【第98話 浅瀬を渡る声】
石橋は、目の前にありながら渡れなかった。
ベルク領の古い石橋。
山道を下り、領都へ向かう正規の道。
橋を渡れば、番所があり、その先には整えられた道が続く。
記録所へ向かうには、本来そこを通るのが最も早い。
だが、橋の下には火油の罠が仕掛けられていた。
油布。
火打ち具。
起動紐。
護送隊が橋を渡る瞬間を狙い、火を入れるための仕掛け。
もしヨルムが油の匂いに気づかなければ。
もしレクスターが水を使う危険を止めなければ。
もしマーガレットが土袋を慎重に置けなければ。
もしアレックスが火打ち具を外せなければ。
証拠箱ごと、橋の上で混乱に巻き込まれていたかもしれない。
白紐の包み。
ハルダ村の声。
カイが書いた一文。
それがまた、火で奪われるところだった。
アレックスは、遠ざかる石橋を振り返った。
橋そのものはまだ立っている。
だが、番所の兵が封鎖している。
ベルク領兵たちが慎重に橋下を確認し、油布の残りや紐の有無を探っている姿が見えた。
普通の道に見える場所でも、商会は罠を置く。
それはハルダ村で何度も見てきたことだった。
普通の水路。
普通の畑。
普通の書類。
普通の署名。
その中に、黒いものを混ぜる。
だから、普通に見えるものを、もう無条件には信じられない。
その事実が、アレックスの胸に重く沈んだ。
「振り返るな」
ヨルムが前を歩きながら言った。
「橋はベルクの小僧どもに任せた。今見るべきは足元だ」
アレックスは前を向いた。
「はい」
マーガレットが小声で言う。
「ヨルム爺さん、ずっと足元って言うね」
「山も川も同じだ」
ヨルムは答えた。
「足元を見ない奴から流される」
「川も厳しい……」
「川はもっと厳しい」
その言葉通り、川上の浅瀬へ向かう道は、石橋の正規道よりずっと歩きにくかった。
川沿いの細い土道。
ところどころ草に隠れ、湿った石が露出している。
川音は近い。
水は澄んでいるが、流れは思ったより速い。
山から下りてきた冷たい水が、石を叩きながら白い泡を作っている。
浅瀬と聞いていたが、油断はできなかった。
証拠箱を持つ補佐官ミルは、顔を強張らせていた。
箱は革紐で胸に固定されている。
その左右をベルク兵が挟む。
ヘルマン副記録官は、箱そのものではなく、箱の状態を見て歩いている。
泥の付着。
湿気。
衝撃。
それらを常に確認していた。
レクスターも同じように見ている。
二人の視線が、証拠箱に何度も重なる。
マーガレットがアレックスに囁いた。
「記録役二人が見てると、箱が緊張してそう」
「箱が?」
「うん」
アレックスは少し笑った。
それを聞いたレクスターが振り返る。
「箱は緊張しません」
ヘルマンも前を向いたまま言った。
「ただし、保持者は緊張すべきです」
ミルがさらに硬くなる。
マーガレットが慌てて言った。
「ごめん! 緊張しすぎないで!」
ミルは苦笑した。
「いえ……緊張して当然なので」
ヘルマンが頷く。
「その通りです。緊張は不注意を防ぎます。ただし過剰な緊張は手元を狂わせます」
レクスターも続ける。
「呼吸を整えてください。箱の重さを腕だけで支えず、肩紐へ預ける」
「はい」
ミルは深呼吸をした。
少しだけ足取りが安定する。
マーガレットは小声で言った。
「やっぱり二人いる」
アレックスは笑いを飲み込んだ。
隊列の中央にはサヴィルがいた。
ベルク兵二人に挟まれ、縄で拘束されたまま歩いている。
石橋の罠を見てから、彼はさらに口数が減っていた。
火油の罠。
