第18話:2万2000ヘルツの犬笛、返却されたビスケット、そして夕陽に並ぶ二つの椅子
第18話では、夜空を染めた赤い照明弾を合図に、ついにバンカーの鋼鉄ハッチが開き、主人公・健二とリーダー犬『クロ』、重戦車『ゴウ』たちが戦場へと飛び出します!
特殊部隊との決着、そして夜明けの浜辺で10ヶ月越しに返却される『小型ボルトカッターと2箱のビスケット』をぜひお楽しみください!
【735日目・午前2時20分:紅蓮の挟撃と、婚約者の最期】
小さなパラシュートに吊るされてゆっくりと降下してくる照明弾が放つ、五万カンデラの血のように赤い閃光の下で、新月の闇は完全に消え去っていた。
バンカーの鋼鉄ハッチから二十メートル手前、最上段の段々畑まで迫っていた篠原少佐と四人の特殊部隊員たちは、突然の強烈な光に暗視ゴーグルがハレーションを起こして悲鳴を上げ、慌ててゴーグルを顔から引き剥がした。
「くそっ、目が眩んで前が見えん!」
指向性爆薬(C4)の入った背嚢を背負った工兵が叫んだ。「どこから照明弾が撃たれた!? 東の尾根の捕獲班はどうした――」
工兵がその言葉を言い終えることはなかった。
バンカーの分厚い防弾ガラス窓に設けられた『鋼鉄の銃眼』の内側から、89式自動小銃の黒い銃口が突き出されたのだ。
――タタタッ! タタタッ!
極限まで制御された、三発ずつの正確なバースト射撃が夜の空気を引き裂いた。
最初の一発が工兵の右手首を撃ち抜いてC4爆薬の起爆装置を十メートル先のサツマイモ畑へと弾き飛ばし、続く二発が男の左肩と太ももを貫いて泥の中へと転倒させた!
「石垣の陰に伏せろ! 銃眼に制圧射撃だ!」
篠原少佐が怒鳴り、残った三人の兵士たちと共に一段下の低い石積みの裏へと飛び込んだ。
四丁の消音器付き自動小銃が一斉にバンカーの壁面へ銃弾を浴びせかける。だが、十ヶ月前に権藤大尉が砕いた古い石垣とは違い、今のバンカーは八十センチの鉄筋コンクリートと玄武岩の上に『厚さ十五ミリの軍用防弾鋼板』が隙間なく溶接されていた。5.56mm弾はカンカンと乾いた音を立てて火花を散らし、鋼板の表面に浅い傷をつけるだけでことごとく弾き返された。
「あいつはあの中に一人で閉じこもっているぞ!」
篠原は弾倉を確認しながら、正面のバンカーだけを睨みつけて叫んだ。「二人は銃眼を撃ち続けろ、残りの二人で爆薬を回収して――」
篠原たちの耳には、潮風の音に紛れて響いた「あの音」は聞こえていなかった。
人間の可聴域をはるかに超えた『2万2000ヘルツの超音波ドッグホイッスル』――短音3回、長音1回の無音の号令だ。
四人の兵士たちは全員、上のバンカーへ銃口を向けていた。
自分たちの「背後」と「側面」を見ている者は、ただの一人もいなかった。
バンカー横の石造りの装甲犬舎の中へ四匹の子犬(カゲ、テツ、ライデン、ユキ)を避難させ、その入り口に護衛として『リク』を残した上で――側面のローズマリーの茂みと暗い石垣の死角から、ケブラー装甲ベストを纏った四つの黒い影が時速五十キロで赤い光の中へと躍り出た!
リーダーの『クロ』、伴侶の『ハナ』、先ほど東の尾根から駆け戻って異変を知らせたマリノアの『ジン』、そして体重五十キロの重戦車『ゴウ』だ!
左端にいた兵士が、すぐ二メートル後ろの草が擦れる音に気づいてハッと振り返り、迫り来る巨大なロットワイラーの『ゴウ』の姿を見て目を見開いた。
男は反射的に自動小銃の銃口をゴウの顔面へと向けようとした――だが、その男の指が引き金に触れることはなかった。
八十メートル下の坂道の脇の岩棚に片膝をついていた葵が、捕獲班から奪った消音短機関銃『MP5』の照準器の中に、その男の右腕をすでに捉えていたからだ。
(その子に、指一本触れさせない!)
葵は息を止め、二発だけ引き金を引いた。
――プシュッ! プシュッ!
