湯船でひと息
「ランド、起きてる?」
扉の向こうから、エレナさんの声がした。
目を開ける。
窓から入る光が、赤くなっていた。
「……はい。今、起きました」
「お風呂の用意ができたわよ。着替えを持って出てきて」
「分かりました」
身体を起こし、ベッドから脚を下ろす。
立ち上がろうとすると、腿が突っ張った。
「……っと」
ベッドへ手をつき、ゆっくり立つ。
眠気は薄れたが、身体の疲れまで消えたわけじゃないらしい。
横を見ると、見覚えのある鞄が置かれていた。
寝ている間に運んできてくれたようだ。
中から着替えを取り出し、廊下へ出た。
◇
ルシオンが壁に背を預けて待っていた。
「よく眠れたか?」
「はい。あっという間でした」
「身体は?」
「……立つまでに、少し時間がかかりました」
「俺もだ」
向かいの扉が開き、アリアも出てくる。
欠伸をしながら歩き出したが、すぐに顔をしかめた。
「……脚、重い」
「寝れば全部戻るってわけじゃないな」
「階段のない部屋でよかったわ……」
エレナさんはレンの部屋の前にいた。
「レン。起きなさい」
「……起きてる」
「じゃあ、出てきて」
「うん……」
返事はあった。
だが、扉は開かない。
「レン?」
「……起きてる」
「それはもう聞いたわよ」
アリアが呟く。
エレナさんが、もう一度声をかけた。
「お風呂が終わったら夕食よ」
少しして、扉が開いた。
レンが着替えを抱えて出てくる。
「行く」
「飯の話には反応するんだな」
「大事だから」
返事はいつも通りだった。
だが、歩き出す足取りは遅い。
俺たちも、エレナさんの後をゆっくりついていった。
◇
風呂は宿舎の奥にあった。
脱衣所の前で、エレナさんが振り返る。
「先に三人で入って。私たちは後にするから」
「分かりました」
「お湯に浸かって寝ないでね」
その視線がレンへ向いた。
「分かった」
「本当か?」
俺が聞くと、レンは少し考えた。
「寝たら起こして」
「そこは寝ないって言えよ」
アリアが小さく笑った。
◇
浴室の扉を開けると、湯気が流れてきた。
「……広いな」
壁際には身体を洗う場所が並び、その奥に大きな湯船がある。
三人で入っても、十分に余裕がありそうだった。
「これなら、何人も一緒に使えますね」
ルシオンも中を見回す。
宿では、桶の湯で身体を拭いて済ませる日もあった。
今日はゆっくり浸かれそうだ。
腰掛けに座り、身体を洗う。
髪へ手を伸ばすと、肩がだるかった。
一度腕を下ろし、休ませてから洗い直す。
隣のルシオンも、桶を両手で持っていた。
レンは黙って汗と砂を流している。
いつもなら先に洗い終わりそうだが、今日は俺たちとそれほど変わらなかった。
ようやく湯船へ向かう。
足を入れる。
温かい。
ゆっくり腰を下ろすと、張っていた脚が湯に包まれた。
「……ああ~~……」
思わず声が出た。
「ランド、おっさんっぽい」
「うるせえ」
言い返しながらも、肩の力が抜けていく。
隣では、ルシオンも長く息を吐いていた。
「……気持ちいいですね」
「うん」
レンが湯船の縁へ頭を預けた。
「今日はもう、ここで寝ようかな」
「飯は?」
「……ここで食べる」
「駄目に決まってんだろ」
レンは残念そうに目を閉じた。
◇
しばらく、誰も喋らなかった。
湯が揺れる音だけが聞こえる。
腕も脚も、今は休ませておける。
俺も縁へ背中を預け、息を吐いた。
「ランド」
やがて、ルシオンが声をかけてきた。
「剣を使い始めた頃は、何から練習しましたか?」
「持ち方と構え。それから素振りだな」
「やっぱり、そこからなんですね」
ルシオンが手を開いた。
「今日、構え直すたびに握る位置を迷ってしまって」
「最初なら、そんなものだろ。俺も姿勢を直されたし」
「最後は褒められていましたよね」
「ああ。次は、あれを続けてできるようになりたい」
レンが目を開け、わざとらしく頷いた。
「うむ、精進したまえ」
「お前は俺の何なんだよ」
ルシオンが小さく笑う。
レンは満足そうに、また縁へ頭を預けた。
「そういえば、ルシオン。魔法剣士は気になってるのか?」
俺が尋ねると、ルシオンは少し考えた。
「選択肢の一つとしては、いいと思っています」
「まだ決めてはいない?」
「はい。剣の練習を始めたばかりですし、自分に合うかも分かりませんから」
ルシオンは湯へ目を落とした。
「でも、魔法の威力を上げる以外にも方法があると分かったのは、嬉しかったです」
「魔法で隙を作って、剣を使うとか?」
「はい。まずは練習してみて、できることを増やしたいです。その上で考えようかと」
「そうだな」
俺も頷いた。
レンがぽつりと言う。
「避ける練習もね」
「それは、どんな戦い方でも必要ですね……」
「あと、ひゃっ、って言わない練習」
「……それは忘れてください」
ルシオンが顔をしかめた。
俺は笑いそうになった。
「レン、もういいだろ」
「分かった」
レンは素直に目を閉じる。
「おい、寝るなよ」
「……閉じただけ」
ルシオンが小さく笑った。
その後は、また静かになった。
◇
湯から上がると、脚の重さを改めて感じた。
湯の中では楽だったが、立って歩けば、まだ疲れが残っている。
俺は脱衣所の腰掛けに座り、身体を拭いてから着替えた。
ルシオンも座ったまま、ゆっくり服へ腕を通している。
レンは着替え終わると、腰掛けに座って待っていた。
廊下へ出ると、アリアとエレナさんがやってきた。
「どうだった?」
「よかったです」
「それはよかった。夕食の時は呼びに行くから、部屋で待っててね」
エレナさんが脱衣所へ入る。
アリアも続きかけ、ルシオンを見た。
「少し元気になった?」
「気分は。でも、身体はまだ……」
「分かるわ。私も歩くたびに、昼間の坂を思い出すもの」
アリアが苦笑し、扉の向こうへ消えた。
俺たちは部屋へ戻った。
窓の向こうでは、訓練場が夕日に照らされている。
木の壁。
吊るされた縄。
その奥に、武器の棚も見えた。
昼間の最後の一振りを思い出す。
夕食の後、少しだけ確かめてみたい。
十回だけ。
力いっぱい振る必要はない。
構えて、振って、戻す。
昼間、エレナさんに言われてできた動きを、今度は自分で確かめたかった。
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