第16話:風下の十ヶ月、水深四十センチの死角、そして九頭の家族を狙う睡眠罠
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第16話では、医療倉庫で健二が残した「血のついた取扱説明書」を見つけた葵が、健二とクロから学んだ『風下の鉄則』で70キロの荒野を生き抜く10ヶ月間と、734日目の夜、健二の島と9頭の犬たちを狙う特殊部隊の「恐るべき作戦」を舟屋の床下で聞き取る緊迫のシーンをお届けします!
【406日目〜729日目:『風下』の鉄則と、70キロの線路】
足首の靭帯を痛めた二十三歳の女が、いかにして誰の助けも借りずに七十キロの死の荒野を歩き抜き、三百二十日間一度も感染者に噛まれることなく生き延びることができたのか。
その答えはすべて、四百六日目の朝、あの黒い犬を連れた男が残していった「痕跡」の中にあった。
歩道橋の上から、あの人と五頭の犬たちを乗せた大型揚陸バージが南の水平線へと消えていくのを見届けたあと、葵はすぐに西の丘へ逃げようとはしなかった。
大きく腫れ上がった右足首の靭帯損傷を抱えたまま、見通しの悪い市街地を歩くのは自殺行為だと分かっていたからだ。
葵は痛む足を引きずり、日陰の壁際を伝って二百メートル後ろの『県立医療・化学物流センター』へと引き返した。
あそこなら、高架下にいた五百体の感染者は袋小路の路線バスへ誘導されて消えており、第2集荷倉庫の六十体はあの人が外からロックした分厚い鉄の防火扉の向こうに閉じ込められている。今この街で最も安全なシェルターは、あの人が通り過ぎた直後のあのガレージだったのだ。
ガレージのシャッターを内側から閉めて隣の医療倉庫へ入った葵は、『04:外科処置・縫合器材』の棚の前の床に、開封されたばかりの『医療用スキンステープラー(皮膚縫合器)』の滅菌パックと、表面麻酔スプレーの空き缶、そして血のついた取扱説明書が落ちているのを見つけた。
「……本当に、説明書を読みながら片手で自分の肩を十二針も縫ったんだわ……」
葵はその説明書を拾い上げ、痛む胸の奥で思わず小さな笑みをこぼした。「すごい人……。私も、泣き言なんて言ってられないわね」
大学の獣医学科で外科処置と解剖学を学んでいた葵は、自分の足首を治すために何をすべきか正確に理解していた。
整形外科の棚から熱可塑性のギプス用キャスト(固定材)と伸縮包帯、消炎鎮痛剤を取り出し、冷水パックで徹底的に患部を冷やしたあと、足首の関節が1ミリも動かないよう完璧に固定した。
靭帯が修復されるまでの三週間、葵は医療倉庫の中でただ漫然と過ごしたわけではなかった。
彼女の頭の中にあったのは、暗い倉庫の隙間から目撃したあの光景――黒いシェパードの『クロ』が、六十体の感染者のすぐ足元を空気のように素通りしていったあの瞬間だった。
葵は倉庫の窓から、外の大通りを時折通り過ぎる感染者の群れを双眼鏡で何十時間も観察し続けた。
四つ足のクロとは違い、二足歩行の人間である葵が感染者に気づかれずに移動する方法は、ただ一つしかなかった。
『徹底して風下に位置取り、匂いの分子を絶対に敵の方へ流さないこと』。そして『おとりの音を使って、進む道の感染者をあらかじめ別の場所へ移動させること』だ。
医療倉庫を出る前、葵は化学倉庫にあった無香料の重曹(炭酸水素ナトリウム)と消毒用エタノールで全身と衣服を洗って体臭の発生を最小限に抑え、歩道橋の監視兵から回収した『狩猟用コンパウンド・クロスボウ(複合洋弓銃)』の弦に蜜蝋を塗って発射音を完全に消した。
さらに、腕時計のコンパスと、道端の信号機に垂れ下がる「蜘蛛の巣の糸の揺れ」で常に風向きを読む癖をつけ、バッグの中には空き缶とゼンマイ式のキッチンタイマーを組み合わせた「簡易発音ルアー」を十個用意した。
四百三十日目、完全に回復した足に鋼鉄の先芯入りトレッキングブーツを履いた葵は、まず北西の古い工業運河へと向かった。あの人が最後に警備艇を回収していた場所だ。
