(4)
今更本心が分かったとしても、もう戻ることは出来ないのだ。
いくら後悔したって、家族に、友人に、…啓吾に、もう、逢うことはない。それを、今更実感した。
これからのことを考えなければいけないのに、脳みそがそれを拒否している。
湖にいても解決しないことは分かっているけれど、来た目的を失ってしまった今、何もやる気が起きない。
「……帰りたいなぁ……」
水を弄びながら、思わず口から零れた。
「――――」
「?」
パシャパシャという水音に混じって、何かが聞こえた気がした。けれど、手を止めて耳を澄ませてみても、木々の揺れる音しか聞こえない。
空耳かと思った直後、後ろから声が聞こえてきた。
「――ナツミ様!」
どうやら、ミレイさんが医者と共に追いかけてくれたらしい。優雅に、馬車で。
いや、うん。いいんだけど、いいんだけど、なんだろう、この違和感は。ここではこれが普通なのかな?
追いかけて来てくれたのは嬉しい反面、今は放っておいてほしいという思いが強い。医者を連れて来たのなら尚更。
ミレイさんの優しさには本当に感謝しているけれど、ここで生きていくという覚悟を決める時間がもう少しだけほしい。
そんな私の心の内が伝わるわけもなく、馬車から降りてきた。
「夏海!」
「ナツミ様!」
「え?」
ミレイさんの声の他に、誰かの声が重なって聞こえた。
聞き覚えのある声で、思わず湖に視線を向ける。
不思議なことに、湖の方から聞こえた気がしたのだ。
まだ一日も経っていないのに、何故か懐かしく感じる。
そんな馬鹿な、と頭では否定しても、縋るように水の中に手を入れていた。
すると、何かに手首が掴まれ、物凄い力で引っ張られた。
「ナツミ様!?」
ミレイさんも手を伸ばしてくれたが、私は抵抗することなく湖に身を沈めた。
底に引きずり込まれいるのに不思議と恐怖は感じない。心なしか水が温かく、包み込まれているような感覚がある。
ただ、潜る準備をしていなかったせいで、すぐに息が苦しくなってきた。
(どんだけ深いの!? この湖!)
そもそも、底にたどり着いたとしても呼吸できる訳ではない。
そして、ここがあの池に繋がっていて、戻れるという保証もないのだ。戻ってこられないという前提で来たのだから、むしろ繋がっていない可能性の方が高い。
今更戻ることもできないため身を任せていると、ようやく減速した。
(も……、限界っ……!)
完全に止まったところで息が限界になり、無意識に上へ上がろうと手足を動かす。
けれど、急に足が地面についたことで一気に水面から顔を出した。
「はっ…! はぁ…! ゔっ、ゴホッ、くさっ…! ゲホッ……」
新鮮な空気を取り入れようと必死に肺を動かした直後、魚が腐ったような、牛乳を拭いた雑巾のような、とにかく物凄い異臭が肺を満たし、吐き気に襲われた。
「っ、馬鹿野郎! それが一番に出てくる言葉かよっ…!」
吐き気と戦っていると、聞き覚えのある声と共に強く抱き寄せられた。
目を開けたくても、何かが顔に纏わりついており、開けるのが怖い。手もヌメヌメしていて、拭っても拭っても綺麗になっている気がしない。そして、とにかく臭い。
それでもなんとか目を開けると、見知った横顔が間近にあった。
どうやら戻ってこられたようで、池の真ん中で肩から下までが浸かった状態で抱きしめられていた。通りで臭い訳だ。
「…け、いご……? なんで……」
「探したからに決まってんだろ!」
なんで戻って来られたのか、という意味だったのだが、背中に回されている手が少しだけ震えていることに気づいてそれ以上は何も言えなかった。
「……よかった……」
「……心配かけて、ごめん」
啓吾のこんな弱々しい声は初めて聞いた。
相当心配をかけてしまったようで、戻ってこられた喜びよりも、申し訳なさが先に立つ。
ただ、ひとつだけ言わせてほしい。
「……あの、申し訳ないんだけど…、とりあえず出ない? 臭すぎてほんと無理なんだけど」
情緒がないのは重々承知している。それでも、一刻も早く出たいのだ。
案の定、啓吾には睨まれてため息を吐かれたけれど、池ほとりへ向かってくれた。ただ、手首を掴む力は強い。
(でも、どうして戻って来られたんだろう)
無言で進む啓吾の後ろ姿を見ながらぼんやりと考える。
啓吾がどこまで知っているのかも気になるところだ。多分それによって怒られる度合いが変わってくる。
『綺麗な物を頂いたのでそのお礼です』
「わっ!」
「なっ!? どした!?」
突然頭に響いた声と現れた姿に驚いて足を止めると、そんな私に驚いた啓吾が振り向いた。
啓吾の隣で浮いている神様には目を向けることなく、私に異変がないかくまなく確かめられた。
「だ、大丈夫。ちょっとつまずいただけ」
「気をつけろよ?」
「うん。ごめん」
どうやら見えてはいないらしい。こんなに目立つのに、ちらりとも視線を向けないのだから。
再び歩き出した啓吾の隣で、神様は後ろを全く確認することなく移動している。その髪の毛には、見覚えのある簪が挿さっていた。
そういえば髪の毛はそのままだった、と自分の頭を触るとやはり無くなっている。
私より似合っているのがなんとも言えない。この美形に張り合うつもりはないけれど。
レンタル品なので弁償することにはなるが、戻ってこられたと思えば安いものだろう。幾らか知らないけど。
それよりも、確かめておきたいことがある。
(戻ってこられないっていうのは嘘だったってこと?)
結果としてはよかったが、最初からそう言ってくれていればそれ程悩まずに済んだのに。
『嘘ではありませんよ。偶然条件が一致しただけですので』
(……でも方法はあった、ってことでしょう?)
『そうですね。成功する可能性としては限りなく低いため忘れていましたが』
(……そんな大事なこと忘れる?)
『人が来ることも殆どなくなりましたしね。忘れもします』
全く悪びれない姿はいっそ清々しい。
これ以上何を言っても意味がなさそうなので、早々に問い詰めるのをやめた。
(どんな方法なの?)
『ナイショです』
(は?)
『ナイショです』
(なんで?)
『ナイショです』
(…………)
結果オーライということで、深く考えないことにした。
その時丁度池の端にたどり着いたので、手早く上がった啓吾に続……けなかった。
本日二度目だ。
啓吾に手伝ってもらいながらもたもたと上がり、そこで初めて気づいた。
「啓吾スーツのままじゃん!」
「ああ」
着替えずに来たようで、スーツはぐっしょりと水を含んでしまっている。しかも、枯葉や池でついたであろう汚れで酷い有様だ。
「え、待って、これクリーニングで生き返る!?」
「そんなの後でいいから。とにかく家帰るぞ。このままだと俺らが凍死する」
池を出てもそれ程寒さは感じられなかったけれど、もしかしたらそう感じているのは私だけかもしれない。
既に迷惑をかけてしまっているののだ。これ以上私の所為で不利益をもたらすわけにはいかない。
「けど、ちゃんと説明はしてもらうからな」
急ごう、と走り出そうとした時、しっかり釘を刺された。
どうやら助かってよかった、で済ませてはくれないらしい。
有耶無耶にできるとは思っていなかったけれど、本当のことを話しても信じてはもらえないだろう。
神様が見えていなかったことからも、きっと啓吾は私が池の中にいるのが分かって助けてくれただけだ。
(簪を探してた、とか……?)
言い訳を考えながら先に走り出していた私は、啓吾が池を振り向いたことに気がつかなかった。




