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森に潜む影

 翌朝。


 朝日が木々の隙間から差し込み、街道をやわらかく照らしていた。


 昨夜の焚き火の跡からは、まだ細く白い煙が立ち上っている。


 簡単な朝食を済ませると、ロイドたちは馬車を走らせ始めた。


 街道は昨日よりも人通りが多い。


 商人の馬車が行き交い、旅人とすれ違うたびに軽く会釈を交わしていく。


「やっぱり王都が近いと人も増えますねぇ」


 ロイドが街道を見渡しながら言った。


「ああ」


 ガレスも頷く。


「盗賊にとっちゃ狙い目でもあるが、その分、護衛も多い」


 ブルーノは荷台へ寝転がり、大きく伸びをした。


「王都に着いたらサラちゃんに土産でも買って帰るか」


「また始まった」


 ガレスが苦笑する。


「今度は何を買うつもりだ?」


「指輪」


「早い」


「ネックレス」


「それも早い」


「花束」


「着く頃にはしおれてるな」


「じゃあ俺だ」


「返品でお願いします」


 ロイドが即座に返した。


 ガレスが吹き出す。


 ブルーノは胸を押さえ、大げさによろめいた。


「ひでぇ! 俺はこんなに一途なのによ!」


「その一途さを仕事にも向けてくれ」


 ガレスが肩をすくめる。


「ランド、お前はどう思う?」


 突然話を振られた。


 俺はブルーノを一瞥すると、その腹を軽く叩いた。


 ぽん。


「そうだな。まずはその腹をなんとかした方がいい」


「は?」


 ブルーノが目を丸くする。


「そのままじゃ、女より魔物の方が寄ってくる。それに狩りじゃ、余計な肉はない方がいい」


 ガレスが吹き出した。


「さすが狩人の意見だな」


 ロイドも苦笑する。


「確かに説得力がありますね」


 ブルーノは自分の腹をさすりながら肩を落とした。


「恋愛相談したつもりだったんだけどなぁ……」


 一瞬の静寂。


 次の瞬間。


「はははは!」


 三人が一斉に笑い出した。


「ランドに相談した俺が悪かった!」


 ブルーノは頭を抱えた。


 その様子を見て、ロイドが穏やかに笑う。


「ランド君も、最初に会った頃よりずいぶん話すようになりましたね」


「……そうか?」


「ええ。今は十五歳らしく見えますよ」


 十五歳らしい。


 そう言われても実感はない。


 それでも、悪い気はしなかった。


 笑い声が森の中へ溶けていく。


 馬車は変わらぬ速さで街道を進んでいた。


 穏やかな時間だった。


 ――その時。


 ふと、違和感が胸をよぎった。


 俺は耳を澄ます。


 鳥の鳴き声が聞こえない。


 少し前まで、あれだけ聞こえていたのに。


 風は吹いている。


 葉も揺れている。


 それなのに、森だけが不自然なほど静まり返っていた。


 馬も落ち着かない様子で鼻を鳴らし、耳を忙しなく動かしている。


 俺はゆっくりと立ち上がった。


「……ロイドさん」


「はい?」


「馬車を止めてくれ」


 俺の声色に何かを感じたのだろう。


 ロイドはすぐに手綱を引いた。


 馬車がゆっくりと止まる。


 ガレスが剣の柄へ手を掛けた。


「何かいたのか?」


「まだ分からない」


 俺は荷台から飛び降りた。


 まず風向きを確かめる。


 森から街道へ風が流れている。


 湿った土の匂い。


 草木の青い香り。


 血の匂いはない。


 次に地面を見る。


 街道脇の柔らかい土には、古い獣の痕跡がいくつか残っていた。


 その中に、一つだけ明らかに異質な足跡が混じっている。


「……熊か?」


 ガレスが後ろから覗き込んだ。


「ああ。だが、でかすぎる」


 俺の手を広げても収まりきらない。


 地面への沈み込みも深い。


 かなり重い獣だ。


 足跡の向きを追って、街道脇を少し進む。


 そこで一本の大木が目に入った。


「……これ」


 幹には、地上三メートル近い高さまで四本の鋭い爪痕が刻まれていた。


 普通の熊では届かない。


 さらに、割れた樹皮には赤黒い毛が数本引っ掛かっている。


 指で摘まむ。


 太く、硬い。


 根元は黒く、毛先だけが血を浴びたように赤い。


 昨日、クラウスが見せてくれた毛とよく似ている。


「……間違いない」


「何がだ?」


 ブルーノが槍へ手を掛ける。


 俺は三人へ毛を見せた。


「ブラッドベアだ」


 三人の表情が引き締まる。


「近くにいるのか?」


 ガレスが低い声で聞いた。


「分からない。ただ、この跡は新しい」


 俺は森を見る。


 木々の向こうは薄暗く、何も見えない。


