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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第99話 封を開く時】



 ベルク領記録所の扉は、重い音を立てて閉じた。


 外のざわめきが、石壁に遮られる。


 町の人々の声。


 馬の蹄。


 荷車の軋み。


 門前で交わされていた低い噂話。


 それらは厚い扉の向こうへ遠ざかり、代わりに記録所の中には、紙と革と乾いた石の匂いが満ちていた。


 アレックスは、思わず息を止めた。


 ここは戦場ではない。


 黒い畑でもない。


 火油の煙が流れる山道でもない。


 けれど、胸の奥の緊張は、剣を構えている時とほとんど変わらなかった。


 むしろ、違う重さがある。


 ここでは、刃を振るうわけではない。


 ここでは、言葉が残る。


 間違った言葉も、正しい言葉も。


 名前を消す書類も、名前を戻す記録も。


 すべてが紙の上に置かれる。


 だからこそ、怖かった。


 ヘルマン副記録官は、迷いなく奥へ進んだ。


 正面の広間には、長い机がいくつも並んでいる。


 壁には棚。


 棚には巻物と冊子。


 赤、青、黒、白。


 紐の色で分けられた記録束が、隙間なく収められていた。


 窓は小さく、光は細い。


 その分、机の上には反射板付きの灯りが置かれ、火皿は石の囲いの中に収められている。


 火を扱う場所でありながら、燃やさないための工夫が至るところにあった。


 マーガレットが小声で呟く。


「すごい……紙の石蔵みたい」


 レクスターが静かに頷いた。


「適切な表現です」


「本当?」


「はい。記録を守る蔵です」


 マーガレットは少し嬉しそうにした。


 だが、すぐに証拠箱へ視線を戻した。


 ミル補佐官が抱えている箱。


 その中に、白紐の包みがある。


 ハルダ村の声。


 カイの地図の写し。


 オルグの本物の署名。


 偽造署名の写し。


 黒い樽の記録。


 サヴィルの供述と繋がる書類。


 それが、いよいよ開かれる。


 広間の奥から、数人が駆けてきた。


 一人は年配の女性。


 濃紺の衣を着て、腰に鍵束を下げている。


 髪は白く、背筋はまっすぐ。


 ヘルマンが彼女へ頭を下げる。


「保管庫管理者、マティア殿」


「話は聞いたよ」


 マティアは短く答えた。


 視線はすでに証拠箱へ向いている。


「封印物は?」


「こちらです。未開封。見張り塔第七塔で外形受領、護送中に火油罠、浅瀬で油布妨害、北門で王都外郭管理局名義の引き渡し通達あり。すべて記録済みです」


「忙しい道だったね」


「はい」


 マティアの後ろには、灰色の外套を着た男がいた。


 四十代ほど。


 顔は細く、目元に疲れがある。


 だが、立ち方には役人らしい硬さがあった。


 ルド隊長が小声で説明する。


「領主代理、クライン殿です。ハイマン子爵は領都外の視察中のため、記録所案件は代理決裁になります」


 クライン領主代理は、アレックスを見る。


 それから、サヴィルを見る。


 最後に証拠箱を見た。


「王都外郭管理局の名が出ていると聞いた」


「はい」


 ヘルマンが答える。


「農地再編課副監査官ベリオ・ザンの関与疑い。グレイ商会調整役サヴィルの自供あり。ハルダ村村長署名偽造疑いあり」


 クラインの顔が険しくなる。


「……厄介だな」


 ヨルムが壁際で鼻を鳴らした。


「厄介だから記録するんだろう」


 クラインはヨルムを見る。


「ヨルム翁まで関わっているのか」


「翁と呼ぶな」


「では、ヨルム殿」


「それでいい」


 マティアが手を叩いた。


「話は後。封を開けるなら手順が先だよ。ヘルマン、外形記録。ミル、補助。レクスター殿と言ったね、持参者側記録役として立会い。アレックス殿、持参者として確認。マーガレット殿は少し下がって。手が出そうな顔をしている」


