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第15話:知事令嬢の鉄の首輪、砕かれた足首、そして黒い犬を連れた死神

お待たせいたしました!本日より【第2章:知事令嬢・葵と絶海の天然要塞『青ヶ島』大開拓編】が開幕します!


第15話〜第17話は、第1章の医療倉庫(第6話・第7話)で健二とクロに命を救われ、直後に裏切り者の男2人に突き飛ばされてビスケットを奪われた「あの足首を怪我した女性・葵(あおい)」の視点からスタートし、健二が無線機を海に投げ捨てた2日後(732日目)の『健二と9頭の忠犬たちの島』へと直結します!


あの朝、健二のバックミラーの向こうで何が起きていたのか?そして健二と9頭の家族に迫る「特殊部隊の睡眠罠」とは?

物語のすべてが一つに繋がる第2章の幕開けを、ぜひお楽しみください!

【パンデミック5日目〜404日目:8箱のワインと、引きちぎった『A』のパス】




 久我葵(くが・あおい)がこの世界で最も憎んでいる音は、感染者が喉の奥で鳴らす濁った呻き声でもなければ、自動小銃の乾いた発砲音でもなかった。


 ラミネート加工されたプラスチックの身分証が、擦れ合う音だ。




 政治家や大病院の院長、そして葵の父のような高級官僚たちが金色のストラップで首から下げている、金文字で『A』と印字されたあの赤い長方形のカードは、いつだって断頭台の刃が落ちる時とまったく同じ音がした。




 世界が崩壊してから一年以上が過ぎた今でも、暗闇の中で目を閉じるたび、葵の脳裏にはパンデミック五日目の激しい豪雨が降りしきる東京・政府専用ヘリポートの屋上の光景が鮮明に蘇る。




 当時二十二歳、大学の農学部・獣医学科の四年生だった葵は、フィールドワーク用のリュックサックを胸に抱えながら、安全区域を隔てる高い金網フェンスの外側にしがみついている一人の少女の姿を見つめていた。


 咲(さき)だった。小学校からの一番の親友であり、葵の母が病死したあと、毎晩のように葵の家へ来て温かいご飯を作ってくれた少女だ。




 咲は駅の地下にある小さな花屋でアルバイトをしていた。特殊な国家資格もなければ、国会に親戚もいない。そのため、選別窓口で彼女の書類に押されたスタンプは――『カテゴリーD(廃棄物)』だった。




「葵! 葵、お願い、あなたと一緒だって言って!」


 滝のような雨の中、咲は血の滲んだ指先を金網の目に食い込ませながら必死に叫んでいた。スロープの下の通りからは、すでに防衛線を突破した感染者の群れに追いつかれた市民たちの断末魔の悲鳴が響き渡っていた。




 ヘリポートの中央では、自衛隊の大型輸送ヘリコプター『チヌーク』がすでにローターを回転させていた。


 機内の座席には、まだ少なくとも『八席分』の空席がはっきりと見えていた。




 葵は秘書が差す傘の下で搭乗者名簿を確認していた青いレインコートの男――自らの父であり、この「カテゴリー選別プロトコル」の立案者その人である緊急事態管理委員会の委員長、久我誠司(くが・せいじ)のもとへ駆け寄り、その腕にすがりついた。