それは彼にとっても、自分が商会に捨てられた証だった。
橋ごと燃やされれば、サヴィルも無事では済まない。
証拠もろとも消す。
証人もろとも消す。
ネイグのやり方は明確だった。
サヴィルはそれを知っていたはずだ。
いや、知っていたからこそ、恐れている。
アレックスは少し歩調を落とし、サヴィルの横へ並んだ。
「まだ話せるか」
サヴィルは顔を上げた。
「歩きながら尋問か」
「思い出したことがあるなら、今聞く」
「記録役は忙しそうだ」
「ヘルマンもレクトも聞いている」
実際、前を歩くヘルマンの耳は動いていた。
レクスターも証拠箱を見ながら、こちらの声を聞いている。
サヴィルは小さく息を吐いた。
「石橋を狙ったなら、ネイグは領内にも協力者を持っている」
ルド隊長が振り返る。
「何?」
サヴィルは続けた。
「橋の構造を知っていなければ、あの場所には仕掛けにくい。通行順や護送経路も、ある程度読んでいた」
ルド隊長の顔が険しくなる。
「ベルク領内に商会の目があると?」
「商会の目はどこにでもある」
サヴィルの声は疲れていたが、はっきりしていた。
「商人、荷運び、修繕人、書記補佐、酒場の給仕。正式な協力者でなくても、金で情報を売る者はいる」
マーガレットが眉を寄せる。
「嫌な話」
「現実だ」
「それ、あなたたちが作った現実でしょ」
サヴィルは少し黙った。
「……そうだ」
マーガレットは、また言葉に詰まった。
サヴィルは反論しない。
それが、逆に調子を狂わせる。
ヘルマンが静かに言った。
「領内協力者の可能性、記録します。ルド隊長、記録所到着後、橋管理記録と直近三日の通行記録を確認してください」
「了解しました」
ルド隊長は短く答えた。
「橋の点検に関わった者も洗います」
「洗うという言い方は記録上不適切です。確認、としてください」
ヘルマンが言う。
ルド隊長は少しだけ苦笑した。
「確認します」
「よろしい」
ヨルムが鼻を鳴らす。
「紙虫の領分になってきたな」
「あなたは浅瀬の領分です」
ヘルマンが返す。
「任せろ」
ヨルムの声が少し低くなった。
川音が大きくなってきた。
浅瀬は、思ったより幅があった。
川の流れが大きく曲がる場所で、石が多く露出している。
深さは膝下ほどだろう。
しかし、水の勢いは強い。
足を滑らせれば、下流へ流される。
証拠箱を濡らすわけにはいかない。
サヴィルが転倒しても困る。
全員で渡るには、慎重な手順が必要だった。
ヨルムが川岸に立ち、水の流れを見た。
しばらく黙っている。
誰も急かさなかった。
彼の目は、水面ではなく、水の下を見ているようだった。
石の位置。
流れの速さ。
白い泡の出方。
深く抉れている場所。
滑る苔。
それらを読んでいる。
「渡れる」
ヨルムは言った。
「ただし、一列ではない。証拠箱を持つ小僧は中央。左右に兵。前にわし、後ろに記録小僧。娘は下流側に立て」
「私?」
マーガレットが顔を上げる。
「流された奴を止める」
「分かりました!」
「声がでかい」
「すみません」
レクスターが補足する。
「水に落ちた場合、証拠箱を最優先で高く保持。人命も当然優先ですが、証拠箱の保持者は左右の兵が支えます」
ミルが緊張で唾を飲み込む。
「落ちないようにします」
ヘルマンが静かに言う。
「落ちない前提ではなく、落ちても守る手順を考えなさい」
「はい」
アレックスはサヴィルを見る。
「お前は俺とルド隊長の間だ」
「信用されていないな」
「信用する理由がない」
「それもそうだ」
サヴィルは浅瀬を見て、苦い顔をした。
