狩人の土俵
街道は異様なほど静かだった。
昨日まで見かけていた旅人の姿がない。
向かいから来る馬車も、一台として通らなかった。
聞こえるのは車輪が地面を転がる音と、風に揺れる木々のざわめきだけ。
ブルーノが周囲を見回した。
「……本当に誰もいねぇな」
「噂が広まったんでしょう」
手綱を握るロイドが答える。
「ブラッドベアが出たと知れば、好き好んでこの街道を通る人はいませんよ」
「そりゃそうか」
俺は会話に加わらず、荷台の端に座ったまま森を見ていた。
木々の揺れ。
風向き。
臭い。
時折、地面にも目を向ける。
ブラッドベアの痕跡を見つけて以来、一度も警戒を解いていなかった。
◇
昼を過ぎた頃。
街道は深い森へ入った。
左右から生い茂る木々が陽射しを遮り、辺りが薄暗くなる。
その時だった。
俺は顔を上げた。
「止めてください」
自分でも分かるほど、低い声が出た。
ロイドが即座に手綱を引く。
「どうしました?」
馬車が止まる。
俺はすぐには答えず、荷台から降りて森を見た。
馬が落ち着かない。
しきりに鼻を鳴らし、森とは反対方向へ行こうとしている。
「……います」
「ブラッドベアですか?」
「分かりません。でも、何かいます」
腰の手斧へ手を掛ける。
ブルーノが槍を抜く。
ガレスも盾を構えた。
その瞬間、傷ついた肩に痛みが走ったらしい。
「っ……」
俺は横目でガレスを見る。
「ガレス」
「分かってる」
「真正面から受けるな。今のお前じゃ持たねぇ」
「ああ」
その直後。
――バキィッ!
森の奥から、太い木が折れる音が響いた。
全員が黙る。
ドン。
少し間を置いて――。
ドン。
また一つ。
何かが近づいてくる。
やがて、木々の隙間に赤黒い巨体が見えた。
「……でけぇ」
ブルーノの声が震える。
森を押し分けるように、それは姿を現した。
ブラッドベア。
四つ足の状態ですら馬より大きい。
丸太のような前脚。
岩のように盛り上がった肩。
黒い体毛の先端だけが、乾いた血を浴びたように赤く染まっている。
黄金色の瞳が、じっとこちらを見ていた。
「動くな」
低く言う。
ブラッドベアは襲ってこない。
鼻を鳴らしながら、ゆっくりとこちらを観察している。
ブルーノ。
ガレス。
ロイド。
馬。
そして――俺。
「こいつ……」
思わず眉が寄る。
普通の獣とは違う。
腹を空かせて見境なく襲っているわけじゃない。
こちらを見ている。
誰が危険か。
誰が弱いか。
まるで、それを見極めようとしているようだった。
ブラッドベアが後脚で立ち上がる。
「でけぇ……」
ブルーノが息を呑んだ。
次の瞬間。
「ガァァァァァァッ!!」
咆哮が森を震わせた。
馬が大きくいななき、暴れ始める。
「うわっ!」
ロイドが必死に手綱を握った。
「落ち着け! 大丈夫だ!」
ブラッドベアが四つ足へ戻る。
俺は目を見開いた。
「来るぞ!」
巨体が弾けた。
だが、狙いは人間ではない。
「馬です!」
叫ぶ。
ロイドが手綱を引く。
馬車が大きく横へずれた。
直後。
巨大な前脚が振り抜かれる。
バギィッ!!
荷車の側板が砕け散った。
「今だ!」
ブルーノが飛び出す。
「おおおっ!」
槍を首筋へ突き出す。
ブラッドベアが頭を引いた。
「なっ――」
かわされた。
穂先が肩を浅く裂くだけに終わる。
直後、巨大な前脚がブルーノへ飛んだ。
「ブルーノ!」
ガレスが間へ入る。
盾を斜めに構えた。
ドゴォン!!
「ぐっ!」
受け流し切れない。
凄まじい衝撃が腕を伝い、傷ついた肩へ走った。
「がぁっ!」
ガレスは盾ごと弾き飛ばされ、木へ背中を叩きつけられる。
「ガレス!」
俺は手斧を投げた。
狙いは目。
ブラッドベアが咄嗟に頭を振る。
ゴッ!