「お父さん、横のゲートを開けて! 咲なの! 噛まれてなんかいない、健康よ! ヘリの中にはまだ八席も空席があるじゃない、五秒あれば乗せられるわ!」




 父は葵の手に視線を落とし、それから金網の向こうで泥にまみれて震えている二十二歳の少女を一瞥した。


 縁なし眼鏡の奥にある父の瞳には、怒りすらなかった。ただ、書類の誤字を見つけた会計士のような冷ややかな苛立ちだけがあった。




「あの娘はカテゴリーDの非熟練労働者だぞ、葵。それに機内の空席八つには、これから財務大臣のボルドーワインの木箱とトランクを積み込むことになっている」




「な……何を言ってるの!? ただのワインの瓶じゃない! あそこにいるのは生きた人間なのよ、私の一番の親友の咲なのよ!?」




 葵は父の手を振り払い、自分で非常用ゲートのカンヌキを開けようと金網へ向かって走り出した。


 だが、父が二本の指で小さく合図を送ると、二人の屈強な警護官が葵の両肩を背後から掴み、地面から持ち上げてヘリの搭乗タラップへと力任せに引きずっていった。


 その背後で、父が拡声器のマイクに向かって警備兵に命じる無機質な声が響いた。




『外周の防弾隔壁を閉鎖せよ。もしそのカテゴリーDの民間人が十秒以内にフェンスから離れない場合、感染者をヘリポートへおびき寄せるのを防ぐため、脚を撃って排除することを許可する』




「やめて! 離してよ! 咲! 咲ぃぃぃっ!!」




 重厚な鋼鉄の隔壁がスライドして外の世界を完全に遮断する直前、浮き上がるヘリの丸窓から葵が最後に見たのは――黒煙の中から飛び出してきた四体の感染者の影が、最後まで金網にしがみついていた咲の背中に覆いかぶさり、その華奢な体をフェンスへと押し潰す光景だった。




 機内で、父は曇った眼鏡を外してシルクのハンカチで拭きながら、葵の顔を見ようともせずに言った。




「愚かな子供のように泣き喚くな、葵。この新しい世界において、国家に対する肩書きや戦略的価値を持たない者は、ただ酸素と配給を消費するだけのバイオマス(有機ゴミ)に過ぎん。私の娘として生まれた幸運に感謝するんだな」




 その夜、葵は胃の中のものをすべて吐き出し、死ぬまで二度と父の与える食べ物を一口たりとも口にしないと心に誓った。




     ◇




 あの日から四百日が過ぎ、上級国民たちが作った「紙切れの世界」は、葵が予想した通りに内側から腐り果てて崩壊した。




 一月、沖合の安全群島に作られた政府コロニーが食料不足と赤痢の蔓延によって自滅した。カテゴリーAの裁判官や銀行家や高級官僚たちは、誰一人として壊れた給水ポンプを直すことも、凍った土を鍬(くわ)で耕すこともできなかったからだ。


 内乱が始まる直前、父は少数の政治家たちと共にヘリで脱出し、旧首都圏から北西百四十キロの山岳地帯に掘られた地熱発電付きの地下要塞『内陸中央安全保護区』へと逃げ込んだ。




 その際、父に逆らい続けていた葵は「頭を冷やせ」という名目で、父の軍事的同盟者である黒崎(くろさき)将軍が支配する東京湾の人工島――新港火力発電所と大型コンテナ埠頭を要塞化した『特別生存自治区(アーク)』へと預けられた。




 そこで葵が見たのは、さらに醜悪な地獄だった。


 五十人のカテゴリーAの特権階級が埠頭に横付けされた白い豪華客船の中でエアコンとワインを楽しんでいるすぐ下で、黒崎将軍の武装船に拉致された三百人以上の『カテゴリーD』の市民たちが、首に番号入りの『鉄の首輪』をはめられ、一日十六時間の強制労働を強いられていたのだ。そして怪我をして働けなくなった者は、銃弾を節約するための見せしめとして、生きたまま感染者の檻へと放り込まれていた。




 葵は自らの獣医学と農学の知識を使って倉庫街の救護班に志願し、客船から抗生物質や消毒薬、食料を密かに盗み出しては、首輪をつけられた人々の傷を手当てし続けた。




 だが、『四百四日目の夜』だった。


 葵は黒崎将軍が署名した一枚の命令書を見つけてしまった。過労で衰弱した十五人の女性と子供たちを、翌朝トラックに積み込み、都市の倉庫から物資を回収するための『生きた肉壁(ゾンビをおびき寄せる餌)』として使い捨てるという命令書だった。




 葵は一秒たりとも迷わなかった。


 深夜二時、救護室から持ち出した動物用の強力な鎮静剤を看守長のコーヒーに混ぜて眠らせると、磁気キーの束を奪って西区画の通用門を開け、十五人の女性と子供たちを二隻の手漕ぎ漁船へと乗せた。




 最後の係留ロープをナイフで切り離そうとした、まさにその瞬間、埠頭のハロゲン投光器が一斉に点灯した。




「そこだ! 西桟橋で奴隷を逃がしているぞ、止めろ!」




 二隻のボートが銃の射程外である暗い潮流へと滑り出るまでの「三十秒間」を稼ぐため、葵は空のドラム缶を積んだ台車を通路に横転させて兵士たちの行く手を塞ぎ、桟橋で転んだ八歳の少女を抱き起こしてボートへと押し込んだ。




 ――バチバチバチッ!! ゴキィッ!!




