第4話:死者の仮面と、甲板の『処刑檻』、そして谷口の最期
第4話では、死んだ権藤隊長の仮面を被った主人公とクロによる「第3資源徴発艇」の無音制圧、甲板の幌の下に隠されていた『処刑檻』の正体、そして自らその檻を用意させた谷口の最期をお届けします!
【405日目・午前8時05分:死者の仮面】
俺の家が燃え上がるどす黒い煙は、九月の澄み切った青空へと真っ直ぐに立ち昇り、何キロ先からでも見える巨大な狼煙になっていた。
だが俺には、灰になった我が家の前で立ち尽くして感傷に浸る時間もなければ、左肩と右太ももの裂傷の痛みに顔をしかめている暇もなかった。
八十メートル下の入り江に錨を下ろしている灰色の警備艇の上には、まだ三人の武装した兵士と、あの谷口が残っている。
もし奴らが「権藤隊長たち上陸部隊七人が全滅した」と気づけば、決して助けに上陸してはこないだろう。即座に錨の鎖を切り離し、ディーゼルエンジンを全開にして外海へ逃げ出し、無線で都市の『アーク本部』へ増援を要請するはずだ。
あの船に逃げられたら、その時点で俺の負けが確定する。
かといって、今から海に飛び込んで八十メートルを泳いで船に近づくのは自殺行為だった。時刻は午前八時。朝の太陽が鏡のように澄んだ入り江の海面を照らし出しており、二つの傷口から血を流しながら泳げば、船の上から自動小銃で狙い撃ちにされて十秒で海の藻屑になる。
だが、船の上の連中には一つだけ致命的な死角があった。
立ち昇る黒煙と森の木々に遮られて『上の段々畑で何が起きたのか見えていない』こと。そして何より、奴らは『権藤隊長がコンビニ店員を殺して、戦利品の食料を持って降りてくる』と百パーセント信じ込んでいることだ。
俺は沢の茂みから、権藤の死体を引っ張り出した。
権藤の体格は俺より一回りほどガッシリしていたが、分厚い黒のケブラー製防弾チョッキと防弾ヘルメットを着込んでしまえば、遠目には見分けがつかない。
俺は権藤の死体から防弾チョッキを剥ぎ取って自分のマウンテンパーカーの上から着用し、頭に防弾ヘルメットを深く被り、さらに狙撃手の佐藤から回収した『黒い丸レンズの軍用フルフェイス防毒マスク』で自分の顔面を完全に覆い隠した。
黒いゴムと吸収缶で素顔を隠したその姿は、五十メートル離れた場所から見れば、煙の中を歩いてくる権藤隊長そのものだった。
俺は庭の隅で焼け残っていた大型の四輪台車の上に、三十キロ入りの玄米の麻袋を二つ積み上げた。右肩には奪った89式自動小銃を担ぎ、左の腰には9ミリ自動拳銃を差し、そしてクロの首に緩くロープを巻いて、あたかも「島で飼われていた番犬を捕獲して連れてきた」かのように自分のすぐ横を歩かせた。
俺はわざと右脚を大きく引きずりながら、まだ黄色い煙が漂う坂道をゆっくりと下り、玉砂利の浜辺の入り口へと姿を現した。
「おい、見ろ! 権藤隊長だ! 米袋を持って降りてきたぞ!」
八十メートル沖の警備艇の船首で、見張りの兵士が歓声を上げるのが聞こえた。
俺は右腕を高く上げ、浜辺に引き上げられている上陸用のゴムボートを指差したあと、台車の上の重い米袋をポンポンと叩き、自分の包帯を巻いた脚を示して『船から小型ボートで浜へ来て、荷物の積み込みを手伝え!』と大きな身振りで合図を送った。
無線機はあえて使わなかった。マイク越しに喋れば、俺の声が権藤のしゃがれた声ではないと一瞬でバレるからだ。
警備艇の甲板で、オレンジ色の救命胴衣を着た谷口が手すりから身を乗り出し、大喜びで手を叩いた。