手斧が肩へ刺さった。
「浅い……!」
分厚い筋肉に阻まれている。
ブラッドベアが俺を見る。
黄金色の瞳が細くなった。
「……俺を覚えたか」
次の瞬間。
ブラッドベアが動いた。
「ランド君! 右です!」
ロイドの声。
反射的に横へ飛ぶ。
直後、巨大な前脚が地面を抉った。
土が爆ぜる。
「こいつ……!」
確信した。
力任せに襲っているんじゃない。
こっちの動きを見ている。
そして、学んでいる。
このまま街道で戦うのはまずい。
広すぎる。
この巨体が好きなだけ加速できる。
そのうえ、馬車まで守らなければならない。
俺は森を見た。
太い木が密集している。
「ブルーノ!」
「何だ!」
「森へ入るぞ!」
「はぁ!?」
「ここじゃ、あいつの突進を止められねぇ!」
ブラッドベアを睨む。
「森なら木を使える。狩るなら、俺の土俵に引きずり込む」
ブルーノは一瞬だけ森を見る。
そして笑った。
「狩人らしくなってきたな」
「ロイドさん!」
「はい!」
「馬車をお願いします! 俺たちが森へ引き込みます!」
「ですが――」
「もし、こいつが馬を狙ったら、そのまま逃げてください!」
ロイドは迷った。
だが、すぐに頷く。
「……分かりました!」
俺はもう一本の手斧を抜いた。
「おい、熊野郎!」
振りかぶる。
「こっちだ!」
ブンッ!
ゴッ!
手斧が肩へ突き刺さった。
「ガァァァァァッ!!」
ブラッドベアが吠える。
「走れ!」
三人で森へ駆け込む。
ブラッドベアも地面を蹴った。
◇
木々の間を走る。
後方から地響きが迫る。
ドン!
ドン!
ドン!
振り返らなくても分かる。
来ている。
一本の太い木をぎりぎりで回り込んだ。
直後。
ドゴォォン!!
ブラッドベアの肩が幹へ激突した。
巨木が大きく揺れる。
「今だ!」
横からブルーノが飛び出した。
「おおおっ!」
槍を脇腹へ突き込む。
ザシュッ!
「入った!」
ブラッドベアが身を捩る。
「離れろ!」
叫ぶ。
だが遅い。
巨体が旋回した。
ドゴッ!
「がっ!」
ブルーノが吹き飛ばされ、地面を転がる。
「ブルーノ!」
今度はガレスが前へ出た。
「こっちだ!」
前脚が振り下ろされる。
ガレスは盾を斜めに構えた。
受けるんじゃない。
流す。
ガギィン!!
「ぐっ……!」
爪が盾の表面を滑り、そのまま木へ深々と突き刺さった。
「ランド!」
「分かってる!」
懐へ飛び込む。
剣を抜いた。
肩じゃない。
もっと薄いところ。
「そこだ!」
前脚へ刃を走らせる。
ザシュッ!
刃が肉を裂いた。
「グォォッ!」
初めてブラッドベアが苦痛の声を上げる。
「脚だ! 肩も首も筋肉が厚すぎる! 脚を潰せ!」
三人が散る。
俺が誘う。
ガレスが逸らす。
ブルーノが刺す。
少しずつ。
本当に少しずつだが、ブラッドベアの身体へ傷が増えていく。
(いける)
そう思った時だった。
ブラッドベアが動きを止めた。
「……?」
鼻を鳴らす。
黄金色の瞳が三人を見る。
俺。
ガレス。
そして――ブルーノ。
嫌な予感がした。
「……まずい」
「何がだ?」
「あいつ、分かったんだ」
息を呑む。
「俺は捕まらねぇ。ガレスには盾がある。だから次は――」
ブラッドベアが地面を蹴った。
「ブルーノ!」
「っ!」
ブルーノが槍を構える。
真正面から突き出す。
だが――。
ブラッドベアは直前で進路を変えた。
「なっ――」
槍の穂先が空を切る。
そのまま巨体がブルーノへぶつかった。
ドゴォッ!!