 ブルーノが槍を握り直した。


「……だったら、さっさとここを離れた方がよさそうだな」


「ああ。居場所も分からない相手を、わざわざ森まで追う理由はない。それに今は、ロイドさんたちを王都まで送り届ける途中だ」


 ガレスが小さく頷く。


「護衛を放り出して魔物を追い回したら、本末転倒だな」


「そういうことだ」


 俺はもう一度だけ森へ目を向けた。


「狩りは、獲物を見つけたら何でも追えばいいわけじゃない。追うべきか、避けるべきか。そこを間違えた奴から死ぬ」


 ブルーノが小さく息を吐く。


「……狩人ってのも大変なんだな」


「死にたくなければな」


「ロイドさん」


「はい」


「ここには長居しない方がいい。予定どおり宿場町へ向かおう。できれば日が暮れる前に着きたい」


「分かりました」


 俺たちはすぐに馬車へ戻った。


 手綱が鳴り、馬車は再び走り始める。


 さっきまでの笑い声はもうない。


 俺は荷台から何度も森へ目を向けた。


 木々の間に動くものは見えない。


 それでも、馬は何度も耳を森へ向けていた。


 ブラッドベアは姿を現さなかった。


 だが――。


 あの森に何かがいる。


 その感覚だけは、どうしても消えなかった。


     ◇


 日が傾き始めた頃、街道の先に宿場町が見えてきた。


 二十軒ほどの家が並ぶ、小さな町だ。


 宿や鍛冶屋、小さな商店が軒を連ね、夕暮れの活気に包まれている。


 パンを焼く香り。


 煮込み料理の匂い。


 子どもたちの笑い声。


 森の静けさが嘘のようだった。


「町まで来れば一安心だな」


 ブルーノが肩の力を抜く。


「まだ分からない。獣が人里へ近づかないとは限らない」


「……そうだったな」


 ロイドは宿の前で馬車を止めた。


 俺は真っ先に厩舎へ目を向ける。


 中の馬が何頭も落ち着かない様子で床を踏み鳴らしていた。


 耳は森の方角へ向いている。


 嫌な予感が消えない。


「ロイドさん」


「はい」


「馬は必ず厩舎へ入れて、戸を閉めてくれ」


「分かりました」


 その様子を見ていた宿の主人が近づいてきた。


「いらっしゃい。何かあったんですか?」


 主人は落ち着きなく足踏みする馬を見て首をかしげる。


 俺は主人へ向き直った。


「この近くで、大型の魔物らしい痕跡を見つけた」


「魔物?」


「ああ。巨大な足跡と、高い位置に残った爪痕。それに赤黒い毛だ。ブラッドベアの特徴と一致してる。断定はできないが、可能性は高い」


 主人の表情が変わった。


「ブラッドベア……」


「今夜は馬を必ず厩舎へ入れて、戸を閉めた方がいい。できれば、夜は誰も外へ出さない方がいい」


 主人は真剣な表情で頷いた。


「分かりました。皆にも伝えます」


「何も来なければ、それでいい」


 主人はすぐに従業員を呼んだ。


「おい! 馬は全部厩舎へ入れろ! 戸締まりも早めに済ませるぞ!」


 宿の中が慌ただしく動き始める。


 その時だった。


 厩舎から、馬の大きないななきが響いた。


 一頭だけじゃない。


 何頭もの馬が落ち着かない様子で、森の方角を見ている。


「……」


 俺も同じ方向へ目を向ける。


 だが、そこには夕闇に沈み始めた森があるだけだった。


     ◇


 夕食の時間になると、宿の食堂には旅人や商人たちが集まり始めた。


 木製の椅子が軋み、皿の触れ合う音が響く。


 焼きたてのパンに、香草を利かせた肉料理。


 湯気の立つスープ。


 俺たちも席に着き、ようやく腰を落ち着けた。


「今日は助かりました」


 ロイドが頭を下げる。


「ランドさんが気付いてくれなければ、何も知らずにあの辺りを進んでいたでしょう」


「結果論だ。何もいなかったかもしれない」


 俺は淡々と答えた。


 ブルーノが苦笑する。


「でも、あの足跡は普通じゃありませんでしたよ」


 ガレスも頷いた。


「空振りなら、それが一番だ」


「ああ。何も起きないのが一番だ」


 その言葉に皆が笑い、重苦しかった空気が少しだけ和らいだ。


 宿の主人も料理を運びながら言う。


「戸締まりはいつもより早く済ませました。何もなければ笑い話ですよ」


「そうなればいい」


 食事は穏やかな雰囲気のまま終わった。


 旅人たちはそれぞれの部屋へ戻り、やがて宿からも話し声が消えていく。


 窓の外では虫の声だけが響いていた。


 静かな夜だった。


 俺は剣を枕元へ置き、そのまま横になる。


 結局、その夜は何事も起きなかった。


 王都まで、あと二日。


     ◇


 翌朝。


 鳥のさえずりで目が覚めた。