「山の次は川か」
ヨルムが答える。
「川もお前を好いとらん」
「もう驚かない」
浅瀬渡りが始まった。
まずヨルムが入る。
水が彼の膝下を叩く。
彼は石を踏み、流れに対して斜めに立った。
次にベルク兵。
ミル。
証拠箱を胸に抱え、顔を強張らせている。
左右の兵が腕を支える。
ヘルマンは岸から状態を見て、ミルが最初の石を踏むのを確認してから入った。
レクスターはミルの少し後ろ。
水の本を高く持ち、流れを見ている。
アレックスはサヴィルの縄を短くした。
「足元を見ろ。水面じゃない。石を見る」
「分かっている」
「次の三歩」
「ヨルムの教えか」
「カイにも言われた」
「カイ」
サヴィルはその名を繰り返した。
ハルダ村の少年。
自分を許さないと言い、でも生きて話せと言った少年。
サヴィルは小さく言った。
「彼の名も、記録に残るのか」
アレックスは答えた。
「残す」
「そうか」
それ以上、サヴィルは何も言わなかった。
浅瀬の水は冷たかった。
靴の中へ入り込み、足首を刺す。
流れが脚を押す。
一歩ごとに、身体が持っていかれそうになる。
マーガレットは下流側で踏ん張った。
ハルバードを杖のように川底へ立てる。
力を入れすぎれば石を崩す。
弱すぎれば支えにならない。
彼女は息を整えた。
「石に聞く……水に聞く……」
ヨルムが前から言う。
「水は返事せん。押してくるだけだ」
「じゃあ押され方を聞く!」
「少しは分かってきたな」
「褒めました!?」
「前を見ろ!」
「はい!」
水の中でのやり取りに、緊張していた兵の一人が少しだけ笑った。
その笑いで、場の硬さが少し緩む。
だが、中央のミルは笑う余裕がなかった。
証拠箱を抱え、左右に支えられながら、一歩ずつ進む。
「次、右の平たい石」
ヨルムが指示する。
「そこは苔がある。踏むな。半歩左」
レクスターが後ろから言う。
「箱を少し上げてください。水跳ねが近い」
「はい」
ミルは箱を上げた。
その瞬間、足元が揺れる。
体勢が崩れる。
「っ!」
左右の兵が支える。
マーガレットが下流側から手を伸ばす。
アレックスも反射的に動きかけた。
だが、サヴィルの縄がある。
動けばサヴィルを引き倒す。
ミルは何とか踏みとどまった。
証拠箱は濡れていない。
ヘルマンが岸から鋭く言う。
「停止。箱確認」
全員が動きを止める。
川の中で止まる方が危険だが、箱確認は必要だった。
レクスターが近づき、水滴の有無を見る。
「外側水滴なし。泥跳ねなし。保持継続可能」
ヘルマンが頷く。
「再開」
ミルは震えた声で言った。
「すみません」
マーガレットが下流側から言う。
「大丈夫。止まれた」
「え?」
「落ちなかった。箱も守った」
ミルは一瞬、泣きそうな顔になった。
「はい」
「進もう」
「はい」
その言葉を聞いて、レクスターが少しだけマーガレットを見た。
彼女の声は、ハルダ村でカイを励ました時に似ていた。
怖いことを否定しない。
でも、できたことをちゃんと見る。
マーガレット自身も、そうやって変わってきたのだ。
浅瀬の半ばまで来た時だった。
上流側から、小さな木片が流れてきた。
ただの枝ではない。
油布が巻き付けられている。
レクスターが目を鋭くする。
「上流から油布!」
ルド隊長が叫ぶ。
「火種は!」
アレックスが雷糸を伸ばす。
木片の上に、小さな火種が残っている。
水に濡れて消えかけているが、油布に触れれば煙が出る。
狙いは火ではない。
混乱。
油の匂いで隊列を乱し、証拠箱を落とさせるつもりだ。
「マーガレット!」