 マーガレットがびくっとした。


「出しません!」


「声が大きい。紙が驚く」


「すみません……」


 レクスターが小さく言う。


「紙は驚きません」


 マティアは彼を見た。


「比喩だよ」


「失礼しました」


 マーガレットが少し笑いそうになったが、場の緊張を思い出して口を結んだ。


 封印解除の机が用意された。


 机の表面は白い布で覆われている。


 布には細かな目印があり、どこに何を置いたか分かるようになっていた。


 証拠箱が中央に置かれる。


 ヘルマンが箱の外形を読み上げる。


 ミルが記録する。


 レクスターも記録する。


 マティアが鍵束から細い銀の鍵を取り出し、証拠箱を開けた。


 白紐の包みが現れる。


 アレックスの胸が大きく鳴った。


 山道を越え、煙を越え、浅瀬を越え、紙の罠を越えた包み。


 ミレ婆の布が、まだそこにある。


 カイの声が、その中にある。


 ヘルマンが言う。


「持参者、確認を」


 アレックスは前へ出た。


 包みに触れず、目で確認する。


「俺たちがハルダ村から預かった白紐の写しです。封は、俺たちが結んだ時と同じに見えます」


 レクスターが続ける。


「外形記録と一致。未開封状態維持」


 マティアが頷く。


「では、ここから開封に入る。開封者は保管庫管理者マティア。立会い、ヘルマン副記録官、クライン領主代理、持参者アレックス、持参者側記録役レクスター。サヴィル証人は拘束状態で同席。異議は?」


 誰も答えなかった。


 サヴィルは壁際で、兵に挟まれて座っている。


 顔色は悪いが、目は包みから離れていない。


 マーガレットは両手を握りしめていた。


 アレックスは、息を整えた。


 マティアの指が、白紐へ伸びる。


 ほどく。


 ゆっくりと。


 結び目が解ける。


 油紙が開かれる。


 ミレ婆の布がめくられる。


 中から、紙の束が現れた。


 赤茶けた紙。


 湿気を避けるための薄紙。


 複数の写し。


 木札の写し。


 署名の写し。


 地図。


 そして、カイの手による線が入った北林道の写し。


 アレックスの喉が詰まった。


 ここまで来た。


 マーガレットは、もう泣いていた。


「泣くのは後だよ」


 マティアが言う。


「はい……でも、少しだけ……」


「少しなら許す」


 ヘルマンは最初の紙を取り上げた。


「表題。ハルダ村土壌および水路汚染に関する証言写し。作成、旅人レクスター。確認、ハルダ村村長オルグ、巡察ダン、村民証言複数」


 レクスターの筆が止まりそうになった。


 自分の名が、公的な読み上げの中に入った。


 それでも、彼はすぐ記録へ戻った。


 ヘルマンが続ける。


「添付一。村長オルグ本人署名写し。添付二。王都外郭管理局農地再編課承認書類写し。村長署名欄に疑義あり。添付三。旧水路利用図。添付四。黒い樽配置記録。添付五。南道馬車より回収された書簡写し。リゼット宛て。添付六。カイ作成ハルダ村地図写し」


 そこで、マーガレットが小さく息を呑んだ。


 カイの名が読まれた。


 ヘルマンは、その地図を広げた。


 石蔵。


 北畑。


 残す畑。


 避難線。


 鐘台。


 角笛。


 煙避難線。


 北林道。


 子どもの字で書かれた言葉。


 “ハルダ村は残っている”


