ハリセンの洗礼
書斎を出ると、エレナさんが先に立って訓練場へ向かった。
廊下の途中で、俺は一度だけ振り返る。扉はもう閉まっていたが、マルクの「また来なさい」という声が、まだ耳に残っていた。
「ランド」
アリアが隣に並ぶ。
「お母さんのこと、知らなかった」
「話したことなかったからな」
「……うん」
アリアはそれ以上聞いてこなかった。
前を歩いていたレンも振り返る。
「僕も知らなかった。でも、ランドが覚えてるお母さんの話なら、いつか聞きたい」
母さんが笑っていた時のことも、怒っていた時のことも覚えている。最後の日は思い出せなくても、話せることはある。
「……そのうちな」
「うん」
レンは頷き、また前を向いた。
◇
訓練場に着くと、エレナさんが俺たちを中央に集めた。
「さて。ここからは修行の時間よ」
書斎で笑っていた時とは、目つきが違う。
「四人とも武器を棚に置いて。最初の課題では魔法も使わないわ」
俺とアリアが武器を置いている間に、エレナさんは棚から細長いものを取り出した。
紙を何枚も折り重ねたような形をしている。
「……何ですか、それ」
「ハリセン。叩いた時に音が鳴るように作ったの」
エレナさんが自分の手のひらを軽く叩く。
パァン!
乾いた音が響き、俺たちは揃って肩を跳ねさせた。
「今日はこれで、あなたたちを追いかけるわ」
「何の修行ですか、それ」
「相手との距離、逃げる方向、仲間の位置。四人で声を掛け合いながら動く練習よ」
エレナさんが訓練場の端を指さす。
「この中で一分間、四人の誰も叩かれなければ合格。誰か一人でも叩かれたら、そこで終了。四人とも最初からやり直し」
「一分だけ?」
レンが首を傾げる。
「まずはね。速さはあなたたちに合わせるわ。その代わり、隙があったら叩くから」
「自分だけ逃げ切っても駄目ってことですね」
ルシオンが言う。
「そう。危ないと思ったら、仲間へ知らせて。逃げ道を塞がないように、自分の位置も考えなさい」
俺は三人の位置を確かめた。
散らばりすぎれば互いが見えない。かといって、固まればまとめて追い詰められる。
「最初は少し距離を取ろう。お互いが見えるように――」
「始めるわよ」
エレナさんが砂時計をひっくり返す。
「ちょっと待って、まだ作戦が!」
アリアの声が終わる前に、エレナさんが地面を蹴った。
俺の横を抜け、ルシオンの背後へ回る。
「ルシオン、後ろ!」
俺の声でルシオンが振り向いた。
だが、エレナさんはもう腕を振り上げていた。
パァン!
「ひゃっ!?」
乾いた音と、ルシオンの聞いたことのない声が訓練場に響いた。
ルシオンは肩を押さえたまま固まっている。眼鏡が少しずれていた。
「……びっくりした」
「いい音だった」
レンが言う。
「音の感想はいいです……」
ルシオンは眼鏡を直し、恐る恐る肩を確かめた。
「痛くはないんですけど、音が……」
「すごい声も出た」
「それは忘れてください」
「ひゃっ、って言った」
「繰り返さなくていいです!」
ルシオンの顔が赤くなる。俺も笑いそうになったが、砂時計の砂はほとんど落ちていなかった。
「はい、一回目」
エレナさんがハリセンを肩に担ぐ。
「ルシオンだけを見て笑ってる場合じゃないわよ。私があの子を追った時、残りの三人は何をしてた?」
俺たちは顔を見合わせた。
俺は声をかけた。でも、エレナさんが背後へ回ってからだ。アリアとレンも、その場でルシオンを見ていた。
「……何もできてません」
「そうね。次は、もう少し早く気づいてみなさい」
エレナさんがハリセンを構え直す。
ルシオンの肩がびくっと跳ねた。
「……分かりました。今度は、あの音を鳴らさせません」
眼鏡を直し、真剣な顔になる。
その隣で、レンが小さく呟いた。
「ひゃっ」
「忘れてくださいってば!」
◇
「じゃあ、今度はエレナさんが誰を見てるかも確認しよう」
俺たちは距離を取り直した。
ルシオンはさっきよりもエレナさんから離れている。アリアはその隣、レンは俺の斜め前だ。
「準備はいい?」
「今度こそ!」
アリアが答えた。
エレナさんが砂時計を返す。
「始め!」
今度は俺も、エレナさんの動きをしっかり見ていた。
視線がルシオンへ向く。
「ルシオン、来るぞ!」
「はい!」
ルシオンがすぐに下がる。
だが、エレナさんは踏み出しかけた足を止め、アリアの方へ向きを変えた。
「えっ、私!?」
アリアが慌てて背を向け、逃げ出す。
「背中を向けない!」
エレナさんの声と同時に、腕が伸びた。
パァン!
「いったぁっ!」
アリアが両手で尻を押さえた。
そのまま数歩よろめき、膝を曲げてうずくまる。
「何でそこ叩くのよぉ……!」
「背中を向けて、真っすぐ逃げるからよ」
エレナさんが答える。
俺は口元を押さえた。
駄目だ。笑うな。四人とも失敗したんだ。
隣を見ると、ルシオンも眼鏡を直すふりをしながら顔を背けていた。肩が小刻みに揺れている。
「……二人とも、笑ってるでしょ」
「いや、そんなことは――」
アリアが恨めしそうに俺たちを睨む。
その横へ、レンがしゃがみ込んだ。
「大丈夫? お尻、割れた?」
「割れた!」
「元からだろ!」
思わず突っ込んだ瞬間、俺は耐えきれずに吹き出した。
ルシオンも口を押さえて笑い出す。レンだけが真剣な顔でアリアを見ていた。
「じゃあ、治した方がいい?」
「治したら困るだろ!」
「ランド、もう黙って!」
アリアが顔を真っ赤にして立ち上がる。
エレナさんまで笑いながら、砂時計を持ち上げた。
「はい、二回目。ランド、さっき私が見ていたのは誰?」
「……ルシオンです」
「それで、追いかけたのは?」
「アリアです」
「目線だけで決めつけないこと。見ていても、騙されることはあるわよ」
俺は頷いた。
ルシオンを見たから、ルシオンを狙うと思い込んだ。アリアに向きを変えた時には、俺も何も言えなかった。
「それからアリア。逃げる時も、相手を見失わないようにね」
「……分かったわ」
アリアが尻をさすりながら答える。
エレナさんはハリセンを軽く振った。
「じゃあ、もう一回」
俺たちは揃って、その先を見た。
次の音を鳴らすのは、誰だろう。
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