下から飛来した二発の9ミリ亜音速弾が、犬を撃とうとした兵士の右肘と小銃の機関部を横から正確に撃ち砕いた!
――ドォォォォンッ!!
そのコンマ一秒後、五十キロの鋼の塊となった『ゴウ』の体当たりが、一人目と二人目の兵士の『両膝の裏側』へと背後からまともに炸裂した!
バキィッ!と関節が逆方向にへし折れる音とともに二人の兵士が同時に前のめりに吹っ飛び、ゴウは近くの一人の背中の上に前足で飛び乗って地面へと完全に縫い止めた。
同時に、三人目の兵士には『クロ』『ハナ』『ジン』の三頭が完璧な連携で襲いかかった。クロの二百キロの顎が銃を握る男の右前腕の骨を一撃で噛み砕き、ハナとジンが左右の軍用ブーツのかかとを噛んで段々畑の下へと引きずり倒す!
そして、バンカーの分厚い『4点ロック式の鋼鉄製水密ハッチ』が、内側からガチャン!と大きく開け放たれた。
消えゆく照明弾の赤い残光を背負って現れたのは、この島の主だった。
右肩には89式自動小銃、そして左手には重さ六キロ・長さ一・五メートルの焼き入れ鋼製『六角カナテコ』を提げている。
男は石の階段を三歩で駆け降りると、犬たちが無傷のまま地面に押さえ込んでいる四人の兵士たちのヘルメットの上へ、鋼鉄のカナテコを淡々と正確に振り下ろし、わずか五秒で全員の意識と戦闘能力を完全に刈り取った。
ただ一人――犬たちの牙から逃れた男がいた。
指揮官の『篠原少佐』だった。
部下たちが犬の群れに蹂躙された瞬間、この『カテゴリーA』のエリート将校は部下を助けようとすらせず、小銃を投げ捨てて背中を向け、浜辺へと続くつづら折りの坂道を一人で一目散に逃げ出したのだ!
(ボートだ……!)
篠原は冷や汗と恐怖に顔を歪ませながら、砂利の坂道を転げるように駆け降りた。(エレキモーターのゴムボートまで戻れば助かる! 満潮の今なら二分間で外海へ出て、黒潮のジープの無線機から本部の大部隊を呼んでこの島ごと焼き払ってやる!)
篠原は坂道を飛び出し、玉砂利の浜辺の東端――二隻のボートを隠しておいた黒い大岩の裏へと回り込んだ。
そして、その場に凍りついた。
二隻の平底強襲用ゴムボートは、長さ一メートルにわたってチューブを深く切り裂かれ、黒い海藻のようにぺしゃんこに萎んでいた。さらに船尾の無音エレキモーターとリチウムバッテリーは、何かの重い鋼鉄の工具で粉々に叩き割られ、配線のちぎれたただの鉄クズと化していたのだ。
「う、嘘だ……そんなバカな!!」
篠原は震える脚で後ずさりしながら叫んだ。「誰だ!? 誰がボートを壊したァッ!?」
「私よ、篠原少佐」
冬の湧き水のように冷たく澄んだ声が、六メートル先の玄武岩の上から響いた。
篠原が弾かれたように振り返り、腰のホルスターから9ミリ自動拳銃を引き抜いた瞬間、岩の上に立つ黒い服の華奢な人影が見えた。その両手には、すでに三枚刃の矢をつがえた『コンパウンド・クロスボウ』が構えられ、篠原の喉元を真っ直ぐに捉えていた。
そして同時に、篠原の背後の坂道の入り口から、ザクッ、ザクッ、と玉砂利を踏みしめる重い登山ブーツの足音が近づいてきた。
島の主が、89式自動小銃を構えて浜辺へと降りてきたのだ。
しかもその左右には、クロ、ハナ、ゴウ、ジンの四頭だけでなく、坂の上から合流したリクと四匹の若い犬たち(カゲ、テツ、ライデン、ユキ)を含む『九頭すべての軍用犬の群れ』が、かすり傷ひとつない完全な姿でずらりと並び、最後の侵入者の退路を完全に塞いでいた。
男の小銃に取り付けられたタクティカルライトの白い光が篠原の顔を照らし、続けてその光がわずかに上へ動いて、岩の上に立つ少女の横顔を照らし出した。
波しぶきで泥が落ち、左頬に一筋の赤い血を滲ませたその顔を見た瞬間――篠原は墓場から幽霊でも出たかのように両目を大きく見開いた。
「あ……葵……!?」