 広間の空気が、静かに変わった。


 ヘルマンは眼鏡の奥でその文字を見つめた。


 マティアも、クライン領主代理も、ルド隊長も、しばらく言葉を出さなかった。


 ただの地図ではない。


 役人の地図ではない。


 農地評価図でも、水路管理図でもない。


 生き残るために描かれた地図だった。


 レクスターが静かに言った。


「それは、ハルダ村の少年カイが作成した地図です。避難線、危険地点、汚染範囲、残す畑、北林道を示しています。村人の実体験に基づく重要記録です」


 マティアがゆっくり頷いた。


「子どもの地図、などとは呼べないね」


 ヘルマンが紙へ書く。


「添付六、ハルダ村カイ作成地図写し。避難実施記録として高価値」


 マーガレットが涙声で言った。


「カイ、聞いたら照れるね……」


 アレックスは頷いた。


「ああ」


 クライン領主代理が、地図を見ながら低く言った。


「この村は、ただ被害を受けただけではないのだな」


 アレックスは答える。


「はい。村は、自分たちで避難線を作り、鐘と角笛で合図を決め、火にも備えました」


「鐘と角笛」


 マティアが問う。


「それも記録にあるのかい」


 レクスターが別紙を示す。


「あります。第82話……ではなく、該当日記録として、避難線作成、鐘台合図、角笛代替合図、火油対策、土袋配置を記録しています」


「よろしい」


 マティアは短く言った。


「人が生き残る知恵は、必ず残すべきだよ」


 その言葉に、マーガレットがさらに泣きそうになった。


 サヴィルは、地図を見ていた。


 カイの字。


 ハルダ村は残っている。


 その文字を見た時、彼の顔が少し歪んだ。


 アレックスはそれを見逃さなかった。


 サヴィルは、小さく呟いた。


「私たちの書類には、残らない文字だ」


 ヘルマンが目を上げる。


「サヴィル証人。発言を続けますか」


 サヴィルは少し黙った後、頷いた。


「グレイ商会の農地評価書には、避難線も、鐘も、角笛も、白ヤギも載らない。載るのは、土地面積、水量、収穫予測、残留住民数、退去率、再編後の収益だ」


 マーガレットの目が鋭くなる。


「白ヤギさんも大事なのに」


 サヴィルは彼女を見た。


「今なら、少し分かる」


「少し?」


「ああ。少しだ」


「じゃあ、もっと分かって」


「……努力する」


 マティアが低く言う。


「その会話も記録するかい?」


 ヘルマンは淡々と答えた。


「要点のみ」


 少しだけ、広間に微かな笑いが生まれた。


 だが、その笑いは長く続かなかった。


 次に開かれた書類で、空気は一気に冷たくなった。


 王都外郭管理局農地再編課の承認書類写し。


 そこには、村長オルグの署名欄があった。


 そして、別添の本人署名写し。


 二つを並べる。


 ヘルマンの目が細くなる。


 マティアが顔を近づける。


 クライン領主代理が、深く眉を寄せた。


「違うな」


 クラインが言った。


「素人目にも、違う」


 ヘルマンは慎重に言う。


「筆圧、末尾の跳ね、姓の二字目の崩し方が一致しません。詳細鑑定は必要ですが、偽造疑義は強い」


 レクスターが頷く。


「ハルダ村での本人確認時にも同様の判断をしています」


 サヴィルが口を開いた。


「それはマルセ・リドの手です」


 全員が見る。


 サヴィルは続ける。


「商会文書課。筆跡模倣を担当する。本人署名を一度でも見れば、契約書類上は通る程度に似せられる」


 ヘルマンが問う。


「あなたは偽造を見たのですか」


「直接書くところは見ていない。だが、偽造済み署名を受け取った。署名元を問うた時、マルセの処理だと聞いた」


「誰から」


「ネイグ」


 部屋の空気がまた重くなる。


 ネイグ。


 火油。


 追手。


 橋の罠。


 紙の通達。


 全ての背後に、彼の影がある。


 ヘルマンは記録する。


「サヴィル証人供述。村長署名偽造、商会文書課マルセ・リド関与。情報源ネイグ」


 クライン領主代理は険しい顔で言った。


「王都外郭管理局の承認印は本物か」


 ヘルマンは印の写しを確認する。


「写しなので断定は避けます。ただし形式は本物に近い」


 サヴィルが答える。


