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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第2章 民族を診断する

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第12話 商人は兵士より遠くを見る

敵を知るために必要なのは、兵士の斥候だけではありません。


市場を見る者。

穀物を見る者。

荷車を見る者。

宿屋で人の流れを見る者。


商人たちは、軍人とは違う形で世界を見ています。


主人公は父ガイウスの商人網を使い、ヘルウェティイ族の移住規模を調べ始めます。


医療、軍事、そして商業。


三つの視点が交わる第12話です。

倉庫には、二十三人が集められていた。

穀物商。

家畜商。

荷車職人。

皮革商。

葡萄酒商。

宿屋の主人。

河川輸送に関わる船主。

薬草を扱う女商人。

出身も服装もばらばらである。

麻布の質も、指輪の有無も、立ち方も違う。共通しているのは、全員が自分の時間を奪われたことに不満を持っている点だけだった。

「若旦那の遊びに付き合わされるとはな」

「軍団へ入った途端、偉くなったつもりか」

「ヘルウェティイ人を数えて何になる」

聞こえるように悪口を言っている。

父は助け舟を出さなかった。

倉庫の隅で腕を組み、俺が彼らを動かせるか観察している。

試されているのは、カエサルからだけではないらしい。

「皆さんに、仕事をやめていただくつもりはありません」

俺は言った。

「普段通り商売をしてください」

「なら帰ってよいか」

穀物商の男が立ち上がった。

「ただし、普段見ているものを記録してください」

「面倒だ」

「報酬を支払います」

男が座り直した。

実に分かりやすい。この単純さが、俺にはありがたかった。理念で説得しなくてよい相手ほど、扱いやすい者はいない。

「何を記録する」

俺は壁へ木板を掛けた。

「全員へ同じことを求めません。自分が普段扱うものだけを見てください」

穀物商には、ヘルウェティイ領内と周辺市場における穀物の価格、取引量、買い手の人数。

家畜商には、牛、馬、羊の売却数と価格。

荷車職人には、新しく作られた荷車の数、修理依頼、車輪や軸の需要。

宿屋には、一日に通過する旅人の人数、家族構成、向かった方角。

船主には、ローヌ川を渡る船と荷物の量。

薬草商には、発熱、下痢、外傷に使う薬草の売れ行き。

「数字を正確に書ける者は多くありません」

商人の一人が言った。

「印で構いません」

俺は小石をいくつか並べた。

「荷車一台なら石一つ。牛十頭なら石一つ。家族五組なら石一つ。日が暮れたら、まとめて木板へ移す」

「なぜ十頭で一つなのだ」

「細かく数えすぎれば、仕事ができなくなります」

正確さと実行可能性のあいだには、必ず取引がある。

一頭単位で数えれば精度は上がる。

だが、記録が面倒になり、誰も続けなくなる。

現場で使えない完璧な制度より、多少粗くても継続できる制度の方が有用である。前の人生で、俺は美しい記入用紙を三種類作り、三種類とも一か月で使われなくなるのを見た。

「報告内容を間違えたら、罰せられるのか」

宿屋の主人が尋ねた。

「意図的に嘘をつかなければ罰しません」

「間違いと嘘を、どう分ける」

「分けられない場合もあります」

「なら危険ではないか」

「そのため、一人の報告だけで結論を出しません」

穀物価格が上がったという報告があれば、別の市場でも確認する。

荷車が増えたなら、車輪や家畜の需要も増えているかを見る。

宿屋の通過人数と、川を渡る人数が一致するか確かめる。

複数の異なる情報から、同じ動きが見えれば信頼性は高まる。

「それで何人いるか分かるのか」

「正確な人口は分かりません」

「では意味がない」

「幅を出します」

「幅?」

「少なくとも何人以上、多くても何人以下という形です」

商人たちは顔を見合わせた。

父が口を開いた。

「この者が知りたいのは、名前ではない」

皆の視線が父へ集まる。

「何日分の食料が必要か。荷車の列がどれほど長くなるか。どの道を通れるかだ」

父は俺の木板を指した。

「商売と同じだ。客の数が分からなくても、売れた穀物の量から市場の大きさは推測できる」

商人たちの表情が変わった。

軍事や統計の話では理解されにくい。

商売の言葉へ変えれば伝わる。

カエサルが俺の医療成果を「維持される戦力」へ変換したのと同じだった。

知識は、そのままでは伝わらない。

相手が使う言葉へ翻訳する必要がある。翻訳できない専門家は、専門家ではなく、ただ喋っているだけの人間である。

「期限は十二日だ」

父が言った。

「最初の報告は四日後。次は八日後。最後が十一日後だ」

「馬が死ぬぞ」

「速い馬には追加の報酬を出す」

「危険地帯へ行く者には?」

「危険手当を出す」

俺は思わず父を見た。

先ほどまで、報酬を渋っていた男である。

「情報は安く買うと質が落ちる」

父は小声で言った。

「覚えておけ」

MBAの講義より、よほど実践的だった。

商人たちを送り出した後、俺は父の帳簿を借りた。

過去一年間の穀物価格。

家畜取引。

荷車用木材の販売。

鉄器の購入。

保存食の需要。

市場ごとに記録の形式が違う。

日付がないものもある。

袋の大きさも統一されていない。

