第19話 壁を作る者、壊す者
壁は完成に近づいていました。
しかし、壁を作る者がいれば、当然それを壊そうとする者もいます。
ヘルウェティイ族は、ただ待っているだけではありません。
小舟、筏、革袋、縄。
彼らもまた、ローマ軍を観察し、弱点を探しています。
主人公は、敵がどこを狙うのかを考えながら、治療所では負傷者の受け入れ準備を進めます。
分析と医療。
予測と覚悟。
戦いの前夜を描く第19話です。
どうぞお楽しみください。
最初の矢は、川を越えなかった。
対岸から放たれ、水面へ落ちて流れていった。
攻撃というより、距離を測っている。
ローマ兵が盾を構える。
工事の音が止まった。
「作業を続けろ!」
百人隊長たちが叫ぶ。
斧の音。
土を掘る音。
杭を打ち込む音が再び響き始めた。
ヘルウェティイ族は、こちらを見ている。
壁の高さ。
兵士の数。
見張りの交代。
弱い区間。
こちらが彼らを数えたように、彼らもこちらを数えている。
「向こうにも、数える者がいますね」
俺が言うと、ラビエヌスは対岸を見たまま答えた。
「当然だ」
「敵の斥候をどう防ぎます」
「防げん」
「では」
「見せてよいものだけを見せる」
その日から、ローマ軍は昼間、完成した区間で盛大に杭を打った。
音を出す。
人を動かす。
まだ低い区間では、夜間に静かに作業した。
情報を隠すのではなく、目立つ場所を選んで見せる。
俺が三日かけて作った工程表と同じくらい、この老将の即席の判断は有効だった。
◇
三日目の午後。
対岸の様子が変わった。
小舟が集められている。
一か所ではない。
三か所。
「複数地点からの渡河ですか」
俺が尋ねると、ラビエヌスが地図を見た。
「上流、中央、下流」
「兵力を分散させられます」
「そのつもりだろう」
俺は舟の数を数えた。
上流、二十七。
中央、四十以上。
下流、十五。
「中央が最も多い」
「他の二つは陽動かもしれん」
「その可能性があります」
「中央も陽動かもしれない」
「はい」
「では、何を信じる」
ラビエヌスの問いに、俺は対岸を見た。
舟の数。
兵士の動き。
焚き火。
荷車。
それだけでは足りない。
人間の意図は、数字だけでは読めない。
「彼らが最も欲しいものを考えます」
「何だ」
「家族を渡す道です」
戦士だけが渡るなら、夜間に少人数で泳ぐこともできる。
しかし彼らの目的は、民族全体の移動である。
荷車。
子供。
老人。
家畜。
それらを通せる場所でなければ、突破する意味がない。
「中央区間は川を越えた後、街道へ出やすい」
俺は言った。
「舟で先遣隊を渡し、壁の一部を破壊する。その後、橋か仮設通路を作るつもりでしょう」
ラビエヌスは地図を見た。
「戦士の突破ではなく、移住路の確保か」
「はい」
「なら中央へ兵を厚くする」
「ただし、他の二か所にも最低限の予備を」
「分かっている」
決断は速かった。
ラビエヌスは百人隊長を呼び、部隊配置を変更した。
◇
俺は治療所の準備へ向かった。
攻撃が起きれば、負傷者が出る。
清潔な布。
煮沸した器具。
水。
担架。
止血帯。
負傷者を置く区画。
手術が必要な者。
経過を見られる者。
助けられない者。
「また板か」
ディオニュシオスが言った。
彼は俺が作った負傷者配置図を見ていた。
「負傷者が来てから診ればよい」
「同時に数十人来たら?」
「来た順に診る」
「軽傷者を診ている間に、出血している者が死にます」
「では、誰から診る」
「すぐに処置すれば助かる者です」
「重傷者ではないのか」
「重すぎて助けられない者へ時間を使えば、他の患者も死にます」
口にするだけで胸が重くなった。
外科医として、救命可能性を判断する場面は経験している。
だが現代には、複数の医師がいた。
輸血があった。
検査があった。
手術室があった。
夜中に電話一本で、上級医が来た。
ここには限られた人と道具しかない。
「神のように、生死を選ぶつもりか」
ディオニュシオスが言った。
「選びたくありません」
「だが選ぶ」
「選ばなければ、偶然が選びます」
ディオニュシオスは黙った。
「分類は三つです」
俺は色を付けた木片を示した。
赤。
すぐに処置が必要。
黄。
待つことができる。
黒。
現状では救命が極めて困難。
「黒は見捨てる印か」
「痛みを減らし、一人にはしません」
「治療は?」
「他に救える者がいなくなれば行います」
ディオニュシオスは黒い木片を手に取った。
老人の指の中で、その木片は小さく見えた。
「医術とは、救うためのものではなかったか」
「外科医は、救えないことも知っています」
「それでも刃を持つ?」
「救える者がいるからです」
ディオニュシオスは黒い木片を、そっと机へ戻した。
置き方が、丁寧すぎた。
◇
日が沈んだ。
対岸の焚き火が増える。
通常の野営なら、一定の場所に並ぶ。
今夜は川沿いへ集中していた。
「来ます」
俺は言った。
ディオニュシオスが外を見る。
「なぜ分かる」
「火が移動しています」
焚き火は温まるためだけではない。
人が集まっている場所を示す。
川沿いへ戦士が集結している。
さらに、小舟の音を隠すためか、対岸で太鼓と叫び声が始まった。
低い連打。
それに合わせた、地を這うような唱和。
ローマ兵が壁の上へ並ぶ。
矢をつがえる。
投石器の準備が進む。
俺は治療所の入口に立った。
暗闇の川から、最初の叫び声が上がった。
思っていたよりも、ずっと高い声だった。
子供の声だ。
第19話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、戦闘そのものではなく、戦いが始まる前の準備を描きました。
ローマ軍はヘルウェティイ族を観察しています。
しかし同時に、ヘルウェティイ族もローマ軍を観察しています。
壁の高さ。
兵の配置。
未完成の区間。
川幅。
舟を集める場所。
戦争は、剣がぶつかる前から始まっています。
また、今回主人公は負傷者の分類について考え始めました。
すぐに処置すれば助かる者。
少し待てる者。
今の環境では救命が難しい者。
これは後に本格的なトリアージへつながっていく考え方です。
誰も選びたくない。
しかし選ばなければ、偶然が命を選んでしまう。
主人公にとって、医師として非常につらい領域へ踏み込む回でもありました。
次回、第20話。
夜のローヌ川で、ヘルウェティイ族が渡河を試みます。
【ローマ豆知識⑰ トリアージとは】
トリアージとは、多数の傷病者が発生した時に、治療の優先順位を決める考え方です。
現代の災害医療や戦場医療では重要な概念ですが、これは非常につらい判断を伴います。
「最も重い患者」ではなく、「今すぐ処置すれば助かる可能性が高い患者」を優先する場合があるからです。
本作の主人公は現代医療の知識を持っていますが、古代ローマには十分な医師も設備もありません。
そのため、現代以上に厳しい選択を迫られることになります。