『ほら見ろ、私の言った通りだ! 権藤隊長があの生意気なコンビニ店員を焼き殺して、極上の米と番犬まで分捕ってきたぞ! おいお前たち二人、船尾の小型作業ボートを降ろして、早く浜辺へ手伝いに行け!』
船に残っていた三人の兵士のうち二人が、腰のホルスターに自動拳銃を差し、ショットガンを一丁ボートの中に置いて、二人乗りの小型ゴムボート(テンダー)を海面に降ろした。
船上に残ったのは、谷口と、操舵室の横でタバコを吸っている機関士の男だけだ。
二人の兵士がオールを漕ぎ、わずか二分ほどで小型ゴムボートの船首が玉砂利の浅瀬に乗り上げた。
俺は二人に背を向け、台車の米袋を持ち上げるふりをしながら、台車の陰に低く伏せているクロに向かって、誰にも聞こえない声で一言だけ囁いた。
「――殺れ」
二人の兵士は両手を空けるためにショットガンをボートの底に置いたまま、浅瀬の海水を蹴って砂利浜へ飛び降りた。
「隊長、他の連中はどうしたんです? 森の方で銃声が聞こえましたが――」
先頭の兵士が俺の背中へ三歩近づき、声をかけてきた。
それが、そいつの人生で最後の言葉になった。
鉄の台車の陰から、漆黒の弾丸――クロが地面を這うような超低空の軌道で飛び出した。
ワン、という鳴き声すら一切ない。時速五十キロで射出された四十キロの筋肉の塊が、後ろにいた二人目の兵士の胸板に正面から激突して浅瀬へ押し倒し、大きく開かれたクロの白い牙が、防弾チョッキの上の無防備な『喉笛(気管と頸動脈)』を一撃で食い千切ったのだ!
ゴボッ、と赤い泡が噴き出し、二人目の兵士は声すら上げられずに波打ち際を鮮血で染めて痙攣した。
「なっ、なんだこの犬は――って、貴様、権藤隊長じゃねぇな!?」
一人目の兵士が驚愕に目を見開き、腰の拳銃を抜こうとホルスターに手を伸ばした。
だが、そいつがホルスターの留め具を外すより早く、俺はすでに百八十度振り返っていた。
右肩に89式自動小銃の銃床を当て、銃声が入り江に響き渡らないようセレクターを『単発』に切り替える。距離、わずか三メートル。
俺は迷うことなく、二回連続で引き金を引いた。
――パン! パン!
二発の5.56mm弾が男の眉間と喉を正確に貫通し、男は仲間の隣へと仰向けに倒れ込んだ。
【405日目・午前8時22分:甲板の『処刑檻』】
俺は一秒も無駄にしなかった。
二人の死体を大岩の陰へ引きずり込んで隠し、小型ゴムボートの底にクロを伏せさせて上から青い防水シートを被せると、船首に玄米の袋を一つ乗せて偽装し、俺自身がオールを握って警備艇へと漕ぎ出した。
防弾ヘルメットと黒い防毒マスクを被った頭を低く下げ、船に背中を向けたまま規則正しくオールを動かす。
八十メートル先の警備艇からは、波の音に紛れた二発の単発銃声など「浜辺で手負いのイノシシか生存者にトドメを刺した音」にしか聞こえなかったはずだ。
コツン、とゴムボートの側面が、警備艇の左舷後部にある金属製の乗船タラップ(梯子)に接触した。
頭上の甲板から、船に残っていた最後の武装兵――首から短機関銃を下げた三十代の機関士の男が、手すりから身を乗り出して舫い綱を受け取ろうと片手を伸ばしてきた。
「おい山田、なんでお前一人で戻ってきた? 他の連中はまだ上で野菜を積んでるのか?」
男が俺のヘルメットを見下ろして尋ねた。
俺はロープを渡す代わりに、右手で男の伸びてきた手首を万力のように掴み、全体重をかけて下へと一気に引きずり下ろした!
「うわっ!?」と男の上半身が手すりから前のめりに飛び出した瞬間、俺は左手で抜いた9ミリ自動拳銃の銃口を男の顎の下へ突きつけ、下から上へ一発だけ撃ち抜いた。
――パンッ!
