第46話「夏の夜、桜並木通りの帰り道」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
八月の最後の金曜日、夜九時。
ヨキエル株式会社の三階。フロアの廊下の電気は、もう半分落とされていた。僕は自分の席のMacBookの蓋を閉じた。PCのいちばん奥の緑のランプが消えた。机の上のノート二冊とボールペンを、リュックにしまった。
左隣の白瀬さんの席は、もう空いていた。白瀬さんは午後七時前に、軽く頭を下げて帰っていった。右隣の森山くんの席も空いている。森山くんはいつも通り、定時のあとすぐに、少し湿ったおやすみの挨拶で帰っていった。研修員は基本、残業しない。今夜、僕がここに残っているのは、来週のリリースの本番リハーサルで一件問題が出て、そのリカバリのために島田副部長の承認をもらっているからだった。
フロアのいちばん奥の立花さんの席にだけ、まだ電気がついていた。
「桐谷くん、お疲れさま」
立花さんの声がこちらに届いた。
「お疲れさまです」
「もう帰る?」
「はい」
「気をつけて」
「立花さんは」
「俺はもうちょっと。あと三十分くらい」
「はい。お疲れさまです」
立花さんのMacBookの画面は、こちらからは見えなかった。ただ、別のチームの誰かに見せるための資料を整え直しているような音が漏れていた。
……立花さん、今夜も何かを自分のほうに引き寄せる夜なんだろう。
胸の奥でつぶやいた。
四月下旬の立花さんの手柄横取りのことを、僕はノートの奥のページにそっと残してあった。今夜の立花さんの奥の席のMacBookの画面の角度は、たぶん四月下旬のあの夜と似ていた。
ただ、今夜の僕は四月下旬の僕とは違う場所に立っていた。白瀬さんのたたき台の向こうで、自分の書き直しの判断を置けるようになっていた。諏訪マネージャーの月次報告の定量の数字の隣に、自分の貢献を薄く置けるようになっていた。立花さんの奥の席を見ても、もう四月下旬の頃のようにまっすぐ湿らなくてよくなっていた。
その「湿らなくてよくなった」差が、たぶん今夜、この半年の僕のいちばん深い変化だった。
フロアの出口の自動ドアの前で立ち止まり、ICカードをピッとゲートに当てた。ゲートの赤いランプが緑に変わる。階段を一階まで降りた。
一階のロビーで、警備員の田所さんがこちらを向いた。
「桐谷さん、お疲れさまです」
「田所さん、お疲れさまです」
「今日は、いつもより遅いですね」
「九時です。来週のリリースの本番リハで一件問題が出て、そのリカバリで、島田副部長の承認をいただいて」
「そうですか。あまり、根を詰めすぎないように」
「はい。今日はもう、上がります」
田所さんは、六十代の白髪の痩せた男性。去年の五月の寮の夜のいつだったか、僕が初めて彼の勤続二十二年の話を聞いた人だった。勤続二十二年は、いまたぶん二十三年になっていた。
「桐谷さん」
「はい」
「九月、もうすぐですよ」
「はい。来週から九月」
「九月の桜並木通りは、八月よりも夜の温度が軽くなるので」
「軽く、なる」
「うん。残業のあとの帰り道、ちょっと楽になります」
「ご自愛ください」
「ありがとうございます」
田所さんは口の端でほんの少し頷いた。その頷きは、たぶん勤続二十三年の続きの中の、毎日の僕への見守りだった。
……田所さん、いつもちゃんと見てくれている。
内心でつぶやいた。
田所さんは、たぶん僕の入社の頃から、毎日の退社をそっと見守っていた。その見守りは、半径3メートルの観察のもう一段奥に、静かに置かれている人の温度だった。
会社の自動ドアを出て、駅前の桜並木通りの入り口の信号の前に立った。夜九時の信号は、まだ車道が青、歩道が赤の組み合わせの途中だった。
信号待ちの間に、桜並木通りの奥のほうを見た。葉桜の青い葉が、夜の街灯の明かりの下で湿気を含んで揺れていた。
田所さんが置いてくれた「九月、もうすぐですよ」の一行は、まだロビーの空気の続きとして、僕のリュックのストラップのあたりにかすかに残っていた。
信号が青に変わった。歩道を渡り、桜並木通りの湿った夏の夜に入った。
夜九時の桜並木通りは、人通りがまばらだった。
駅から寮までの徒歩十二分のルートを、僕はもう入社一年と五ヶ月、毎日繰り返してきた。最初の四月の朝の湿ったぎこちなさは、もう別のものに変わっていた。