そこで葵が見たのは、ルーフの上で電池の切れた120デシベルの電子サイレンが載ったままの防災トラックと、その横で白骨化していたアークの脱走兵、そして――踏み潰された『非常用ビスケットの空き箱』の横で、感染者に食い尽くされて骨だけになっていた『あの二人の若い男』の末路だった。
二人の骨の周りには、引きちぎられた『D』の鉄の首輪が転がっていた。
彼らがあの人の隠していた船と薬を奪おうとして、逆にあの人の仕掛けたサイレンによって処刑されたことは一目で分かった。
葵はベルトに差した『小型のボルトカッター』の柄にそっと手を触れ、運河に背を向けると、南の海へと続く七十キロの放棄された鉄道線路――かつてあの人も血豆を潰しながら歩いたのと同じ砂利道――へと足を踏み出した。
そこからの九ヶ月間、葵は一度たりとも無謀な戦いはしなかった。
常に風下を選び、300メートル先に感染者の姿が見えれば迷わず排水路のコンクリート管や放置車両のトランクの中に身を潜めて二時間でも息を殺し、どうしても通れない駅前の密集地帯ではキッチンタイマーを入れた空き缶を反対側の路地へ投げ込んで道を空けた。
そして、あの人がいるはずの南の海へ近づくにつれ、農学部出身の葵は、単なる自分の食料ではなく「あの人の島に絶対に足りていないはずの宝物」を計画的に集め始めた。
内陸の丘陵地帯にあった大学農学部の『植物遺伝資源センター(シードバンク)』の地下保管庫をあのボルトカッターでこじ開けた時、葵は歓喜に震えた。
電気が止まっても断熱構造で守られていたステンレス容器の中から、葵は防水シリンダーに以下のものを詰め込んだのだ。
・パンやパスタを作るための『秋まき硬質小麦(デュラム小麦)と大麦の真空パック種子』
・何年でも使える『高活性ドライイースト(乾燥パン酵母)』と、チーズ作り用の『凍結乾燥乳酸菌スターター』
・熱帯植物温室の保管庫にあった『生コーヒー豆(アラビカ種の種子兼用グリーンビーンズ)三キロ』と『カカオパウダー、純粋なバニラビーンズ』
・潮風に強い『矮性フジリンゴとレモンの接ぎ木用・生きた穂木(保湿ジェル包み)』
・そして獣医学研究室から回収した、犬のフィラリアや寄生虫を完全に予防・駆虫する『イベルメクチン錠剤』『犬用混合ワクチンの凍結乾燥アンプル』と獣医用マイクロ縫合セット。
さらに葵は、道中の防災備蓄倉庫で見つけた、傷ひとつない未開封の『非常用ビスケットの金属缶・二箱』を、絶対に湿気らないよう三重のビニールで密封してリュックサックの一番奥に収めた。
四百六日目の朝、あの人が自分にくれたはずのビスケットを、自分の手で返しに行くために。
【730日目〜734日目:父のラジオ放送と、九頭を狙う『睡眠罠』】
篠原少佐たちのジープが『黒潮』の集落に現れる五日前――七百三十日目の夕方五時半だった。
軍港を見下ろす松林の尾根に隠れていた葵は、クロスボウのメンテナンスを終え、小型の手回しラジオにイヤホンを挿して周波数を合わせていた。
まさにその同じ時刻、四キロ沖の無人島の北の断崖で、あの人と黒いシェパードのクロがまったく同じ放送を聞いていたとは、その時の葵は知る由もなかった。
『……こちらは、旧首都圏より北西百四十キロの中央山岳地帯に設置された【内陸中央安全保護区・臨時統治委員会】である……』
イヤホンから流れてきたのは、葵の父・久我誠司自身の録音音声だった。
『……特別恩赦令に基づき、かつて【カテゴリーD】として除外された元市民であっても、農業、土木建築、食肉解体等の実務スキルを有する者が自発的に出頭した場合、これを受け入れる……。一日十二時間の労働奉仕を条件に、一日二回の乾パンの配給と、二年後には【カテゴリーC】への階級昇格を認めるものとする……』
松の木の根元で、葵はイヤホンを引き抜き、乾いた笑い声を漏らした。
「……よっぽど追い詰められているのね、『委員長先生』」
自分の父親の性格は、葵が一番よく知っていた。
カテゴリーDの人間を「酸素を消費するだけの有機ゴミ」と呼んで切り捨てたあの傲慢な父が、わざわざ恩赦などという言葉を使って労働者を呼びかけている理由は一つしかない。
山岳地下要塞の備蓄食料が底をつき始め、カテゴリーAの政治家や官僚たちだけではジャガイモ一つ育てられず、自分たちの代わりに泥にまみれて働く「都合のいい農奴」と「すでに開拓された豊かな農地」を喉から手が出るほど欲しているのだ。
