第4話 再開の朝-2
──翌日。
ヴァルカは国立図書館へ足を運んでいた。
天井まで届くほどの本棚。
整然と並ぶ無数の書物。
知識の宝庫とも呼ばれるその場所で、
ヴァルカは一冊の本を開く。
⚔(ルシアスが言うには……)
――心の防衛装置。
強いショックや苦痛を受けた際、
心にロックをかけることで記憶や感情から距離を置き、
自らの心身を守ろうとする現象。
⚔(そして――)
脳裏によみがえるルシアスの言葉。
『元に戻る可能性は、決してゼロではありません』
⚔「……それなら」
本を閉じる。
青い瞳に強い意志が宿る。
⚔「絶対に探し出してみせる……」
どれだけ時間がかかろうと。
どれだけ困難だろうと。
今度はエリシアの”心”を救うために。
ヴァルカは次々と文献を手に取り、
関連する情報を探し始めた。
一方、その頃
教会では――
✟「今までに、このような症状の患者さんを診たことはありますか?」
年老いた信徒は少し考え込んだ後、静かに頷いた。
老信徒「ええ……ございます」
老信徒「ですが、その場合は自然に身を任せる他ないでしょう」
老信徒「無理に思い出させようとした結果、
かえって症状が悪化した例もあります」
✟「……そうですか」
ルシアスは静かに目を伏せる。
✟「ありがとうございます」
信徒が去った後、ルシアスは小さく息を吐いた。
✟「……やはり、ありませんか」
窓から差し込む光が、
長い銀髪を照らす。
✟(今までにも、記憶を失った人は何人も診てきました)
✟(ですが……)
✟(治療が成功した例は、1つとしてない)
記憶を取り戻した者はいた。
だがそれは時の経過や本人の回復によるもの。
"治した"とは言えなかった。
ルシアスは窓の外へ視線を向ける。
その先には、国立図書館のある方向。
✟(ヴァルカさん……)
今頃きっと、
彼も方法を探しているのだろう。
✟「どこかに……」
✟「手掛かりがあれば良いのですが……」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
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――2か月後。
教会の中庭にて。
☀「わぁ!見て、お兄ちゃんっ!」
☀「きれいな蝶々さん!」
花壇の上をひらひらと舞う蝶を追いかけながら、
エリシアが嬉しそうに声を上げる。
⚔「ああ….そうだな」
昼下がりの暖かな日差し。
頬を撫でる心地よい風。
空はどこまでも青く澄み渡っている。
教会の庭には穏やかな時間が流れていた。
――だが。
その光景とは裏腹に。
ヴァルカとルシアスの表情には、消えない陰りがあった。
✟「やはり、見つかりませんか…」
ベンチに腰掛けたルシアスが静かに尋ねる。
⚔「……」
ヴァルカは答えない。
答えられなかった。
国立図書館の文献。
教会に残る記録。
過去の症例。
考え得る限りの情報を集めた。
それでも、エリシアの心を取り戻す方法は、
未だ見つかっていなかった。
少し離れた場所では。
☀「あっ、待って蝶々さん!」
蝶を追いかけるエリシアの楽しそうな声が響いている。
「おやおや......ルシアスさま。良い日和ですねぇ。休憩中ですか?」
聞き慣れた声に、ルシアスが振り向く。
そこには、グレイヘアを綺麗にまとめ上げた老女が立っていた。
穏やかなアメジスト色の瞳。
年齢を感じさせる皺さえも、その優しい表情によく似合っている。
✟「ルースさん!」
✟「本日も物資の援助を......?」
ルースは柔らかく微笑みながら頷いた。
ルース「ええ、ええ......少しばかりですがね」
✟「いいえ、大変助かっておりますよ」
✟「いつもありがとうございます」
ルース「いいんですよ」
ルース「年老いた身にできることなど、限られておりますからねぇ」