 窓から差し込む朝日が部屋を照らしている。


 昨夜は結局、何も起こらなかった。


 食堂へ降りると、ロイドたちはすでに朝食を食べ始めていた。


「おはようございます」


 ロイドが笑顔を向ける。


「何もありませんでしたね」


「ああ」


 ブルーノも少し肩の力を抜いた様子で笑う。


「考えすぎだったのかもしれませんね」


 俺は返事をせず、窓の外を見る。


 昨日から感じている胸騒ぎは、まだ消えていなかった。


 その時だった。


 宿の扉が勢いよく開く。


「おい! 大変だ!」


 息を切らした男が飛び込んでくる。


「牧場の牛が一頭いなくなった! 柵もぶっ壊されてる!」


 食堂がざわついた。


「また狼か?」


「いや……」


 男は青ざめた顔で首を振った。


「狼なんてもんじゃねぇ。太い丸太の柵がへし折られてるんだ!」


 俺は椅子から立ち上がった。


「案内してくれ」


     ◇


 牧場へ着くと、すでに人だかりができていた。


 牧場を囲む柵の向こうには、鬱蒼とした森が広がっている。


 俺は壊れた柵の前へしゃがみ込む。


 太い丸太が、外側から押し倒されるように折れていた。


 その近くには――。


「……やっぱりか」


 巨大な足跡。


 昨日見たものと同じだ。


 俺は地面へ手を伸ばす。


 土はまだ柔らかい。


 昨夜ついた跡で間違いない。


 牧場の中には血が残っている。


 だが、牛の死骸はない。


「引きずられたのか……」


 誰かが呟いた。


 俺は血の跡を追う。


 牧場の反対側。


 そこでも柵が壊れていた。


 今度は内側から外へ押し倒されている。


 その先には血痕と、重いものを引きずった跡が森へ向かって続いていた。


「……入ってきた場所と、出ていった場所が違う」


 ガレスが俺の後ろで呟く。


「ああ。外から柵を壊して侵入した」


 俺は森へ続く跡を見る。


「牛を襲って、そのまま別の場所から森へ戻ったんだ」


 昨日とは違う。


 今度は痕跡がはっきり残っている。


 足跡。


 血。


 引きずられた跡。


 これなら追おうと思えば追える。


 だが、俺は立ち上がった。


「どうする?」


 ブルーノが尋ねる。


「追わない」


「昨日と同じか」


「ああ。俺たちは討伐依頼を受けてるわけじゃない。それにガレスは怪我をしてる」


 ガレスが少し気まずそうに肩へ手をやる。


「ブラッドベアの強さも分からない。今、わざわざ森へ入る理由はない」


 ブルーノが頷く。


「なら王都へ急ぐか」


「ああ」


 俺は巨大な足跡へ最後に一度だけ目を落とした。


 牛一頭を持ち去れるほどの大きさ。


 昨日見た痕跡より、さらにその危険さがはっきりした。


 森は何事もなかったかのように静まり返っている。


 その静けさが、かえって不気味だった。


     ◇


 牧場から戻る頃には、宿場町の空気は重く沈んでいた。


 牛が一頭消えた。


 そして、ブラッドベアがすぐ近くまで来ている。


 宿へ戻ると、ロイドが静かに口を開いた。


「……出発した方がよさそうですね」


「ああ。ここに留まっていても安全とは限らない」


 俺も頷く。


 宿の主人も不安そうに森の方角を見た。


「王都へ知らせを出しておきます」


「できれば早めに」


「はい」


 ロイドが荷車へ荷物を積み始める。


「王都まではあと一日です。できるだけ早く森を抜けましょう」


 ガレスは左腕に盾を通した。


 その瞬間、肩に痛みが走ったらしい。


「っ……!」


 顔をしかめた。


「無理するな」


「分かってる」


 ガレスは苦笑しながら剣の柄を握り直す。


 ブルーノは荷台へ立て掛けていた槍を手に取った。


 穂先に欠けがないことを確かめると、すぐに抜ける位置へ固定し直す。


「いつでもいける」


 ロイドが御者台へ上がった。


「行きましょう」


 手綱が鳴る。


 馬車はゆっくりと宿場町を後にした。


 俺は荷台から、遠ざかっていく森を見つめる。


 ブラッドベアは姿を現さない。


 それでも――。


 これで終わるとは、どうしても思えなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


王都まであとわずか。

しかし、森には何かが潜んでいるようです。


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次話もよろしくお願いします!

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