 駆けつけた軍曹が全力で振り下ろした高圧スタンバトン(電気ショック棒)が、葵の『右足首』を真横から直撃した。


 焼けた鉄の杭を骨に打ち込まれたかのような激痛が走り、靭帯が断裂する鈍い音とともに、葵は濡れたコンクリートの上に顔面から崩れ落ちた。だが、二人の兵士の軍用ブーツに背中を踏みつけられながらも、葵は二隻のボートが夜の海の闇へと無事に消えていくのを最後まで見届けた。




 髪を掴まれて黒崎将軍の前へと引きずり出された葵は、一度も視線を落とさなかった。


 黒崎が山岳地下要塞の父へ無線で処遇を問い合わせた時、スピーカーから流れてきた久我誠司の声には、父親としての躊躇(ためら)いなど一ミリもなかった。




『カテゴリーDの家畜どもを助けるために、私の顔に泥を塗っただと? そんな娘をこちらへ引き取れば、委員会での私の立場が危うくなる。私にはもう娘などおらんよ、黒崎将軍。パスを剥ぎ取って、他の廃棄物と一緒に都市の倉庫掃除にでも使い潰してくれ』




 葵は涙を一滴も流さなかった。


 自ら右手を伸ばし、首から下げていた金色のストラップと『A』のパスを力任せに引きちぎると、その表面にツバを吐きかけて黒崎の磨かれた軍靴の上へと投げ捨てた。




「せいせいしたわ」


 殴られて切れた唇から血を垂らしながら、兵士たちの手によって『D―318』と刻印された冷たく重い鉄の首輪を首にロックされた瞬間、葵は静かに言い放った。「あなたたちと同じ空気をあと一分でも吸うくらいなら、この鉄の首輪をつけて泥の中で死んだ方が百倍マシよ」


【406日目・午前5時40分:黒い犬を連れた『死神』と、奪われたビスケット】




 それから二日後の朝――四百六日目の午前五時四十分。


 『県立医療・化学物流センター』の正門前の空気は、雨に濡れた赤錆と腐った死肉の悪臭に満ちていた。




「さっさと歩け、カテゴリーDのゴミども!」




 黒いベレー帽を被った小太りの分隊長が、ショットガンの銃床で若い男の背中を乱暴に蹴り飛ばした。


 装甲ピックアップトラックの荷台から引きずり下ろされたのは、葵と、二十代前半の痩せた二人の若い男だった。


 右足がアスファルトに触れた瞬間、葵はうめき声が漏れないよう奥歯を強く噛み締めた。汚れた包帯を巻いた右足首は熱を持って赤黒く腫れ上がり、脈打つような激痛を放っていた。両手首はプラスチックの結束バンドで前に縛られ、首の鉄の首輪が鎖骨の上の皮膚に冷たく食い込んでいる。




 三人の目の前には、幅百メートルはある窓のない巨大な『第2集荷倉庫』のシャッターが半分だけ開いたまま、死んだクジラの大口のように真っ暗な闇を晒していた。




「ま、待ってください隊長……!」


 背の高い方の若い男が、その漆黒の闇を見てガタガタと震えながら叫んだ。「あ、あの中は真っ暗です! 夜明けの時間帯は、外にいた化け物どもがみんな暗い倉庫の奥へ戻って眠っているんです! 懐中電灯もなしに、手を縛られたままあんな中へ入ったら、俺たち生きたまま食い殺されます!!」




