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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第2章 民族を診断する

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第17話 通行を求める者たち

ヘルウェティイ族の使節が、カエサルの前に現れます。


彼らが求めるのは、ローマ属州を平和に通行する許可。


しかし、数十万規模の人々が武器と荷車を伴って移動する時、それを本当に「平和な通行」と呼べるのか。


ローマから見れば脅威。


ヘルウェティイ族から見れば、生き残るための移住。


どちらにも理由があり、どちらにも譲れない事情があります。


主人公は、初めて「数字で数えた相手」と直接向き合うことになります。


どうぞお楽しみください。

ヘルウェティイ族の使節は二人だった。

一人はナンメイウス。

もう一人はウェルクロエティウス。

どちらも大柄で、厚い毛織物の外套をまとっている。

首には金属製の装飾環。

腰には剣を帯びていた。

武器は入口で預けさせられているが、二人とも武装していないようには見えなかった。

姿勢。

目線。

歩き方。

戦士の身体である。

二人はカエサルの前に立っても頭を下げなかった。

敵国の臣下ではない。

対等な部族の代表として来ている。

ナンメイウスが口を開いた。

「我々は、以前申し入れた通り、ローマ属州を通る許可を求める」

通訳を介しているが、俺にもガリア語の一部は理解できた。

「我々はローマと戦う意思を持たない。街道を通り、サントネス族の土地へ向かうだけだ」

カエサルは椅子へ座ったまま答えた。

「数十万の民が武器を持って属州へ入る。それを平和な通行と呼ぶのか」

「戦士が武器を持つのは当然だ」

ウェルクロエティウスが言った。

「土地を奪うためではない。家族を守るためだ」

「属州民は、誰に守られる」

「我々は危害を加えない」

「誰が保証する」

「我々の長たちだ」

カエサルの表情は変わらない。

「すべての家族、すべての戦士、すべての同行部族を統制できるのか」

二人は即答しなかった。

沈黙そのものが答えだった。

カエサルは続ける。

「ヘルウェティイ族がローマを攻撃した過去を、私は忘れていない」

かつてヘルウェティイ族の一派はローマ軍を破り、執政官ルキウス・カッシウスを戦死させたことがある。

半世紀ほど前の出来事だ。

だが、ローマ人にとってそれは遠い昔話ではない。

祖父の代の恥である。

恥は、時間が経つほど扱いやすい燃料になる。

ヘルウェティイ族は単なる避難民ではない。

過去にローマ軍を破った危険な民族であり、同時に、復讐の名目でもあった。

「我々も忘れていない」

ナンメイウスが言った。

「ローマ軍が敗れたことを」

天幕内の兵士たちが殺気立った。

ラビエヌスの手が剣の柄へ近づく。

カエサルだけが笑った。

「率直でよい」

「過去の戦争を理由に、今の民を閉じ込めるのか」

「閉じ込めたのは私ではない」

カエサルの声が低くなる。

「自ら町と村を焼いたのだろう」

二人の顔が硬くなった。

「戻る場所を焼き、武器を持って国境へ来た。それで通せと言う」

「我々には新しい土地が必要だ」

「なぜだ」

俺は思わず顔を上げた。

カエサルが理由を尋ねた。

俺の報告を受けたからか。

あるいは最初から聞くつもりだったのか。

ウェルクロエティウスが答えた。

「我々の土地は狭い」

「昔から狭かったはずだ」

「民が増えた」

「それだけか」

使節は一瞬、互いを見た。

ナンメイウスが言った。

「ラインの向こうから来る者たちもいる」

ゲルマン人。

特にアリオウィストゥスの勢力拡大が、ガリア諸部族へ圧力を与えている。

「西へ行けば解決するのか」

「少なくとも、子供へ畑を残せる」

その言葉に、街道で会った母子を思い出した。

畑があればよかった。

あの女性は、そう言っていた。

「全員が移住を望んでいるのですか」

気づけば、俺は尋ねていた。

天幕内の視線が一斉に集まる。

カエサルは止めなかった。

ナンメイウスが俺を見る。

「お前は誰だ」

「ルキウス・アエリウス。総督の幕僚です」

正式には随員に近いが、今は説明を簡略化した。

「若いな」

「質問に年齢は関係ありません」

ラビエヌスが小さく息を吐いた。

また余計なことを言ったらしい。

「全員が自分の意思で故郷を焼いたのですか」

ナンメイウスの目が鋭くなった。

「ローマ人が我々の内部へ口を出すのか」

「人数を調べる中で、移住を望まなかった者の話も聞きました」

「誰だ」

「名は言いません」

使節の顔に怒りが浮かぶ。

名前を出せば、あの家族が処罰される可能性がある。

「一つの民が動く時、全員が同じ考えであるはずはありません」

俺は続けた。

「ローマも同じです」

カエサルの口元がわずかに動いた。

肯定か、警告かは分からない。