篠原の声が裏返った。「久我葵か!? 生きていたのか!? 黒崎将軍からは、十ヶ月前にアークの倉庫で死んだと聞いていたぞ!」
次の瞬間、篠原の顔に、救われたかのような下品でヒステリックな笑みが浮かんだ。
篠原は震える左手で島の主を指差しながら、岩の上の葵に向かって叫んだ。
「お、おい葵、私の声が分かるだろう! 婚約者の篠原だ! なんという幸運だ、お前がこんなところにいたとは! 矢を向ける相手が逆だぞ、今すぐその後ろにいるカテゴリーDのドブネズミの背中を撃て! そいつを殺してこの島と犬を手に入れるのを手伝えば、私から父上の久我委員長に口添えしてやる! アークでの不始末はすべて水に流し、お前に『カテゴリーA』のパスを返してやるぞ! また私と一緒に、暖房の効いた山岳要塞の個室で本物のワインと食事を楽しみ、カテゴリーDの奴隷を二十人使って暮らせるんだぞ!」
八メートル先で、島の主が「久我委員長」「カテゴリーA」という言葉を聞いてわずかに眉をひそめたが、銃口は動かさなかった。岩の上の女がどう動くかを見極めようとしているのだ。
葵は、クロスボウの矢先を1ミリたりとも下げなかった。
二年前のあの日、豪雨のヘリポートで親友の咲が食い殺された時とまったく同じ、絶対零度の軽蔑を込めた瞳で篠原を見下ろした。
「……本物の食事? カテゴリーAのパス?」
葵の声は、波の音よりも静かだった。
「久我誠司の娘なら、パンデミック五日目のあの日に死んだわ、篠原。あなたと父が、八箱のボルドーワインを積むために咲の目の前で防弾隔壁を閉めた、あのヘリポートの屋上でね」
篠原の顔から笑みが凍りついた。
「そしてもし、あの頃の私が一欠片でも残っていたとしても」
葵は氷のような目で続けた。「アークの桟橋で十五人の子供たちを逃がした私の足首を砕き、首に『D―318』の鉄の首輪をはめたのはあなたたちよ。あなたたちのいる暗い山奥の穴へ戻ってカビ臭い乾パンを食べるくらいなら、自分の舌を噛み切って死んだ方がマシだわ」
「この……恩知らずの売女がァッ!!」
逆上した篠原が、手にした9ミリ拳銃の銃口を咄嗟に葵の胸へと向けて引き金を引こうとした。
だが、その銃口が半分も回り切るより早く――島の主の89式自動小銃と、葵のクロスボウが、完全に同じコンマ一秒に火を噴いた!
――パンッ! シュッ!!
男が放った5.56mm弾が篠原の拳銃のスライドごと右手首を粉々に撃ち砕き、同時に葵が放った三枚刃のカーボン矢が篠原の左太ももを裏側まで貫通した!
「ぎゃあああああっ!!」
篠原は波打ち際の冷たい海水の中に両膝から崩れ落ち、その胸板の上に、飛びかかった『クロ』が前足を突き立てて喉笛の二センチ手前で白い牙を剥いた。
島の主はゆっくりと歩み寄ると、篠原の胸から『軍用暗号化・衛星短波送信機』をもぎ取り、長さ一・五メートルの鋼鉄のカナテコの鋭い穂先を篠原の額に突きつけた。
「山岳要塞の本部への定時連絡は何時だ?」
「よ、午前四時だ……!」と、クロの牙の下で篠原が失禁しながら泣き叫んだ。「四時までに暗号を送らなければ、黒潮の海岸へ偵察隊が――!」
「それなら彼に聞く必要はないわ」
葵は岩の上から降り、篠原のポケットから落ちた防水コード表を拾い上げた。「父の委員会の通信手順は私が全部知っている。この送信機の自動救難信号(SOS)を作動させて流木に括りつけ、島の北一キロの速い潮流に流せば、午前四時には三十キロ北の『犬吠埼の暗礁海域』から信号が発信されるわ。本部は『二隻のゴムボートが夜間の潮流で転覆し、部隊は三十キロ北の沖合で全員水死した』と判断して、二度とこの海域には近づかなくなる」
男は葵の手にあるコード表を一瞥し、静かに頷いた。
「……お前の言った通り、こいつらに使う銃弾はもったいないな」
男は両手で握った重さ六キロの焼き入れ鋼製『六角カナテコ』を振り上げ、命乞いを叫ぶ篠原の頭蓋骨へと迷いなく垂直に振り下ろした。
――ゴスッ!
