第15話 三十六万人という数字
歴史を知っている主人公には、未来の数字が見えています。
カエサルの記録に残る、ヘルウェティイ族の人数。
しかし、その数字は本当に正しいのか。
未来を知っているからこそ、主人公は迷います。
歴史の答えをそのまま写すのか。
それとも、今この場で集めた情報から結論を出すのか。
データを扱う者としての倫理が問われる第15話です。
対岸に、煙が立っていた。
一つや二つではない。
高台から数え始めて、三十で諦めた。
炊事の煙である。それが地平線まで、途切れずに続いている。
ゲナウァの町も、戦争前とは思えないほど人で溢れていた。
市場には穀物を求める人々が押し寄せ、倉庫の前では価格を巡って怒鳴り合いが起きている。
町の外ではローマ兵が防備を固め、橋の周囲を厳重に監視していた。
対岸のヘルウェティイ族の野営地は、天幕と荷車が地平まで続いていた。
「これを数えるのか」
クィントゥスが呆れた声を出した。
「そのつもりです」
「無理だ」
「全員を直接数える必要はありません」
橋の近く。
街道。
市場。
川沿いの渡船場。
複数の観測点を設け、一定時間に通過する人数と荷車を数える。
同じ集団を重複して数えないよう、方向と特徴も記録する。
さらに、野営地の面積と天幕密度から人数を推定する。
正確ではない。
だが、異なる方法で出した数が近い値に寄れば、そのあたりが実際に近い。逆に大きく食い違えば、どちらかの前提が間違っている。それが分かるだけでも意味がある。
「クィントゥスは橋をお願いします」
「俺に石を数えろと?」
「軍団へ戻って、ラビエヌスへ報告する方がよいですか」
「橋でよい」
意外に扱いやすくなってきた。
護衛の二人を街道と市場へ置く。
父の商人には、穀物販売量と宿泊者数を報告させる。
俺は町の塔へ上り、対岸の野営地を観察した。
荷車が一定間隔で並んでいる。
家族単位の小さな集まりがあり、それが村ごとの集団を作り、さらに大きな部族集団へまとまっているように見えた。
軍団とは違う。
軍では、兵士が一定数ごとに組織される。
ヘルウェティイ族の集団は、家族、血縁、村を基礎にしている。
命令系統も、食料分配も、移動速度も均一ではない。
単一の巨大な軍ではない。
多数の共同体が集まった移動社会である。
だから強い。
そして、だから脆い。
日暮れまで観察を続けた。
翌日も。
その次の日も。
夜は宿屋で集計した。
橋を通過した家族の平均構成。
荷車一台当たりの人数。
徒歩移動者の割合。
野営地一区画当たりの天幕数。
一つの天幕を使う人数。
家畜数。
一日の穀物購入量。
推計値は、計算方法によって大きく変わった。
最小で十五万人。
標準で二十万人前後。
最大では三十万人を超える。
◇
史実上、カエサルは後に、ヘルウェティイ族と同行部族を合わせて三十六万八千人、そのうち武器を取れる者九万二千人と記録する。
俺はその数字を知っていた。
だが、知っているからこそ、そのまま書くことはできなかった。
後世の研究では、三十六万八千という数字は誇張ではないかと疑われている。
狭い街道を移動できる人数。
必要な食料。
荷車の列の長さ。
集団全体の行軍速度。
現実的に考えると、多すぎる可能性がある。
「三十六万八千と報告すればよい」
心の中で、もう一人の自分がささやく。
歴史を知っている。
正解を知っている。
その数字を書けば、カエサルは驚く。
後に敵陣で発見される名簿とも一致するかもしれない。
俺の評価はさらに上がる。
だが、それは分析ではない。
未来の知識を答えとして写すだけである。
しかも、その未来の数字自体が正しいとは限らない。
俺が今それを書けば、二千年のあいだ疑われ続けてきた数字を、俺自身の手で「同時代の独立した裏づけがある」ものに変えてしまう。
「まだ起きていない歴史を、データとして使うな」
俺は自分へ言い聞かせた。
高瀬真一はデータを扱う研究者でもあった。
