第11話 十二日しかない
カエサルの幕僚となった主人公に、最初の任務が与えられます。
それは患者を診ることではありません。
ヘルウェティイ族という、一つの民族全体を「診断」すること。
何人いるのか。
どこへ向かうのか。
どれだけの食料が必要なのか。
なぜ故郷を捨てようとしているのか。
医師として、そしてデータを扱う者として、主人公は初めて戦争そのものを分析することになります。
どうぞお楽しみください。
カエサルから与えられた最初の任務は、患者を診ることではなかった。
民族を診断することであった。
ヘルウェティイ族。
アルプス、ジュラ山脈、ライン川に囲まれた土地に住むガリア系の部族である。
彼らは自らの町と村を焼き払い、家畜、荷車、穀物を携えて西へ移住しようとしている。
戦士だけではない。
老人もいる。
女性もいる。
子供もいる。
一つの民族全体が、故郷を捨てようとしているのだ。
「十二日……」
総督の天幕を出た俺は、思わずつぶやいた。
現代なら、人口統計、衛星画像、道路交通量、通信記録。分析に使える情報はいくらでもある。俺は前の人生で、三県分の救急搬送記録を一晩で処理したことがある。
だが、ここには何もない。
国勢調査もなければ航空写真もない。
情報を運ぶのは人間と馬である。
一日に進める距離には限界がある。
十二日後に報告を出すなら、遠方から情報を集める時間は、実質的には数日しかなかった。
「早くも後悔したか」
ラビエヌスが後ろから言った。
「何をです」
「褒美を尋ねたことをだ」
「褒美をいただく前に、仕事で殺されそうです」
「カエサル様の幕僚になれば、眠れると思ったのか」
「少なくとも、患者の横で徹夜する回数は減るかと思いました」
「安心しろ。これからは地図の横で徹夜できる」
冗談なのか本気なのか分からない。
この男は、笑わずに冗談を言う。三十年、そうやって部下の緊張を抜いてきたのかもしれない。
ラビエヌスは歩きながら言った。
「ヘルウェティイの使節は、我々の属州を通行する許可を求めている」
「目的地はサントネス族の土地ですか」
ラビエヌスが足を止めた。
「なぜ知っている」
史実の知識からである。
だが、そのようには答えられない。
「交易商人の間で聞いたことがあります」
「いつだ」
「熱病に倒れる前です」
ルキウスの記憶ということにしておく。
完全な嘘ではない。
元のルキウスは、父の商売を通じてガリアの地理や部族名を学んでいた。
「目的地が分かっているなら話は早い」
ラビエヌスは地面へ小石を置いた。
「ここがヘルウェティイ族の土地だ」
次の石を西へ置く。
「ここが彼らの目的地とされる場所」
その間に、小枝で山脈と河川を描く。乾いた土に、線が浅く残った。
「彼らが選べる道は多くない」
「一つは、ローヌ川とジュラ山脈の間を通って属州へ入る道」
「そうだ」
「もう一つは、セクアニ族の領域を通る狭い道です」
ラビエヌスが頷いた。
「属州内を通す方が、彼らにとっては安全だ」
「ローマにとっては危険です」
「分かっているではないか」
「ですが、本当に全員が戦うつもりなのでしょうか」
ラビエヌスの表情が硬くなった。
「戦士を伴う数十万の集団が属州へ入れば、意図など関係ない」
「食料が不足すれば、略奪が起きる」
「そうだ」
俺も、それは理解できた。
数万人、あるいは十数万人規模の集団が移動すれば、携行できる食料だけでは足りない。
移動先や経路上の土地から、何らかの形で物資を得なければならない。
購入できなければ徴発する。
徴発できなければ奪う。
集団の指導者が平和を望んでも、飢えた人間すべてを統制することは難しい。
「カエサル様は、すでに通行を拒否すると決めているのですか」
「お前の仕事は政策を決めることではない」
「分かっています」
「なら数字を集めろ」
「数字だけでよいのですか」
ラビエヌスは俺を見た。
「何が言いたい」
「なぜ故郷を捨てるのかも知るべきです」
「理由を聞けば、国境を開くのか」
「対応が変わる可能性があります」
「軍が相手の事情を聞いている間に、相手は国境を越える」
「患者の話を聞かずに腹を切る外科医はいません」
「これは診察ではない」
「似ています」
俺は地面の石を指した。
「何人いるか。どこへ向かうか。何を持っているか。なぜ移動するか。それを知らずに対応を決めるのは、診断せずに手術するのと同じです」
ラビエヌスはしばらく黙っていた。