アレックスが叫ぶ。
「下流で止める!」
「うん!」
マーガレットはハルバードを斜めに構え、流れてくる木片を受けようとした。
だが、強く受ければ火種が弾けるかもしれない。
弱ければすり抜ける。
水の押し方を聞く。
ヨルムの言葉を思い出す。
木ではない。
石ではない。
今度は流れ。
マーガレットはハルバードの刃ではなく、柄の広い部分を水面に斜めに入れた。
木片が当たる。
衝撃。
彼女は力を流すように受け、木片を岸側へ寄せた。
レクスターが水糸で火種を包み、酸素を断つ。
アレックスが雷糸で金具を弾く。
ベルク兵が土袋を岸から投げ、油布を覆う。
煙は出た。
だが、広がらない。
木片は岸に寄せられ、土で覆われた。
「解除!」
レクスターが叫ぶ。
川の中で、全員が息を吐いた。
ヘルマンがすぐ記録する。
「浅瀬渡河中、上流より油布付き木片。火種あり。混乱誘発目的と推定。マーガレット殿が下流側で受け、レクスター殿が火種処理。証拠箱異常なし」
マーガレットは川の中で肩で息をしている。
「証拠箱、大丈夫?」
ミルが箱を見る。
「大丈夫です!」
マーガレットは笑った。
「よかった」
サヴィルは、その光景を見ていた。
「ネイグは……本当にしつこいな」
アレックスが言う。
「お前の元同僚だろ」
「同僚というほど近くはない」
「同じ商会だ」
「……ああ」
サヴィルは目を伏せた。
「同じ商会だ」
その声には、苦さがあった。
浅瀬を渡りきった時、全員の脚は冷え切っていた。
だが、証拠箱は濡れていない。
サヴィルも転ばなかった。
油布も処理した。
川を越えた。
ベルク領の町は、さらに近くなった。
岸で靴の水を少し払い、短い休憩が取られた。
ヘルマンは証拠箱を確認し、ミルの記録を見た。
「字が震えています」
ミルの顔が青くなる。
「申し訳ありません」
「しかし、読めます。状況を考えれば十分です」
ミルは驚いたように顔を上げた。
「ありがとうございます」
マーガレットが小声で言う。
「褒めた」
レクスターも小さく頷く。
「褒めましたね」
ヘルマンは聞こえないふりをした。
だが、耳が少し赤かった。
休憩中、サヴィルが静かに口を開いた。
「ネイグは、証拠箱を燃やすことに失敗した。次は、おそらく町の中で別の手を使う」
ルド隊長が険しい顔をする。
「町の中?」
「商会は武器より書類を使うこともある。偽の差し押さえ命令、王都印の緊急通達、証拠の提出命令。領都に入れば、剣ではなく紙で奪いに来る可能性がある」
ヘルマンの目が鋭くなった。
「王都印の偽通達、ですか」
「本物の印を使った不正通達もある」
サヴィルは言った。
「文面は正しい。印も正しい。だが、目的が不正だ」
レクスターが静かに言う。
「ハルダ村の承認書と同じ構造です」
「そうだ」
ヘルマンは記録紙に書き込んだ。
「町内到着後、王都印付き書類の即時執行を停止。記録所長または領主代理の確認なしに証拠箱を引き渡さない」
ルド隊長が頷く。
「北門にも伝える」
アレックスはサヴィルを見た。
「なぜそこまで話す」
サヴィルは疲れた顔で答えた。
「ここまで来て、紙で奪われたら私が困る」
「また自分のためか」
「そうだ」
マーガレットが言う。
「でも、役に立ってる」
サヴィルは少しだけ目を伏せた。
「それなら、まだ話す価値はある」
休憩を終え、隊は町へ向かった。
川沿いから上がる道は、石で整えられていた。
やがて畑が見え始める。
麦の若い穂。
低い石垣。
小さな水路。
働く人々の姿。
ベルク領の農村は、ハルダ村とは違い、まだ穏やかに見えた。