……二年目の前半、ぜんぶで何があったかな。
胸の内で言った。
歩きながら、半年を、桜並木通りの葉桜の揺れのリズムに合わせてたどり直した。
四月。配属二年目の最初の月。森山くんの入社。入社式の朝、桜並木通りで見かけた、新人たちのぎこちなさ。
四月下旬。立花さんの手柄横取り。チーム会議で、立花さんが僕の提案を自分の提案だと置いた夜。白瀬さんが「文章のスタイル、桐谷くんのものだったから」と置いた、夕方。
五月。白瀬さんの信頼。中規模機能の設計を僕に預けた白瀬さん。Confluenceに書いたドキュメント。週に一回の質問。「ここはなぜこの方針?」「他の選択肢は考えた?」。最後に置かれた「これは、いい設計です」の一行。
五月下旬。諏訪マネージャーの2年目の1on1。年間2億の売上、解約率3%、顧客満足度80%。「両輪というのは、こういうことか」のノートの一行。
六月。葉山さんの限界の予兆。チームBの沢田さんと立花さんの「美月ちゃん」のダブル。江口マネージャーの「現場で決めて」の平らな声。
六月の終わり。黒木のテックリード補佐への就任。「かいかん」の二階の奥の座敷席。「給与は同期と同じ」の黒木のぽつり。アユシュくんの「黒木、おめでとう。当然だよ、You deserve it」の軽い断言。
七月。赤坂先輩の異動。送別会の駅前の居酒屋。赤坂さんの「俺は、好かれる先輩だっただろ?」の自己回収。白瀬さんの沈黙。
八月初め。副業のススメ勉強会、寮ラウンジ。丸山くんの運送業の知り合いのExcel整理。杉本さんの文書整理。葉山さんの東京の友達のWebサイト。三浦からのSlackの煽り。
八月第三週、金曜日。LT前夜、寮ラウンジ、同期の猛特訓。葉山さんの空白の設計。丸山くんの半径3メートルの円。黒木の白文字のにじみ。アユシュくんの英語の三行。杉本さんの文章の地図。
八月第三週、土曜日。港川IT勉強会第四十八回、LT登壇五分十二秒。岡崎順さん、四十八回続けている人。平岩さん、市内の別IT中小、中堅女性。Krishnaさん、来日二年、インド出身。宮本さん、フリーランス、副業の複数の軸。
八月第四週から今週、九月第一週。白瀬さんから『LeanとDevOpsの科学』。リードタイム、デプロイ頻度、変更失敗率、平均復旧時間。Pythonの計測スクリプト、二十行のたたき台と僕の書き直し。Confluenceのダッシュボード。平均五日半。ばらつき二日から十日。ミドルパフォーマンス上位。諏訪マネージャーの月次報告。両輪、両輪、両輪。
……これぜんぶで、半年。
胸の奥で数えた。
半年というのは、入社一年目の四月から十月までと、二年目の四月から九月までの、ふたつある。ただ、その二つの密度はたぶん別物だった。二年目の前半の半年は、一年目のぼやけた視界の向こう側で、ぐっとピントの合った半年だった。
ピントの合い方は強かった。強かったぶん、影のかたちもはっきりしていた。
影というのは、立花さんの四月下旬の手柄横取りと、葉山さんの六月の限界の予兆と、赤坂さんの七月の自己回収の三つ。光というのは、白瀬さんの信頼と、諏訪マネージャーの両輪と、同期の猛特訓と、岡崎さんの四十八回と、白瀬さんのリードタイムのたたき台の五つ。それから、六月の応用情報の合格。点がひとつ、静かに増えていた。
影三つ、光六つ。半年の加重平均は、たぶん光のほうに傾いていた。ただ影の三つを、僕はノートの奥のページにそっと残してあった。残してあったぶんは、たぶんいつか半年後か一年後の、僕の半径3メートルの続きの足場になるような気がした。
桜並木通りのちょうど真ん中あたり。いつもの市の管理する小さな児童公園の横を通った。
児童公園の街灯の明かりの下で、ベンチに誰かが座っていた。目を凝らした。二十代後半くらいの男性。スーツの上着を膝の上にたたんで置き、ネクタイは緩めていた。その人は、空のほうを見上げていた。
……知らない人。
内心でつぶやいた。
知らない人だったけれど、その空を見上げている姿は、半年前の僕の姿と似ていた。四月の二週目くらいの夜、僕もたぶんこの同じ児童公園のベンチで、空のほうを見上げていたことがある気がした。