その予感は、三日後に最悪の形で的中した。
父の懐刀である篠原少佐が率いる『八人の特殊偵察・強襲部隊』が、二台のジープで黒潮の集落へと乗り込んできたのである。
◇
七百三十四日目の午後十時三十分――襲撃決行の三時間半前。
空には月もなく、分厚い雲が黒潮の港と沖合の無人島の間を暗い闇で覆い隠していた。
黒潮の漁港の端にあるトタン屋根の古い舟屋の中では、遮光ランタンの赤い光の下、篠原少佐と七人の精鋭兵士たちが無人島の拡大航空写真を囲んで最終確認を行っていた。
その古い舟屋の床下――冷たい海水がひたひたと満ちる暗い木製桟橋の支柱の陰に、無臭処理を施した黒い服の葵が肩まで海に浸かって息を潜め、床板の隙間からすべての作戦内容を聞き取っていることには誰一人として気づいていなかった。
「最後にもう一度だけ手順を確認するぞ」
篠原少佐が、写真に写る無人島の南の入り江をコンバットナイフの切っ先で突いた。三十二歳、かつて父の執務室で葵に気障な笑顔を向けていた男は、今や冷酷な略奪者の目をしていた。
「標的の男を決して侮るな。奴は権藤大尉の部隊を全滅させ、スタジアムの群れを使って黒崎将軍のアークを壊滅させた張本人だ。だが、どれほど腕が立とうが、人間一人が二十四時間起きて見張り続けることはできない」
篠原は入り江の入り口に引かれた赤いラインを指差した。
「第一に、『水中の罠』だ。レーザー距離計と、入り江の入り口で真っ二つに折れて座礁している古い漁船の位置から計算した結果、奴は幅十五メートルの水路のど真ん中、海面下わずか『四十センチ』の深さに権藤の警備艇を沈めて人工暗礁にしている。スクリュー付きの普通の船で突っ込めば一発で船底が割れるが、今夜一時半の大潮の満潮時には水深が六十センチまで上がる。我々が持ってきた無音エレキモーター付きの『平底強襲用ゴムボート二隻』は、喫水がわずか『十五センチ』しかない。沈没船の真上を、波音ひとつ立てずにそのまま通過できる」
床下の暗い水面で、葵は奥歯を噛み締めた。
あの人が心血を注いで沈めた海面下四十センチの鋼鉄の防壁が、喫水十五センチの平底ボートによって無力化されてしまう!
「そして第二に、この作戦で最も重要なターゲット――奴が飼っている『九頭の軍用犬の群れ』だ」
篠原少佐はテーブルの上から、真空パックされた『分厚い生の牛ヒレ肉の塊』が三十個入った保冷ケースを持ち上げた。
「いいか、お前たち。久我委員長からの厳命だ。あの島にいる九頭の犬――成犬五頭と、生後三ヶ月の若い犬四頭――には、銃弾一発、ナイフの傷一つたりともつけるな! 一頭でも殺したら軍法会議ものだと思え」
「本当に一頭も撃ってはいけないのですか、少佐?」と、消音器付きのライフルを持った兵士が尋ねた。「もし上陸した時に噛みつかれたら――」
「馬鹿者、あの犬たちがどれほど貴重な戦略兵器か分からんのか!」
篠原が声を潜めて睨みつけた。
「感染者に完全に無視され、無音で敵の背後を取れる訓練済みの軍用犬の群れなど、今の日本中を探してもどこにも残っていない! あの九頭を生きたまま無傷で捕獲して山岳要塞へ持ち帰れば、都市の物資回収も防衛も思いのままだ。だからこそ、委員会の医療班が調合したこの『無味無臭の超強力・動物用睡眠導入剤(高濃度デクスメデトミジン配合肉)』を使う!」
篠原は保冷ケースの中の赤い牛肉の塊をポンと叩いた。
「毒ではないから、腐敗臭も薬品臭も一切しない。焼き入れられたばかりの最高級の牛ヒレ肉そのものの匂いだ。上陸後、別動隊の三名が風上となる東の断崖ルートから回り込み、夜間パトロールをしている二頭のマリノアと四頭の若い犬、そしてバンカーの換気口にいるリーダー犬の近くへこの肉を投げ込む。犬たちがこの極上の生肉を一口でも飲み込めば、吠える暇もなく『三分以内に泥のような深い全身麻酔睡眠』に落ち、明日の昼まで指一本動かせなくなる!」
床板の下の暗闇で、葵は息を止めた。
殺されるわけではない。だが、もしあの九頭の犬たちが睡眠薬入りの肉を食べて全員眠らされてしまったら――!
