘルウェティイ側と婚姻関係があります」
俺は答えた。
「それだけか」
「アエドゥイ族の中で、ローマの影響が強くなることを嫌っている可能性もあります」
「ローマの同盟部族だろう」
「同盟部族の全員が、ローマを好んでいるとは限りません」
ローマと友好的な貴族。
反ローマ的な貴族。
交易で利益を得る者。
税と徴発を嫌う農民。
一つの部族の中にも、複数の立場がある。
ヘルウェティイ族の全員が移住を望んでいなかったのと同じだ。
「セクアニ族は、人質を交換する条件で通行を認めたそうです」
商人が続けた。
「ヘルウェティイ側は、領内で略奪をしないと誓ったと」
「誓いが守られると思うか」
クィントゥスが尋ねた。
「セクアニ領内では、守ろうとするでしょう」
俺は答えた。
「なぜだ」
「狭い道の途中でセクアニ族を敵に回せば、前後から挟まれます」
山道。
長い荷車の列。
前進も後退も難しい。
そこで攻撃されれば、ヘルウェティイ族は壊滅しかねない。
「では、通り抜けた後は?」
「誓約の効力が弱くなります」
「アエドゥイ領か」
「はい」
セクアニ領を抜けた先には、ソーヌ川流域の豊かな土地が広がる。
アエドゥイ族の領域。
穀物。
家畜。
村。
移住民が最も必要としているものがある。
◇
「カエサル様へ報告します」
俺が言うと、クィントゥスは首を振った。
「すでに知っているだろう」
「それでも正式な報告が必要です」
「なぜだ」
「誰から、いつ、どの程度確かな情報として得たかを残すためです」
「同じ情報を何度も書くのか」
「同じに見えても違います」
軍の偵察隊から届く情報。
商人が市場で聞いた噂。
同盟部族が政治的意図を持って伝える情報。
捕虜の証言。
信頼性は同じではない。
「情報にも診断精度があります」
「また医術か」
「商売でも軍事でも同じです」
情報源が一つしかなければ、誤りや誘導に弱い。
複数の独立した情報源が一致すれば、確度は上がる。
問題は、独立しているように見えて、実際には同じ噂を聞いている場合である。
三人の商人が同じことを言っても、三人とも同じ酒場で聞いていれば、それは一つの情報にすぎない。
「商人の話だけでは足りません」
俺は商人へ尋ねた。
「実際に通過を見た者は」
「セクアニ領の宿屋から伝言が来ています」
「荷車の数は」
「多すぎて分からないと」
またそれか。
この土地の人間は、十を超えると数えるのをやめる。
「通過に何日かかっている」
「先頭が入ってから、今日で五日目です。それでも後続が続いているそうです」
俺は地図へ線を引いた。
狭い道を一列で進む。
荷車一台の長さ。
前後の間隔。
徒歩の人々。
家畜。
途中で起きる故障。
休憩。
一日に通過できる人数には限界がある。
「全体が抜けるまで、少なくとも数日以上かかります」
「今なら後ろを攻撃できるな」
クィントゥスが言った。
「山道にいる間なら、逃げ場もない」
軍事的には正しい。
最後尾を攻撃すれば、長い列は混乱する。
戦士は家族を守るため戻らざるを得ない。
「カエサル様は、まだ攻撃しないと思います」
「なぜだ」
「セクアニ族の領内だからです」
ローマ軍が勝手に他部族の土地へ入れば、侵略と受け取られる。
セクアニ族はローマの直接支配下ではない。
ヘルウェティイ族を追うという理由だけで軍を進めれば、新たな敵を増やす。
戦争は、敵の位置だけで決まらない。
誰の土地か。
誰が救援を求めたか。
どの名目で軍を動かすか。
政治的な正当性が必要である。
「それなら、アエドゥイ族が襲われるまで待つのか」
クィントゥスの言葉に、胸がざらついた。
ローマが介入する正当な理由を得るために、同盟部族の被害を待つ。
意図的ではなくても、結果としてそうなる。
そして、そうなった時、誰も「待った」とは言わない。
「被害が出る前に、警告と食料支援を行うべきです」
「誰に」
「アエドゥイ族に」
「ヘルウェティイではなく?」
「両方です」
クィントゥスが呆れた顔をした。
「敵へ食料を売るつもりか」
「売らなければ奪います」
「食料を与えれば、さらに進む」
「飢えさせれば、さらに奪う」
どちらにも危険がある。
正解は簡単ではない。
俺は商人へ言った。
「父上へ、アエドゥイ領内の穀物価格と在庫を調べるよう伝えてください」
「戦争になるのですか」
「まだ分かりません」
「では、なぜ」
「戦争になってからでは、食料は集まりません」
商人が去った後、クィントゥスが言った。
「お前は戦争を止めたいのか、戦争の準備をしたいのか、どちらだ」
「両方です」
「矛盾している」
「外科医も同じです」
手術を避ける方法を考える。
同時に、手術が必要になった場合へ備える。
器具をそろえる。
助手を呼ぶ。
最悪の事態を想定する。
「戦争を望まなくても、準備をしなければなりません」
俺は地図を巻いた。
「準備がない方が、人は多く死にます」
その日の午後。
対岸の草地からまだ煙が上がらないうちに、東の街道を馬が来た。
泥だらけの一騎だった。
アエドゥイ族から、最初の使者が到着した。
第21話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ヘルウェティイ族がローマ属州ではなく、セクアニ族の領域を通る道を選ぶ回でした。
戦争は、剣を交える前から始まっています。
どの道を通るのか。
誰が通行を認めるのか。
その背後で誰が仲介したのか。
今回登場したドゥムノリクスは、単純な悪役ではありません。
ローマの影響が強まることを恐れ、ガリア内部で別の力を作ろうとしている人物です。
ローマから見れば危険人物。
しかしガリア側から見れば、ローマに呑み込まれまいとする政治家でもあります。
主人公は、情報を集めながら少しずつ理解していきます。
敵にも事情がある。
そして、正しさは一つではない。
次回、第22話。
アエドゥイ族から救援要請が届き、主人公はローマ軍が一日に何を食べるのかを計算することになります。
【ローマ豆知識⑲ ガリアは一枚岩ではない】
ガリアと聞くと、一つの国や民族のように思えるかもしれません。
しかしカエサルの時代のガリアは、多数の部族が並び立つ地域でした。
ヘルウェティイ族、アエドゥイ族、セクアニ族、アルウェルニ族など、それぞれに利害や同盟関係がありました。
ローマに近い部族もいれば、ローマを警戒する部族もいます。
同じ部族の中でも、親ローマ派と反ローマ派に分かれることがありました。
本作では、ガリア人を単純な「ローマの敵」としてではなく、それぞれの事情を持つ政治的な存在として描いていきます。