乾いた音とともに、親友の咲を笑い、九頭の犬を奪おうとした『カテゴリーA』の将校は、一発の銃弾すら使われることなく絶命した。
それから二十分後。
東の尾根で気絶していた捕獲班の三人も確実に処分され、八人の侵略者の死体は、偽の救難信号を発信し続ける流木の送信機とともに、西の断崖の下を流れる黒潮の深い海溝へとすべて投棄された。
この島と人間の世界を繋ぐ最後の痕跡は、今度こそ永遠に消え去ったのだ。
【735日目・午前5時30分:九頭の審判と、返却されたビスケット】
やがて東の水平線が真珠のような淡い灰色と黄金色に白み始めた頃、入り江の玉砂利の浜辺には、波が丸い石を洗う静かな音とカモメの鳴き声だけが残されていた。
だが、浜辺の中央、互いに五メートルの距離を置いて立つ二人の人間の間には、まだピンと張り詰めた空気が流れていた。
島の主は、バンカーへ続く坂道の入り口に立っていた。
手にした89式自動小銃の銃口は、葵の頭部こそ外れていたものの、いつでも撃てるよう胸の高さに保たれている。
この二年間で、男は血の代償とともに一つの鉄則を学んでいた。『人間という生き物を、決して信じるな』。浜辺で命を助けてジャガイモを与えた谷口は兵士を連れて家を焼きに来たのだから。そして医療倉庫で結束バンドを切ってやった二人の若者は、三時間後に恩人の船を盗んで喉を掻き切りに来たのだから。
「東の崖で睡眠肉を持った三人を無音で倒し、ゴムボートを裂いて逃げ道を断ち、照明弾で俺を起こして、坂の上では俺の犬を狙った兵士の肘を撃ち抜いた」
男は低く、静かで、感情の読めない声で言った。「お前がいなければ、今夜俺の犬たちは眠らされて奪われ、バンカーの扉は破られていただろう」
男は玉砂利の上を半歩踏み出した。
「だが、さっきあの少佐はお前を『久我委員長の娘』と呼んだ。五日前にラジオで恩赦がどうのと演説していた、あの山岳要塞の支配者の娘だと。――お前は一体何者だ? 何の目的でこの島へ来た?」
葵は胸の奥で心臓が強く脈打つのを感じながら、目の前の男を見つめた。
三百二十日間、一日たりとも忘れたことのなかったあの人だ。誰にも媚びず、誰にも頼らず、背中の鋼鉄の棒のように揺るぎない孤高の瞳をしている。
だが、葵が口を開くよりも早く、二人の誰も予想しなかった出来事が起きた。
――カシャ、カシャ、カシャ。
濡れた玉砂利を踏む、軽やかな足音が響いた。
男の左足のすぐ横に控えていた巨大な黒いジャーマン・シェパード――この一年間、主人以外のどんな人間にも十メートル以内へ近づくことすら許さなかった絶対的リーダー(アルファ)の『クロ』が、自ら警戒姿勢を解いて前へと歩き出したのだ。
その後ろに、伴侶の『ハナ』、先ほど東の尾根で葵に命を救われたマリノアの『ジン』、そして小さな銀灰色の雌の子犬『ユキ』の三頭が続いた。
四頭の犬たちは、五メートルの距離を歩いて葵の前まで来ると、葵に牙を剥くのではなかった。
なんと『クロ』『ハナ』『ジン』の三頭がくるりと踵を返し、銃を構える自分たちの主人の方を向いて――『葵の両足を背後から守るような完璧な半円形の盾』となって、玉砂利の上にピタリと座り込んだのだ!