ルース「若者たちの笑顔が見られれば、それで十分です」
そう言って、微笑むルース。
そしてふと視線を移し、
ルース「ところで......」
ゆっくりと首を傾げる。
ルース「そちらの方は?」
穏やかな笑みを浮かべたまま、問いかけた。
⚔「ヴァルカだ。妹が教会の世話になっている」
ルース「おや、あそこの可愛らしいお嬢さんは、あなたの妹さんかい」
ルースは花壇の近くで蝶を追いかけるエリシアへ視線を向ける。
⚔「ああ....エリシアだ」
ルース「エリシア......」
ルースはその名前を噛みしめるように繰り返した。
ルース「太陽のような素敵なお名前ねぇ」
目を細め、うれしそうに微笑むルース。
そのアメジスト色の瞳は、
楽しそうに駆け回るエリシアを優しく見つめていた。
だが。
ルース「だけれど......少し、寂しそうねぇ」
⚔「......!」
ヴァルカは、はっと息をのんだ。
エリシアは今も蝶を追いかけ、
無邪気な笑顔を浮かべている。
けれど。
その笑顔の奥にあるものを、
ルースは見抜いていた。
ヴァルカはルシアスに目配せする。
ルシアスは何も言わず、そっと頷いた。
それを見てヴァルカはゆっくりと口を開く。
⚔「....妹は、記憶を失っている」
ルースの表情がわずかに曇る。
⚔「恩人に裏切られ、4年もの間虐待されていたせいだ」
ルースは黙ったまま耳を傾ける。
⚔「そして」
ヴァルカはギュッと拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
震える声で、言葉を絞り出すように続けた。
⚔「自分自身を守るために、心を閉ざしてしまった....」
風が吹く。
花壇の花々が小さく揺れた。
少し離れた場所では、
何も知らないエリシアが蝶を追いかけている。
☀「待て待てー!」
無邪気な笑い声。
けれどその姿は、過ぎ去ったはずの時間に取り残されたままだった。
重い沈黙が流れる。
✟「....私たちは、エリシアさんの心を救う方法をずっと探しています」
✟「ですが....」
ルシアスが言葉を濁す。
その先を引き継ぐように、
ヴァルカが静かに口を開いた。
⚔「今のところ、有力な手掛かりは得られていない」
ルース「....」
それを聞いたルースは、
深く考え込むように両手を組む。
そしてそっと目を閉じた。
ルース「ええ、ええ....そうかい....」
風が吹き、白髪交じりの髪を優しく揺らす。
しばらくの沈黙。
やがてルースはゆっくりと目を開いた。
ルース「そういえば....」
何かを思い出したようにぽつりと呟く。
ルース「これは、おとぎ話のようなものなんだけどねぇ」
⚔「....?」
✟「おとぎ話、ですか?」
ルシアスが首を傾げる。
ルースは少しだけ困ったように笑った。
ルース「ええ。子供の頃に聞いた話さね」
ルース「本当かどうかも分からない、古い言い伝えのようなものだよ」
ルースは深く息を吸い込むと、ゆっくりと話し始めた。
ルース「ユグレアの森の奥深くには、魔女が住んでいる――」
✟「魔女、ですか....」
ルシアスがわずかに眉をひそめる。
ルース「ああ、森の魔女さ」
ルース「なんでも、願いを叶えてくれるのだとか」
⚔「....!」
ヴァルカの瞳が揺れる。
ルースはそんなヴァルカを見つめながら続けた。
ルース「だが、並大抵の人間が森の魔女に会うことはできないのさ」
✟「なぜです....?」
ルース「さあねぇ....」
ルースは肩をすくめる。
ルース「けれど、ユグレアの森はただでさえ最近物騒だ」
ルース「獰猛なウェアウルフの縄張りや、
亡者の霊がうろつく迷霧まであると言われておる」
ルース「そんな危険な場所に身を投じるなんてことは――」
⚔「構わない」
