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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第2章 民族を診断する

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第20話 川を越えられなかった夜

夜のローヌ川。


ヘルウェティイ族は、小舟や筏を使って渡河を試みます。


ローマ軍は壁の上からそれを迎え撃ちます。


主人公の予測は当たりました。


しかし、予測が当たるということは、その場所で人が死ぬということでもありました。


敵兵。


味方兵。


そして戦いに巻き込まれた子供。


主人公はこの夜、医師として、そしてカエサルの幕僚として、最初の大きな矛盾に直面します。


どうぞお楽しみください。

夜の川は黒かった。

月明かりを受けた水面に、いくつもの影が揺れている。

小舟。

筏。

革袋へ空気を入れ、それにつかまって泳ぐ者。

ヘルウェティイ族は、複数の場所から同時に渡河を試みていた。

矢が飛ぶ。

ローマ兵の投槍が、川へ突き刺さる。

人の叫び。

舟が傾き、何人もの影が水へ落ちる。

「中央区間へ来ます!」

伝令が叫んだ。

予測した通りだった。

だが、喜びはなかった。

当たった予測の先で、人が死んでいる。

壁へ到達した数十人の戦士が、杭へ縄を掛けた。

引き倒そうとしている。

ローマ兵が壁上から石を落とす。

一人の頭部へ直撃した。

男は声も上げずに倒れた。

別の場所では、梯子が掛けられる。

最初の戦士が壁へ登る。

盾で矢を防ぎながら、片手で進んでくる。

「押し返せ!」

百人隊長の命令。

槍が伸びる。

戦士の身体が壁から落ち、堀の中へ消えた。

治療所へ最初の負傷者が運び込まれた。

ローマ兵。

左前腕へ矢が刺さっている。

「赤ではありません。黄色です」

俺は木片を結び付けた。

「痛みが強いぞ!」

兵士が叫ぶ。

「血は止まっています。先に別の者を診ます」

次は腹部へ槍を受けた兵士。

腸管が傷ついている可能性が高い。

顔面蒼白。

呼吸が速い。

脈が弱い。

ここでは助けられないかもしれない。

手が止まった。

黒。

頭の中では分かっている。

だが、木片を付けることができない。

「先生」

記録担当の若い兵士が俺を見る。

判断しなければならない。

後ろから、胸部を深く切られた別の患者が運ばれてくる。

止血すれば助かる可能性がある。

「黒です」

声がかすれた。

腹部を負傷した兵士が、俺の腕を掴んだ。

「見捨てるのか」

「違います」

「なら治せ」

「今、別の――」

「外科医だろう!」

胸が締め付けられた。

「戻ります」

俺は彼の手を握った。

「必ず戻ります」

嘘かもしれなかった。

胸部負傷者へ移る。

傷を確認する。

肺まで達していない。

圧迫止血。

洗浄。

縫合。

その間にも負傷者が増える。

赤。

黄。

黒。

木片の色が、人間の運命を決めていく。

自分が神になったような感覚などなかった。

むしろ逆である。

何もできない人間が、限界を認めるための分類だった。

「敵兵です!」

入口で兵士が叫んだ。

二人のローマ兵が、濡れた男を引きずってきた。

ヘルウェティイ族の若い戦士。

肩へ矢が刺さっている。

「外へ置け」

「中へ」

俺は言った。

「敵だぞ」

「患者です」

「情報を聞き出してからでよい」

「出血が先です」

兵士たちは不満そうだったが、俺の指示に従った。

矢は肩甲骨の外側を貫いている。

主要血管は外れている可能性が高い。

「押さえてください」

若い戦士はガリア語で何か叫んだ。

俺には断片しか理解できない。

「子供……舟……」

「何と言っている」

通訳できる兵士が近づいた。

「子供が乗っていた舟が流されたと言っています」

「子供?」

戦闘員だけではないのか。

若者は必死に川の方を指した。

「家族を先に渡そうとしたのかもしれません」

通訳兵が言う。

軍事的には考えにくい。

危険な最初の渡河へ、子供を乗せる理由がない。

あるいは混乱で、非戦闘員の舟まで流されたのか。

外から叫び声が聞こえた。

「下流に舟! 小さな舟だ!」

俺は治療所を飛び出した。

「どこへ行く!」

ディオニュシオスが叫ぶ。

川岸へ走る。

病み上がりの身体は、まだ完全ではない。

息が切れる。

脚が重い。

下流の浅瀬に、小舟が引っかかっていた。

中には三人。

女性。

少年。

幼い少女。

少女はぐったりしている。

エポナではない。

街道で会った家族ではない。

それでも一瞬、あの名前と重なった。

ローマ兵が弓を向けた。

「待て!」

俺は兵士の前へ出た。

「戦士ではない!」

「敵の舟だ」

「子供です」

「罠かもしれん」

「なら私が確認します」

川へ入った。

冷たい。

思っていたより流れが強い。膝の裏を押される。

腰まで水に浸かり、小舟へ近づく。

女性が短刀を握っていた。

恐怖で目を見開いている。

「治療する」

ガリア語で言った。

通じたかは分からない。

