婚約解消、そして領地へ 1
ひりひりするような空気の中、晩餐会が続いていた。ブレントの席は空席のままだった。
前菜が下げられても、誰も口を開かない。
「……へレンズ伯爵」
サイモンの静かな声に、へレンズ伯爵夫妻がびくりと肩を震わせる。
「ご子息がいらっしゃらないということは、つまり、我々と友好的な関係を維持するつもりはない、ということでよろしいのですかな?」
いつものようにブレントとは呼ばない上に、丁寧で回りくどい話し方をする。サイモンの怒りが込められていた。
「ま、誠に申し訳ない……」
「ご子息は、ご夫妻には何とおっしゃっておられたんです?」
ロバータが追い打ちをかける。慌てたへレンズ伯爵夫人が「が、外征が」と言った。
「外征が、あると。それで忙しいと、ずっと言っていて」
「アデレード、お前には何と?」
「……外征だと、言っていました」
アデレードはそう答えるしかなかった。「外征の準備があるから結婚は延期にしてくれ」と言われ続けてきたからだ。酒場の女は立ち聞きした話に過ぎない。貴族の娘のたしなみとして、晩餐会の会話にそれを出すことはできなかった。
「調整や準備の関係があり、延期になっていただけだと……今度こそ外征するのだと、申しておりました」
へレンズ伯爵夫人の声がかすれる。
「外征ですか」
ヘンリーが冷笑した。本当に外征があるのだとすれば、貴族院が知らないはずがない。サイモンもヘンリーも、わかりきっているのだ。
「しかし、今日の晩餐会に来ることくらいは可能だったはず。欠席の知らせもなく、招待状を無視するとは」
いつもならこう言うのは、ロバータだ。しかし今口を開いたのは、サイモンだった。
「もはや、修復は不可能と申し上げるほかありません」
付け合わせの温野菜が、静かに冷めていく。ワイングラスにさえ、手を伸ばすものがいなかった。
「……誠に申し訳ありません」
へレンズ伯爵夫妻がうなだれる。アデレードは胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
(婚約は、なくなるのね)
明日にも正式な申し入れが行われて、自分とブレントの婚約はなくなるのだろう。二十一歳から二十五歳の四年間、ブレントの妻になるために努力を重ねてきた。そのすべてが無になるのだ。
甘いものの好きなヘンリーが、デザートだけ平らげた。他は誰も料理に手をつけないまま、晩餐会が終わった。へレンズ伯爵夫妻の馬車の音が、遠ざかっていく。
「しばらく領地で暮らしましょうか」
不意にロバータが声をかけてきた。アデレードは振り返り「領地?」と尋ねた。
ストックポート伯爵家の領地は、王都から馬車で一日行ったところにある。ほどよく王都に近く、橋や街道なども整っているため、小麦を始めとした作物を流通に乗せやすかった。同じような高位貴族の領地と境界を接しており、互いの領地の屋敷を行き来することもあった。
(懐かしいわね……)
アデレードがまだ幼かった頃、母が大病をした。病後の療養に付き添ってアデレードも領地で二年ほど暮らしたが、同じように領地で暮らしている子供たちと野原を駆けまわったり、仔馬に乗せてもらったりと、王都ほど型にはめられない暮らしの楽しさは、よく覚えている。
「王都にいては、いらない噂ばかり聞くはめになるでしょう。領地経営を代官に任せっきりなのも、かなり不安だし。いずれあなたが相続する土地なのだから、しっかり見ておくべきだと思うわ。しばらく王都を離れましょう」
気の強い母だが、毛布のようにふわりと包んでくれる優しさも持ち合わせている。アデレードは涙が出そうになるのをこらえながら「はい」と答えた。
「そうと決まれば、明日からもう荷造りをしましょう。お父様一人を王都に残していくことになるから、ヘンリーによく頼んでいくとして。お仕事ばかりしていては駄目、と、アデレードからも申し上げてちょうだい」
ロバータはいたずらっぽく微笑んで、自分の部屋に戻っていった。アデレードはその背中を見送って、重苦しい気持ちに一日も早く別れを告げようと決めた。
(お父様やお母様に気を遣わせてはいけない。領地経営をしっかりやっていかなくては)
特殊な事情がない限り、二十五歳から貴族の令嬢が結婚相手を探すのは難しい。アデレードはおそらく一生を独身で過ごすことになるだろう。女だからと代官や隣接する領主たちに馬鹿にされることなく、領地をしっかりと治めていかなくてはならない。
「頑張りましょう」
一音一音をはっきりと口に出すと、背筋がすっきりと伸びた気がした。明日から全てをやり直すのだ、そのためにも今日は早く休もう、と、自室に戻った。窓から見える夜空には、星が美しくまたたいていた。




