(三)
「は…………?」
腰に手を当てて得意げに話す神様の言葉を理解できず、思考が一瞬停止した。
(なん、だって……? ここには、いない? 異世界? 送り届けた……?)
断片的な言葉が頭の中でぐるぐると回っている。
その中で一つだけ、中心で留まっている言葉があった。
確証が欲しくて口を開くが、喉が張り付いてしまったかのように声が出ない。
聞いてしまえば、後戻りできなくなる。
知りたかったことなのに、いざとなるとどうしても尻込んでしまう。
池の底についた手に力を込めると、ぬるりとした感触が伝わってきた。
木々が揺れる音だけが響くなかで、自分の心臓の音が嫌に大きく聞こえる。
『生きてますよ』
「え……?」
『夏海サン、でしたっけ? 生きてます』
いっそ緊張感さえ孕んだ空気を、先程と変わらぬ神様の声が一瞬で破壊した。
とても人の生死についての言葉だとは思わず、理解するのに数秒を要した。
夏海が、生きてる。
目の前の存在は、確かにそう言った。
真偽はわからない。
異世界の存在も、わからない。
けれど、目の前の存在を否定することができないのも事実だ。
それなら俺は、信じたい。
「はぁー……、よかった……」
吐息と一緒に吐き出した言葉は、自分で思っていたよりも弱々しいものだった。
張り詰めていた神経が、力が、ふっと抜ける。そのまま地面に身体を預けようとして、まだここが池の中であることを思い出した。
それと同時に、ぶるりと身体が震える。
凍死するほどでないとはいえ、ずっと浸かっていれば流石に寒い。
それでも、まだここを離れるわけにはいかない。
風邪を引く覚悟で、神様に向き直った。
「あの――」
『無理ですね』
「えっ、俺まだ何も言ってな――」
『思考を読み取っているので声に出さなくても問題ありません』
現実離れした発言に、理解するのが一瞬遅れる。とはいえ神様ともなればそんなこともできるだろう、と早々に納得した。
ただ、色々筒抜けだったことはちょっと、いや、かなりいたたまれない。
(この歳で泣きそうになったとか、知られたくなかった……!)
神様が全く気にしていなさそうなのがせめてもの救いか。
『それ程切望されては私としても叶えてあげたいのですが』
若干気にされていた。
『残念ながら彼女をこの世界に戻すことはできませんし、あなたをすぐに異世界へ送ることもできません』
「なっ……! なんでですか!? 神様ならなんでもできるんじゃ……」
『そこまで万能ではありません。異世界への道は一方通行でどうすることもできませんし、頻度は最低でも十年に一度と決められています』
「そんな……」
どんなに早くても会えるのは十年後……?
生きていた喜びが、急速に萎んでいく。
一生会えないよりはマシ、と思えればよかったのだが、一度芽生えたものは、簡単に消えてくれない。
(――今すぐ、逢いたい)
小説で得た知識を活用して何か方法がないか探すも、口に出す前に神様によって一蹴される。
それを何度か続けた後にふと思った。
「そもそも、夏海はなんで異世界に……? 池に入ったから、ですか……?」
思えば最初に池に入ろうとした時、神様に止められた。
この池が異世界に通じる入り口で、今は閉じてあるのだとしたら納得がいく。
『半分正解ですね。確かにこの池が入り口ですが、無差別に送っているわけではありません。彼女にもきちんと説明した上で望まれました』
(望んで異世界に……?)
なんで、と思考を巡らせようとして気付いた。
十四年前、あいつがいなくなったのもこの池だ。
まさか――
『そうです。あの時送った小さな彼に逢いたがっていました。あなたのように』
頭を、バットで殴られたような衝撃に襲われた。
あいつを追って異世界に? もう二度と、こっちに戻れないとわかってて?
俺の存在は、足枷にもならなかった?
血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
座っていなかったら、倒れ込んでいただろう。
ぐらりと揺れる頭を膝に預けた。落ち着け、と自分に言い聞かせながら深く息を吐く。
これは、当然の報いだ。
夏海の行動に意見など言えるはずかない。
俺ができるのは、異世界に行ったことを後悔することなく幸せに過ごせるように、祈ることだけ。
『あ、ありました』
「え?」
『こちらに戻って来る方法、一つだけありました』
「え!?」
唐突な発言に、驚きよりも嬉しさが勝った。
会えるのならば、すぐにでも逢いたい。
だが、夏海の意志で異世界へ行ったのに、俺の意志で連れ戻すなんてことはできない。
夏海がここに戻ってくるのではなく、俺が異世界へ行けるのであれば、すぐに行くことを決意しただろう。
喜びもすぐに苦いものへと変わり、奥歯を噛み締める。
そんな俺の様子を全く気にすることなく、『すっかり忘れていました』と言いながらその方法について話し始めた。
『まず初めに言っておきますが、成功する可能性はほぼゼロです』
可能性がゼロと言われて、逆に安心した。気軽にできてしまえば、聞いた後十年も我慢できる自信はあまりない。
『ポイントは二つあります。まず一つは、彼女が出口に居ることです。ですが目的があって異世界へ行ったのに、留まっていたり戻って来ることなどないでしょう』
そこで一度言葉を切り、ふわりと近づきながら人差し指を立てた。
『それだけでも難しいのに問題はもう一つです。本人がこちらに戻りたいと思っていなければいけないので、どう考えても――』
「やります」
独り言のような呟きは、ほとんど無意識に口から零れていた。