脳幹を貫かれた機関士の男は、声も出さずに手すりの外へ転がり落ち、ドボンと鈍い水音を立てて海の中へと沈んでいった。
「よし、上がれ、クロ!」
俺がボートの防水シートをめくると、クロは強靭な後ろ足のバネで幅広の金属タラップを二段飛ばしで駆け上がり、音もなく警備艇の後部甲板へと着地した。俺もすぐに自動小銃を構えて甲板へと乗り込む。
鋼鉄の甲板にブーツを下ろした、まさにその瞬間だった。
俺の鼻腔を、決して忘れることのない「あの悪臭」が突いた。
魚の匂いでも、重油の匂いでもない。一年前、暗闇のコンビニと七十キロの国道で俺が嫌というほど嗅ぎ続けた、甘ったるくて酸っぱい、壊死した人間の肉と凝固した血の腐臭だ。
俺は後部甲板の隅――軍用の緑色の防水幌が被せられた、高さ二メートル四方の四角い構造物へと視線を向けた。
海風が幌の端をめくり上げた瞬間、俺はその下に隠されていたものを見て息を呑んだ。
太い鉄格子を溶接して作られた、二メートル四方の頑丈な『鋼鉄の檻』だった。
そしてその檻の暗がりの中には、首に鉄の首輪をはめられた『三体の感染者』が閉じ込められていたのだ!
骨と皮に痩せこけ、唇が裂けて黒い歯茎がむき出しになった男が一体と、女が二体。どす黒い血の垂れた白目を剥き、檻の中で低く喉を鳴らしてうごめいている。
俺の横をすり抜けたクロが、前方の操舵室へ続く通路を封鎖するため、その鉄格子の檻から『わずか三十センチ』の横を通り過ぎた。
三日前の浜辺とまったく同じだった。
檻の中の三体の感染者は、すぐ目の前を通った黒いシェパードのクロにはピクリとも反応せず、白い眼球はクロの体を空気のように素通りしていた。
だが、その後ろから『人間である俺』が半歩前に踏み出した瞬間――三体の感染者の首がバキッと音を立てて一斉に俺の方へと向き、鉄格子が歪むほどの勢いで飛びかかってきて、腐った指を隙間の外へと突き出しながら狂ったように咆哮した!
『『『グギャアアアアアアアッ!!!』』』
なぜ、資源徴発艇の甲板に感染者の檻なんかが積まれているのか?
その答えは一秒後、この船で唯一生き残っている最後の人間自身の口から語られた。
「おお、やっと荷物を積んで戻ってきたか!」
操舵室の鉄扉が開き、コップに入った冷たい水を片手に、満面の笑みを浮かべた『谷口』が甲板へと出てきた。
「聞いたか、この檻の中の三体の景気のいい鳴き声を! 出港前に黒崎将軍にお願いして、私が特別に積ませてもらったんだよ! 権藤隊長があの生意気なコンビニ店員を引きずってきたら、銃弾を一発も使わずに、両脚の骨を折って生きたままこの檻の中に放り込んでやるんだ! 私のような『カテゴリーA』の上級国民に逆らったゴミがどうなるか、海の上でじっくり見学してやろうと思ってな!」
谷口は上機嫌で甲板を二歩進み――そこで氷りついたように足を止めた。
甲板には、部下の兵士たちの姿はどこにもなかった。
操舵室へ戻る扉の前には、口元を赤い血で染めた巨大な黒い軍用シェパードが退路を塞ぐように立ちはだかっており、感染者の檻の前には、黒い防毒マスクを着けた男がただ一人、自動小銃を下げて立っていたからだ。
「ご、権藤隊長……?」
谷口の声が震え、手から落ちた水のコップが甲板に転がった。「な、なぜその犬を連れているんです? それに、他の兵士たちはどこへ……!?」
俺は左手で防弾ヘルメットのあご紐を外し、頭から脱ぎ捨てた。
そして、黒い防毒マスクの下端に指をかけ、ゆっくりと顔から剥ぎ取って鋼鉄の床へと落とした。
煙の煤と自分の血にまみれ、氷のように冷たい瞳で真っ直ぐにこちらを見つめる俺の素顔を見た瞬間――谷口の顔から、一瞬にしてすべての血の気が引き、死人のような土気色へと変わった。
「お、お前……!? う、嘘だ……!!」
谷口の両膝がガクガクと震え、そのまま甲板の鉄板の上に尻餅をついた。
