第13話 故郷を焼く者たち
ヘルウェティイ族は、ただ西へ向かっているだけではありませんでした。
彼らは自らの町と村を焼いていました。
戻る場所をなくし、退路を断つために。
それは戦略としては合理的です。
しかし、その炎の中には、人々の家、畑、記憶、人生があります。
主人公は初めて、数字では表せない民族移動の痛みと向き合うことになります。
三頭の馬が、屋敷の前で止まった。
一頭は汗で黒く濡れ、脚が細かく震えている。乗り手は鞍から降りるというより、崩れ落ちた。
四日目の夕方だった。
「ヘルウェティイ領近くのゲナウァからです」
ゲナウァ。
ローヌ川の出口近くにある、アッロブロゲス族の町。
ヘルウェティイ族がローマ属州へ入るなら、重要な通過点となる。
報告を持ち帰った商人は、ディウスという痩せた男だった。
普段は塩と乾燥魚を扱っている。
「何を見た」
父が尋ねた。
ディウスは水を一気に飲み、息を整えた。
「街道が、荷車で埋まっています」
「何台だ」
「数えられません」
「見当は」
「一日で数百は通ります。夜も止まりません」
「穀物は」
「値が上がっています。四倍です」
四倍。
俺は木板へ書き込んだ。
「移住開始前に、大量の穀物を買っていたはずでは」
俺が言うと、ディウスは頷いた。
「それでも足りないのでしょう」
「故郷の畑から収穫できないのですか」
「もう畑はありません」
「どういう意味です」
ディウスは言いにくそうに口を閉じた。
「見たまま話せ」
父が促す。
「町が燃えています」
倉庫の中が静まり返った。
「誰に攻められた」
「誰にも」
ディウスは首を振った。
「自分たちで焼いているのです」
知っていた。
歴史上、ヘルウェティイ族は帰還の選択肢を断つため、自ら町や村を焼いたとされる。
それでも、実際にその報告を聞くと、胸に重いものが落ちた。
知っていることと、聞くことは違う。
「家も?」
「はい」
「倉庫も?」
「持ち出せない穀物は焼いていました」
「なぜだ」
父が尋ねた。
「戻れないようにするためだと」
ディウスの声が震えた。
「老人が、自分の家へ火をつけていました。子供が泣いていた。女たちは、何度も振り返っていた」
数字ではない。
目の前に光景が浮かんだ。
燃える屋根。
煙に包まれた村。
生まれ育った家へ、自ら火を放つ人々。
「侵略のために、そこまでするでしょうか」
俺はつぶやいた。
父が俺を見た。
「追い詰められていると考えるのか」
「少なくとも、単なる略奪目的ではない」
「だから属州を通すべきだと?」
「まだ、そうは言っていません」
感情だけで国境を開けば、属州民が危険にさらされる。
だが彼らを「敵軍」とだけ見れば、移動の理由を見誤る。
「ゲルマン人を恐れているという話は?」
ディウスへ尋ねた。
「ラインの向こうから来る者たちが、年々土地を奪っていると聞きました」
「人口増加は」
「子供が多い」
「土地が足りない?」
「それもあるのでしょう」
複数の要因が考えられる。
人口圧力。
周辺部族との争い。
ゲルマン勢力の拡大。
有力者の野心。
交易路への進出。
一つの理由だけではない。
大規模な移住を決断するには、指導者の政治的意図と、民衆が動かざるを得ない事情の双方があるはずだ。
「他の報告は?」
父が尋ねた。
二人目の商人が前へ出た。
荷車の車輪を扱う職人である。
「この半年で、車輪用の木材の価格が二倍になりました」
「作った荷車は」
「私の知る工房だけで三百台以上。修理を含めれば、その倍です」
三人目は家畜商だった。
「牛の価格は半分以下です。移動に使えない老いた家畜を、皆が手放しています」
「若い牛は?」
「売らずに残している。荷車を引かせるためでしょう」
情報がつながっていく。
穀物価格の上昇。
家畜価格の低下。
荷車需要の増加。
街道通過者の増加。
集落の焼却。
別々の商人が、別々の市場で、別々のものを見ている。それを一枚の板の上に並べると、一つの絵になった。
民族規模の移動であることは間違いない。
問題は人数だ。
俺は木板へ、情報ごとの推定値を書き込んだ。
荷車一台当たりの平均家族数。