しかし、アレックスはもう、その穏やかさの裏に危険が潜むことを知っている。
水路を見ると、黒くならないかと思ってしまう。
木札のない畑を見ると、守りの線を引きたくなる。
それは、ハルダ村を見た者の目だった。
マーガレットも同じように畑を見ていた。
「ここ、普通だね」
「ああ」
「普通って、守らないとすぐ壊されるんだね」
「そうだな」
レクスターが静かに言った。
「普通は、記録されにくい。壊れて初めて記録されることが多い」
ヘルマンが振り返る。
「だからこそ、日常記録が必要です」
レクスターが頷く。
「同意します」
マーガレットは二人を見比べた。
「やっぱり二人いる」
今度はヘルマンも聞こえたらしく、少しだけ眉を寄せた。
だが、否定はしなかった。
北門が見えてきた。
石造りの門。
ベルク領の旗。
門番たち。
その向こうに、灰色屋根の町並みが広がっている。
そして、町の中心部へ続く道の先に、他の建物より低く、横に広い石造りの建物が見えた。
窓は少なく、壁は厚い。
屋根は黒い石板。
正面に白い記章。
ヘルマンが言った。
「あれが領都記録所です」
アレックスは立ち止まりそうになった。
ハルダ村の声が、ついにあそこへ届く。
完全な到着ではまだない。
北門での確認。
町内の護送。
記録所での封印解除。
まだ手順は残っている。
だが、建物は見えている。
カイの地図から始まった線が、ここまで伸びた。
マーガレットの目が潤んでいる。
「見えたね」
「ああ」
レクスターも静かに言う。
「到着まで、あと少しです」
その時、北門の前で一人の役人風の男がこちらへ歩いてきた。
手には巻かれた書状。
胸には王都外郭管理局に似た印章。
ルド隊長の顔が険しくなる。
ヘルマンの目が細くなる。
サヴィルが低く呟いた。
「来たな」
役人風の男は、丁寧な礼をした。
「ベルク領の皆様。王都外郭管理局より緊急通達です。グレイ商会関連物資の不正持ち出しが確認されました。該当証拠箱を、王都審査のため即時提出願います」
門前の空気が凍った。
剣ではない。
火でもない。
今度は紙。
サヴィルの言った通りだった。
アレックスは、旅袋ではなく、証拠箱を見た。
ハルダ村の声を、紙で奪おうとしている。
ヘルマン副記録官は、ゆっくり前へ出た。
その顔は、今までで一番冷たかった。
「王都印付き通達ですね」
「はい」
「では、ベルク領記録所規定に基づき、真偽確認が済むまで即時執行を停止します」
役人風の男の笑みが固まった。
「これは王都外郭管理局の緊急命令です」
ヘルマンは眼鏡の奥から男を見た。
「緊急命令であっても、領内証拠保全手続きは破れません。特に、署名偽造と証拠改竄疑いのある件においては」
レクスターが静かに隣へ立った。
「封印状態の外部引き渡しは、改竄リスクが高すぎます」
ルド隊長が兵へ指示する。
「門を閉じるな。だが、この男を囲め。書状は触る前に記録する」
マーガレットが小さく息を吐いた。
「紙の戦い……」
アレックスは頷いた。
「ああ」
役人風の男の目が一瞬だけ鋭くなる。
だが、もう遅い。
ベルク領の門前には、記録役が二人いる。
ルド隊長がいる。
証拠箱は守られている。
そして、サヴィルが証言したばかりだ。
王都印付き書類でも、もう無条件には通らない。
ヘルマンは淡々と言った。
「では、まずあなたの所属、氏名、通達番号、発行時刻、発行者名を述べなさい。すべて記録します」
役人風の男は、初めて明確に怯んだ。
アレックスはその表情を見て、胸の奥で静かに思った。