ルースの言葉を遮るように、ヴァルカが口を開いた。
⚔「可能性があるなら、つかみ取るまでだ」
そう言うと、ヴァルカはさっと身を翻した。
ルース「おやおや....」
✟「ヴァルカさん!」
ルシアスは慌てて立ち上がる。
だがヴァルカは振り返ることなく、
そのまま教会の出口へ向かって歩き始めた。
その背中へ向けて、
ルースが静かに声をかける。
ルース「くれぐれも気をつけなさい」
ルース「魔女は......人とは異なる存在さ」
⚔「....」
ヴァルカは足を止めない。
それでも、その言葉は確かに耳に届いていた。
やがてルシアスもその後を追いかけるように駆け出していく。
✟「ヴァルカさん!」
残されたのはルースとエリシアだけだった。
☀「......あれー?」
☀「お兄ちゃんは?」
不思議そうに辺りを見回すエリシア。
ルース「おや......お嬢さん、初めまして」
ルースはゆっくりと腰をかがめ、
エリシアと目線を合わせた。
ルース「この年寄りと、少し遊んでくれないかい?」
☀「うん?」
☀「いいよ!遊ぼう!」
ぱっと花が咲くような笑顔を見せるエリシア。
ルース「ふふっ、それは助かるねぇ」
優しい風が吹き抜ける。
エリシアの淡い金髪を揺らし、
花壇の花々をそっと撫でていった。
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その日の夕暮れ時。
教会の入り口に、2つの影があった。
西の空は茜色に染まり、
長く伸びた影が石畳の上へ落ちている。
✟「行くのですか」
⚔「....ああ」
✟「ですが、森には....」
⚔「分かっている」
ルシアスの言葉を遮るようにヴァルカは答えた。
そして力強い眼差しで、まっすぐルシアスを見つめる。
⚔「危険がついて回るのは、十分承知の上だ」
⚔「だが、1%でも可能性があるなら」
自然と剣の柄へ手を添える。
⚔「諦めるわけにはいかない」
✟「....」
それを聞いてルシアスは小さく息を吐いた。
✟「本当に、あなたは....」
どこか呆れたような。
けれど少しだけ誇らしげな声だった。
⚔「ルシアス」
✟「ええ、わかっていますよ」
ルシアスは苦笑する。
✟「止めたって行くのでしょう」
⚔「....」
否定はしない。
それが答えだった。
ルシアスはゆっくりと腰元へ手を伸ばす。
そして1つの古びた懐中時計を取り出し、
そっとヴァルカへ差し出した。
✟「それなら、これを」
⚔「これは....?」
✟「私の祖父から受け継いだものです」
銀色の蓋には、
長い年月を感じさせる細かな傷が刻まれている。
✟「お守り代わりに持って行ってください」
ヴァルカは静かに懐中時計を受け取った。
その重みは不思議と温かく感じられた。
✟「そして....」
ルシアスはふと夜空を見上げる。
いつの間にか、茜色だった空には月が浮かび始めていた。
少しの沈黙。
やがてルシアスは穏やかに微笑む。
✟「必ず、返しに来てください」
⚔「....ああ」
短い返事。
けれどその声には、
確かな決意が込められていた。
⚔「エリシアを、頼む」
そう短く言って、
ヴァルカは馬に跨った。
✟「ええ」
ルシアスは静かに頷く。
ヴァルカはもう一度だけ教会を振り返った。
その視線の先にはエリシアがいる。
そして、ルシアスがいる。
⚔「....行ってくる」
手綱を握る。
次の瞬間。
馬は勢いよく駆け出した。
石畳を蹴る蹄の音が、
静かな夜へ響いていく。
やがてその姿は、
夜の街並みの向こうへ消えていった。
✟「....」
ルシアスはしばらくの間、
その後ろ姿を見つめていた。
胸の前でそっと左手を握る。
そして静かに祈った。
✟「あなたに、女神のご加護を」
夜風が銀色の髪を揺らす。
昇り始めた月が、
静かに夜の訪れを告げていた。