「だから俺たちが入る代わりに、お前らを連れてきたんだろうが、バカ野郎!」


 分隊長が下品な笑い声を上げ、後ろの五人の兵士たちもトラックのボンネットに寄りかかってタバコに火をつけながらゲラゲラと笑った。


「5.56mmのライフル弾は一発たりとも無駄にできねぇが、お前らカテゴリーDの奴隷なら運河のゴミ溜めでいくらでも補充できるからな! いいか、お前ら三人は今からあの暗い倉庫の奥まで大声を上げながら全力で走れ! 中にゾンビがいなけりゃ良し。もしゾンビがいたら、そいつらがお前ら三人の内臓を夢中で貪り食っている隙に、俺たちが横から入って安全に抗生物質の箱を回収する! ほら、さっさと入れ!」




 兵士の一人が、青い火花を散らす高圧スタンバトンを葵の背中に突きつけ、三人を無理やり第2倉庫の半開きのシャッターの下へと押し込んだ。




 一歩中へ踏み出した瞬間、そこは一寸先も見えない完全な暗闇だった。


 だが、大学で動物生理学と解剖学を学んでいた葵には、目が見えなくても「そこにあるもの」がはっきりと分かった。


 わずか十メートル先の木製パレットの列の奥から、異様な熱気と、甘ったるく酸っぱい壊死組織の腐臭が漂ってきていたのだ。少なくとも『六十体以上の感染者』が、立ったまま密集して休眠状態に入っており、小石が転がる音一つで一斉に牙を剥く状態だった。




 隣の二人の若い男は恐怖で腰が抜け、声も出せずに震えている。


 シャッターのすぐ内側の安全な場所では、六人のアークの兵士たちが自動小銃を腰だめに構え、「早く奥へ走って鳴けよ」とクスクス笑っていた。




 葵は腫れ上がった右足を引きずりながら、震える二人の男の半歩前に出て三歩進んだ。六十体の死者の群れまで、残り六メートル。




 まさに、その瞬間だった。


 「チッ」という、舌先を鳴らす極めて小さな音が聞こえた。




 前方のゾンビからでも、背後の兵士たちからでもなかった。


 すぐ左横三メートル――兵士たちの視界を遮る太いコンクリートの柱の陰にある、隣のガレージへと繋がる『鉄製の防火扉』が、内側からわずか十センチだけそっと引き開けられていたのだ。




 その細い隙間から、赤いフィルターをつけた小型ペンライトの光が一瞬だけ足元の『非常口』の緑のプレートを照らし出し、黒い牛床革の作業手袋をはめた片手が、音もなく「静かにしろ、こっちへ来い!」と手招きした。




 葵はコンマ一秒で判断した。隣の二人の男の脇腹を肘で突いて合図し、呼吸を完全に殺したまま左の柱の陰へと滑り込むと、開いた防火扉の隙間から隣のガレージへと一気に転がり込んだ!




「息を止めろ。声を一文字でも出したら殺す」




 夜明けの灰色の薄明かりが差し込むガレージの中で、低く、静かで、一片の迷いもない声が響いた。


 コンクリートの床から顔を上げた葵は、息を呑んで目を奪われた。




 目の前にしゃがみ込んでいたのは、この一年間の地獄で葵が見てきたどんな絶望した生存者とも、どんな傲慢な兵士ともまったく異なる一人の男だった。


 年齢は二十五、六歳だろうか。


 アークの黒い防弾チョッキを羽織っていたが、潮風と太陽に焼かれた精悍な顔には綺麗に整えられた短い髭があり、露出した前腕は鋼鉄のワイヤーのように逞しく盛り上がっていた。破れた左肩の袖の下には、医療用のステンレス針(スキンステープラー)で自らの肉を縫い閉じたばかりの生々しい処置跡が見え、胸には89式自動小銃、そして背中には、先端が円錐状に鋭く尖った長さ一・五メートルの焼き入れ鋼製『六角カナテコ』が背負われていた。