ナンメイウスはしばらく俺を見た後、答えた。

「決断は、すべての者が行うものではない」

「では誰が」

「決断できる者が行う」

カエサルと同じ思想だ。

能力と権力を持つ者が決める。

従う者は、その結果を生きる。

「残る者を認めれば、民は分裂する」

ナンメイウスは言った。

「一部が残り、一部が進めば、どちらも弱くなる」

「だから家を焼いた」

「そうだ」

「戻れないように」

「そうだ」

それは残酷であり、合理的だった。

退路がなければ、全員が前へ進む。

戦場で橋を焼くのと同じである。

ただし橋の向こうに残されるのは兵士だけではない。

子供も老人もいる。

カエサルが立ち上がった。

「回答する」

天幕内が静まる。

「ローマ属州内の通行は認めない」

ナンメイウスの顔から表情が消えた。

ウェルクロエティウスが拳を握る。

「理由は?」

「過去の敵対。現在の兵力。そして、お前たち自身が全員を統制できないと認めたからだ」

「認めていない」

「否定もしなかった」

カエサルは一歩も退かなかった。

「ローヌ川を渡ろうとすれば、ローマ軍は阻止する」

「我々を敵にするのか」

「属州を侵せば敵となる」

使節たちは怒りを隠さなかった。

「道は他にもある」

ナンメイウスが言った。

「知っている」

「後悔するぞ」

「その言葉を、ローマ人は何度も聞いてきた」

二人は踵を返した。

入口へ向かう途中、ナンメイウスが俺の前で足を止めた。

「数字を集める男」

なぜ知っている。

商人から話が伝わったのか。

「お前は我々を何人と数えた」

「十九万から二十三万人」

天幕内がざわついた。

推計範囲を使節へ明かしてよいか判断する前に、口が動いていた。

ナンメイウスは笑った。

「少ないな」

「では、何人です」

「ローマ人が恐れるには十分だ」

答えになっていない。

だが、彼は続けた。

「お前の板に、子供の泣き声は書かれているか」

胸を突かれた。

「書けません」

「なら、お前は我々を数えてはいない」

使節たちは天幕を出ていった。

しばらく誰も口を開かなかった。

やがてラビエヌスが言った。

「推計を敵へ教えるとは、何を考えている」

「申し訳ありません」

「数字が外れていると思わせれば、油断を誘える」

カエサルが言った。

ラビエヌスが驚いて彼を見る。

「意図的ではないだろうがな」

カエサルは俺を見た。

「子供の泣き声は数えられないか」

「はい」

「なら、気にするな」

「よいのですか」

「数えられないものまで数えたふりをする方が危険だ」

カエサルは地図を広げた。

「だが、彼らは来る」

「川を渡るでしょうか」

「試すだろう」

「別の道を選ぶ前に?」

「ローマの決意を確かめる」

カエサルは地図上の防衛線を指した。

「壁を完成させる」

回答期限は終わった。

次は、言葉ではなく土と木と兵士が国境を守る。

「ルキウス」

「はい」

「工兵隊へ行け」

「治療所ではなく?」

「お前は、人の流れと物の流れを見るのだろう」

「そのつもりです」

「なら工事の流れも見ろ」

カエサルは言った。

「壁が予定日に完成しなければ、使節への回答はただの言葉になる」

その夜、工兵隊から工程表を受け取った。

木板ではない。削った板を紐で綴じた、分厚い束だった。

長さ、二十ローマ里。

高さ、十六ローマ尺。

投入兵員、一万を超える。

そして、最後の一枚に記された日数。

残り、三日。


第17話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、ヘルウェティイ族の使節とカエサルの交渉回でした。


ヘルウェティイ族は、ただの侵略者ではありません。


土地不足、人口増加、ゲルマン勢力からの圧迫、新天地への希望。


さまざまな理由を抱えて移住しようとしています。


一方で、ローマ側から見れば、武装した巨大集団が属州へ入ることは重大な危険です。


たとえ使節が平和を約束しても、すべての家族、戦士、同行部族を完全に統制できるとは限りません。


今回、主人公は「子供の泣き声は数字にできるのか」と突きつけられました。


数字は必要です。


しかし、数字だけでは人間を理解できない。


この葛藤は、今後の主人公にとって大きなテーマになっていきます。


次回、第18話。


言葉による交渉が終わり、ローマ軍はローヌ川沿いに壁を築き始めます。


【ローマ豆知識⑮ ローマ属州とは】


ローマ属州とは、ローマが支配していた本国以外の地域です。


本作で問題になっているのは、現在の南フランス周辺にあたるガリア・ナルボネンシスです。


ここはすでにローマの支配下にあり、ローマ市民や同盟者、商人たちが暮らしていました。


そのため、ヘルウェティイ族がこの地域を通過することは、単なる移動ではありません。


ローマにとっては、自国の支配地域へ巨大な武装集団が入ってくる問題だったのです。

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