四つん這いで必死に後ずさりし、操舵室の壁に背中がぶつかって逃げ場を失うと、谷口の灰色の作業ズボンの股間から、生温かい小便がジュワッと広がって甲板に水たまりを作った。
「ば、馬鹿な……!! 七人いたんだぞ!? 軍用の自動小銃を持った精鋭が七人も上陸したんだぞ!! なんでお前が生きてるんだ……!? ば、化け物め!!」
「全員死んだよ、谷口」
俺は静かで平坦な声で言い、一歩前へ踏み出して、権藤から奪った自動小銃のまだ熱い銃口を、座り込む谷口の鼻先十センチに突きつけた。
「お前が連れてきた兵士も、自慢の権藤隊長も、全員あの島の土になった。今この船の上にいるのは、俺と、俺の犬と、お前と、その檻の中の三体だけだ」
「ひぃぃぃっ!! う、撃たないでくれ、頼むから撃たないでくれぇぇっ!!」
谷口は両手で頭を抱え、小便の水たまりの上で奥歯をガチガチと鳴らしながら泣き叫んだ。
「わ、私は無理やり案内させられただけなんだ! 黒崎将軍に脅されて仕方なく場所を教えただけで、お前に危害を加えるつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ、誓うよ!!」
「質問に答えろ」
俺は焼けた鉄の銃身を谷口の汗まみれの額に直接押し当てた。ジュッ、と皮膚が焼ける音に谷口が悲鳴を上げる。
「『アーク』とは何だ? 正確な場所、兵力、そしてお前たちの命令書の内容をすべて喋れ。一つでも嘘をつくか、返答に三秒以上かかったら、俺の犬にお前の顔面を食わせる」
【405日目・午前8時35分:『アーク』の真実と、弾を使わない処刑】
そこからの十分間で、谷口は涙と鼻水を垂れ流しながら知っていることのすべてを洗いざらい白状し、俺は操舵室の中へ入って海図と航海日誌、そして通信記録をすべて確認して裏付けを取った。
浮かび上がった『東京湾岸・特別生存自治区』の実態は、俺の想像以上に腐りきったものだった。
一月に安全群島の政府コロニーが食料不足と内乱で崩壊した際、国防警備隊の元将校である『黒崎』という男が、生き残った六十人の武装兵と、政治家や官僚、大病院の経営者といった五十人の『カテゴリーA』の上級国民だけを引き連れて脱出し、死の都市の端に突き出た人工島――『東京湾・新港火力発電所および大型コンテナ埠頭』を占拠したのだ。
本土の都市と繋がる唯一の連絡橋をコンテナの壁と重機関銃で封鎖して感染者の侵入を防ぎ、上級国民たちは埠頭に横付けした豪華客船の中で、発電所の電気とエアコンを使い、ワインと温かい料理を食べて暮らしている。
一方で奴らは、3隻の武装警備艇を使って沿岸の生存者たちを次々と拉致し、現在『三百人以上のカテゴリーDの市民』に鉄の首輪をつけて倉庫に閉じ込め、一日十六時間の強制労働(漁業、荷役、およびゾンビがうろつく都市廃墟への命がけの物資回収)を強いていたのだ。
そして、怪我をしたり逆らったりして働けなくなったカテゴリーDの人間は、「銃弾の節約と他の奴隷への見せしめ」として、この甲板の檻の感染者に生きたまま食わせて処刑していたのである。
さらに俺が拳を強く握りしめたのは、操舵室のテーブルにピンで留められていた大判の海図を見た時だった。
俺の無人島の上には、赤いスタンプでこう記されていた。
『第1農業プランテーション予定地(現住対象:1名・排除指定)』
そして通信記録簿には、黒崎将軍からの絶対命令が書き込まれていた。
『第3徴発艇が407日目の午後18時(あと57時間後)までに東京湾の本部埠頭へ帰還しない場合、第1・第2徴発艇に殲滅部隊50名と重機関銃を載せて出撃し、島を完全に制圧・農園化せよ』。
俺は操舵室の窓から、自分の島の丘を見上げた。
俺の家は燃え落ちた。水タンクも砕かれた。そして船の医務室を調べたが、簡単な包帯と消毒液があるだけで、俺の左肩の深い裂傷の化膿を防ぐための強力な抗生物質は積まれていなかった。
