(ニ)
『立ち入り禁止』の看板にたどり着いた時には、肩が上下に激しく揺れ、喉の奥が乾燥して張り付きそうになっていた。
足も限界で、立ち止まって呼吸を整えながら汚れた看板に目を向けた。
あの事故があった日から、池に通じる道は立ち入り禁止となっているらしい。
俺は行ったことがないため中がどのようになっているのか知らないが、少なくとも看板の奥はきちんとした道が無いように見える。
きっと十四年間、整備もされていないのだろう。
周囲を見渡してみても人の気配はなく、立ち入り禁止という看板が立っているだけで簡単に入れそうだ。
ただ、異様なまでの静けさに、まるで入るのを試されているかのような感覚に陥る。
もちろんここまで来て引き返すことはしない。例えこの先に夏海がいなかったとしても。
立ち入り禁止の看板を超えると、より静けさが増した。
風が止んだのか木々が擦れ合う音も聞こえず、ただ自分の鼓動と草を踏む足音だけが嫌に響く。
やはり道らしい道はないが、比較的雑草が短くて歩きやすい所を進むと、それ程かからずに池へと辿り着いた。
木々の合間から差す光が池に反射して綺麗な光景ではあるが、水自体は汚い。以前は、もっと綺麗だったんだろうか。
その光景をあいつと二人で見たのかと思うと、心の中に黒いモヤが広がる。そもそも、ここで何をしていたのかすら、俺は知らないのだ。
開けた場所には池しかなく、見渡してみても人影はおろか、人気も全くない。
池の奥は木々が鬱蒼としており、人が踏み入るのを拒んでいるようにも見える。
「夏海!」
名前を呼んでみても返事はなく、自分の声がこだまするだけだった。
だが、不安は拭えない。
無意識に止めていた息を吐きながら池に近づくと、何かが落ちているのが見えた。
「っ、夏海!?」
落ちていたのは、花だった。
いや、置いてある、と言った方が正しいのかもしれない。
数種類の花が纏まった状態で、傷んでない。周囲に同じ花は咲いていないので、最近持ち込まれたものだろう。
「…おい、嘘だろ…ッ!?」
こんなところに花を供えるなんて、夏海しか考えられない。それなのに、ここに居ないということは――
『ストーップ!』
「!?」
池に入ろうと足を踏み出した瞬間、文字通り頭の中に声が響いた。
怪異的な現象に、一瞬で全身の肌が粟立つ。
気持ち悪さに、頭を押さえながら踏み出した足を地面に下ろした直後、
「なっ……!?」
音もなく目の前に現れた女性に、勢いよく後ずさった。
金髪碧眼でとても綺麗な顔立ちをしているが、正直それが霞む程の異様さだ。
恐らく、人間ではない。
この寒さの中、コートはおろか、露出の多いワンピース一枚だけという暴挙。にも関わらず、寒がっている様子は一切無い。
極め付きは、女性の足元だ。
スカートで足は見えないが、それがなくとも明らかに地面から離れている。常人ではあり得ないことだ。
(幽霊……!?)
『失礼な! あんな奴らと一緒にしないでください!』
(!?)
思考を読んだかのような返答に、息を呑んだ。
今すぐ回れ右をしてここから離れたいのに、足が地面に貼り付いてしまったかのように動けない。
そんな状態を知ってか知らずか、女性は整った顔をずいっと近づけてきた。
『私はあなたたちの言うところの神様ですよ!』
「……かみ、さま……? えっ、神様!?」
言葉と意味が一致した瞬間、もちろん驚いたがそれよりも焦燥感が上回っていた。
恐怖もどこかへ行ってしまい、あるのはただ、夏海が無事かどうかという想いだけ。真偽など、二の次だ。
「あのっ…、夏海……、俺より先に誰か来ませんでしたか!?」
爪が手のひらに食い込むのも構わず、強く握り込んだ。
『ああ、来ましたよ。この方でしょう?』
だが、返ってきた言葉はあまりにもあっけらかんとしていて、何を言われたのか一瞬分からなかった。しかも、金髪の美女から一瞬で夏海の姿に変わったのだ。
得体の知れない存在に、神様だから、と無理矢理納得させて恐怖心と一緒に呑み込んだ。
「そ、そうです! どこに行ったか知りませんか!? 池には、入ってないですよね!?」
『入りましたよ? 先程――』
入った、という言葉を聞いた瞬間、身体が勝手に動いた。神様の言葉を遮るように、池の水がバシャバシャと響く。
なんで――、なんで、なんで……!
あの時、引き止められていたら――。あの時、もっと早く追いかけていれば――。いや、それよりも、もっとちゃんと話を聞くべきだった。
気持ちにケリをつけるのは本人しかできないと考えていたのも、結局言い訳だ。
夏海に嫌われたくなかった。あいつの方が大切な存在だと突きつけられるのが怖かった。
俺は、ただ逃げていただけだ。
夏海と――自分とも、向き合っているつもりで、全く向き合えていなかった。
今更、山のように後悔が積み上がっていく。
脳が痺れてしまったかのように鈍く、重い。
『まったく…、話は最後まで聞くものですよ』
「うわっ!?」
呆れたような声とともに、神様の頭が降ってきた。
正確には、逆さまになった神様が覗き込んだだけなのだが、半ば無意識に池の中を進んでいた俺は、生首が降ってきたように見えて盛大に尻餅をついた。どういうわけか、髪や服は重力に逆らっている。
尻に走る鈍い痛みに遅れ、吐き気を催す程の臭いが漂っていることに今更気がついた。
池の約三分の一進んだ場所で転んだため、ほとんど全身が濡れてしまっていてめちゃくちゃ臭い。顔に飛んだ水を拭おうとしても、手まで濡れていてそれもできない。ただ、この時期にしては不思議と水が冷たくなく、凍えることはなさそうだ。
思考力を失っていたことを実感しつつ、はたと気づいた。
無闇に探すより、神様に聞いた方が確実だ。
そんな簡単なことに気づかなかった反省は後回しにして口を開いた時だった。
『ですから、話は最後まで聞きなさいと言っているでしょう』
身体の向きを元に戻した神様に先手を取られた。
まるで子供を叱る親のような物言いで少々居心地が悪いが、その程度で引くわけにはいかない。
「で、ですが、人間は水の中では呼吸できないんです! 早く夏海を探さないと……」
『そんなことは知っています。ですが彼女はもうこの池にはいません。先程無事異世界へ送り届けたので安心してください』




