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知らなかった家族

 ギルドの二階へ上がる。


 一階の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。


 さっきまでキラーマンティスの話をしていた。


 ブロンズへ上がるかもしれないとも言われた。


 天下五剣の一人にも会った。


 本当なら、それだけで頭がいっぱいになる。


 なのに今は、それ以上に母さんのことが気になっていた。


 リエラ。


 マルク・ヴィクトリーノ。


 二つの名前が頭から離れない。


 廊下の奥で、アイリスさんが立ち止まった。


「こちらです」


 目の前には一枚の扉。


 他の部屋と大して変わらない。


「ここがギルド長室です」


「……ありがとうございます」


「ランドさん」


「はい?」


 アイリスさんは何か言いかけた。


 けれど、少し考えてから首を横に振る。


「いえ。ごゆっくり」


「?」


 アイリスさんはそれだけ言って、一階へ戻っていった。


 俺は一人、扉の前に残される。


「……」


 なんだ。


 魔物と戦う時より緊張する。


 別に怒られるわけでもない。


 なのに、扉を叩こうとする手が妙に重い。


 一度だけ息を吐く。


 ――コン、コン。


「入りな」


 キリカさんの声が返ってきた。


「失礼します」


 扉を開ける。


 部屋は思ったより質素だった。


 大きな机。


 書類の詰まった棚。


 壁に掛けられた王国の地図。


 そして――。


 二振りの剣。


 壁に並べて掛けられている。


 あれが。


 二刀流のキリカが使う剣なのか。


「座りな」


「あ、はい」


 勧められた椅子へ腰を下ろす。


 キリカさんは机の向こう側に座った。


 さっきまでとは違う。


 笑っていない。


 俺を見ながら、少し考えるように腕を組んでいる。


「さて……」


 キリカさんが椅子へ深く腰掛けた。


「どこから話したもんかね」


「……」


「その前に、一つ確認させておくれ」


「はい」


「ランド」


 真っ直ぐ俺を見る。


「お前さんは、自分の母親がマルク・ヴィクトリーノの娘だってことも――知らないんだね?」


「……え?」


 一瞬。


 何を言われたのか分からなかった。


「今……なんて?」


「リエラは、マルクの娘だ」


「……」


 俺は何も言えなかった。


 マルク・ヴィクトリーノ。


 鬼王を討った天下五剣の一人。


 母さんと同じ家名。


 陽だまり亭で名前を聞いてから、何か関係があるんじゃないかとは思っていた。


 でも――。


「娘……?」


「ああ」


 キリカさんは静かに頷く。


「つまり、お前さんにとってマルクは――母方の祖父ってことになるね」


 祖父。


 その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。


 母さんの父親。


 俺の――祖父。


「……生きてるんですか?」


 気付けば、そう聞いていた。


 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。


 キリカさんの目がわずかに細くなる。


「ああ。生きてるよ」


「……」


「今も、この王都にいる」


 俺はしばらく何も言えなかった。


 生きている。


 母さんの父親が。


 俺の祖父が。


 この王都に。


「……母さんは、なんで何も教えてくれなかったんですか?」


「それは私にも分からないね」


 キリカさんは静かに答えた。


「ただ、リエラは昔からヴィクトリーノの家名には驚くほど興味がなかった」


「家が嫌いだったんですか?」


「いや。そういうんじゃない」


 キリカさんは首を横に振る。


「家が嫌で飛び出したわけでも、マルクと縁を切ったわけでもないよ」


「じゃあ、なんで?」


「リエラには兄がいた」


「……兄?」


 初めて聞く話だった。


「リカルド・ヴィクトリーノ。真面目な男だったよ」


「リカルド……」


 知らない。


 母さんに兄がいたことすら、初めて知った。


「その人は?」


 キリカさんが少しだけ黙った。


「もう亡くなってる」


「……そうなんですか」


「ああ」


 今日だけで、知らなかった家族が次々と出てくる。


 祖父がいて。


 伯父がいた。


 しかも一人は生きていて、一人はもう死んでいる。


「母さんは、その人と仲が悪かったんですか?」


「いや。むしろ逆さ」


「逆?」


「リエラはリカルドをちゃんと認めてた。あいつは真面目でね。家のことも、ヴィクトリーノの名を背負うことも真剣に考えてた」


 キリカさんが少し笑う。


「リエラとは正反対さ」


「母さんは違ったんですか?」


「全然」


 即答だった。


「剣を振るうのは好き。強くなるのも好き。でも家を継ぐのも、名を残すのも興味なし」


「……」


 なんとなく分かる。


 俺が知っている母さんも、自分の昔のことなんてほとんど話さなかった。


「それでリエラは、『私が継ぐより兄さんが継いだ方がいい』って言ってね」


「それで家を出た?」


「ああ」