あの時、僕が何を見上げていたのか、いまはちゃんと思い出せなかった。ただ、自分の入社一週目の湿気を、空のほうに預けていたような気がする。
今夜のその知らない男性も、たぶん彼の湿気を空のほうに預けている最中だった。
僕は足を止めずに通り過ぎた。声はかけなかった。かけるべきではなかった。
……彼の見上げの邪魔をしないでおく。
胸の内で決めた。
その確かめは、去年の五月のいつだったか、白瀬さんが僕に雨の傘を無言で差し出した、あの一瞬の続きの形だった。白瀬さんはあの時、声をかけなかった。声をかけずに、ただ傘を置いた。
今夜の僕も、声をかけずにただ通り過ぎた。通り過ぎたあと、その知らない男性を、胸の奥で見送った。見送りは、半径3メートルの外側の観察の、もう一段別の形だった。
寮まであと徒歩五分。歩道の左寄りの街灯の明かりの下で、リュックからスマホを取り出した。
LINEの画面を開く。三浦翔太とのトーク画面。最後のメッセージは、火曜日の夜だった。
「桐谷、お前のダッシュボードの話、聞いた」
「リードタイム五日半、ばらつき二日から十日」
「お、けっこういいラインらしいぞ」
「東京の俺の上司、聞いて『地方IT中小で五日半、すごいな』って」
「お前、次は変更失敗率」
「お、楽しみ」
三浦はたぶんなかば勢いで、なかば根拠で、こちらをそっと押してくれていた。
火曜日の僕の返信は、こうだった。
「変更失敗率、たぶん五%から十%」
「諏訪さんが定量で出したいと」
「今月、近いもう一回あると諏訪さんが置いた」
「近いもう一回、ある」
三浦からの返信はなかった。火曜日の夜の最後のメッセージのところで、やりとりは止まっていた。
……三浦、たぶん「近いもう一回ある」の一行に、いつもの軽い笑いを置けなかった。
内心でつぶやいた。
三浦はたぶん、僕の文面の硬さをちゃんと読み取って、今回は勢いのレスを止めていた。その止め方が、三浦の優しさの形だった。三浦の勢いと止め方は別々のものだったけれど、両方とも磨く優しさの側にあった。
スマホのトーク画面を閉じ、画面を消して、ポケットに戻した。
寮の入り口の自動ドアの前。夜九時二十分。
ドアの開く音と一緒に、寮のロビーの温かい空気がこちらに流れてきた。自動販売機の缶のぼんやりした灯りが、いつも通りだった。共用ラウンジの扉は、もう閉まっていた。
階段を、二階の自分の部屋へ上がった。二階の廊下のいちばん奥から二番目のドアが、僕の部屋。ドアにICカードをピッと当てた。
部屋のちょうどいい、ほっとする空気が出迎えてくれた。リュックを机の横に置く。机の電気をつけた。私物のMacBookはまだ開かなかった。
机の上のいつものボールペンと、二冊のノートと、付箋と、ホチキスと、消しゴムの配置を見直した。配置はいつも通り、ぴったり揃っていた。その揃いが、たぶん僕の二年目の前半の半年の、いちばん奥の足場だった。
ノートを開いた。四月一日の最初の一行「二年目、仕事の質を見る」を、今日も一秒だけ見直した。半年、毎日見続けてきた一行だった。
机の引き出しのいちばん奥に、もう一冊の古いノートが立てかけてあった。一年前の、入社一年目の最初の三ヶ月で使い切った最初のノート。背表紙に薄く油性ペンで「一年目 四月から七月」と書いてあった。
ふと、その古いノートを引き出しから引き抜いて、今日のノートの隣に開いてみた。
一年前の四月一日の最初の一行は、こうだった。
「観察を始める」
もう一行。
「半径3メートル」
もう一行。
「先輩たちの動きをよく見る」
古いノートの最初のページは、ぜんぶで五行ほど。書かれていることは、ぜんぶ「見る」と「観察する」だった。「見る」と「観察する」の主語は、ぜんぶ僕で、目的語は先輩たちと、フロアの空気と、座席の位置だった。
今日のノートの一週間分のページを、ぱらりと逆に戻していった。
最初に目に入ったのは、「リードタイム平均五日半。来期、二日半まで下げたい」の一行だった。
もう一行戻ると、「PRマージから本番までの時間、これ桐谷くんの判断?」の一行。
もう一行戻ると、「ConfluenceダッシュボードはGitタグで計測」の一行。
もう一行戻ると、「白瀬さんのたたき台、PRマージ起点に書き直し」の一行。
……書いていることが、ぜんぜん違う。
胸の内で言った。