 男はカミソリのように研ぎ澄まされたサバイバルナイフを一閃させ、葵の皮膚に1ミリも触れることなく、三人の手首の結束バンドをスパッと切り落とした。


「三十秒後に裏口から外へ出ろ」


 男はガレージの奥のシャッターを指差し、ただそれだけを告げた。




 だが、葵の心臓をさらに激しく揺さぶったのは、その男の左足のすぐ横に、まるで黒曜石の彫像のように音もなく座っていた「相棒」の姿だった。


 体重四十キロは優にある、漆黒と濃い灰色の毛並みを持つ『巨大な軍用ジャーマン・シェパード』だ。その賢そうな黒い瞳は、絶対的な信頼と忠誠だけを宿して主人の横顔を見つめていた。




 防火扉の隙間から向こうを覗くと、三人の奴隷が消えたことに気づいた六人のアークの兵士たちが、「おい、あいつらどこへ消えた?」と警戒しながら暗い第2倉庫の奥へ五歩踏み出し、六十体の感染者のわずか四メートル手前まで近づいたところだった。




 男は隣に控える黒いシェパードの首筋に手を置き、防弾チョッキのポーチから一本の『軍用強光発煙筒(マグネシウム閃光弾)』を取り出した。


 安全キャップを外し、自らの皮脂の匂いを床の泥と油で完全に擦り消してから、男は犬の耳元に口を寄せて囁いた。




「クロ。これをあの六人の軍靴の真後ろに置いて、赤い紐を歯で引き抜いてから、全力で俺のところへ戻ってこい」




 葵は驚愕に目を見開き、声が出ないよう両手で自分の口元を覆った。


 『クロ』と呼ばれたその黒い軍用犬は、金属の筒を静かに咥えて開いた防火扉の隙間から真っ暗な第2倉庫へと滑り出ると――なんと、立ったまま眠っている『六十体の感染者たちの腐った脚の間』を、わずか二十センチの距離で音もなくすり抜けていったのだ!




 ただの一体の感染者も、クロに向かって首を動かさなかった。


 大学で動物学を専攻していた葵の脳内で、電撃のような閃きが走った。(……感染者の視覚と嗅覚は、人間固有のアポクリン腺の汗と二足歩行のシルエットにしか反応しない……!? この人は、その生物学的法則に気づいて、軍用犬を完璧な透明の斥候として使っているんだわ!)




 わずか三秒後。


 六人の兵士たちの真後ろ一メートルに回り込んだクロは、前足で筒を押さえて赤い着火紐を犬歯で「ブチッ!」と引き抜き、弾丸のような速度で防火扉へと駆け戻ってきた。




 ――シュボォォォォッ!! カァァァァァッ!!




 六人の兵士たちの足元で一万カンデラの強烈な白いマグネシウム閃光が炸裂し、自分たちの鼻先八十センチに並んでいた『六十体の飢えた死者』を一斉に叩き起こした!




『『『『『グギャアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!』』』』』


「ば、化け物だァァッ!! 目の前に何十体もいるぞ!! 撃て、撃てぇぇぇっ!!」


「ぎゃあああああっ!! 首が、俺の首がぁぁっ!! 隊長、助けてくれぇぇっ!!」




 男は飛び込んできたクロを迎え入れると同時に、分厚い鉄の防火扉をバタン!と閉め切り、外側から鋼鉄のかんぬきを完全にロックした。


 自分たちを生きた餌にしようとした六人の兵士たちが、扉の向こう側で六十体の感染者に引き裂かれていく断末魔の悲鳴を聞きながら、葵は目の前の男の背中を見つめていた。




 咲がヘリポートのフェンスの外で死んだあの日以来、初めて葵の胸の奥に熱い鼓動が灯った。


 この人は、肩書きだけで他人を踏みつける『カテゴリーA』の寄生虫でもなければ、暴力に怯えて媚びへつらうだけの弱者でもない。自らの知識と誇りと、一頭の黒い相棒だけを信じてこの地獄に立つ、本物の「孤高の狼」だった。




 男は作業台の上にあった『小型のボルトカッター(鉄線鋏)』と『非常用ビスケットの箱二つ』を三人の足元へ無言で放り投げると、クロを助手席に乗せて、前面に鋼鉄の排土板がついた『災害対策用・高機動救助工作車』の運転席へと乗り込んだ。