「マルクは止めなかったんですか?」


「止めたさ」


 キリカさんが苦笑する。


「何しろ、リエラはとんでもない剣の才能を持ってたからね」


「母さんが?」


「お前さん、本当に何も知らないんだねぇ」


「……はい」


「まあ、リエラなら自分からは言わないか」


 キリカさんは少し懐かしそうに目を細めた。


「若い頃のリエラは、この王都じゃ結構な有名人だったよ」


「そんなに強かったんですか?」


「強かった」


 即答だった。


「マルクの娘だから強かったんじゃない。リエラ自身に、とんでもない剣の才があった」


「……例えば?」


「そうだねぇ」


 キリカさんが少し考える。


「飛竜は知ってるかい?」


「ドラゴンの一種ですよね?」


「ああ。竜種の中じゃ下位に入るが、それでも普通の魔物とは比べ物にならない」


「一匹でも危険なんですか?」


「当然だ。討伐するなら、腕の立つ冒険者を何人も集める」


 そこでキリカさんの口元が上がった。


「リエラは十七の時、それを三匹、一人で仕留めた」


「……」


 聞き間違えたかと思った。


「三匹?」


「ああ」


「一人で?」


「一人で」


「……なんでそんなことになったんですか?」


「近くの村に飛竜が出たんだよ」


 キリカさんが淡々と話す。


「本来なら王都から討伐隊を出すところだったんだけどね。リエラがたまたま近くにいた」


「まさか……」


「『待ってたら村が襲われる』って、一人で行っちまった」


「……」


 やりそうだ。


 俺の知っている母さんなら。


「一匹目の翼を斬って地面に落とした。二匹目は襲いかかってきたところを仕留めた」


「三匹目は?」


「逃げたよ」


「じゃあ二匹じゃないですか」


「リエラが追いかけた」


「なんで!?」


 思わず声が大きくなる。


 キリカさんが吹き出した。


「私も後で同じことを聞いたよ」


「なんて言ってたんです?」


「『逃がしたら、また誰か襲われるかもしれないでしょ』」


「……」


 頭を抱えたくなった。


 母さん。


 何やってんだよ。


「結局、森まで追いかけて三匹目も仕留めた。討伐隊が到着した頃には――」


 キリカさんが笑う。


「村で飯を食ってたそうだ」


「……嘘でしょ」


「本当さ」


「怪我は?」


「してたよ」


「やっぱり」


「腕を少し切ってた」


「それだけ!?」


「本人は『飛んでるから面倒だった』としか言わなかった」


「……」


 俺は額を押さえた。


 知らない。


 そんな話、一度も聞いたことがない。


 俺が知っている母さんは、村で暮らして。


 飯を作って。


 剣を教えてくれて。


 悪さをすれば容赦なく頭を叩いてくる。


 ただの母さんだった。


「……それ、マルクより強かったんじゃないですか?」


「そこまでは言わないよ」


 キリカさんは首を横に振る。


「あの頃のリエラじゃ、まだマルクには届かなかった」


「そうなんですか?」


「ああ。剣は才能だけで決まるもんじゃない」


 キリカさんが自分の手を見る。


「経験も、技も、くぐってきた修羅場の数も違う。そこはマルクの方が遥かに上だった」


「なるほど……」


「ただ――」


 キリカさんが少しだけ楽しそうに笑う。


「剣の才だけなら、いつかマルクを超えるんじゃないかって言う奴はいたね」


「……そんなに」


「ああ。マルク自身も、リエラにはかなり期待してたと思うよ」


 それなら、なおさら家を出ると言われた時は止めただろう。


「キリカさんとも戦ったことあるんですか?」


「ああ」


「どっちが勝ったんです?」


「おや」


 キリカさんの眉が上がる。


「そこを聞くかい?」


「気になるじゃないですか」


「私だよ」


 即答だった。


「……本当に?」


「疑ってんのかい?」


「いや、母さんの話を聞いた後なんで……」


「可愛くないねぇ」


 キリカさんが笑う。


「まあ、最後に手合わせした頃には、随分と追いつかれてたけどね」


「じゃあ、もう少し王都にいたら――」


「さあね」


 キリカさんは肩をすくめる。


「剣ってのは、実際にやってみなきゃ分からないもんさ」


 天下五剣のキリカさんが、そこまで言う。


 本当に母さんは強かったんだ。


「でも……」


 俺は少し考える。


「なんとなく母さんらしいです」


「何がだい?」


「家を出た理由です」


 有名になりたいわけじゃない。


 家名を残したいわけでもない。


 自分より兄の方が向いていると思ったから譲った。


 たぶん母さんにとっては、本当にそれだけだったんだろう。


「俺が知ってる母さんも、そういうこと気にする人じゃなかったんで」


「そうかい」


 キリカさんが俺を見つめる。


 そして、ふっと笑った。


「……やっぱり似てるねぇ」


「またそれですか?」


「ああ」


「どこが?」


「自分じゃ分からないもんさ」


 キリカさんが笑う。


「キラーマンティスの時もそうだったろ?」


「?」


「格上を倒して、特例昇格の話まで出たってのに――」


 キリカさんが俺の口調を真似る。


「『別にそのために戦ったわけじゃない。助けが必要だったから助けただけ』」


「……そんな変なこと言いました?」