クロは自分の分厚い黒い肩を葵の膝に優しく押し当て、小さな『ユキ』に至っては、葵の右足のブーツの上に短い両前足をちょこんと乗せて主人を見上げ、「クゥン……!」と誇らしげな高い声で鳴いて尻尾を振った。
この島に上陸して以来初めて、男の氷のような瞳が、純粋な驚愕に大きく見開かれた。
「クロ……? ハナ……?」
男は思わず自動小銃の銃口を十センチ下げて呟いた。「ジンとチビのユキまで……おい、お前たち、一体何をやっているんだ?」
葵は自分の膝に寄り添うクロの大きな黒い頭を見下ろし、喉の奥の熱い塊が溶けていくのを感じた。
葵は敵意がないことを示すため、ゆっくりとした動作で肩からクロスボウと短機関銃を外し、自分の手から遠い石の上にそっと置いた。
それから黒いジャケットの襟元のジッパーを十センチだけ下げ、鎖骨の上の布地を横に開いた。
朝日の最初の光に照らし出された彼女の白い首の付け根には、かつて『D―318』の鉄の首輪が食い込んで刻まれた、赤黒い円形の傷跡がくっきりと残っていた。
「あの死んだ男が言ったことで、本当のことは一つだけよ。私の名前は、葵」
葵は真っ直ぐに男の瞳を見つめて言った。「そしてラジオで喋っていた男が私の父親だということも本当よ。でも私は、親友の咲を見殺しにし、アークで子供たちをゾンビの餌にしようとしたあの男たちの『A』のパスにツバを吐いて捨てたわ。あの日から私の首にあるのは、この『カテゴリーD』の傷跡だけよ」
葵はクロと小さなユキの間に静かに両膝をつくと、背中の防水バックパックを開け、中から『三つのもの』を取り出して、男からよく見えるように平らな石の上に丁寧に並べた。
一つ目は、ゴムのグリップが擦り減りながらも、刃先が完璧に手入れされた長さ四十五センチの鋼鉄製『小型ボルトカッター』。
二つ目は、傷ひとつなく、三重の透明なビニールで厳重に密封された未開封の『非常用ビスケットの金属缶・二箱』。
そして三つ目は、植物遺伝資源センターと獣医学研究室のラベルが貼られた、銀色の『密閉ステンレスシリンダー』だった。
男が、その古びたボルトカッターと、二つの非常用ビスケットの箱に視線を落とした。
その瞬間、男の呼吸がピタリと止まった。
「四百六日目の朝、午前五時四十分」
葵はかすかに震える声で、だが一度も目を逸らさずに言った。「県立医療・化学物流センターのガレージで、二人の若い男と一緒に六十体の感染者が眠る第2倉庫へ押し込まれそうになっていた、右足首に包帯を巻いた女……あれが、私よ」
男の瞳が、二つのビスケットの箱から葵の顔へと上がり、それからトレッキングブーツに包まれた彼女の右足首へと動いた。
「あなたとクロが、防火扉を十センチ開けて私たちを中へ引き入れてくれた」
葵の泥と乾いた血がついた頬を、一筋の透明な涙が静かに伝い落ちた。「あなたはナイフで手首の結束バンドを切り、三人で分けるようにと、このボルトカッターと二箱のビスケットを投げて、『俺の後をついてくるな』と言って装甲トラックで出て行ったわ。……でも、あなたが出て行った三十秒後、首輪を切った途端にあの二人の男は、足首が壊れて歩けない私をアスファルトに突き飛ばして、二箱のビスケットを両方とも奪って逃げたの。走って逃げるのに重くて邪魔だからって彼らが地面に捨てていったのは……このボルトカッターだけだった」
男の脳裏に、稲妻のような鮮明さで「あの日」の記憶が蘇った。
四百六日目の午前五時五十五分、装甲トラックのバックミラーの中で見た光景――首輪を外した二人の若い男が、足首に包帯を巻いた女からビスケットの箱をひったくり、胸板を突き飛ばしてアスファルトに転倒させ、置き去りにして走り去ったあの瞬間だ。
「あなたにアークの連絡橋の重機関銃のことを知らせたくて、必死にトラックを追いかけたけれど、五十メートルで足首が折れて転んでしまった」
葵はクロの黒い首筋にそっと指を添えながら続けた。「だから私は、あなたが空にしてくれた医療倉庫に戻って足を治し、あなたとクロから『常に風下に立つこと』と『音でおとりを使うこと』を学んで、十ヶ月かけて七十キロの線路を歩いてきたの。道中で未開封のビスケットを二箱見つけて、あなたの島にきっと足りていないと思った硬質小麦の種や、パンの酵母、三キロの生コーヒー豆、リンゴとレモンの苗木、それから犬たちのフィラリアの薬とワクチンをこのシリンダーに詰めて……今日、ようやくここまで辿り着いた」
