婚約解消、そして領地へ 2
軽い音を立てて、馬車の車輪が回る。スプリングがよく効いた座席は気持ちが良く、窓の外の景色をしっかりと楽しむことができた。初夏らしい、鮮やかな緑と巣立ったばかりの小鳥の姿が、アデレードの心を癒してくれる。
晩餐会の翌日、アデレードは婚約解消の書類にサインをした。サイモンが従者を引き連れてへレンズ伯爵家に行ったが、ブレントの姿はなく、へレンズ伯爵夫妻と兄が震えていただけだった、と聞いた。
へレンズ伯爵夫妻は婚約解消を受け入れ、ブレントの代理としてサインをしたという。アデレードはすでに荷造りを始めていた。手回りの品だけを持って出て、残りの荷物は後で送らせればいい、というロバータの提案を受け入れ、その翌日にはもう領地に向かって出発した。
(なんだか、眠くなりそう)
この四年間、いつも心が追われていた。どうすればブレントが結婚してくれるのか、そればかり考えていた。騎士団長の妻らしくなるために努力を続け「貴族の令嬢らしくない」と陰口を叩かれても、自ら料理をしたり雑用をしたりもしてきた。けれど、ブレントは応えてくれなかった。
ブレントを愛していたのか、と聞かれれば、そうではない、と答えざるを得ない。けれど愛そうと努力はしてきたし、政略結婚であっても二人で家庭を育めば、と思ってきた。だが、全ては水の泡と化した。四年分の疲れが、身体に重くのしかかっている気がする。
領地で暮らすのは正解だろう。王都にいればいらないことばかり考えてしまうし、社交界に顔を出さないわけにはいかないから、悪意ある噂に晒されることにもなる。アデレードよりもずっと実入りの少ない政略結婚をさせられた、夫人たちの嘲笑を浴びるのは辛い。
「お母様、ありがとうございます」
「王都のお喋りすずめたちにはうんざりしていたから、ちょうどよかったのよ」
ロバータは、馬車の窓から差し込む太陽の光に目を細めた。
そして馬車は、街道から少し入った小さな別荘の前で止まった。
「お母様、ここは?」
「コルチェスター侯爵家の別荘よ。あなたが小さい時に、よく遊んだのを覚えていないかしら?」
コルチェスター侯爵家は、ストックポート伯爵家よりも国境寄りに領地を有していた。息子が三人いて、揃って遊びに来ては、かくれんぼをしたり、小さな水車を作ってもらったりした記憶がある。
「あちらは領地まで行くのに時間がかかるから、ここに別荘をお持ちなんですって。いつでも休憩に使ってください、と言われていたのよ」
アデレードはロバータに従って馬車を降りた。間近で見ると、よく手入れのされた気持ちいい建物だった。玄関の扉が開き、栗色の髪をした若い男性が姿を現した。
「セオドア! まあ、立派になって!」
ロバータが目を見開き、両手を広げて大げさに喜ぶ。セオドアと呼ばれた男性は、ロバータの手にキスをした。
「ご無沙汰しております、ストックポート伯爵夫人」
「あんなに小さかったセオドアがねえ、私も年を取るはずだわ」
セオドア、という名前で思い出した。三兄弟の真ん中で、手先がとても器用だった男の子だ。とても高いところまで上がる凧や、上手に浮かぶ木の舟を作ってくれて、壊れたおもちゃもすぐに直してくれた。
「アデレードです。久しぶりね、セオドア」
アデレードが会釈をすると、セオドアは優しく微笑んだ。
「アデレード、元気そうだね。随分美しくなって驚いたよ。仔馬に引っ張られて泣いていたアデレードが」
「あら、まあ。セオドアこそ、川に落ちて乳母にさんざん叱られていたじゃないの」
セオドアに釣られて、アデレードも軽口を叩いた。
「簡単なものですが、昼食の支度をしてあります。よろしければ、どうぞ」
「ありがとう」
さんさんと光の差し込む食堂で、三人は昼食を摂った。とてもおいしいパンにハムやサラミを添えたもの、バターで和えた野菜に濃いミルクの入った紅茶、何よりたっぷりと盛られたイチゴやベリー、さくらんぼといった果物がうれしかった。
「領地の問題が解決したようで、何よりね」
ロバータは紅茶を飲みながら、目を細めた。
「はい、代官に任せっきりにしていた私たちがいけないのですが……。私が我が家の領地に住み込んでもう十年ですか。ようやくうまく回せるようになりました」