「そのカッターを使えば、お互いの首輪の留め金を切れる。港の方へは行くな。西の丘陵地帯へ逃げろ。……それと、絶対に俺の後をついてくるなよ」




「あ、あの……ありがとうございます! あんた、一体何者なんですか!?」


 若い男の一人がボルトカッターを握りしめたまま、トラックの窓に向かって叫んだ。「たった一人と一匹で、その装甲トラックでどこへ行く気なんですか!?」




 男はディーゼルエンジンを始動させ、鉄格子のついた防弾ウィンドウを二センチだけ下げて、氷のように静かな声で答えた。




「お前たちに首輪をつけた『将軍様』を、クビにしに行くんだよ」




 装甲トラックは夜明けのアスファルトを蹴り、裏路地から大通りへと走り去っていった。




     ◇




 三十秒後、倉庫の裏口で、ガチャン!と重い鉄の塊が地面に落ちた。


 二人の若い男がボルトカッターを使ってお互いの首輪を切り、最後に葵の首を締め上げていた『D―318』の鉄の首輪の留め金を切断したのだ。




「助かった……自由だぞ!」と背の高い方の男が荒い息を吐いた。


 だが、最後の首輪が地面に落ちたその瞬間、二人の男の目つきがガラリと変わった。五分前まで兵士の前で泣き叫んでいた恐怖が消え、自分たちより弱い人間を見つけた時の卑劣な光が宿ったのだ。




 葵が手を伸ばすより早く、背の高い方の男が、あの人が三人分の食料として置いていってくれた『二つの非常用ビスケットの箱』を両方とも乱暴にひったくった。




「ちょっと待って! 一箱だけでも分けて!」


 葵は立ち上がり、男の袖を掴もうとした。「あの人が、私たち三人で分けるように置いていってくれたものよ!」




「邪魔なんだよ、どけッ!」


 もう一人の男が、葵の胸板を両手で力任せに突き飛ばした。「お前は足首が壊れてるんだから、どうせ一キロも歩けねぇだろうが! 足手まといの女に食わせるビスケットなんか一欠片もねぇよ!」




 腫れ上がった右足首が踏ん張りを失い、葵の体は後ろ向きに宙を舞って、冷たいアスファルトの上に背中と肘を激しく打ちつけた。


 二人の男はビスケットの箱を胸に抱え、倒れた葵を振り返りもせずに西の路地へと全力で走り去っていった。




 汚れたアスファルトの上に仰向けに倒れたまま、葵は遠ざかっていく二つの背中を見つめた。


 涙は出なかった。


 八箱のワインのために咲を見殺しにした『カテゴリーA』の父と、二箱のビスケットのために仲間を突き飛ばして奪い取った『カテゴリーD』の男たち。




(……あの人の言った通りだわ)


 葵は地面の上で拳を強く握りしめた。(首にどんなアルファベットをつけられていようと、人間は群れれば必ず弱い者を踏みつけて奪い合う。私はもう二度と、こんな連中のいる場所へは戻らない)




 ふと横を見ると、あの二人の男が「走って逃げるのに重くて邪魔だから」とその場に放り捨てていった一つの道具が転がっていた。


 あの黒い犬を連れた人が投げてくれた、『小型のボルトカッター』だった。


 鋼鉄のグリップには、まだあの人の手の温もりがかすかに残っているような気がした。




 葵は唇から血が滲むほど歯を食いしばり、そのボルトカッターを拾い上げて立ち上がった。


 西の丘へ逃げるつもりなど最初からなかった。あの人が装甲トラックで向かった南の『アーク連絡橋』には、二段重ねのコンテナ壁の上に口径12.7ミリの重機関銃が二丁も据え付けられ、六十人以上の武装兵が待ち構えているのだ。


 見返りも求めずに自分の命を救ってくれたこの世界でたった一人のあの人に、どうしても連絡橋の重機関銃の配置を伝えて、少しでも役に立ちたかった。




「待って……!」




 葵はボルトカッターを胸に抱きしめ、装甲トラックのタイヤ痕が残る大通りへ向かって、腫れ上がった右足を引きずりながら必死に走り出した。


 一歩踏み出すごとに、砕けた足首に焼けたナイフを突き刺されるような激痛が走ったが、葵は止まらなかった。三十メートル、四十メートル、五十メートル。


 大通りの三百メートル先、総合スタジアムの手前にある赤レンガの建物(警察犬訓練所)の陰に、あの装甲トラックが停まっているのが見えた!