総督の天幕で見た軍の穀物帳簿と、まったく同じ病気だった。

「記録の単位を統一した方がよいですね」

俺が言うと、父は不機嫌そうな顔をした。

「長年これで商売をしている」

「市場ごとに袋の容量が違います」

「担当者は知っている」

「担当者が死んだら、誰も分からなくなります」

父の手が止まった。

痛いところを突いたらしい。

「担当者の頭の中にだけある情報は、事業の情報ではありません」

「では何だ」

「その人の私物です」

父は口を開きかけ、閉じた。

「……続けろ」

「記録へ残すべきです。誰が読んでも同じ意味になる形で」

「お前は何でも記録したがるな」

「人間は忘れます」

「商人は忘れない」

「父上は、十年前にセクアニ族へ売った穀物の量を覚えていますか」

「……帳簿を見れば分かる」

「その帳簿の単位が違います」

父は舌打ちした。

姉のアエリアが、果物の皿を持って入ってきた。

「また喧嘩?」

「議論です」

俺と父が同時に答えた。

アエリアが笑う。

「前のルキウスなら、三言目には怒って部屋を出ていったのに」

手が止まった。

姉は軽い口調だったが、目はこちらを観察していた。

「熱病の後から、本当に変わったわ」

「死にかけましたから」

「それだけ?」

「他に何があるのです」

「さあ」

アエリアは俺の隣へ座った。

「昔のあなたは、父上を言い負かすことしか考えていなかった。今は、父上の知識を使おうとしている」

「成長したのでは?」

「数日で?」

「人間は変わります」

「ルキウス」

姉の声が少しだけ低くなった。

「あなたは、本当にルキウスよね?」

胸の奥が冷えた。

父は帳簿に目を落としたまま、何も言わない。

聞いていないふりをしている。この人は、聞かないふりをするのが上手い。商人の技術なのだろう。

「他の誰に見えますか」

俺は笑った。

うまく笑えている自信はなかった。

アエリアはしばらく俺の顔を見つめた。

やがて、皿から葡萄を一粒取り、俺の額へ投げた。

「痛い」

「今の顔はルキウスね」

「何ですか、それは」

「小さい頃から、葡萄を投げると同じ顔をするもの」

身体が覚えていたのかもしれない。

あるいは、ルキウスの感情が俺の中で反応したのか。

アエリアは立ち上がった。

「別人でも構わないけど」

「え?」

「母上を泣かせなければね」

白い空間で消えた青年の、最後の言葉がよみがえった。

母上を泣かせないでくれ。

姉は何かを知っているのか。

問いただす前に、彼女は部屋を出ていった。

父が静かに言った。

「アエリアは勘が鋭い」

「父上は何も思わないのですか」

「思っている」

父は帳簿から顔を上げた。

「だが、お前が私の息子でないなら、誰だ」

答えられなかった。

父は俺の沈黙を見て、ため息をついた。

「少なくとも、お前はアエリウス家の帳簿を改善しようとしている」

「それでよいのですか」

「商売に役立つ息子なら、以前よりましだ」

ひどい言い方だった。

だが、その声にはわずかな優しさがあった。

「四日後、最初の報告が戻る」

父は言った。

「それまでに、情報を集める器を作れ」

「器?」

「数字を集めても、整理できなければただのゴミだ」

商人は兵士より遠くを見る。

父は軍人ではない。

医師でもない。

だが、情報が価値へ変わる条件を知っていた。

俺は新しい木板を取り出した。

縦に項目を並べる。

人口。戦士。家族。荷車。家畜。穀物。行軍方向。

横に、報告が届く日を並べる。

四日後。八日後。十一日後。

空欄が格子状に並んだ。埋めるべき場所が、見ただけで分かる形になる。

書き終えて、顔を上げた。

戸口に、姉が立っていた。

いつからいたのか分からない。

「ねえ、ルキウス」

アエリアは木板を見ていた。

「その書き方、誰に習ったの」

答えられなかった。

縦に項目、横に日付。

ローマにも、ガリアにも、そんな板を作る人間はいない。


第12話をお読みいただき、ありがとうございました。


今回は情報収集の回でした。


主人公は商人たちへ、普段通り商売をしながら、見たものを記録するよう依頼しました。


穀物商は穀物を。

宿屋は人の流れを。

荷車職人は荷車の需要を。

家畜商は牛や馬の価格を見る。


一人の人間に全てを調べさせるのではなく、それぞれが普段見ている情報を集める。


これは現代でいう分散型の情報収集に近い考え方です。


また、今回の後半では姉アエリアが主人公の変化に気づき始めました。


高瀬としての理性。

ルキウスとしての身体と記憶。


この二つが完全には一致していないことを、家族は少しずつ感じ取り始めています。


次回、第13話。

集まった情報から、ヘルウェティイ族が故郷を焼いているという事実が明らかになります。


【ローマ豆知識⑩ 騎士階級と商人】


ルキウスの家は、ローマの騎士階級に属しています。


騎士階級とは、元老院議員ではないものの、大きな財産を持つ富裕層です。


彼らは軍需物資の供給、徴税請負、金融、交易などに関わることがありました。


ローマは軍事国家であると同時に、商業と契約の国家でもあります。


本作でルキウスの父ガイウスが持つ商人網は、軍の斥候とは別の情報源として機能します。


軍人が敵の位置を見るなら、商人は穀物の値段、荷車の数、市場の変化を見ています。

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