「がぁぁっ!」
ブルーノが倒木へ叩きつけられた。
槍が手を離れ、地面へ転がる。
「ブルーノ!」
ブラッドベアが止まった。
そして、ゆっくりと振り返る。
黄金色の瞳がブルーノを捉えた。
背筋が冷える。
こいつ。
分かっている。
武器を失った。
動けない。
今なら殺せる。
確実に一人ずつ減らすつもりだ。
「くそっ!」
俺は走る。
ガレスも盾を持ち上げた。
「ぐっ……!」
だが、肩が限界だった。
力が入らない。
ブラッドベアがブルーノへ近づく。
一歩。
また一歩。
「く、来るな……!」
ブルーノが後ずさる。
槍は遠い。
ブラッドベアが大きく口を開いた。
鋭い牙が並ぶ。
「来るな!」
走る。
(間に合わねぇ!)
「来るなぁぁぁぁ!!」
ブラッドベアが飛びかかろうとした――その時。
「持ってけぇぇぇぇっ!!」
何かが横から飛んできた。
ドサッ!
ブラッドベアのすぐ横へ落ちる。
燻製肉だった。
「この泥棒熊っ!!」
「ロイドさん!?」
森の入口にロイドが立っていた。
その両腕には、まだ燻製肉を抱えている。
「何してるんですか!」
「命の方が大事です!」
ロイドがもう一つ投げる。
ブラッドベアが反応した。
食いついたわけではない。
突然飛んできた物体。
そして辺りへ一気に広がった、強烈な燻製の匂い。
鼻を動かし、ロイドへ顔を向ける。
視線がロイドへ向く。
その瞬間を逃さなかった。
「今しかねぇ!」
地面を蹴る。
一気にブラッドベアの横後方へ回り込む。
ブラッドベアはロイドへ向かって咆哮した。
「ガァァァァァッ!!」
一気に背後へ滑り込む。
右手で剣の柄を握る。
左手の籠手で剣身を掴む。
大きく開いた口の端へ、剣の刃を押し当てた。
「うおおおおおおおおっ!!」
その瞬間だった。
右腕が焼けるように熱くなる。
「っ!?」
筋肉が膨れ上がる。
全身の力が右腕へ流れ込む。
(何だ、この力……!?)
考える暇はなかった。
全身全霊で剣を後ろへ引き切る。
ゴギィィィィィッ!!
刃が下顎を切り裂く。
骨が軋む。
一瞬、頭蓋で刃が止まる。
「まだだぁぁぁっ!!」
歯を食いしばり、さらに全身の力を込める。
バキィッ!!
頭蓋が砕ける音が森へ響いた。
そのまま刃は頭頂部まで突き抜ける。
メリメリメリメリッ!!
ブラッドベアの巨体が大きく震えた。
黄金色の瞳から光が消える。
ドォォォォォン!!
巨体が、地響きを立てて倒れた。
「はぁ……はぁ……」
俺は剣を握ったまま動かなかった。
ブラッドベアも動かない。
数秒。
さらに待つ。
反応はない。
慎重に近づき、剣先で目元に触れた。
動かない。
鼻先へ手をかざす。
呼吸もない。
「……終わった」
全身から力が抜けた。
その場へ座り込む。
そして右腕を見る。
さっきまで異様に膨れ上がっていた筋肉は、少しずつ元へ戻っていた。
皮膚の下を這っていた奇妙な感覚も消えている。
それでも熱だけは残っていた。
「……何だったんだ」
分からない。
今まで一度も、こんなことはなかった。
「ランド!」
ブルーノの声で我に返る。
「大丈夫か!?」
「俺は平気だ。それよりお前だろ」
「……まあ、生きてる」
ブルーノが地面へ大の字になる。
「本気で食われるかと思った……」
「俺も死んだと思ったぞ」
ガレスが盾にもたれながら座り込んだ。
肩から血が滲んでいる。
「ガレス、傷を見せろ」
「大丈夫だ」
「大丈夫な奴はそんな顔しねぇ」
「……十五歳に怒られるとはな」
ガレスが苦笑した。
その時、ロイドが恐る恐る近づいてきた。
「皆さん……」
足が震えている。
「本当に……無事で良かった……」
俺はロイドを見る。
「どうして来たんですか? 逃げてくれって言ったでしょう」
「ええ。そのつもりでした」
ロイドは頭を掻いた。