葵は深く息を吸い込んで立ち上がり、夜の海を四キロ漕ぎ続けてタコが裂け、血が滲んだままの両手のひらを男の前に見せた。
「『カテゴリーA』の寄生虫みたいに、あなたに食べ物を恵んでもらいに来たんじゃないわ。あなたの大切な孤独を邪魔するつもりもない」
葵は昇り始めた朝日の光の中で、晴れやかで澄み切った小さな笑みを浮かべた。「ただ、あの日奪われた二箱のビスケットと、私の命を救ってくれたこのボルトカッターをどうしてもあなたに返したかった。そして、あなたの大切な九頭の家族を守りたかったの。……もう犬たちは安全だから、私は東の崖のカヤックに戻って本土へ帰るわ」
浜辺に、長い、長い沈黙が降りた。
男は丸十秒間、一言も言葉を発さなかった。
ただ、濡れた玉砂利の上に並んだ「二箱の非常用ビスケット」と「小型ボルトカッター」をじっと見つめていた。
男の頭の中では、ちょうど五日前の夕方――七百三十日目の2周年記念の晩餐のテーブルで、寄り添うクロとハナを見ながら自分自身が口にした言葉が、一字一句そのまま鳴り響いていた。
『――俺は生まれてから一度も、彼女(恋人)というものができたことがなかった。だが、この地上にはもう、ビスケットの一箱や金の腕時計のために背中から撃ってこないような「信じられる人間の女」など、ただの一人も残ってはいないのだ』
人間という種は、全員が骨の髄まで腐りきっていると信じていた。
あの日のバックミラーの中で突き飛ばされた女も、とっくに死んだか、誰かの奴隷になっていると思っていた。
だが今、自分の目の前に立っている二十三歳の少女は、子供たちを助けるために支配階級の特権を自ら投げ捨て、三百二十日間誰にも頼らずに生き抜き、七十キロの死の大地を歩き、そして真夜中の荒れる海を四キロも手漕ぎのカヤックで渡ってきたのだ。
俺からビスケットを一箱奪うためにではない。『あの日奪われた二箱のビスケットと工具を俺に返し、俺の犬たちを守り抜くため』だけに。
――カチン。
男は親指一つで89式自動小銃の安全装置をかけ、スリングで銃を背中へと回した。
そして右手で自分の額を押さえて朝の青空を仰ぎ見ると――この二年間で初めて、腹の底から込み上げてくるような、温かく、深く、晴れやかな笑い声を上げた。
主人のその笑い声を聞いて、クロも、ハナも、ゴウも、ジンも、リクも、そして四匹の子犬たちも、九本の尻尾を一斉に歓喜に揺らした。
「……参ったな、こりゃ」
男は呆れたように笑いながら頭を振り、五メートルの玉砂利を歩いて、目を丸くしている葵の目の前――わずか三十センチの距離で足を止めた。
「五日前、俺はクロにこう言ったんだよ。『この地球上にはもう、ビスケット一箱のために俺を裏切らないような女は一人も残っていない』ってな。……まさか、ビスケットを二箱返すために、七十キロ歩いて四キロの海を手漕ぎで渡ってくる奴がいるとは計算外だった」
男は石の上に片膝をつき、古びた『小型ボルトカッター』と『二箱の非常用ビスケット』、そして種の入ったシリンダーを拾い上げると、自分の手で葵のバックパックの中へ丁寧に戻し、それを自分の広い左肩へと軽々と担ぎ上げた。
続けて男は、自分の戦術ベストの医療ポーチから滅菌生理食塩水とガーゼ、そして防水サージカルテープを取り出すと、樫の木の樹皮のように分厚く逞しいその手で、葵の左頬に残っていた銃弾の掠り傷を、壊れやすいガラス細工に触れるかのような優しい手つきで綺麗に拭って手当てしてくれた。
男の温かい指先が頬に触れた瞬間、葵の全身から十ヶ月間の緊張の糸がぷつりと切れ、膝が震えて視界が熱い涙で滲んだ。
「この島では、『カテゴリーA』の人間は立ち入り禁止だ」
男は三十センチの距離から、もう氷のかけらも残っていない穏やかな瞳で葵の目を見つめて言った。「だが、俺の犬たちを守ってくれて、リンゴの接ぎ木ができて、ボルトカッターとビスケットを返しに海を渡ってくる『カテゴリーD』なら……バンカーの扉はいつでも開いてる。お前のカヤックは、もう二度と使わなくていい」
男は葵の前に、分厚いタコの刻まれた右手を差し出した。
「俺の名前は健二だ。――ようこそ俺たちの家へ、葵」
葵は差し出されたその大きな手――十ヶ月前の暗い倉庫で、自分の手首の鎖を断ち切ってくれたあの手――を見つめ、涙で濡れた顔に人生で一番輝くような笑顔を咲かせると、血の滲んだ自分の両手で健二の手をぎゅっと握り返した。