「お前は、何でも病人に例えるのだな」
「外科医でしたから」
「でした?」
「外科医の考え方が染みついている、という意味です」
危ないところだった。
言葉の時制一つで、俺は落ちる。
ラビエヌスは追及しなかった。
「理由を調べるのは構わん」
「ありがとうございます」
「ただし、十二日という期限は変わらない」
「分かっています」
「兵力の推計を忘れるな」
「戦士だけでなく、全人口を推定します」
「なぜだ」
「食料消費と行軍速度を計算するためです」
「荷車と家畜もか」
「はい」
「商人の数も?」
「可能なら」
ラビエヌスは口元を歪めた。
「本当に民族全体を数えるつもりらしいな」
「数えられる範囲で」
「カエサル様が気に入るわけだ」
「褒め言葉でしょうか」
「まだ決めていない」
いつもの答えだった。
この男は、褒め言葉を三度に一度しか完成させない。
◇
父ガイウスの屋敷へ戻ると、中庭へ入る前から怒鳴り声が聞こえた。
「お前は何を考えている!」
父は、俺を見るなり木杯を机へ叩きつけた。
葡萄酒が飛び散る。石の床に赤い染みが広がった。
母アエミリアが困った顔で布を持ってきた。
姉のアエリアは少し離れた椅子に座り、面白そうにこちらを見ている。
「ただいま戻りました」
「挨拶の話をしているのではない!」
「では何の話です」
「カエサルの幕僚になったそうだな!」
「情報が早いですね」
「誰のおかげで軍団へ出入りできたと思っている!」
「父上のおかげです」
即答すると、父が言葉を詰まらせた。
怒りを受け流すつもりではない。
事実である。
父の信用と商業関係がなければ、クィントゥスは屋敷へ運び込まれず、俺が軍団へ近づく機会もなかった。
「感謝しています」
「感謝している人間が、勝手に私の倉庫を病院へ変えるか!」
「使っていない区画でした」
「使う予定だった!」
「いつです」
「そのうちだ!」
姉のアエリアが吹き出した。
父が睨む。
「何がおかしい」
「父上がルキウスに言い負かされているのが珍しくて」
「黙っていろ!」
「はいはい」
まったく黙る気のない返事だった。
ルキウスの記憶によれば、この家では毎日のように誰かが言い争う。
高瀬家とは正反対だった。
日本の父は、感情をあまり表に出さない人だった。
医学部へ合格したと伝えた時も、「そうか」としか言わなかった。
後になって、職場では自慢していたと母から聞いた。
あの頃の俺は、もっと喜んでほしいと思った。
だが、自分から本音を聞こうとはしなかった。
聞かないまま、あの人は死んだ。
この家では、父は怒鳴る。
母は心配する。
姉は笑う。
誰も感情を隠さない。
面倒で、騒がしくて――少しだけ、温かかった。
「父上」
俺は椅子へ座った。
「お願いがあります」
「断る」
「まだ内容を言っていません」
「どうせ、また倉庫か金か人を貸せという話だろう」
「商人を貸してください」
父が目を細めた。
「何のためだ」
「ヘルウェティイ族の移住規模を調べます」
中庭の空気が変わった。
父は怒りを引っ込め、商人の顔になった。
「誰の命令だ」
「カエサルです」
「いつまでに」
「十二日後」
父は俺をじっと見た。
そして鼻で笑った。
「無理だ」
「まだ何も説明していません」
「説明する必要もない。十二日で集められる情報など、南ガリアとヘルウェティイ領周辺にいる商人が、すでに持っている情報だけだ」
「だから、父上へお願いしています」
父は立ち上がり、部屋の奥から大きな木板を持ってきた。
そこには交易路、宿場、市場、倉庫の位置が刻まれていた。
軍の地図とは違う。
道の横には、穀物、塩、葡萄酒、鉄、皮革などの記号がある。何年も指でなぞられて、記号の縁が丸くなっていた。
「軍人は砦と街道を見る」
父が言った。
「商人は市場と倉庫を見る」
指が北東の複数地点をなぞる。
「この一年、ヘルウェティイ領へ入る穀物が増えている」
「移住の準備ですか」
「おそらくな。逆に、鉄器や家財を売る者も増えた」
「持っていけない物を処分している」
「家畜の価格も下がっている」
大量に市場へ出され、供給が増えたからだ。
軍事報告では見えない兆候である。
市場価格は、人々の行動を映す。誰も口では言わないことを、値段だけが正直に語る。
「父上は、移住が始まることを知っていたのですか」
「知っていたわけではない。疑っていただけだ」
「なぜカエサルへ報告しなかったのです」
「私が商人だからだ」
父は冷たく答えた。