仮説に合わせて数字を選ぶことが、どれほど危険か知っている。
望む結果になるよう症例を除外する。
都合のよい期間だけ切り取る。
不都合な欠損値を無視する。
未来を知る俺は、誰よりも強い情報を持っている。
だからこそ、使い方を誤れば誰よりも簡単に数字を捏造できる。
◇
「まだ起きているか」
宿屋の部屋へ、クィントゥスが入ってきた。
右脚を引きずっている。
「座ってください」
「報告は?」
「その前に傷を見せてください」
「何ともない」
「歩き方が変です」
「馬に長く乗ったからだ」
「包帯を外します」
「今は数字の話をしている」
「外科医の前では、患者の都合より創部が優先です」
「横暴だぞ」
文句を言いながら、クィントゥスは椅子へ座った。
包帯を外す。
油灯を近づける。切開部の一部が赤く腫れていた。
膿はない。
だが、無理をすれば再感染する可能性がある。
「少なくとも二日は馬へ乗らないでください」
「無理だ」
「では傷が開きます」
「脅しか」
「予測です」
洗浄して新しい布を当てる。
クィントゥスは机上の木板を見た。
「十五万から三十万。ずいぶん幅があるな」
「情報が足りません」
「カエサル様は一つの数字を求めるぞ」
「分かっています」
「なら一つ選べ」
「簡単に言わないでください」
「戦場では、敵が十五万人か三十万人かで話は変わる」
その通りだった。
不確実だから決められない、では指揮官の役に立たない。
研究者は不確実性を示せばよい。
だが意思決定者は、その不確実性の中で兵を動かさなければならない。
「標準推計は、十九万から二十三万人です」
「戦士は?」
「成人男性の割合と武器保有率から、四万から六万人」
「少ないな」
「直接武器を持っていると確認できる者だけなら、その程度です。ただし、必要時に武器を取れる成人男性はさらに多い」
「最大で?」
「八万人ほど」
「なら、カエサル様には八万と言うべきだ」
「なぜです」
「指揮官は最悪の場合へ備える」
医療でも同じである。
大量出血の可能性がある手術なら、出血しなかった場合ではなく、出血した場合に備える。
「人口は二十万人前後。しかし軍事上は、最大八万人が戦闘へ参加可能」
俺は木板へ書いた。
一つの数字へ無理に統合しない。
人口推計と戦力推計を分ける。
観測された戦士。
潜在的な戦闘可能者。
非戦闘員。
「さらに食料です」
俺は別の板を出した。
二十万人が一日に必要とする穀物。
家畜用の飼料。
水。
街道幅。
荷車の列。
「仮に二十万人なら、一日に消費する穀物は膨大です。現在の携行量だけでは、長期間の移動は不可能です」
「途中で買う」
「市場には十分な量がありません」
「なら奪う」
「はい」
ラビエヌスが言っていた通りである。
彼らの意図が平和でも、物資が尽きれば略奪が起こる。
「ローマ属州を通すのは危険です」
俺は認めざるを得なかった。
エポナという名の少女の顔が浮かんだ。
それでも、認めざるを得なかった。
クィントゥスが頷いた。
「ようやく軍人らしい答えになったな」
「ですが、通行を拒否するだけでは解決しません」
「なぜだ」
「彼らは故郷を焼いています。戻れない」
「別の道へ行く」
「セクアニ族の領域を通れば、ローマの同盟部族であるアエドゥイ族の土地へ出る可能性があります」
史実では、ヘルウェティイ族は属州通過を拒否された後、セクアニ領を通り、アエドゥイ族の土地を荒らす。
その結果、カエサルは同盟部族救援を理由に軍事介入する。
歴史は、すでにその方向へ進んでいる。
俺が何も書かなくても、進む。
「属州の門を閉じれば、戦争がなくなるわけではない」
俺は地図を見た。
「戦場が別の場所へ移るだけです」
「それをカエサル様へ言うのか」
「報告します」
「嫌われるぞ」
「数字は、総督に好かれるために集めたのではありません」
口ではそう言った。
だが、本当にそうか。
カエサルに認められた時、俺は喜んだ。