「ありがとう……健二さん。ただいま!」
【735日目・午後6時30分:夕陽に並ぶ二つの椅子】
七月の太陽が西の水平線へとゆっくりと傾き、太平洋の海原を燃えるような茜色と黄金色に染め上げる午後六時三十分。
防弾バンカーの前の広い石造りの展望テラスには、旧世界が崩壊してから二年間、この地上のどこにも存在しなかったほど豊かで温かい晩餐が並んでいた。
テラスの温かい石畳の縁には、『九つの大きなステンレスボウル』が整然と並べられていた。
ボウルの中には、山盛りのイノシシの赤身肉のボイル、レバーとハツ、濃厚な骨髄スープで炊いた玄米リゾット、ヤギのホエイ(乳清)、そして新鮮な生卵がトッピングされている。
その前には、背筋をピンと伸ばして目を輝かせる九頭の家族――中央の『クロ』と『ハナ』、頼もしき巨漢『ゴウ』、双子の風『ジン』と『リク』、そして今日一日ずっと葵の足元から離れようとしなかった『ユキ』をはじめとする『カゲ』『テツ』『ライデン』の四匹の子犬たちが、行儀よく並んで合図を待っていた。
だが今夜、テラスの中央に据えられた黒玄武岩のテーブルの上には、五日前とは決定的に違うものがいくつもあった。
二つの熱い鋳鉄スキレットの上では、島ミカンの枝で燻製し、自家製のヤギの発酵バターとニンニクとローズマリーでカリッと焼き上げた『野生イノシシの熟成ロース肉の極厚ステーキ』が二人分、香ばしい音を立てている。
横のカッティングボードには、溶岩洞窟の熟成庫から切り出したばかりのルビー色に透き通る『十二ヶ月熟成・イノシシの生ハム(プロシュート)』と、八ヶ月熟成の『ハード・シェーブルチーズ』、そして段々畑で採れた完熟トマトのサラダ。
そしてテーブルの真ん中には、今日、葵が持ってきた硬質小麦の粉とドライイーストを使って二人が石窯で焼き上げたばかりの、湯気の立つ黄金色の『焼きたての白い丸パン』と――薪の火で焙煎して手挽きした、芳醇でほろ苦い香りを放つ『二杯の淹れたてのホットコーヒー』が並んでいたのだ!
温かいお風呂に入って十ヶ月間の泥と疲れを洗い流し、健二から借りた少し大きめの清潔な綿シャツを着た葵が、二つのコーヒーカップをテーブルに置くと、夕日に照らされたテラスの端を見て微笑んだ。
一年前、健二が一人で海を眺めるために作った木の椅子のすぐ隣には――今日の午後、健二が新しく丸太を削って組み上げた、同じ形の『二つ目の木の椅子』がぴったりと並べて置かれていた。
「よし、準備完了だな!」
健二は自分の椅子に腰を下ろし、葵に隣の新しい椅子を示すと、ボウルを見つめてプルプルと震えている九本の尻尾に向かって優しく声をかけた。「昨夜も俺たちの島を守ってくれてありがとうな、お前たち。――よし、食え!」
九本の尻尾が一斉に歓喜に揺れ、九頭の犬たちが夢中になって温かいご馳走のボウルへと顔を埋めた。
葵は健二のすぐ隣の椅子に腰を下ろし、温かい陶器のカップを両手で包んで、二年ぶりとなる本物のコーヒーを一口飲んだ。深くて優しい温もりが、胸の奥までじんわりと広がっていく。
「……おいしい……」
葵は焼きたてのパンとステーキを見つめながら、目を細めて呟いた。「十ヶ月間、ずっと風下の物陰で冷たい保存食ばかり食べてきたから……あの七十キロの線路の先に、本当にこんな楽園があったなんて夢みたい」
「今日までは、まだコーヒーと白いパンと……一緒に食べる相手が足りなかったからな」
健二は少し照れたように口の端を上げて笑うと、自分のスキレットから一番柔らかいステーキの芯の部分を切り分けて葵の皿に乗せた。
そして健二は、玄武岩のテーブルの上――記念として真ん中に置かれた『あの小型ボルトカッター』と『二箱の非常用ビスケット』のすぐ横――に置かれていた葵の右手の上に、自分のタコだらけの大きな左手をそっと重ねた。
葵は手を引かなかった。
自分の指を健二の力強い指にそっと絡ませ、三百二十日間ずっと探し続けてきたその温かい肩に、自分の肩を静かに預けた。
二人の足元では、食事を終えたクロとハナがぴったりと体を寄せ合って横になり、小さな銀灰色のユキが、健二と葵の二人のブーツの上にまたがるように顎を乗せて、波の音を子守唄にスヤスヤと眠り始めていた。