「印は本物だ。少なくとも、商会内で偽印とは扱われていない。ベリオ・ザンの副監査官印も本物のはずだ」


 クラインが机に手を置いた。


「つまり、偽造された村長署名と本物の王都側印が同じ書類に並んでいる」


「はい」


 レクスターが答えた。


「そこが問題の核心です」


 アレックスは拳を握った。


 村の同意は偽造。


 王都の承認は本物。


 その組み合わせが、ハルダ村を壊した。


 書類は、人を守るためにも使える。


 だが、人を消すためにも使われる。


 だから、どちらの記録を残すかが重要になる。


 次に、旧水路利用図が広げられた。


 水の流れ。


 黒い樽の位置。


 北畑へ流れる旧水路。


 汚染範囲。


 レクスターが説明する。


「旧水路は、ハルダ村の北畑へ清水を流すために再利用しました。ただし、当初は薬剤拡散にも利用されていた形跡があります」


 マティアが問う。


「水をかければ広がる性質だったのかい」


「はい。黒い根は水に反応し、拡散または活性化する場合がありました。火油に対しても通常水処理は危険です」


 ルド隊長が頷く。


「橋の罠でも役立った」


 ヘルマンが追記する。


「ハルダ村対処知見、ベルク領防災記録へ写し作成推奨」


 マティアが即座に言う。


「推奨ではなく作成だ。領主代理、許可を」


 クラインは頷いた。


「許可する。火油および黒根対策として、防災記録へ複写」


 アレックスは驚いた。


 ハルダ村で必死に作った対処が、ベルク領の防災記録へ写される。


 土袋。


 水をかけない。


 煙避難線。


 鐘と角笛。


 それらが、別の場所を守る知恵になる。


 マーガレットは口元を押さえた。


「ハルダのやり方が……」


「別の町を守るかもしれない」


 アレックスが言う。


 レクスターも静かに頷いた。


「記録が生きる、ということです」


 カイに聞かせたい。


 アレックスは強く思った。


 君の地図が、村の外でも役に立つ。


 白ヤギさんも、鐘も、角笛も、全部。


 次に、南道馬車から回収された書簡写しが開かれた。


 リゼット宛て。


 旧施療院式水路拡散理論。


 名称反応。


 命令転写。


 植物根系への応用。


 専門的な言葉が並ぶ。


 ヘルマンは眉を寄せた。


「これは記録所だけで判断できる内容ではありません。施療院系資料との照合が必要です」


 レクスターが言う。


「グレイル側資料との照合も必要です。エイナ殿、老女殿、組合長殿に写しが送られています」


 マティアが聞く。


「グレイルへも?」


「はい。黄紐の写しと手紙を東宿場経由で送りました」


「届いた保証は?」


「東宿場の主人には渡っています」


 アレックスが答える。


「その後は確認できていません」


 ヘルマンが記録する。


「グレイル方面へ別写し送付済み。東宿場主人に託送。到達未確認」


 クラインが言う。


「東宿場にも問い合わせが必要だ」


 ルド隊長が頷く。


「ルベンという塩商人が商会連絡員の疑いあり」


 サヴィルが補足する。


「ルベンは商会の正式構成員ではない。だが、情報を流す。金と塩流通を握られている」


 ヘルマンがまた記録する。


「東宿場塩商人ルベン、商会連絡員疑い」


 記録が増えていく。


 紙の上に、少しずつ網が作られていく。


 グレイル。


 ハルダ村。


 東宿場。


 ベルク領。


 王都外郭管理局。


 グレイ商会。


 リゼット。


 ベリオ・ザン。


 マルセ・リド。


 ネイグ。


 ルベン。


 名前が繋がっていく。


 消された名前ではなく、追うための名前として。


 封印解除が進む中、北門で受け取った王都外郭管理局名義の通達も別卓で確認された。


 それは、ダレム・ノーツが持っていたものだ。


 証拠箱の即時提出を求める書状。


 発行者名はベリオ・ザン。


 通達番号はある。


 印もある。


 だが、ヘルマンはすぐに違和感を指摘した。


「発行時刻が早すぎます」


 クラインが問う。


「どういうことだ」


「この通達は、我々が見張り塔から記録所へ向けて伝令を出す前の時刻で発行されたことになっています。つまり、ハルダ村証拠がベルク領へ入った事実を、正式経路より前に把握していたことになる」