 大声で叫べば、周囲のビルに潜む感染者を彼のところへおびき寄せてしまう。


 葵は声を殺し、トラックが再び動き出す前に追いつこうと、限界を超えた右足に最後の力を込めてアスファルトを蹴った――その瞬間だった。




 ――グキッ!!




 道路のひび割れに右足のつま先が引っかかり、断裂しかけていた足首の靭帯が完全に悲鳴を上げた。


「あっ……!」


 視界が真っ白に明滅し、葵は焼け焦げたタンクローリーの残骸の陰へと前のめりに転倒して、両膝から鮮血を滲ませた。


 顔を上げたまさにその時、三百メートル先の装甲トラックがエンジンを吹かし、荷台から動物の血の匂いがする赤黒い液体を道路に撒き散らしながら、時速六十キロで南の連絡橋へと走り去ってしまったのだ。




 間に合わなかった。


 だが葵は、地面で泣き伏したりはしなかった。


 腕の力だけでタンクローリーの横にある歩道橋の錆びた鉄階段を這い上がり、上で白骨化していたアークの監視兵の遺体から『軍用双眼鏡』と、二束のカーボン矢が残された『狩猟用コンパウンド・クロスボウ(複合洋弓銃)』を回収すると、冷たい鉄の床に腹ばいになって双眼鏡を覗き込んだ。




 そして葵は、その高台からすべてを目撃した。


 黒いシェパードの『クロ』が重機関銃の銃弾の雨の中、三十体のゾンビの股の下を駆け抜けてウインチロープを咥えて戻った奇跡を。


 午前七時ちょうど、トラックがスタジアムの最後の鎖を引きちぎり、120デシベルのサイレンと血の道標に導かれた『一万体の感染者の黒い津波』が、二台の軽装甲車を飲み込み、死体の坂道を作ってアークのコンテナ壁を粉砕した瞬間を。




 二十分後、上級国民たちの白い豪華客船が炎に包まれ、黒崎将軍の帝国が血の海に沈んでいく中、葵は双眼鏡のレンズを東埠頭の出口へと向けた。




 朝日を浴びて輝く青い海の上へ滑り出していく全長二十五メートルの『大型武装揚陸バージ』の甲板の上に、あの人が立っていた。


 しかもその足元には、クロだけでなく、埠頭の檻から救い出されたばかりの『五頭の誇り高き大型使役犬の群れ(二頭のシェパード、二頭のマリノア、そして巨大なロットワイラー)』が、完璧なV字の陣形で彼を守るように寄り添っていたのだ。




 巨大な船は北西の運河へ寄って灰色の警備艇を牽引すると、そのまま船首を真っ直ぐ『南の外海』へと向け、水平線の彼方へと消えていった。




 誰もいない歩道橋の上で、葵は双眼鏡をゆっくりと下ろし、泥と血に汚れた手で、あの人が残してくれた鋼鉄のボルトカッターを強く握りしめた。




「……必ず、見つけるわ」


 葵は黒煙が立ち昇る湾岸の潮風の中で、揺るぎない光を瞳に宿して呟いた。「絶対にこの足を治して、誰の足手まといにもならないくらい強くなって……あなたにこのボルトカッターと、奪われた二箱のビスケットを返しに行くから」




     ◇




 それから、『十ヶ月(三百二十日)』の月日が流れた。




 世界が崩壊してから二年と二日が経った『七百三十二日目』の午後。


 葵は誰とも群れることなく、あの人と黒い犬から学んだサバイバル術を極め、かつて彼も歩いた七十キロの鉄道線路を南へと辿り、軍港から十キロ離れた海辺の無人集落『黒潮(くろしお)』の外れにある古い農協(JA)の屋根の上に身を潜めていた。