カイ。
ここまで来た。
君の声は、今度は紙の罠と戦っている。
でも、もう一人じゃない。
浅瀬を越えた声は、ベルク領の門前で、記録という盾を得ようとしていた。
その沈黙が、門前に落ちた。
北門の前を行き交っていた農民や荷運びたちが、少しずつ足を止め始める。
ベルク領の兵が護送隊を囲む。
証拠箱を抱えたミルは、顔を強張らせながらも、箱を高く保っている。
マーガレットはハルバードに手を添えた。
抜くわけではない。
構えるわけでもない。
ただ、何かあればすぐに動ける位置。
アレックスは役人風の男の手元を見ていた。
書状。
封蝋。
印章。
王都外郭管理局に似ている。
だが、似ているだけかもしれない。
本物かもしれない。
本物を使った不正かもしれない。
ハルダ村で学んだ。
印があるから正しいのではない。
書類があるから真実なのではない。
誰の名前で、誰の声を消そうとしているのか。
そこを見なければならない。
ヘルマンはもう一度言った。
「所属、氏名、通達番号、発行時刻、発行者名を」
男は笑みを戻そうとした。
「副記録官殿。手続きは理解しますが、緊急性が――」
「緊急性も記録します。まず名乗りなさい」
その声は、刃物より冷たかった。
ルド隊長が横から続ける。
「領境見張り塔第七塔からの護送対象に対し、北門前で王都通達を提示した人物として記録する。名乗らぬ場合、不審接触として拘束する」
男の喉が動いた。
「……王都外郭管理局、臨時連絡吏、ダレム・ノーツ」
ヘルマンがミルへ視線を向ける。
ミルは震える手で書き始めた。
レクスターも同時に記録する。
ダレム・ノーツ。
臨時連絡吏。
通達番号。
発行時刻。
発行者名。
そのすべてを男は口にした。
だが、発行者名が出た瞬間、サヴィルが顔を上げた。
「待て」
全員の視線が彼へ向く。
サヴィルは役人風の男を見ていた。
「今、発行者をベリオ・ザンと言ったか」
男の表情が動く。
ほんの一瞬。
だが、アレックスもレクスターも見逃さなかった。
ヘルマンが静かに問う。
「サヴィル証人。発言を」
サヴィルは低く言った。
「ベリオ・ザンの通達印は、現在ハルダ村関連書類の不正承認に関与している疑いがある。少なくとも私の証言では、彼はグレイ商会との窓口だ」
門前の空気がさらに重くなる。
ヘルマンは男へ向き直る。
「その発行者名は、現在本件の関与疑い対象です。よって、この通達は証拠物として扱います」
男の声が少し荒くなった。
「何を勝手に――」
「勝手ではありません。ベルク領記録所規定第三十七条、関与疑い対象からの証拠引き渡し要求は、真偽確認まで執行停止。提示書類は写しを取り、封印保管」
レクスターが静かに言った。
「極めて妥当です」
ヘルマンは一瞬だけレクスターを見た。
「ありがとうございます」
マーガレットが小声で呟いた。
「紙で勝ってる……」
アレックスも同じ気持ちだった。
剣ではない。
雷でもない。
ハルバードでもない。
記録と規定が、王都印の紙を止めている。
ダレム・ノーツと名乗った男は、周囲を見回した。
門番。
ルド隊長。
ヘルマン。
レクスター。
アレックス。
マーガレット。
サヴィル。
そして、集まり始めたベルク領の人々。
ここで無理に奪えば、目撃者が多すぎる。
記録されすぎている。
男は、ようやく自分が不利だと理解したらしい。
しかし、引くには遅かった。
ルド隊長が命じる。
「ダレム・ノーツ殿を保護拘束。書状は封のまま記録所へ運ぶ。乱暴はするな」
「保護拘束だと?」
