第18話 ローヌの壁
ヘルウェティイ族の通行を拒否したカエサル。
しかし、拒否するだけでは国境は守れません。
必要なのは、実際に彼らを通さないための壁です。
ローマ軍は軍隊でありながら、同時に巨大な土木組織でもありました。
測量し、木を伐り、堀を掘り、土塁を築く。
主人公はそこで、古代ローマ軍のもう一つの強さを目撃します。
医療ではなく、今回は「組織を治療する」回です。
どうぞお楽しみください。
防御線を初めて見た時、俺は自分の思い上がりを知った。
ローマ人は、医療や衛生については現代より遅れている。
だが組織的な土木工事に関しては、決して未熟ではなかった。
兵士たちは軍人であると同時に工兵だった。
測量。
伐採。
杭の加工。
土砂の運搬。
堀の掘削。
土塁の造成。
見張り塔の建設。
役割ごとに部隊が分けられ、百人隊長の命令で一斉に動く。
土を掘る音、木を割る音、杭を打つ音が、それぞれ違う間隔で重なっている。近くで聞くと騒音でしかないが、丘の上から聞くと、一つの規則正しい鼓動のように聞こえた。
レマン湖からジュラ山脈まで。
二十ローマ里近くに及ぶ防御線。
高さは十六ローマ尺。
現代の感覚なら五メートル弱である。
その前には深い堀が掘られる。
川、湿地、急斜面などの天然地形も利用しながら、通過可能な場所を塞いでいく。
「これを三日で?」
俺が尋ねると、工兵隊指揮官のマルクス・バルブスが鼻で笑った。
「三日もある」
「も?」
「軍団が何人いると思っている」
数千人の労働力。
明確な指揮命令系統。
標準化された道具。
豊富な建設経験。
確かに、現代の建設会社とは条件が違う。
機械はない。
しかし人員を即座に動かせる。
兵士は命令へ従い、夜間作業も行う。
意思決定に会議も稟議も必要ない。
カエサルが命令すれば動く。
前の人生で、俺は病棟の配置替え一つに三か月かけたことがある。
「それで、数字の男は何をしに来た」
バルブスは俺を歓迎していなかった。
当然である。
彼は長年、軍団の土木工事を指揮してきた。
そこへ軍歴のない若者が送り込まれた。
「工事の進行状況を確認します」
「見れば分かる」
目の前では、兵士が堀を掘っている。
確かに進んでいるようには見える。
「予定より早いのですか、遅いのですか」
「終われば分かる」
「終わらなければ、ヘルウェティイ族が来ます」
バルブスの顔が険しくなった。
「喧嘩を売りに来たのか」
「工事を終わらせに来ました」
「お前が土を掘るのか」
「必要なら」
「病み上がりの腕で?」
痛いところを突かれた。
俺は防御線の地図を広げた。
「区間ごとの完成率を教えてください」
「完成率?」
「どの区間が、どこまで進んでいるかです」
「百人隊長が把握している」
「全体としては?」
「私が把握している」
「頭の中で?」
バルブスが俺を睨んだ。
父の帳簿と同じ問題だった。
優秀な責任者の頭の中に、すべての情報がある。
その人がいる間は動く。
だが、情報が共有されなければ全体最適はできない。そして、その人が矢を受けた瞬間、工事は止まる。
「毎朝と夕方、各区間の進捗を報告させます」
「報告のために兵士の手を止めるのか」
「各区間一人だけです」
「何を報告する」
俺は木板へ項目を書いた。
掘削済みの長さ。
必要な深さへ達した長さ。
土塁完成部分。
杭の設置数。
使用可能な道具。
負傷者。
作業不能者。
必要な木材。
「負傷者まで工事報告へ入れるのか」
「人が減れば進みません」
「軍医へ報告させればよい」
「軍医は傷を診ます。私は工程への影響を見ます」
バルブスは不満そうだった。
だがカエサルの命令である。
拒否はできない。
◇
その日の夕方、最初の報告が集まった。
地図上で区間を分け、完成部分へ黒い線を引く。
未完成は白。
遅れている区間は赤い顔料で印を付ける。
全体としては順調に見えた。
しかし、三か所で大きな遅れがある。
一つは湿地。
一つは岩盤。
もう一つは、理由が不明だった。
「第七区間だけ、掘削速度が他の半分です」
俺が言うと、バルブスは答えた。
「あそこは兵が怠けている」
「同じ軍団の兵士です」
「百人隊長が甘いのだ」
「負傷者が多い」
報告を見ると、第七区間では手足の外傷が他区間の三倍あった。
斧による切創。
腰痛。
手掌の水疱。
落木による打撲。
「作業を急がせすぎているのでは」
「遅れているから急がせる」
「急がせた結果、負傷者が増え、さらに遅れている可能性があります」
「兵士が弱いだけだ」
外科医として、その言葉は看過できなかった。
「現場を見ます」
◇
第七区間では、怒号が絶えず響いていた。
百人隊長が兵士を殴り、休憩を取らせず作業を続けさせている。
斧の刃は欠けていた。
柄が緩んだ道具もある。
疲労した兵士は足元がふらつき、木材を落とす。
一人が丸太を持ち上げた瞬間、腰を押さえて崩れた。
「立て!」
百人隊長が蹴ろうとする。
俺は間へ入った。
「やめてください」
「邪魔をするな」
「その兵士は作業を続けられません」
「怠けているだけだ」
俺は倒れた兵士の脚を上げ、感覚と筋力を確認した。
神経症状はない。
