第14話 数字の向こう側
主人公はゲナウァへ向かいます。
目的は、ヘルウェティイ族の人数、荷車、家畜、移動速度を調べること。
しかし街道で出会ったのは、ただの「統計上の集団」ではありませんでした。
熱を出した少女。
故郷を失った母親。
移住に反対できなかった家族。
数字の向こう側に、人間がいる。
主人公にとって忘れてはならない事実が突きつけられる回です。
ゲナウァへ向かう街道は、普段より混雑していた。
北東から来る商人。
西へ向かう荷車。
軍団へ物資を運ぶ人夫。
ローマ属州側へ逃げ込もうとするガリア人。
俺たちは商人の一団を装い、父の荷車へ乾燥肉と葡萄酒を積んで進んだ。
護衛はクィントゥスを含めて四人。
クィントゥスは杖を捨て、馬へ乗っていた。
「本当に大丈夫なのですか」
「何度聞く」
「傷が治るまでです」
「馬に乗れた。治った証拠だ」
「痛みがないことと治癒は同じではありません」
「お前と話していると、健康な気がしなくなる」
そう言いながら、クィントゥスは右脚をかばっていた。
鐙のない鞍の上で、右膝だけを外へ逃がしている。後で必ず傷を確認する必要がある。
ゲナウァへ近づくにつれ、街道を歩く人々が増えた。
服装から、ヘルウェティイ族と思われる家族もいる。
格子縞の外套。青銅の留め具。長い髪を後ろで束ねた男たち。
彼らはローマ属州へ移住しているのではない。
使節団への合流、物資調達、先行偵察など、目的はさまざまだろう。
俺は荷車の横へ座り、通過する人々を数えた。
成人男性。
成人女性。
老人。
子供。
荷車。
牛。
馬。
武器を持つ者。
最初は木板へ直接刻んでいたが、速度が追いつかない。
そこで色と形の違う小石を用意した。
黒は成人男性。
白は女性。
小さな灰色は子供。
丸い石は荷車。
一定数たまるごとに袋へ移す。
「遊んでいるようにしか見えんな」
クィントゥスが言った。
「邪魔をしないでください。分からなくなります」
「敵が来ても石を数えていそうだ」
「敵の数が分からなければ戦えないでしょう」
◇
街道脇で休憩している家族がいた。
老夫婦。
若い女性。
十歳ほどの少年。
幼い少女。
牛が引く荷車には、布、鍋、木箱、農具が積まれている。
武器らしいものは、老人の短い槍だけだった。
軍隊には見えない。どこにでもいる、荷物の多い家族である。
クィントゥスが警戒する。
「近づくな」
「話を聞くだけです」
「言葉が通じるのか」
ルキウスはガリア語を少し学んでいた。
流暢ではないが、簡単な会話ならできる。
俺は武器を持っていないことを示しながら、家族へ近づいた。
老人が槍へ手を置いた。
「ローマ人か」
「南に住む商人です」
厳密には嘘ではない。
「何を売っている」
「乾燥肉と葡萄酒です」
少年が荷車を見た。
空腹なのだろう。喉が鳴るのが聞こえた。
母親らしい女性が、少年を自分の後ろへ隠した。
「どこへ行くのです」
尋ねると、老人の顔が硬くなった。
「西だ」
「サントネス族の土地へ?」
「そう聞いている」
「自分で決めたのではないのですか」
老人は黙った。
代わりに若い女性が答えた。
「村が決めたのよ」
「村が?」
「残る者はいないと」
「なぜです」
「残る家がないから」
彼女の声には怒りがあった。
その怒りは、俺へ向けられたものではなかった。
「自分たちで焼いたと聞きました」
「焼かされたのよ」
「誰に」
「長たちに」
老人が鋭く女性を睨んだ。
「黙れ」
「本当でしょう」
女性は目を逸らさなかった。
「強い者は新しい土地が手に入ると言った。戦士は名誉を得られると言った。でも、私たちは畑があればよかった」
内部に意見の違いがある。
民族全体が同じ目的を持っているわけではない。
移住を望む有力者。
従う戦士。
選択肢のない農民。
「反対できなかったのですか」
「村を焼かれて、どうやって残るの」
女性が言った。
「冬までに家を建て直す? 種も家畜もないのに?」
退路を断つ。
集団を結束させるには有効な方法である。
だが、それは全員が自発的に移住したことを意味しない。
◇
幼い少女が咳をした。
乾いた咳ではない。
痰が絡んでいる。
顔が赤く、額へ汗が浮いていた。
「その子は熱があるのですか」
母親が少女を抱き寄せた。
「触らないで」
「私は病人を診る知識があります」
「ローマ人の薬はいらない」
「薬を売るつもりはありません」
少女の呼吸が速い。
肩で息をしている。鼻の穴が呼吸のたびに開く。
移動中の疲労。
寒暖差。
栄養不足。
肺炎の可能性がある。
ルキウスを殺しかけたものと、同じ病気かもしれない。
「水は飲めていますか」
母親は警戒しながら頷いた。
「食事は」
「昨日から、ほとんど」
俺は荷車から乾燥肉を取り出しかけ、止めた。
発熱している子供に硬い乾燥肉は適さない。
代わりに、薄い穀物粥を作るための粉と塩を渡した。