「子供を見る」

少女は呼吸をしていなかった。

舟が転覆しかけた際、水を吸ったのだろう。

俺は少女を抱え、岸へ戻った。

胸の動きがない。

口の中を確認する。

水と吐物を除く。

呼吸を吹き込む。

胸骨を圧迫する。

周囲の兵士たちが、何をしているのか分からず見ていた。

ローマ人にとって、それは治療に見えない。

死者へ息を吹き込み、胸を押す行為である。

「戻れ」

圧迫。

「戻ってこい」

呼吸。

反応がない。

もう一度。

前の人生でも、ここで諦めた回数の方が多い。

少女の身体が痙攣した。

口から水を吐き出す。

咳。

弱いが、自発呼吸が戻った。

「布を!」

俺は叫んだ。

兵士が外套を差し出す。

自分の外套である。夜の川辺で、それを渡すのは軽い判断ではない。

少女を包み、身体を温める。

母親が泣きながら少女を抱いた。

俺の言葉は通じない。

それでも、何度も頭を下げていた。

壁の上から勝利の声が上がった。

ヘルウェティイ族の渡河部隊が退き始めている。

舟は流され、筏は壊れ、壁へ到達した者も押し戻された。

ローマの防衛線は破られなかった。

カエサルが川岸へ来た。

濡れた俺と、母子を見る。

「敵を助けたのか」

「子供です」

「その子が属州へ入ることを、我々は拒否した」

「だから殺すのですか」

周囲の空気が張り詰めた。

カエサルへ向ける言葉ではない。

それでも彼は怒らなかった。

「殺す必要はない」

カエサルは母子を見た。

「だが、通すこともできない」

「この家族を対岸へ戻すのですか」

「夜が明けてから返す」

「また渡河を試みるかもしれません」

「次は舟へ乗せないよう、長へ伝えさせる」

冷徹であり、合理的である。

処刑すれば敵意を強める。

保護すれば通行を認めた前例になる。

治療して返す。

その行為自体を警告と宣伝へ使う。

俺は少女を救った。

カエサルは、その救命さえ政治的資源として扱う。

同じ一人の子供が、俺にとっては患者で、この男にとっては使える材料である。

どちらも、あの子を生かす方向へ働いた。

だから、責める言葉が見つからなかった。

「壁は守られました」

ラビエヌスが報告した。

「損害は?」

「確認中です。突破された区間はありません」

カエサルは対岸を見た。

ヘルウェティイ族の火が、川から離れていく。

「彼らは別の道を選ぶ」

俺は言った。

「セクアニ領です」

「お前の推計通りだな」

「推計だけではありません。今夜、壁を越えられないと理解しました」

「では次は?」

カエサルが尋ねる。

「セクアニ族との交渉。アエドゥイ領への移動。食料不足」

「どこで止まる」

「まだ分かりません」

「調べろ」

「再び商人を使います」

「それだけでは遅い」

カエサルはラビエヌスを見た。

「軍団を北へ動かす」

「属州を離れるのですか」

「同盟部族が襲われる前に備える」

「ルキウス」

カエサルが言った。

「お前も来い」

「軍団とともに?」

「病人を数えるだけでは足りん」

カエサルは暗い川の向こうを指した。

「次は、動く民族の食料と速度を数えろ」

夜明け。

俺の足元では、救われた少女が母親の腕の中で眠っていた。

壁はローマ属州を守った。

勝った。

だが、上流の斥候から報告が来た。

「対岸の轍が、北へ向かっています」

俺は地図を広げなかった。

広げなくても分かった。

彼らは、壁を越えるのをやめたのではない。

越えなくてよい道を、選び直しただけだ。


第20話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回はローヌ川での渡河阻止戦でした。


ローマ軍は壁を守り、ヘルウェティイ族は川を越えられませんでした。


軍事的にはローマ側の成功です。


しかし、その成功は問題の解決ではありません。


ヘルウェティイ族は消えたわけではなく、別の道を探すことになります。


そして主人公は、戦いの中で敵の子供を救いました。


医師としては当然の行動です。


しかし、カエサルの幕僚として見れば、それは政治的な意味を持ってしまいます。


治療して返す。


殺さない。


しかし通さない。


カエサルは、救命さえも外交と宣伝の一部として扱います。


主人公はこの時、初めて理解します。


防御に成功することと、問題を解決することは同じではない。


次回から、ヘルウェティイ族は別の道を選び、ローマ軍の追撃が始まります。


【ローマ豆知識⑱ ローヌ川とガリア戦争】


ローヌ川は、現在のスイスからフランス南部を通って地中海へ流れる大河です。


古代ローマにとって、南ガリアを守る重要な地理的境界でもありました。


ヘルウェティイ族がローマ属州へ入ろうとした時、このローヌ川周辺が最初の大きな焦点となります。


カエサルは、彼らの通行を拒否し、防御線を築いて渡河を防ぎました。


しかし、ここで通行を止めたことは戦争を終わらせたわけではありません。


ヘルウェティイ族は別の道を選び、ガリア戦争は次の段階へ進んでいきます。

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