 その時、海岸道路から改造マフラーの低いエンジン音が響き、二台の軍用高機動ジープが断崖の展望広場へと乗り入れてきた。




 ジープから降りてきたのは、消音器(サプレッサー)付きの銃と暗視ゴーグルで武装し、ルーフラックに「二隻の平底強襲用ゴムボート」を積んだ『八人の精鋭兵士』だった。彼らの黒い肩章には、山岳地帯にある葵の父の私兵組織――『内陸中央安全保護区・臨時統治委員会』の紋章が刻まれていた。




 そして、一台目のジープのボンネットの上に立ち、海岸から四キロ沖に浮かぶ『小さな黒い火山岩の無人島』へと双眼鏡を向けている指揮官の顔を見て、葵の呼吸が止まった。


 篠原(しのはら)少佐――二年前、父が葵の婚約者として勝手に決めた男であり、ヘリポートで咲が食い殺されるのを笑いながら眺めていた『カテゴリーA』の将校だった。




「間違いありません、篠原少佐」


 隣の偵察兵が、赤外線カメラの画面を示して報告した。「一年前に谷口監察官と権藤大尉の警備艇が消息を絶った無人島です。段々畑の上に防弾鋼板のバンカーがあり、男が一人と、若い犬を含む『九頭の軍用犬の群れ』が確認されました」




「フン、久我委員長が冬までに確保しろと命じた沿岸農園と『使役犬部隊』を手に入れるにはうってつけの場所だな」


 篠原少佐は双眼鏡を下ろし、貪欲な笑みを浮かべた。


「あのコンビニ上がりの男は、入り江の入り口の海面下四十センチに警備艇を沈めて船の侵入を防いだつもりでいるようだが……我々が持ってきた喫水十五センチの平底強襲ボートなら、満潮時の夜間に真上を素通りできる。そしてあの『九頭の軍用犬』は一頭たりとも傷つけるなよ。ゾンビに無視されるあれほど優秀な軍用犬の群れは、我が委員会にとって黄金以上の価値がある。獣医班が用意した無味無臭の『睡眠導入剤入りの特上牛肉』を風上から投げ込み、九頭すべてを無傷で眠らせて捕獲しろ。犬たちが眠って無力化されれば、あの男は丸腰も同然だ。――決行は二日後の深夜、新月の夜だ」




 農協の屋根の影に伏せていた葵の全身の血管が、氷水へと変わった。


 自分の命を救ってくれたあの人と、彼が一番大切にしている九頭の犬の家族が、卑劣な睡眠罠で眠っている間にすべて奪われようとしている。




 葵の右手は音もなく背中の防水バックパックへと伸び、三百二十日間、一日たりとも肌身離さず持ち歩いてきた『あの小型ボルトカッター』の鋼鉄のグリップを、骨が軋むほど強く握りしめた。




(第16話へ続く)

第15話をお読みいただき、ありがとうございます!


406日目の朝、健二が医療倉庫で手首の結束バンドを切り、ボルトカッターと2箱のビスケットを投げてやった「あの足首を怪我した女性・葵(あおい)」の視点から描かれる裏側の真実、いかがでしたでしょうか?

そして732日目、健二の島と『9頭の軍用犬』を無傷で奪い取るために現れた、父・久我委員長の特殊部隊と卑劣な「睡眠薬入り牛肉」の罠……!


続く次回【第16話】では、足首の靭帯を損傷した葵が、医療倉庫に残されていた「健二の血がついたスキンステープラーの説明書」に勇気をもらい、いかにして「風下の鉄則」で70キロの死の線路を生き抜いてきたのかが明かされます!

さらに、真夜中の舟屋の床下(冷たい海の中)に潜んだ葵が聞き取った特殊部隊の恐るべき襲撃計画――「海面下40センチの沈没船の罠」を満潮時に突破する秘策と、健二と9頭の家族を守るために葵がたった一人で挑む「真夜中の外洋4キロ・手漕ぎカヤック渡海」が描かれます!


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