荷車を持たず歩く者の割合。
牛一頭が引ける荷物の量。
一日の移動距離。
必要穀物量。
分からない部分が多すぎる。
「適当に数字を作っているように見えるぞ」
父が言った。
「仮定です」
「間違っていれば?」
「範囲を持たせます」
最小推計。
標準推計。
最大推計。
しかし、最大と最小の差が大きい。
これではカエサルの判断に使えない。判断に使えない推計は、書いていないのと同じである。
「もっと直接的な数字が必要です」
「人口を一人ずつ数えるつもりか」
「できません」
「では?」
俺は地図を見た。
ヘルウェティイ族が属州へ入るためには、ローヌ川を渡るか、川沿いの狭い道を通る必要がある。
集団が一点を通るなら、そこで数えられる。
「ゲナウァの橋です」
「何をする」
「橋を通過する荷車と人を数えます」
「まだ通行許可は出ていない」
「使節の回答期限までは、偵察や市場への移動が続くはずです」
「数日分の流れで、全体が分かるのか」
「完全には分かりません。しかし、荷車と家族の比率を推定できます」
父は地図を見た。
「誰を行かせる」
「私が行きます」
倉庫内の全員がこちらを見た。
「駄目だ」
父が即答した。
「なぜです」
「病み上がりだ」
「もう動けます」
「軍団の仕事ではないのか」
「だから行くのです」
「ヘルウェティイの使節団と、ローマ軍がにらみ合っている場所だぞ」
「商人は行き来しています」
「お前は商人に見えない」
「父上の息子です」
「それだけでは足りん」
父の声が強くなった。
「お前は、危険を数字でしか見ていない」
「危険性は理解しています」
「理解していない!」
机が揺れた。
「熱病で死にかけたばかりだ。次は軍団の病人へ飛び込み、今度は敵の目前へ行くと言う」
「必要な仕事です」
「お前でなければできないのか」
答えようとして、言葉が止まった。
誰かへ任せることはできる。
数え方を教え、報告させればよい。
それでも俺は、自分で見たいと思っていた。
現代でも同じだった。
手術。
研究。
病院経営。
人へ任せればよい仕事まで抱え込み、「自分が行う方が早い」と考えていた。実際、たいてい早かった。だから直らなかった。
「俺が行く」
クィントゥスが入口から入ってきた。
「あなたは安静です」
「お前に言われたくない」
「傷が開きます」
「もう開かん」
「医学的根拠がありません」
「百人隊長としての勘だ」
最も信頼できない根拠である。
「お前一人では、ヘルウェティイ人に囲まれた時に何もできん」
クィントゥスは父を見た。
「俺が護衛する」
父は不満そうだったが、クィントゥスへの恩と信頼がある。
「三人、護衛をつける」
父が言った。
「多すぎます」
「なら行かせん」
「分かりました」
交渉の余地はなかった。
出発は翌朝。
残り、八日。
第13話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、ヘルウェティイ族が故郷を焼いているという報告が中心でした。
歴史上、彼らは移住の決意を固めるため、自分たちの町や村を焼いたとされています。
戻れないようにする。
集団を前へ進ませるには合理的な方法です。
しかし、そこには当然ながら家を失う人々がいます。
移住を望む有力者。
従う戦士。
選択肢のない農民。
泣く子供。
主人公は、ヘルウェティイ族を単なる敵軍として数えることができなくなっていきます。
次回、第14話。
主人公は実際に街道へ出て、数字の向こう側にいる人々と出会います。
【ローマ豆知識⑪ 『ガリア戦記』と数字】
カエサルが書いた『ガリア戦記』には、多くの人数や兵力が記されています。
ただし、古代の戦争記録に出てくる数字は、現代の統計資料とは違います。
政治的な意図、報告者の誇張、伝聞、記録方法の違いによって、実際の人数とずれる可能性があります。
本作では、主人公が未来の知識を持っていても、その数字をそのまま正解として扱わないようにしています。
なぜなら、数字は便利な武器である一方、使い方を誤れば現実を歪める道具にもなるからです。