「水を十分に沸かしてください。冷ましてから、少しずつ飲ませる」
「なぜ沸かす」
「腹の病を避けるためです」
母親は受け取らなかった。
ローマ人から渡された物を警戒している。
少年が粉の袋を見つめている。
「毒ではありません」
俺は袋から少量を口へ入れた。
それを見て、母親がようやく手を伸ばした。
「代金は」
「いりません」
「施しは受けない」
「では、質問に答えてください」
商人の取引にした方が、彼女も受け取りやすい。
「何を聞きたい」
「村には何家族いましたか」
「七十ほど」
「荷車は」
「四十台くらい」
「戦える男は」
老人が再び槍を握った。
「なぜ聞く」
「あなたたちを襲うためではありません」
「ローマ人は何でも数える」
老人は吐き捨てた。
「土地も、穀物も、税も、人間も」
答えられなかった。
俺も今、彼らを数えている。
食料消費を推定するため。
行軍速度を予測するため。
カエサルの軍事判断へ使うため。
俺の数字は、結果的にこの家族を止める壁となるかもしれない。
「戦える男は十五人ほど」
女性が言った。
老人が怒鳴る。
「なぜ話す!」
「この人は食料をくれた」
「食料と引き換えに、仲間を売るのか!」
「子供を飢えさせるよりはいい!」
家族の中でも対立が起きている。
移住は、彼らの共同体を強くするだけでなく、壊してもいる。
俺はそれ以上聞かなかった。
「もう十分です」
立ち上がる。
少女がまた咳をした。
「呼吸がさらに苦しくなったら、身体を横へ向けてください。水を一度に多く飲ませず、少しずつ」
母親は黙って頷いた。
「ゲナウァには医師がいますか」
「知らない」
「ローマ軍の近くに、私が作った病人用の天幕があります」
クィントゥスが鋭くこちらを見た。
敵側の民間人を軍団へ招く発言である。
「南門で、ルキウス・アエリウスの名を出してください」
「ローマ人が、この子を助けるの?」
「助けられるかは分かりません」
母親の表情が硬くなる。
「ですが、診ます」
「名前は聞かないで」
彼女は言った。
「え」
「あなたたちは、名前を聞いて、書くのでしょう」
答えられなかった。
書く。
俺は、書く。
◇
俺たちは家族と別れた。
荷車が遠ざかっても、少年はこちらを見ていた。
しばらく歩いた頃、後ろで足音がした。
その少年が走ってきていた。
追いつくと、息を切らしたまま、こちらを見上げた。
そして、一言だけ叫んだ。
「エポナ」
それだけ言って、走って戻っていった。
妹の名だと分かるのに、少し時間がかかった。
母親が隠したものを、弟が渡した。
「任務を忘れるな」
クィントゥスが言った。
「忘れていません」
「お前の数字は、カエサル様が彼らを止めるために使う」
「分かっています」
「なら、なぜ治療を申し出た」
「患者だからです」
「敵かもしれん」
「子供です」
「子供も成長すれば敵になる」
「病気の子供を見殺しにすれば、敵になる前に死にます」
クィントゥスは黙った。
しばらく馬を進めてから言った。
「お前は軍団に向いていないかもしれんな」
「私もそう思います」
「だが、軍団には必要かもしれん」
「矛盾しています」
「人間はそういうものだ」
街道の先に、ゲナウァの城壁が見え始めた。
その向こうにはローヌ川。
そして対岸には、故郷を焼いた人々が集まりつつある。
俺は袋の中の小石を取り出し、掌へ広げた。
黒が十七。
白が二十四。
灰色が三十一。
半刻前まで、ただの分類だった。
そのうち三つに、いま顔がある。
そして一つには、名前があった。
第14話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回のテーマは、まさに「数字の向こう側」でした。
主人公はヘルウェティイ族を数えています。
成人男性、女性、子供、荷車、家畜。
しかし、その一つ一つには顔があり、事情があり、人生があります。
データを扱う上で危険なのは、数字だけを見て人間を忘れることです。
一方で、数字を見なければ全体の危険も分かりません。
主人公はこの先も、この二つの間で揺れ続けます。
人を救うために数字を使うのか。
数字のために人を切り捨てるのか。
その問いが、物語全体を通じて主人公を追いかけることになります。
次回、第15話。
主人公は集めた情報をまとめ、カエサルへ提出する推計を作ります。
【ローマ豆知識⑫ ゲナウァとは】
ゲナウァは、現在のスイス・ジュネーヴにあたる地域です。
ローヌ川がレマン湖から流れ出す場所にあり、ガリアとローマ属州を結ぶ重要な地点でした。
ヘルウェティイ族がローマ属州へ入ろうとする場合、この周辺は重要な通過点になります。
そのためカエサルは、ここで彼らの通行をどう扱うか決断する必要がありました。
本作では、主人公がこの地でヘルウェティイ族の実態を観察し、彼らを単なる敵軍ではなく、移動する人