「九頭の犬さえ眠らせて捕獲用ネットに収めてしまえば、バンカーの中の男は目と耳を失ったも同然だ」
篠原少佐は、指向性爆薬(C4)の灰色のブロックを撫でながら残忍に笑った。
「そこへ我々本隊五名が正面から接近し、バンカーの鋼鉄ハッチを指向性爆薬で吹き飛ばして突入する。中の男も殺すなよ。両膝と左腕を撃ち抜いてダルマにし、首に鉄の首輪を二重にはめて、彼自身が作った地下の熟成庫に鎖で繋ぐんだ。あいつが育てた生ハムも、ヤギのチーズも、ソーラーパネルも、そして九頭の忠犬も、明日の朝からはすべて我々『カテゴリーA』のものになる! ――出発は午前一時ちょうどだ、準備しろ!」
「「了解!!」」
兵士たちがゴムボートのバッテリーを積み込むために舟屋の表へ出ていくと、葵は床下の暗い海から音もなく裏手の岩場へと這い上がった。
心臓が早鐘のように鳴っていたが、葵の頭脳は氷のように澄み渡っていた。
敵は八人。暗視ゴーグル、消音銃、鋼鉄の扉を破る爆薬、そして何より――あの人の命の恩人である『クロ』と、この島で生まれたという大切な家族たちを眠らせて奪い取るための「無味無臭の睡眠肉」を持っている。
あの人はきっと、海面下四十センチに沈めた船がボートの侵入を防いでくれると信じているし、自分の犬たちがまさか風上から投げ込まれる「薬入りの最高級牛肉」で眠らされるとは予想していないかもしれない。
もし九頭の犬たちが眠らされ、鉄の扉が爆破されたら、いくらあの人でも八人の特殊部隊を相手に一人で勝ち目はない!
(私が、奴らより先に島へ着かなきゃ……! 東の崖で睡眠薬の肉を投げる別動隊の三人を無音で潰して、あの人とクロに敵の侵入を知らせるんだわ!)
葵は舟屋の裏手の岩陰から滑り出ると、漁港から五百メートル離れた岩場の海蝕洞へと全力で走った。
その暗い洞窟の奥には、彼女がこの二日間、島へ渡るためにエポキシ樹脂で穴を塞いで修理していた一隻の舟――全長四・五メートル、幅わずか五十センチ、海面の上で完全に闇に溶け込む『艶消し黒の単座シーカヤック(外洋用カヤック)』が隠されていた。喫水はわずか十センチ。あの人工暗礁の上でも問題なく通れる。
腕時計を見る。午後十一時四十五分。
篠原たちのエレキモーター付きゴムボートが出発するまで、あと一時間十五分。
向こうは電動モーターだが、葵のエンジンは自分自身の二本の腕と、一本のカーボン製ダブルブレードパドルだけだ。
葵はシーカヤックの船首の防水ハッチを開け、小麦とコーヒーの種、リンゴの穂木、犬用の薬、そして『二箱の非常用ビスケット』が入ったバックパックをしっかりと固定した。
コックピットのすぐ前のデッキには、いつでも片手で掴んで撃てるように弦を張った『コンパウンド・クロスボウ』と二十本の狩猟用カーボン矢をセットし、背中のベルトには、四百六日目の朝にあの人から受け取った『小型のボルトカッター』を深く差し込んだ。
さらに葵は、敵の暗視ゴーグルに白い肌が反射しないよう、海岸の黒い泥と炭の粉を自分の頬と額、そして手の甲に隙間なく塗りたくった。
カヤックに乗り込み、腰の防水スカートをロックして、パドルを握りしめる。
十ヶ月前、父のヘリポートにいた頃の白くて柔らかかった「知事令嬢の手」は、もうそこにはなかった。
十ヶ月間、一人でクロスボウを引き、重いボルトカッターを振るい、七十キロの荒野を生き抜いてきた彼女の手のひらには、あの人と同じような硬く誇り高いタコが刻まれていた。
目の前には、うねりを上げる四キロの真っ暗な黒潮の海が広がっている。その闇の向こうに、あの人と九頭の家族が眠る孤島がある。
「待ってて、クロ……絶対に、誰一人として奪わせたりしないから」
葵は水音ひとつ立てずに黒いパドルを夜の海へと突き入れ、漆黒の海原へとカヤックを滑り出させた。
(第17話へ続く)
第16話をお読みいただき、ありがとうございます!
健二が入り江の海面下40センチに沈めた鋼鉄の防壁が、大潮の満潮と「喫水わずか15センチの平底強襲用ゴムボート」によって無力化される絶体絶命の危機!
さらに敵の手には、吠える暇もなく3分で犬たちを深い昏睡状態に落とす『無味無臭の睡眠薬入り特上牛ヒレ肉』が……!
次回【第17話】では、特殊部隊より先に島へ辿り着くため、葵が単座シーカヤックで真夜中の外洋4キロを必死に漕ぎ抜きます!
東の断崖で小さな銀灰色の雌犬『ユキ』の鼻先に睡眠肉が投げ込まれようとする瞬間、葵のクロスボウと2頭のマリノア(ジン&リク)が放つ無音の逆襲をぜひお見逃しなく!




