(2)
「っ、は……!」
「大丈夫ですか!?」
岸に手をかけて水面に上がるのと同時に声が聞こえたが、それどころではない。
思わず吸ってしまったにも関わらず、臭くないのだ。しかも、水がサラサラで開けてしまった目も痛くない。
「水が綺麗になってる!」
「……あの、大丈夫ですか……?」
あまりの驚きと嬉しさに、人の声がしたことを忘れていた。
顔を上げると、金髪碧眼の綺麗な女性が心配そうな顔をしてこちらを見ている。年齢はよくわからないけれど、私と同じくらいだろうか。その両脇にはお付きの人かボディーガードか、いかにもな感じの人を伴っていた。
(絶対お嬢様でしょ…)
そして、彼女たちの向こう側の景色を見て息を呑んだ。
木々が生い茂っているのは同じだが、こんなに明るくはなかったし、獣道ではないちゃんとした道もある。更に、その道には、絵でしか見たことがない馬車が停まっていた。
私のいる場所も、池ではなく湖に変貌を遂げている。
「上がれますか?」
「あっ、は、はい!」
改めて自分の状況を見てみると、結構恥ずかしいことになっていた。
水が綺麗で服のまま飛び込んじゃった人、みたいになっている。自殺願望者だと思われてないだろうか。
一度胸上まで湖に沈め、勢いをつけて上が………れなかった。
冬物のコートに厚手の服が水をたっぷりと含み、物凄く重たくなっている。よく浮いてこられたな、私。
出来ると明言してしまった手前、恥ずかしくて沈黙がいたたまれない。
「ミレイ様、少しお下がりください」
そんな私を助けてくれたのは、体格のいい方の男の人だ。
敬称が様ってことはやっぱりお嬢様なんだ、と思っている内に片手だけで引き上げられた。物凄い力だ。
「お、お手数をおかけしました……」
「タオルです」
「ありがとうございます…」
全身をすっぽり覆える程の大きいタオルまで貸してくれた。
異世界に来て初めて会う人が優しそうな人でよかった、と心底思う。
「あの、もしよろしければ家へいらしてください。お洋服を乾かせる魔道具もありますし、夫にも会っていただきたいです」
まどうぐ。
夫。
聞き慣れない言葉とパワーワードに、一瞬思考が停止する。
けれど、その申し出はありがたかったので、「是非」と返事をした。
彼を探すにしろ、まず情報が必要になる。いいとこのお嬢様みたいだし、当てもなく歩き回るより集まりやすいだろう。
体格のいい人と付き人っぽい人は馬車には乗らず、左右に分かれてついてきた。
生まれて初めての馬車は少しだけ心が弾む。まるで私もお嬢様になったかのようだ。びしょ濡れだけど。
だがしかし、優雅なのは最初だけだった。
ちゃんとした道とはいえ、砂利道なので揺れが物凄い。
椅子は板張りのため、お尻も痛い。
それなのに、目の前の女性は、そんなことを感じさせない気品のある微笑みを浮かべていた。
(さすがお嬢様……)
「自己紹介がまだでしたね。私はミレイ・クロスフォードと申します」
「私は夏海・綾川です。助けていただいてありがとうございました」
「素敵なお名前ですわ。ナツミ様、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「いっ、いえ! 様なんていりません!」
「そういう訳にはまいりません。私たちにとってナツミ様は高貴なお方ですから」
「こ、高貴!?」
ど庶民ですが!?突然の様呼ばわりにオロオロするほどの!
「あの湖は"神の住む場所"と言われているんです。そして、その場所に何処からともなく現れるお方は、"神の遣い"とされ、丁重におもてなしするよう伝わっておりますから」
(それで不審者扱いされずに済んだのか…)
神の遣いなんて大それた呼称はさておき、あの池と繋がっているのならあながち間違いではないんだろう。
なんにせよ、右も左もわからない世界で手厚く保護してくれるのは非常にありがたい。彼も同じようにこちらへ来たのなら、六歳でも安全に暮らしていけるはずだ。それに、呼称があれば探しやすい。
「あの、十四年前にも、私と同じような方はいらっしゃいませんでしたか? 当時六歳だったと思うんですが」
「十四年前、ですか…? 私の夫もそうなのですけれど――」
「えっ!?」
夫?ミレイさんの?……結婚、してるってこと……?