一年前のノートの動詞は、ほぼ全部「見る」「観察する」だった。今のノートの動詞は、「測る」「下げる」「書き直す」「判断する」だった。
「見る」と「測る」は、半段隣だった。「観察する」と「下げる」は、半段以上離れていた。「先輩たちの動き」と「リードタイム」は、ぜんぜん別のレイヤーだった。
ただ、今夜の僕には、その別のレイヤーが地続きの一本の線でつながっているのが見えていた。
一年前の僕は、フロアの空気を見ていた。空気を見るために、先輩たちの動きを見ていた。動きを見るために、座席の位置を見ていた。それは「見るために見る」の連鎖だった。
今の僕は、リードタイムを測っている。測るために、Gitのタグを起点に置いている。タグを起点に置くために、Confluenceの半時間の誤差を確かめている。誤差を確かめるために、白瀬さんのたたき台の二十行を読み直している。それは「変えるために測る」の連鎖だった。
……観察が、行動の指針に変わってきた。
胸の奥でつぶやいた。
観察は、もう観察のためだけのものではなくなっていた。観察は、次の一手のための材料に変わり始めていた。「来期、二日半まで下げたい」と諏訪マネージャーが漏らした数字は、半年前の僕のノートのページの上にはどこにも置けなかった種類の数字だった。今の僕のノートのページの上には、その数字がちゃんと置けるようになっていた。
ノートの動詞の変化は、たぶん一日一日の小さな積み重ねの果てに、ある夜にふっと別のかたちとして立ち上がってくるものだった。今夜が、たぶんその夜だった。
一年前のノートを、引き出しの奥に静かに戻した。背表紙の「一年目 四月から七月」を、一瞬だけ撫でた。
今のノートを、もう一度自分のほうに引き寄せた。
四月一日の最初の一行「二年目、仕事の質を見る」を、もう一度見つめた。毎日見ていると、その一行の見え方は少しずつ変わっていった。
四月一日に書いたその日は、湿った決意。四月下旬、立花さんの手柄横取りの夜は、押し下げられた夜。五月、白瀬さんの信頼は、押し戻してくれた手。六月、葉山さんの限界の夜は、もう一度の押し下げ。六月の終わり、黒木の新しい役割の夜は、横の方向への軽い滑り。七月、赤坂さんの自己回収は、軽い滑稽さ。八月、LT登壇の夜は、ふっと軽くなった夜。九月の初め、ダッシュボードの夜は、ぐっとピントの合った夜。
半年で、心の振れ幅はぜんぶで八回くらい行き来していた。
……八回。
内心でつぶやいた。
八回の行き来が、たぶん僕の二年目の前半の半年のリズムだった。そのリズムを、僕はノートの四月一日の最初の一行の向こう側で、毎日たどっていた。
ページをめくった。新しい一ページを開く。ボールペンを握り直した。
「二年目の前半:仕事の質を見る、芽生え始めた」
書いた。ペン先をページのいちばん上に置いたまま、考えた。
「芽生え始めた」と書いたのは、たぶん、まだぜんぶ咲ききっていない一歩手前のことだった。咲ききっていないものの向こう側に、まだ何かが起こる予感があった。その予感は、火曜日の午後の諏訪マネージャーの「九月、近いもう一回ある」の間の取り方と、かすかにつながっていた。
もう一行書いた。
「光六つ、影三つ。加重平均は光のほうに傾く」
「影の三つは、ノートの奥のページに残す」
「光の六つのいちばん奥に、白瀬さんと諏訪マネージャーの両輪の軸が置かれた」
「同期の五人とアユシュくんのばらばらの引き出しが、僕の五分間のLTの後ろに薄くある」
「外の世界は優しい。岡崎さん、平岩さん、Krishnaさん、宮本さん、三浦」
「ただし、優しいだけではない。半年後か一年後に別の形で見えてくる」
「リードタイム平均五日半。来期、二日半まで下げたい」
「変更失敗率、次の軸。たぶん五%から十%」
「両輪、両輪、両輪。技術の四つの軸と、事業の三つの軸」
「観察の軸が、技術メトリクスにも広がる」
ここでペン先を止めた。
……ここからがたぶん、大変だ。
胸の内で漏らした。
「ここからが大変だ」の予感は、まだ形のない漠然としたものだった。ただその漠然とした予感の内側に、火曜日の午後の諏訪マネージャーの「九月、近いもう一回ある」の間と、立花さんの奥の席のMacBookの画面の角度と、葉山さんの副業の「ふつう」の確かめ直しと、アユシュくんの「Soota、Don't forget. Share is light. Light is enough」の軽さが、ぜんぶ淡く絡まっていた。
