(四)
「やります! やらせてくださ――」
『話は、最後まで、聞きましょうね?』
一瞬でお互いの鼻先が触れそうになる程近づかれ、言葉を切るたびに笑みが深められていく。
本来であれば見惚れる程秀麗であるのに、全身が凍ってしまったかのように動けなくなった。
背後に黒いモヤのようなものが見え、『二度も言わせないでください』という副音声が聞こえた気がする。
俺が静かになったのを見て、神様は大仰にため息をつきながら首を左右に振った。
『まったく……、手間のかかる人間ですね』
この歳で問題児扱いされるのは少々気まずく、正座をして謝罪の言葉を口にした。
「取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」
石が脛に当たって痛みはあるが、我慢できないほどではないし、暴走の抑止にもなる。
『よろしい。では、念のため条件をもう一度言いますね。一つは彼女が出口に居ること。もう一つは彼女自身が戻りたいと願っていること、です』
俺が頷くと、神様も頷いてから続けた。
『まず、人一人が通れる穴を広げることはできないので、腕が通れる程度の穴を広げます』
空中に突然ホワイトボードが出現し、図も交えて説明してくれた。
異世界への入り口は弁のようになっていて、異世界に人を送ると弁が逆になる仕組みになっているらしい。
つまり、向こう側からは比較的戻って来やすい状態になっている。
そこで、神様が広げてくれた穴に俺が手を入れ、その手を夏海が掴んでくれれば連れ戻すことができるのだと言う。
『ただし、失敗すれば肘から下の神経を失います』
「神経を、失う……?」
『そうです。動かせなくなることはもちろん、切りつけられて血が出ても、炙られて皮膚が爛れても何も感じません』
具体的に出された例を想像してしまい、ぞっとした。
夏海を連れて戻れれば必然的に広がるが、逆に言えば夏海がいなければ穴が広がることはない。
そうなると、腕だけが戻って来られず異世界に残ってしまうらしい。千切られないだけマシだと思うべきなのだろうか。
『それらを踏まえた上で、聞きます。かなり望みは低いですが、やりますか?』
成功すれば夏海と逢え、失敗すれば片腕が使えなくなる。
片腕が使えなくなるなんて、正直明確に想像できていない。
それでも、少しでも希望があるのなら、逢いたいと思ってしまう。
だって、もし、帰りたいと思っていたら? 俺は手を差し伸べることができるのに、しなかったことをずっと後悔するだろう。
もし失敗しても、向こうで幸せに暮らしているのがわかるのだ。試す価値は十分にある。
『本当にやるんですか?』
俺が決意を固めると、神様は呆れた様子で肩をすくめた。
「はい。お願いします」
『わかりました。では池の真ん中まで行ってください』
思ったよりもあっさり承諾してくれ、後ろを振り向くことなく池の中心まで飛んでいく。ここまで来い、ということだろう。
正座で痺れた脚を無理矢理動かし、ゆっくりと進んだ。
少しずつ水深が深くなっていき、水面が近づく度に臭いが酷くなっていく。
滑る底を踏み締め慎重に足を動かすと、それ程かからず真ん中にたどり着いた。水は肩の下辺りまであって意外と深い。
『では、潜って底に手をついてください。タイムリミットはあなたの息が続くまでです』
神様を仰ぎ見ると、説明は終わりだと言わんばかりに潜るよう促された。
水面を見ても、濁っていて底は全く見えない。
今更ながら、少し緊張してきた。
タイムリミットが息を止めている時間ならば、なるべく長く止めていたい。
緊張を吹き飛ばすように大きく深呼吸をして、一気に底を目指した。
目は開けられないため、手を目一杯伸ばせばすぐに滑り気のある石に触れた。
『そのまま地面から手を離さないでください』
神様の声が地上と変わらない明瞭さで、脳に直接響いているのがよくわかる。
指示通り左手を押し付けていると、不意に沈み込むような感覚に陥った。
『逆らわずに強く名前を呼んでください』
反射的に引きそうになった腕を押し留め、強く、強く心の中で名前を叫んだ。
(夏海! 頼む、掴んでくれ!)
石に触れている感覚がなくなり、肘辺りまで腕が沈んでいく。
夏海のためを思うなら、手を掴むことを望まない方がいいのだろう。けれど、そう願わずにはいられなかった。
(夏海! 夏海!)
必死に叫ぶと、何かかが指に触れた。
(夏海!)