男が声を荒らげる。
ヘルマンは淡々と言った。
「あなたの身の安全と、書状の真正確認のためです。拒否すれば妨害記録になります」
男は歯を食いしばった。
ベルク兵が彼の両側につく。
書状はヘルマンの指示で、直接触れずに布の上へ置かれ、外形を記録される。
封蝋。
印章。
紙質。
紐の色。
全てが記録されていく。
その様子を見ながら、マーガレットが静かに言った。
「ハルダでこれができてたら……」
アレックスは答えられなかった。
ハルダ村では、王都の印が疑う力を奪った。
巡察も、村長も、村人たちも、書類に押し切られた。
でも今は違う。
疑うだけではない。
正しい手続きで止める。
その力がある。
レクスターが静かに言った。
「だから、ここへ来る必要がありました」
マーガレットは頷いた。
「うん」
北門が開かれた。
今度は、門番たちも護送隊をただの旅人としては見ていない。
証拠箱。
拘束証人。
王都通達を持つ不審連絡吏。
それらが一緒に町へ入る。
周囲の人々がざわめく。
何が起きているのか分からない者も多い。
だが、ただならぬことだというのは伝わっていた。
ヘルマンは振り返り、声を上げた。
「記録所へ向かいます。道を開けなさい。これは証拠保全護送です」
その言葉に、人々が道を開けた。
証拠保全護送。
その響きが、町の石畳へ落ちる。
アレックスは、証拠箱を見つめた。
白紐の包みは、その中にある。
カイの一文も。
ハルダ村の声も。
今、町の人々の目の前を通っている。
もう森の中ではない。
煙の中でもない。
火油の罠の上でもない。
人々の目がある場所へ出た。
それは危険でもあり、守りでもあった。
サヴィルは、拘束されたまま歩いている。
町の人々の視線を浴びている。
彼は顔を伏せた。
マーガレットが横から言う。
「顔、上げなよ」
サヴィルは少しだけ驚く。
「なぜ」
「ハルダ村は、あなたを隠してない。証人として連れてきた。逃げないなら、顔上げて歩いて」
サヴィルはしばらく黙った。
それから、ゆっくり顔を上げた。
町の人々の視線が刺さる。
誰かが囁く。
商会。
拘束者。
証拠。
王都。
それらの言葉が、空気に混じる。
サヴィルは青ざめながらも、歩いた。
記録所は、近づくほどに大きく見えた。
横に広く、石壁が厚い。
窓は小さい。
正面には二重扉。
扉の上には、ベルク領の白縁の葉紋と、開いた本の紋章が刻まれている。
その前で、ヘルマンが立ち止まった。
「到着」
ミルが記録する。
「証拠箱異常なし。拘束証人サヴィル同行。王都外郭管理局通達提示者ダレム・ノーツ保護拘束同行」
レクスターも同じ内容を書き留める。
アレックスは、記録所の扉を見上げた。
ついに来た。
ハルダ村の声が、公的記録へ入る扉の前まで。
ヘルマンが扉の番へ告げる。
「緊急証拠保全。保管庫管理者と領主代理を呼びなさい。封印解除手続きに入ります」
扉が重く開く。
中から冷たい紙と石の匂いが流れてきた。
アレックスは一歩、前へ出た。
その瞬間、胸の奥で鐘の音が鳴った気がした。
ハルダ村の鐘。
まだ鳴る、とカイが書いた鐘。
その音が、遠い山を越えて、ここまで届いたようだった。
アレックスは小さく呟いた。
「カイ。着いたぞ」
誰にも聞こえないほどの声だった。
だが、マーガレットは気づいたのか、隣で涙ぐみながら頷いた。
レクスターも静かに目を伏せた。
封を守る護送は、ようやく記録所へ辿り着いた。
そして次に待つのは、封を開く時。
ハルダ村の声が、正式な紙の上に刻まれる瞬間だった。