「変じゃないさ」


 キリカさんの表情が少し柔らかくなる。


「リエラも同じだったってだけだよ」


 俺は何も言わなかった。


 母さんに似ている。


 そう言われるのは――。


 別に、嫌じゃなかった。


 少しして、俺はもう一つ気になっていたことを聞いた。


「キリカさん」


「なんだい?」


「王都を出た後の母さんのことは?」


 キリカさんの笑みが少し消えた。


「ほとんど知らない」


「マルクも?」


「ああ」


 キリカさんは少し考えてから続ける。


「リエラが王都を離れてしばらくは、たまに便りもあったらしい。でも、それも次第に減っていった」


「……」


「最後には、どこで暮らしてるのかさえ分からなくなった。私も何度かマルクに聞いたことがあるが、あいつも詳しいことは知らなかったよ」


「そうだったんですか」


「ああ。縁を切ったわけじゃない。ただ――リエラは自分のことをあまり知らせたがらなかった」


 それなら。


 俺のことも知らないのかもしれない。


 自分に孫がいることさえ。


「どうした?」


 俺は少し迷った。


 けれど、隠すことでもない。


「母さん、もう死んでます」


「……」


 キリカさんの表情が止まった。


「……何?」


「俺が八歳の時に」


 さっきまでの空気が消えた。


「……どうして?」


「詳しくは分かりません」


「分からない?」


「はい」


 あの頃の俺はまだ子供だった。


 覚えていることはある。


 でも、何が起きていたのか。


 どうしてあんなことになったのか。


 全部を理解していたわけじゃない。


「俺も、ちゃんと分かってないんです」


「……そうかい」


 キリカさんはそれ以上聞かなかった。


 ただ、しばらく視線を落としていた。


「知らなかったよ」


「はい」


 短い言葉だった。


 でも、さっきまで楽しそうに母さんの話をしていたキリカさんが黙り込んだのを見ていると――。


 本当に、昔の母さんを知っていたんだと思った。


 しばらくして、俺は口を開く。


「マルクは……?」


「おそらく知らない」


 キリカさんが静かに答える。


「少なくとも、私が知る限りじゃね」


「……」


 この王都にいる。


 俺の祖父。


 でも、その人は――。


 自分に孫がいることも。


 娘がもう死んでいることも。


 何も知らないのかもしれない。


「会った方がいいんですかね」


 気付けば、そんなことを聞いていた。


 キリカさんはすぐには答えなかった。


「それは私が決めることじゃないよ」


「……」


「今日初めて、自分に祖父がいると知ったんだろ?」


「はい」


「なら、今すぐ答えを出す必要もない」


 キリカさんは俺を見る。


「会いたいと思った時に会えばいいさ」


「……そうですね」


 俺自身、まだ分からない。


 会いたいのか。


 会って何を話したいのか。


 そもそも――。


 今日まで存在すら知らなかった人を、急に祖父だと思えるのか。


「もっと聞きたいことはあるかい?」


「……あります」


 ありすぎる。


 母さんのこと。


 リカルドという伯父のこと。


 そして――マルク・ヴィクトリーノのこと。


 でも、頭の中がぐちゃぐちゃだった。


「今日はもういいです」


「いいのかい?」


「正直、これ以上聞いても頭に入らない気がするんで」


 キリカさんは俺を見て、小さく笑った。


「それでいいさ。全部一度に知る必要なんてない」


「はい」


「マルクに会いたくなったら、私に言いな。その時は間に入ってやる」


「……分かりました。ありがとうございます」


 俺は立ち上がる。


「ああ、ランド」


「はい?」


 キリカさんが俺の腰へ目を向けた。


「その剣」


 母さんの形見。


 俺は柄へ手を置く。


「大事に使いな」


「もちろんです」


 今度は迷わず答えた。


 扉へ向かう。


 今日まで知らなかった祖父がいた。


 知らなかった伯父がいた。


 そして――。


 俺の知らない母さんがいた。


 三匹の飛竜を一人で倒して。


 天下五剣のキリカさんと剣を交えて。


 王都で名を知られていた剣士。


 だけど。


 俺にとっては、やっぱり――。


 飯を作って。


 剣を教えて。


 悪さをすれば頭を叩いてきた。


 あの母さんだ。


「失礼しました」


「ああ」


 扉を閉める。


 一人になった廊下は静かだった。


「……」


 俺はすぐには歩き出せなかった。


 母さんの父親が、今もこの王都にいる。


 会おうと思えば、会える。


 なのに。


 今すぐ会いに行こうとは思えなかった。


 何を話せばいいのか分からない。


 祖父と言われても、俺にとっては今日初めて存在を知った人だ。


「……知らねぇことばっかりだな」


 小さく呟く。


 母さんは、なんで何も話さなかったんだろう。


 考えても答えは出ない。


 なら――。


 今は、それでいい。


 いつか会いたいと思った時に、会えばいい。


 俺はようやく扉から離れた。


 階段の方へ歩き出した。

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