絡まりの奥に、もうひとつ別のものがそっと置かれていた。来週の九月五日、金曜日の本番リリース。白瀬さんは別案件の深夜帯対応で立ち会えない。諏訪マネージャーは午後のお客様訪問で会社に戻るのが遅れる。先方の確認チームに同世代の岸さんという三年目の人が立つ、と先週聞いた。
……一人で進める覚悟が、まだ薄い。
胸の奥でつぶやいた。
その薄さは、たぶん今夜ノートには書かないほうがいいものだった。書いてしまうと、薄いまま固まる気がした。書かないまま、来週の金曜日まで、自分の中で薄く回しておく。
絡まりの奥に、もう一つ僕の知らない何かが潜んでいた。その「知らない何か」を、今夜はまだノートに書かなかった。書かないで、最後にもう一行だけ書いた。
「ここからが、大変だ」
書いた。書いてから、その一行をもう一度読み直した。
「大変だ」というのは、ネガティブな一行ではなかった。むしろ、半年のピントの合った足場の向こう側に、ちゃんと置かれている覚悟だった。
覚悟という言葉は、まだ僕の二十三歳のボキャブラリーの外側に近かった。ただその外側の向こうに、たぶんちゃんと九月の夜が待っていた。
ノートを閉じた。机の上のいつもの配置の揃いを、もう一度確かめた。私物のMacBookは今夜は開かなかった。机の電気を消した。
窓のほうへ寄り、カーテンを軽く開けた。
夜九時五十分。寮の二階の奥から二番目、僕の部屋の窓の向こう側で、桜並木通りの葉桜の青い葉が湿気を含んで揺れていた。その向こうに、夏の夜空。
空のいちばん奥のほうに、雲のかすかに切れた隙間があった。隙間の向こう側に、星が二つか三つ、ちらりと見えた。数は二つか三つか、ちょっと判別がつかなかった。その判別のつかなさが、九月の初めの夜空のちょうどよさだった。
……明日、九月。
内心で言った。
九月の桜並木通りは、田所さんが置いてくれたとおり、夜の空気が軽くなるはずだった。軽くなった夜の向こう側に、「ここからが大変だ」の内側の、まだ知らない何かが、もう一度置かれるはずだった。
それはたぶん、湿気の抜けた九月の空の隙間のような、ちょうどいい、軽い影だった。
影というのは、ネガティブな影のことではなかった。ただ、影は影として、ちゃんと置かれた影のことだった。影がちゃんと置かれた夜の桜並木通りが、たぶんもうすぐ僕の二年目の後半の入り口になるはずだった。
カーテンをゆっくり閉じた。窓の向こうの夜空の二つか三つの星は、ふっと見えなくなった。
代わりに、カーテンの薄い白の布が、僕の視線のいちばん手前に置かれた。その白が、たぶん九月の初めの夜の、ちょうどいい終わりの色だった。
机の脇のベッドの布団に入る。布団のひんやりした最初の感触が、僕を迎えた。
目を閉じた。閉じた目の内側、真っ暗な暗闇の奥に、桜並木通りの葉桜の青い葉の揺れの残像がふわっと置かれていた。残像の向こう側、葉桜の影の向こうに、九月の初めの何かがひそかに待っていた。
……月曜日、会社でMacBookをもう一度開く。
胸の内でつぶやいた。
明日の土曜日は、半日休んで、半日、紙のノートで変更失敗率の定義の初稿を書き始める予定だった。変更失敗率の定義の初稿は、たぶん「本番リリースのうち、ロールバックもしくは緊急修正を要するリリースの割合」から置き始めるはずだった。Pythonの計測スクリプトとして実装に落とすのは、月曜日、会社のMacBookで。
定義の置き方はまだぼやけていた。ぼやけたまま、明日の土曜日の半日の机の上に、紙とペンで置く予定だった。
……明日、九月。
胸の奥でもう一度つぶやいた。そのつぶやきの最後の余韻の奥で、僕はゆっくり眠りに落ちていった。
眠りのいちばん奥に、葉桜の青い葉の揺れと、星の二つか三つの淡い点と、田所さんの勤続二十三年の見守りと、白瀬さんの二十行のたたき台の青い文字と、諏訪マネージャーの「両輪、両輪、両輪」の低い声と、同期の五人のばらばらの丸椅子の座り方と、岡崎さんの四十八回の頷きと、三浦のBig enough to matterの軽い勢いが、ぜんぶそっと置かれていた。