急性腰痛だろう。
無理をさせれば長期離脱する。
「今日は荷運びから外します」
「お前に指揮権はない」
「衛生と負傷者管理については、ラビエヌス様の命令で調査権があります」
「工事を遅らせるつもりか」
「進めるためです」
俺は周囲の道具を見た。
刃が欠けた斧。
サイズの合わない柄。
土を運ぶ籠の数も足りない。
兵士の根性ではない。
道具と工程の問題である。
「作業を三つへ分けます」
伐採。
加工。
運搬。
今は同じ兵士が、木を切り、枝を払い、運んでいる。
作業が頻繁に切り替わり、道具の受け渡しで待ち時間が生じていた。
「伐採班は伐採だけ。加工班は枝払いと杭作り。運搬班は運ぶ」
百人隊長が笑った。
「兵士を職人にするのか」
「全員が何でもするより早い」
「根拠は」
「今日一日、試します」
また試験である。
この時代で改革を行うには、口で説得するより結果を出す方が早い。
さらに、二刻ごとに短い休憩を入れた。
水を飲ませる。
手掌へ布を巻く。
斧の刃と柄を点検する。
百人隊長は激しく反対した。
「休ませれば遅れる!」
「負傷して一日休むより、一刻の一部を休む方が短い」
「兵士を甘やかすな」
「道具を壊しているのは疲れた兵士です」
結局、バルブスの許可で一日だけ試すことになった。
◇
夕方。
第七区間の掘削と杭加工量は、前日の一・四倍になった。
新しい負傷者は二人。
前日は九人だった。
百人隊長は木板を見て、苦虫をかみ潰した顔をした。
バルブスは何度も数字を確認した。
「休ませた方が進むのか」
「休ませたからではありません」
俺は言った。
「作業を分け、道具を直し、負傷を減らしたからです」
「休憩は?」
「その一部です」
バルブスは赤く塗られた区間へ黒い線を引いた。
顔料が乾いていない上へ炭を重ねたので、線は濁った色になった。
「工兵隊へ医学を持ち込む男など、初めて見た」
「医学ではありません」
「では何だ」
考えた。
医療。
人員配置。
工程管理。
道具の標準化。
負傷率の可視化。
現代では、それぞれ別の部署が扱う。
だが本質は同じだった。
人と物の流れを整え、無駄と事故を減らす。
「組織を治療しているのです」
バルブスは俺を見た。
「組織も病気になるのか」
「人間が集まれば」
◇
その夜、カエサルが工事現場へ来た。
松明の光の中で、地図上の黒、白、赤の線を見る。
「赤は何だ」
「遅れている区間です」
「なぜ遅れた」
「湿地、岩盤、負傷者の増加です」
「対策は?」
一つずつ説明した。
カエサルは途中で遮らず聞いた。
「完成予定は」
「現在の速度なら、明後日には全区間が防御可能になります」
「完全な完成ではない?」
「壁の高さが不足する区間があります。ただし兵を重点配置すれば防げます」
カエサルは赤い線の一つを指した。
「ここへ第十軍団を置く」
最も信頼する部隊を、最も弱い場所へ置く。
「こちらの湿地には?」
俺が尋ねる。
「壁を作らない」
「通られる可能性があります」
「通れないように、川の流れを変える」
工兵隊指揮官が目を見開いた。
カエサルは地形を見ただけで、別の解決法を示した。
壁をすべて同じ高さにする必要はない。
敵が通れなければよい。
俺は工程を整えようとする。
カエサルは目的そのものから考える。
また一つ、圧倒された。
「ルキウス」
カエサルが言った。
「お前の線は便利だ」
「ありがとうございます」
「だが、線を完成させることが目的ではない」
「ヘルウェティイ族を通さないことが目的です」
「忘れるな」
カエサルは暗闇の向こうを見た。
対岸では無数の焚き火が揺れている。
「壁は、完成した時ではなく、敵が越えられなかった時に完成する」
第18話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回はローヌ川沿いの防御線建設が中心でした。
主人公はこれまで、医療や衛生の面でローマ軍に現代知識を持ち込んできました。
しかし土木工事に関しては、ローマ軍の組織力に圧倒されます。
ローマ兵は戦うだけではありません。
道を作り、橋を架け、砦を築き、堀を掘ることもできる兵士たちでした。
今回、主人公が行ったのは工事そのものではなく、工程管理です。
どの区間が遅れているのか。
なぜ負傷者が多いのか。
道具は足りているのか。
作業を分担すれば効率は上がるのか。
これは医療ではありません。
しかし、人と物の流れを整え、事故を減らし、組織全体を動きやすくするという意味では、主人公にとっては「組織の治療」でした。
次回、第19話。
完成しつつある壁に対し、ヘルウェティイ族が動き始めます。
【ローマ豆知識⑯ ローマ軍と土木技術】
ローマ軍の強さは、戦闘力だけではありません。
道路、橋、砦、包囲施設、防御線を素早く作る土木能力も大きな武器でした。
ローマ兵は剣を持つ戦士であると同時に、土を掘り、木を伐り、杭を打つ工兵でもありました。
後のアレシア攻防戦では、カエサル軍は内側と外側の二重包囲線を築きます。
本作で描かれるローヌ川の壁は、そのローマ軍土木力を読者に見せる最初の場面でもあります。