入り江の入り口では、海面下に沈めた鋼鉄の船が白い波を静かに砕き、その向こうの果てしない水平線へ、真っ赤な太陽がゆっくりと溶けていく。
『カテゴリーD』の廃棄物たちが築き上げたこの孤島には、もう孤独はなかった。
だが――コーヒーの最後の温かい一口を飲み干した時、葵の瞳にふと真剣な光が戻り、彼女は健二の手を握ったまま静かに口を開いた。
「……健二さん。今夜はこのままゆっくり休んでほしいけれど、明日の朝、あなたにどうしても見せなければならない『もう一つのもの』があるの」
葵はバンカーの入り口の脇に置かれた、篠原少佐の遺体から海に捨てる直前に回収していた『黒い防水指令ブリーフケース』へと視線を向けた。
「私が黒潮の舟屋で聞いた話では、父の委員会はもう食料が尽きかけていて……この島の航空写真と座標を、すでに本土の複数の武装略奪団に『報酬』としてばら撒いている可能性があるわ。本土からたった四キロしか離れていないこの島には、じきに何百人もの武装した連中が船で押し寄せてくる」
健二の目が細められ、水平線の向こうに横たわる本土の黒い影を見据えた。
「けれど、絶望しないで」
葵は健二の大きな手を両手で包み込み、力強く微笑んだ。「あのケースの中には、旧政府が極秘に調査していた『本土から百八十キロ南の太平洋上に浮かぶ、本物の無人楽園島』の海図と、私たちがこの九頭の家族も、ヤギも、あなたの作った生ハムもすべて積んでそこへ渡るための『手がかり』が入っているから」
二人の戦いは、まだ終わりではなかった。
それは、腐り果てた人間たちの手が二度と届かない「永遠の楽園」へと向かう、二人と九頭の壮大な脱出計画の始まりだった。
(第19話へ続く)
第18話をお読みいただき、ありがとうございます!
そして皆様の熱い応援のおかげで、本作がパニック〔SF〕連載中ランキングにて【日間 第2位】【週間 第2位】へと浮上いたしました!心より感謝申し上げます!
人間を一切信じないと誓っていた健二の銃口の前で、クロ・ハナ・ジン・ユキの4頭が自ら「葵を守る盾」となって座り込んだ瞬間、そして10ヶ月越しに返却された『小型ボルトカッターと2箱の非常用ビスケット』……二人の孤独な魂が結ばれた夕陽の晩餐、いかがでしたでしょうか?
しかし、戦いはまだ終わりません!
次回【第19話】では、篠原少佐の黒いブリーフケースから判明する「父・久我委員長による島の競売(120人の武装海賊船団と迫撃砲の接近)」と、本土から180キロ南の太平洋上に実在する地上最強の二重カルデラ要塞島――『青ヶ島』への壮大な脱出計画が明かされます!
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・(5)【本作の原点!】パニック〔SF〕三冠達成&累計ランキング入賞・始まりの短編版(第1部):
『『カテゴリーD(廃棄物)』と切り捨てられたコンビニ店員のリアル・ゾンビサバイバル 〜ゲーム脳を捨てて無人島を開拓したら、俺を見捨てた『カテゴリーA』の上級国民たちが食料を乞いに来たけれど、もう遅い〜』
https://ncode.syosetu.com/n8187mw/
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【別作品(ゴブリンの物語)に関するお詫びと完全版(全33話)のご案内】
先日公開しておりましたゴブリンとハルトのチョコレート・コメディー作品につきまして、「第0話(短編)」と「連載版」の分割投稿やレイアウトの不備により、一度作品を取り下げて作り直す形となってしまい、すでにフォローや応援をしてくださっていた皆様には多大なるご迷惑をおかけし、本当に申し訳ございませんでした。
現在、短編と連載を【一つの連載作品】に完全統合して第1話からスムーズに読めるよう全面改修し、新規書き下ろしの【第33話:劇場版・特別番外編】を追加した『全33話・完全版』として再公開しております!
・再公開・完全版(ページ上部・下部の【作者名】からすぐにお読みいただけます!)
『俺の『鞄持ち』が勝手に世界を救おうとする件〜ゾンビ世界でチョコ中毒になった最弱ゴブリンと、彼を聖なる精霊と信じる少年のすれ違いバール無双〜』
もしよろしければ、新しく生まれ変わった完全版もぜひ覗いていただけますと幸いです。
いつも温かい応援を本当にありがとうございます!グラッツェ!!