このまま島に留まれば、傷が化膿して死ぬか、二日後に五十人の軍隊に包囲されて殺されるかのどちらかだ。
俺がこの島で二度と誰にも邪魔されずに生き抜くための唯一の方法――それは、この奪った警備艇を使って俺の方から東京湾の『アーク』へ乗り込み、都市を徘徊する何十万もの感染者の群れを奴らの要塞へぶつけて根こそぎ崩壊させ、医薬品も鋼材も燃料もすべて奪い取ってくることだ。
俺は航海日誌を閉じ、後部甲板へと出た。
谷口はまだ小便で濡れた鉄板の上に座り込み、一メートル先で牙を剥いて見張っているクロに怯えて震えていた。
俺が操舵室から出てきたのを見ると、谷口は両手を頭の上で合わせ、靴底を舐めんばかりに俺のブーツへと這い寄ってきた。
「ぜ、全部話したぞ!! 港の無線暗号も、連絡橋の構造も、将軍の船の場所も全部教えただろう!」
谷口は乾いた唇を舐め、卑屈な希望を目に浮かべて叫んだ。
「わ、私はお前の役に立つ! アークの埠頭へ入る時の案内人になれるぞ! それに……お前自身が去年言っていたじゃないか! 『銃弾は貴重だから、丸腰の人間を殺すために弾を一発でも使うのは無駄だ』ってな! 私をこの島の浜辺に置いていってくれ、草でも貝でも食べて大人しくしているから、命だけは助けてくれぇっ!」
俺は五秒間、無言でこの男を上から見下ろした。
一年前、厚さ四センチの防弾ガラスの向こうで温かいコーヒーを飲みながら、俺に『乾パン二枚』を投げ与えて死の荒野へ追放した男。
四十日前、俺の浜辺に漂着した時に命を助けて船とジャガイモを与えてやったにもかかわらず、七人の兵士を連れて戻ってきて俺の家を焼き払い、俺の肩を引き裂き、あまつさえ『俺をゾンビに食わせて見学するための檻』まで積んできた男。
「……ああ。お前の言う通りだよ、谷口」
俺は氷のように静かな声で頷いた。「お前みたいなゴミを処分するために、俺の貴重な鉛の弾を1グラムでも使うのは、絶対に許されない無駄遣いだ」
俺は船尾に溶接された鋼鉄の檻へと歩み寄った。
檻の中では、谷口が漏らした小便と脂汗の強烈な匂いに興奮した三体の感染者が、腐った口から黒いよだれを垂らしながら鉄格子をバンバンと叩いている。
この檻の下部には、埠頭や海へそのまま投棄できるように、ウインチ付きの滑り台レールと四つの浮力用ドラム缶が取り付けられていた。
俺は権藤のベルトから外した真鍮の鍵を差し込み、檻の側面扉の南京錠をカチャリと開けて、鋼鉄のカナテコを引っ掛けて扉を三十センチだけ引き開けた。
谷口は、開いた檻の隙間から突き出された三本の腐った白い腕を見て、俺が何をしようとしているのかを悟った。
谷口の顔が、今まで見たこともないような根源的な恐怖に引きつった。
「ま、待て……おい、待て!! 正気か貴様!? そ、その中は感染者だぞ!!」
谷口が裏返った金切り声を上げ、爪が剥がれるのも構わずに甲板の手すりにしがみついた。
「わ、私はカテゴリーAの主席監察官だぞ!! 帝国大学法学部を出た人間だぞ!! そんな化け物の檻の中に生きた人間を入れるなんて、法律でも人間の道徳でも許されるわけがないだろうがァァッ!!」
「今日の朝、この檻を船に積ませたのはお前自身だろうが、谷口副長官」
俺は低い声で言うと、右腕一本で谷口の作業服の襟首をひっ掴み、一年間薪を割りオールを漕ぎ続けて鍛え上げた背筋の力で、その軽い体を甲板から一気に引きずり上げた。
「銃弾を一発も使わずに、役立たずの寄生虫を生きたまま化け物の檻に放り込んだらどうなるか、特等席で見学したかったんだろ? ――たっぷり自分の目で味わえよ」
「ぎゃあああああっ!! やめろぉっ、悪かった、許してくれぇぇっ、誰かぁぁぁっ!!」
俺は暴れる谷口の尻を登山ブーツの裏で力任せに蹴り飛ばし、開いた鋼鉄の檻の中へと頭から放り込むと、即座に鉄格子の扉を叩き閉めて南京錠をロックした!
――ガチャンッ!!