「不確かな噂を総督へ伝えて、外れれば信用を失う。戦争が始まると騒げば、市場が混乱する」
「ですが、実際に始まろうとしています」
「結果を知った後なら、誰でも正しかったと言える」
耳が痛かった。
現代のデータ分析でも同じである。
事後的に説明することは簡単だ。
予測は難しい。
特に、間違えた場合に責任が生じる場面では。
「商人を貸してください」
俺はもう一度頼んだ。
「何人だ」
「ヘルウェティイ領周辺、セクアニ領、ローヌ川沿いの市場と取引している者を、すべて」
「すべて?」
父の眉が跳ね上がった。
「彼らの仕事を止めるつもりか」
「止めません。通常の商売を続けながら、見たものを報告してもらいます」
「何を見させる」
俺は木板を取り出した。
「荷車の数。家畜の数。市場で売られた穀物の量。購入された乾燥肉。街道を西へ進む家族の数。武器を持つ男の割合」
「多すぎる」
「全員へ同じことを聞く必要はありません。役割を分けます」
父の商人網を、一つの情報収集組織として使う。
穀物商は穀物を見る。
家畜商は家畜を見る。
宿屋は通過人数を見る。
荷車職人は荷車の注文と修理件数を見る。
医師や薬草商は、病人の増加を見る。
それぞれが日常業務の中で得ている情報を集約すれば、民族移動の規模が浮かび上がる。
「なるほど」
父は木板を見た。
「一人の商人へ、すべてを調べさせるのではないのだな」
「はい。普段見ているものを、同じ基準で報告してもらいます」
「報酬は?」
「必要ですか」
父が俺を睨んだ。
「商人を何だと思っている」
「父上の部下です」
「部下が無料で危険地帯へ行くと思うな」
「通常の商売の範囲です」
「情報を報告する時間にも値段がある」
もっともである。
俺はカエサルへ提出する経費へ、情報料を加えることにした。
「それと、もう一つ」
父が言った。
「商人は見たものを正確に話すとは限らん」
「なぜです」
「自分の利益に合わせて話すからだ」
穀物商は不足を強調すれば価格を上げられる。
輸送業者は道の危険を誇張すれば運送料を上げられる。
「だから、複数の情報を照合します」
「少しは商売が分かってきたようだな」
父はしばらく考え、木板を返した。
「貸してやる」
「ありがとうございます」
「ただし条件がある」
「何です」
「この情報は、アエリウス家の商売にも使う」
「戦争で利益を得るつもりですか」
「戦争が起きなくても、人は食べる」
父の目が鋭くなった。
「お前は命を救うために数字を見る。私は家族と従業員を食わせるために数字を見る」
「同じ数字でも、判断が違う」
「当然だ」
ラビエヌスとの会話を思い出した。
数字は答えを与えない。
解釈する人間がいる。
俺は初めて、その意味を身近な父から教えられた。
中庭の外で、馬の蹄の音がした。
父の商人たちが呼び戻され始めている。
二十三人。
残り、十二日。
第11話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回から、物語は本格的にガリア戦争の流れへ入っていきます。
主人公に与えられた任務は、敵軍を倒すことではなく、移動する民族の規模と理由を調べることでした。
兵士だけでなく、女性、子供、老人、荷車、家畜、食料まで含めて考えなければならない。
これは軍事であると同時に、物流であり、統計であり、社会問題でもあります。
また今回は、ルキウスの父ガイウスとの関係も描かれました。
軍人は砦と街道を見る。
商人は市場と倉庫を見る。
この二つの視点が、今後の主人公の大きな武器になります。
次回、第12話。
主人公は父の商人網を使い、ヘルウェティイ族の移動を調べ始めます。
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【ローマ豆知識⑨ ヘルウェティイ族とは】
ヘルウェティイ族は、現在のスイス周辺に住んでいたガリア系の部族です。
本作の舞台である紀元前58年、彼らは故郷を焼き払い、大規模な西方移住を始めようとしていました。
カエサルの『ガリア戦記』では、この移住がガリア戦争の始まりとして描かれています。
重要なのは、彼らが単なる「敵軍」ではないことです。
戦士だけでなく、家族、老人、子供、家畜、荷車を伴う大規模な民族移動でした。
本作では、この移住を軍事問題だけでなく、難民、食料、物流、政治の問題として描いていきます。`