「ですが、皆さんの声を聞いていたら……どうにも。私、人情派商人で通っておりますので」
「自分で言うのかよ!」
ブルーノが地面に寝転がったまま突っ込む。
ロイドが苦笑する。
「商人としては失格かもしれませんね」
「いや」
首を振る。
「助かりました」
ロイドが目を丸くする。
「ロイドさんが来なかったら、間に合わなかった。ありがとうございます」
頭を下げた。
「ランド君……」
「礼を言うのはこっちだ」
ブルーノも片手を上げる。
「俺からもな。燻製肉があんなに格好よく見えたのは、生まれて初めてだ」
「商品なんですけどねぇ……」
四人の間に、小さな笑いが起こった。
死ぬかもしれなかった。
その緊張が、ようやく少しずつ解けていく。
俺は改めてブラッドベアを見た。
父を殺したのも――これと同じ種類の魔物だった。
顔も声も知らない父。
母さんから聞いた話でしか知らない。
だから、これで仇を討ったなんて気持ちはなかった。
ただ。
「……ブラッドベアか」
ずっと頭の片隅にあった名前だった。
その魔物を、自分の手で倒した。
その事実だけが、不思議な重さを持って胸に残った。
◇
まず、ブルーノとガレスの状態を確認した。
幸い、二人とも自力で歩ける。
少なくとも、骨が折れている様子はない。
「運が良かったな」
「本当にな」
ブルーノが苦笑する。
「あと少し遅かったら、今頃こいつの腹の中だ」
「笑えねぇよ」
「俺が一番笑えねぇよ」
それからようやく、四人でブラッドベアの亡骸へ向き直った。
ロイドが毛皮や牙を確認していく。
「これは……かなりの値が付きますね」
「分かるんですか?」
「商人ですから」
ロイドは少し誇らしげに胸を張る。
「毛皮も十分残っていますし、牙や爪も立派です。王都なら欲しがる職人は多いでしょう」
ブルーノが森に散らばった燻製肉を見る。
「じゃあ、肉代くらいは戻ってくるか?」
「それどころではありませんよ」
ロイドが笑った。
「お釣りが来ます」
「よし!」
「お前の金じゃねぇだろ」
ガレスが突っ込む。
俺も思わず笑った。
それから短刀を抜き、ブラッドベアの胸元へしゃがみ込む。
慎重に刃を入れ、深紅の魔石を取り出した。
「……でかいな」
拳ほどもある。
ロイドがそれを見て頷いた。
「その魔石はランド君が受け取ってください」
「俺がですか?」
「ええ。素材を譲っていただけるだけで、私には十分です」
ガレスも頷く。
「俺も異論はない」
「俺もだ」
ブルーノが笑う。
「命を助けてもらったしな。魔石くらい胸張って受け取れ」
三人を見る。
「……分かった」
魔石を袋へしまった。
「じゃあ、素材はロイドさんにお願いします」
「もちろんです」
ロイドは胸を張る。
「責任を持って、一番高く売ってみせますよ」
「そこは商人なんですね」
「当然です!」
今度は全員が笑った。
しばらくして、ブルーノが俺を見る。
その表情から笑みが消えた。
「ランド」
「ん?」
「……ありがとう」
思わず目を瞬く。
「あの時、お前が来なかったら俺は死んでた。本当に助かった」
「……仲間なんだから当たり前だろ」
少し気まずくなって頭を掻く。
ガレスが笑う。
「それを当たり前にできる奴は、そう多くねぇよ」
そして俺を真っ直ぐ見る。
「王都へ行っても、お前ならやっていける」
俺は少しだけ笑った。
「そうだといいな」
風が吹く。
木々が静かに揺れた。
俺はもう一度、自分の右腕を見る。
見た目は、もういつもと変わらない。
だが――。
あの力。
あの熱。
皮膚の下を這う、あの奇妙な感覚。
あれは何だったのか。
答えは出ない。
ただ一つだけ分かる。
あれは――。
俺が今まで知っていた「自分の力」ではなかった。
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