 ルド隊長が顔を険しくする。


「内通か、事前待機か」


 レクスターが言う。


「あるいは、証拠箱が来る前提で準備されていた」


 サヴィルが頷いた。


「ネイグなら、複数の通達を先に用意する。どこで捕まっても使えるように」


 マティアが低く言う。


「便利な紙だね。吐き気がする」


 ヘルマンはさらに続ける。


「通達形式も微妙に古い。ベルク領が昨年改定した証拠保全協定の条項が反映されていない。王都側が正式に出したなら、最新版を使うはずです」


 クラインが目を細める。


「偽通達か」


「完全な偽造か、旧様式を悪用した半正規書類か、判断には照合が必要です」


 レクスターが静かに言った。


「いずれにせよ、即時引き渡しを停止した判断は正しい」


「当然です」


 ヘルマンは短く答えた。


 マーガレットが小声で言う。


「紙の罠、ちゃんと止まったね」


「ああ」


 アレックスは頷いた。


 剣で切るのではなく、記録で止めた。


 それは新しい戦い方だった。


 全ての外形確認と初期読み上げが終わる頃には、広間の空気はさらに重くなっていた。


 だが、その重さは、恐怖だけではない。


 形になった重さだった。


 ハルダ村の声が、紙の束として、証言として、地図として、正式に見られた。


 消えない場所へ入り始めた。


 ヘルマンは最後に、白紐の束を新しい保全布で包み直した。


 封は一度開かれたため、今度はベルク領記録所の保全紐が結ばれる。


 色は緑。


 白紐の上に、緑紐。


 ハルダ村の写しが、ベルク領の保全記録になった証だ。


 ヘルマンが宣言する。


「ハルダ村関連証言写し一式。ベルク領記録所にて初期受領。封印解除、外形および主要添付確認完了。内容精査は継続。証拠改竄防止のため、保管庫第三室へ一時保全。持参者側写し確認済み」


 マティアが鍵を取り出す。


「保管庫へ運ぶよ」


 アレックスは思わず一歩前へ出た。


 ヘルマンが見る。


「持参者として、保管庫前まで立会いますか」


「はい」


 即答だった。


 マーガレットも言う。


「私も」


 レクスターも頷く。


「私も立ち会います」


 マティアは短く頷いた。


「なら来な。静かにね」


 保管庫第三室は、広間の奥にあった。


 石扉。


 二重鍵。


 内側に乾燥材。


 火気禁止の印。


 棚には、すでにいくつもの封印束が置かれている。


 ヘルマンは緑紐で結ばれた白紐の証言束を、中央の空き棚へ置いた。


 棚札が付けられる。


 “ハルダ村土壌・水路汚染事件関連証言写し”


 “グレイ商会・王都外郭管理局農地再編課関与疑い”


 “持参者アレックス一行”


 “初期受領日”


 そこに、確かに置かれた。


 アレックスは、息を吐くことも忘れて見つめた。


 マーガレットは泣いている。


 レクスターは目を伏せ、静かに指を握った。


 カイ。


 ハルダ村は、ここに残った。


 君の地図も、ここに残った。


 もう、村の外へ出た声は、簡単には消せない。


 アレックスは胸の奥で鐘の音を聞いた。


 ごぉん。


 見送りの鐘。


 焦げても残った鐘。


 まだ鳴る鐘。


 その音が、この石の保管庫の中でも響いた気がした。


 マティアが扉を閉める前に言った。


「よく持ってきたね」


 アレックスは、何も言えなかった。


 代わりに、深く頭を下げた。


 マーガレットも。


 レクスターも。


 扉が閉じる。


 鍵がかかる。


 ハルダ村の声は、ベルク領記録所の保管庫に入った。


 完全な終わりではない。


 精査も、聴取も、次の通達も、王都との対峙も残っている。


 だが、この一歩は大きかった。


 封を開く時は、声が消える時ではなかった。


 声が、正式に残り始める時だった。


 保管庫の前で、アレックスは小さく呟いた。


「届いたぞ、カイ」


 今度は、マーガレットにも、レクスターにも聞こえた。


 マーガレットは涙を拭きながら頷いた。


「うん。届いた」


 レクスターも静かに言う。


「はい。記録されました」


 アレックスは目を閉じた。


 ハルダ村は残っている。


 その一文が、もう一度胸の中で光った。


 そして彼らは、次の戦いへ向かうために、ゆっくりと保管庫の前から歩き出した。

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