狭い二メートル四方の檻の中で、三体の感染者が一斉に谷口の体へと覆いかぶさった。
俺はその光景を見ようともしなかったし、俺の大切な入り江やこの船の甲板を、あいつの汚い血と悲鳴で汚すつもりもなかった。
俺は操舵室へ入ってディーゼルエンジンを始動させ、電動ウインチで錨を巻き上げると、警備艇を島の南一キロの沖合――黒潮の本流が外海の無人岩礁へと真っ直ぐ流れている海域まで走らせた。
そして船尾のレバーを引き、ストッパーを解除した。
ガシャアァァンッ!!
四つの浮力ドラム缶がついた鋼鉄の檻は、レールを滑り落ちて白い波しぶきを上げながら海面へと転落した。
海面に浮かぶ鉄格子の檻の中から、肩と太ももの肉を生きたまま食い千切られる谷口のこの世のものとは思えない絶叫と、三体の感染者の咀嚼音が響き渡ったが、強い沖合の潮流がすぐさまその「浮かぶ処刑檻」を捉え、誰もいない太平洋の彼方へと猛スピードで押し流していった。
わずか二分後には、谷口の悲鳴は潮騒の音にかき消され、檻は水平線の向こうの小さな黒い点となって永遠に消え去った。
【405日目・午後7時00分:死の都市への出航】
その日の午後は、すべてを「戦争の準備」に費やした。
俺は一度島の入り江へ船を戻し、外海から見えない大岩の陰に警備艇を係留すると、煙が収まった我が家の焼け跡へと登った。
井戸水で最後の残り火を消し止め、灰の中から炎に耐え抜いた鉄の道具――俺の命綱である『一・五メートルの焼き入れ鋼製・六角カナテコ』、二丁の斧、サバイバルナイフ、そして鋳鉄の鍋――を回収し、小型の和船と一緒に東の断崖の溶岩洞窟へとすべて隠した。
それから俺は、クロを連れて再び『第3資源徴発艇』へと乗り込んだ。
船底の倉庫には、アーク徴発部隊の清潔な予備の黒い軍服、五十リットル入りの軽油のドラム缶が四本、5.56mmライフル弾が四百発入った弾薬箱、軍用の発煙筒、太い鉄鎖を切断するための大型油圧カッター、そして東京湾のアーク本部埠頭へ入る際に監視塔へ送る『夜間発光信号の暗号表』がそのまま残されていた。
午後七時。
太陽が水平線に沈み、海面が血のように暗い赤色へと染まる中、俺は清潔な包帯で左肩を固定し、権藤の黒い戦闘服を着て操舵室の舵輪の前に立った。コンソールの横には、弾をフル装填した89式自動小銃と六角カナテコが立てかけてある。
そして俺のすぐ隣、防弾ガラスのフロントウィンドウの前には、前足を揃えてピンと耳を立てたクロが、黒い海を見据えて立っていた。
俺はイグニッションキーを回した。
足元で二基の大型ディーゼルエンジンが重低音の咆哮を上げ、船体が力強く震えた。
俺は鋼鉄の船首を真っ直ぐ『北』へと向けた。三十キロ先の水平線の向こう、巨大な墓標のように暗いシルエットを浮かび上がらせている「死の巨大都市」の方角へ。
一年前、俺は三千円の破れたスニーカーを履き、自分の影にすら怯えて子供のように泣きじゃくりながらあの街から逃げ出した。
だが今夜、俺は奪い取った装甲警備艇の舵を握り、隣に『カテゴリーS+』の最高の相棒を従えて、自分たちがまだ世界の支配者だと信じ込んでいる『カテゴリーA』の連中の喉元を喰らいに、あの街へと帰るのだ。
(第5話へ続く)
第4話をお読みいただき、ありがとうございます!
自分が主人公を放り込むために用意させた「感染者の処刑檻」へ、銃弾を1発も使われずに生きたまま放り込まれて太平洋の彼方へ流されていった谷口……1年目から続いた因縁の完全決着、いかがでしたでしょうか?
そして続く【第5話】からは、ついに舞台が「死の巨大都市・東京湾岸」へと移ります!
1年ぶりに本土のアスファルトへ降り立った主人公が廃墟のコンビニで目にする『時給900円の亡霊』と、医療倉庫の前を塞ぐ「500体の感染者の大群」をクロと共に突破する驚愕の作戦をぜひお楽しみください!