その可能性は、全く考えていなかった。日本人の平均的な結婚年齢よりも下だということもあるが、単純に、私が考えられなかったから。
理不尽な思いはしていないか、ちゃんとした生活を送れているか、そればかりで。
でも、考えみればそうだ。ここが安全で、快適に暮らせているのなら、その先を考える余裕も出てくるだろう。ミレイさんのような綺麗な方なら尚更。
(気にしていたのは、私だけ……?)
「あの……」
「あ、すみません、遮ってしまって…」
「いえ。夫の場合、確か十六年前だったかと…。ただ、当時は六歳だったと伺っております」
「十六年前……? その後は……?」
「その後は、ナツミ様です」
「……では、他にもああいった場所をご存じでしょうか?」
「……いえ。存じません。秘匿されていれば別ですが…」
ミレイさんは申し訳なさそうに首を横に振った。
別人……?でも、当時の年齢が同じなら、時間の経過速度が違うと言われた方がしっくりくるような気がする。
それとも、本当に違う人?だとしたら手がかりはほぼゼロだ。どうやって探せばいいのだろう。
「先のことは夫に会ってから考えましよう。もし探している方がいらっしゃればわたくしどももご協力いたしますので」
悪い方へと考え込むのを止めてくれたのは、ミレイさんの声だった。
タオルを胸の前できつく握りしめた手に、女性らしいしなやかな手が重なる。優しく微笑む姿に、安心して肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
木々を抜けると、大きな屋敷が見えてきた。家三、四軒分はあるんじゃないだろうか。
屋敷の周りには鉄柵が張り巡らせてあるため、突っ切ることはできなさそうだ。
まさかここが家なんてこと――
「こちらが我が家です」
あった。
こちら側は裏のため、周囲をぐるりと周って正面に馬車を停めた。
どのように連絡を取ったのか、玄関には既に執事のような人とメイド服を着た女性が数人でお出迎えをしている。
その人たちがなんらかの指示を受けて動きだすと、私は家の中に案内された。
靴のまま上がる文化のようだが、流石にびちょびちょのまま上がるのは忍びない。歩くたびにぶしゅ、ぐしゅ、と音を立てる程濡れているのだ。数歩歩いただけでも、砂が混ざった水が後に残っている。
けれど、ミレイさんに「お気になさらないでください」と言われ、強引に腕を引っ張られた。意外と力が強い。
きっと先程のメイドさんたちが片付けてくれるんだろうな、と私の所為で汚れてしまった床を見て、心の中で謝罪とお礼を言った。
いくつかの扉を通り過ぎて通された部屋は、とんでもなく豪華なインテリアが置かれているような場所だった。しかも広い。
濡らしてしまったら大変だ、と固まる私を見て、ミレイさんが微笑んだ。
「全て魔道具で乾かせますので、ソファへお掛けください」
この部屋の中で一番目立っているソファを勧められたが、乾くとしても座りづらいものがある。
ミレイさんが先に腰を掛け、隣に座るよう手で示された。
暫く無言で拒否をしていたものの、圧に負け渋々隣に座る。
すると、座ったタイミングで後ろを付いてきていた執事のような人に、何かを差し出された。
見た目は、ハンディファンの持ち手が無くなった物のようだ。プロペラの真ん中には綺麗な石が嵌め込まれている。
「こちらが乾かす魔道具です。魔石がついている方を上にしてお待ちください」
どうやら、この魔石というものに魔力というものを流して発動させる物らしい。なかなかにファンタジーだ。
ミレイさんが石に触れるとファンが回りだし、一瞬で暖かい風に全身を包まれた。
決して乱暴な風ではなく、髪の毛や服がばたつくこともない。にも関わらず、ものの数分で冬物のコートまで乾いてしまった。なにこれ欲しい。
「う、わぁ……。すごい……」
「ふふ。凄いでしょう? これは夫が考案して作った物なのです」
「え! そうなんですか!? 凄い方なんですね…」
「ええ。発想も、技術も本当に素晴らしいのです。夫はもう間もなくまいりますのでこのままこちらでお待ちください。私は少し失礼いたしますね」
「はい。ありがとうございます」