歴史上の英雄に評価され、万能感を抱いた。
数字を使えば世界を変えられると考え始めた。
自分の分析が、カエサルの望む結論と異なった時。
それでも報告できるのか。
◇
翌朝。
父の最後の報告が届いた。
ヘルウェティイ族の十二の町、四百近い村が焼かれたという。
すべてが正確かは分からない。
だが、退路が断たれていることは間違いない。
俺は報告書の結論へ、次のように刻んだ。
推定人口、十九万から二十三万人。
潜在的戦闘可能者、最大八万人。
属州通過時、携行食料のみで秩序を維持することは困難。
通過を認めれば、食料不足による徴発または略奪の可能性が高い。
ただし、通行拒否は移住そのものを停止させない。
セクアニ領を経由し、アエドゥイ領へ進む可能性が高い。
軍事的対応と同時に、食料、交渉、移住先の検討が必要。
「最後の一文は余計ではないか」
クィントゥスが言った。
「どれです」
「移住先の検討だ。ローマが敵の住む場所まで考えるのか」
「追い返す場所がないなら、何度でも戻ってきます」
「だから滅ぼす」
「二十万人を?」
「軍事的には、それも選択肢だ」
俺はクィントゥスを見た。
冗談ではない。
この時代では、敵対部族を殺し、奴隷として売り、共同体を消滅させることも現実的な政策である。
「人間を病気のように切り取るのですか」
「外科医は、腐った部分を切るのだろう」
「患者を生かすためです」
「ローマを生かすためなら、同じではないか」
答えられなかった。
外科医は、患者の命を救うために手足や臓器を切除する。
だが国家のために、民族を切除してよいのか。
医学の論理を政治へ広げれば、恐ろしい結論へ至る。
そしてこの男は、悪意なくそこへ辿り着いている。
◇
その夜。
俺は報告書を閉じ、別の小さな木板を取り出した。
誰にも見せない板である。
そこへ、二つの数字を書いた。
一つ目。
十九万から二十三万。
明日、カエサルへ提出する数字。
俺が七日かけて、橋と市場と宿屋と煙の数から積み上げた、不完全な推計である。
二つ目。
三十六万八千。
戦える者、九万二千。
俺が知っている、未来の数字。
十四年のうちに、ローマ中がそれを事実として信じることになる。
明日、俺が差し出すのは一つ目だ。
板を伏せて、油灯を消した。
暗闇の中で、まだ数字が見えている気がした。
残り、一日。
第15話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、主人公が「未来の知識」と「現在のデータ」の間で迷う回でした。
主人公は歴史を知っています。
しかし、未来の記録をそのまま答えとして使えば、それは分析ではなくなります。
しかも、歴史書に残った数字が必ずしも正確とは限りません。
そこで主人公は、今この時代で集めた情報から、自分なりの推計を出しました。
人口。
戦闘可能者。
食料。
荷車。
移動速度。
そして彼は気づきます。
数字は武器になる。
人を守ることもできる。
人を殺すこともできる。
この感覚は、今後の主人公にとって非常に重要なものになります。
次回、第16話。
主人公はついにカエサルへ、ヘルウェティイ族に関する報告を提出します。
【ローマ豆知識⑬ 三十六万人という数字】
カエサルの『ガリア戦記』では、ヘルウェティイ族と同行部族の総数が三十六万八千人、そのうち戦闘可能者が九万二千人だったと記されています。
ただし、この数字が実際にどこまで正確だったのかについては議論があります。
古代の記録では、敵の人数が誇張されることも珍しくありません。
一方で、ヘルウェティイ族の移住が非常に大規模だったこと自体は、物語上も重要な前提です。
本作では、主人公が未来の歴史知識を持ちながらも、それをそのまま「正解」として使わず、現地で得た情報から推計する形にしています。
これは、主人公が単なる歴史チートではなく、データを扱う者として誠実であろうとするためです。