なんの疑いもなく、そう思えた。
そして、再び触れた何かを強く、強く掴んだ。絶対に、離さないように。
腕を引くと、驚くほど簡単に持ち上がった。
あまりの軽さに、強く引き上げた俺は勢い余って後ろに転がりそうになった程だ。だが、掴んでいたものに引っ張られ、体勢を立て直すことができた。
促されるように水面から顔を出すと、誰かが苦しそうに咳き込んでいた。
咄嗟に目を開けると、池の水が入ったのかツキリと痛む。
それでも、大きく目を見開いた。
まだ一日も経っていないのに、酷く懐かしく感じる。ずっと、逢いたいと願っていたからだろうか。
池の水が入ったせいで、両目からは一筋の涙が零れた。
(本当に、よかった――)
「はっ…! はぁ…! ゔっ、ゴホッ、くさっ…! ゲホッ……」
「っ、馬鹿野郎! それが一番に出てくる言葉かよっ…!」
感動の再会、とまではいかなくてももう少しなんかあっただろう、と思わずにはいられない。
夏海はまだ目を瞑ったままで、怒りにも似たような衝動が湧き上がり、思わず乱暴に抱き寄せた。
「…け、いご……? なんで……」
「探したからに決まってんだろ!」
多分、本当に聞きたいことは違うんだろう。
だが、俺がやったことを夏海に伝えるつもりはない。
無事に戻って来られた。その事実だけで、他はどうでもいい。
「……よかった……」
「……心配かけて、ごめん」
夏海に触れることができて、ようやく実感が湧いてきた。
(大丈夫。ちゃんと、ここにいる)
『言わないのですか?』
(えっ?)
忘れていた訳ではなかったのだが、突然響いた神様の声に驚きの声を上げなかったことを褒めてほしい。
『彼女に伝えないのですか?』
視線を少し上げると、夏海のほぼ真後ろに神様が浮いていた。どうやら夏海には聞こえていないようだ。
(あ…、はい。神様も、夏海には内緒にしていてもらえませんか?)
『何故です?』
(……恩を売ったようになるのは嫌なんです)
俺のおかげて戻って来ることができたとわかれば、感謝しつつも、きっと負い目を感じてしまうだろう。代償が腕一本だと知られれば余計に。
変に遠慮されるのは絶対に嫌だ。夏海とはいつだって対等に立っていたい。
『なるほど。わかりませんが、わかりました。彼女にはナイショにしておきます』
些か不安な返事の後、お礼を言う間もなく神様は姿を消してしまった。
「……あの、申し訳ないんだけど…、とりあえず出ない? 臭すぎてほんと無理なんだけど」
目線だけで神様を探していると、夏海が遠慮がちに声を上げた。
この臭いが相応嫌らしい。俺はもう慣れてしまったが、夏海は嗅いだばかりなので仕方ないと言えば仕方ない。
それでも、ため息をつかずにはいられなかった。
ただ、ここで話をするのは落ち着かないのも確かだ。
水の中というのもさることながら、いつ神様が出て来るのかわからないのも心臓に悪い。
とりあえず池から出ようと夏海の手首を掴んで歩き始めた時だった。
「わっ!」
「なっ!? どした!?」
驚いた声とともに足を止めた夏海を振り返ると、俺の隣に視線を向けていた。
「だ、大丈夫。ちょっとつまずいただけ」
それも一瞬のことだったが、向けられた笑顔はどことなく硬い。これは、夏海が嘘をつくときの癖だ。
多分、俺の隣には神様がいるんだろう。
神様と会ったことも知られたくなかったので気づかないふりをした。
「気をつけろよ?」
「うん。ごめん」
池から出るまで夏海は神様と話していたんだろうが、表面上はお互い無言だった。
神様が本当に内緒にしてくれているのかものすごく気になったが、俺にはもう祈ることしかできない。
「啓吾スーツのままじゃん!」
「ああ」
池を出た後、夏海に指摘されて自分でも今更気がついた。
そういえば成人式が終わってそのまま来たんだった、と他人事のように汚れたスーツを見下ろす。
「え、待って、これクリーニングで生き返る!?」
「そんなの後でいいから。とにかく家帰るぞ。このままだと俺らが凍死する」
例えスーツが駄目になってもどうでもよかった。
夏海が戻って来てくれたのだから安いとさえ思える。失敗すればスーツだけでなく、左腕さえも失っていたのだから。
「けど、ちゃんと説明はしてもらうからな」
このまま有耶無耶にされても困るので、しっかりと釘を刺しておく。
すると図星だったのか、夏海は曖昧に笑って先に走り出した。
俺は池を振り返ると浅く腰を折った。
(ありがとうございました)
すぐに夏海を追って走り出すと、まるで背中を押すように強く風が吹いた。




