【第96話 封を守る護送】
見張り塔の石壁に、朝の光が差し込んでいた。
山の朝は早い。
けれど、塔の中の時間は、妙に遅く感じられた。
外ではベルク領の兵たちが、油布や火種の痕跡を探して塔の周囲を歩いている。
石の階段を上がる足音。
外壁を確認する声。
遠くで鳴る鳥の声。
それらが、ときどき厚い石壁越しに響いてくる。
アレックスは、詰所の机のそばに座っていた。
目の前には、ルド隊長が作成した簡易受領記録がある。
ハルダ村より来訪した証言あり。
その一文が、紙の上に確かに残っている。
まだ正式な受理ではない。
ベルク領記録所の記録役が来るまでは、封は開けない。
内容も確認されない。
だが、存在は記録された。
グレイ商会に追われながら山を越えた証言が、ようやく別の領の目に触れた。
その事実だけで、アレックスの胸の奥には静かな熱があった。
しかし、安心はできない。
塔の外には、まだ森がある。
追手は撤退したが、完全に消えたわけではない。
ネイグが近くにいる可能性もある。
東宿場にはルベンがいる。
グレイ商会の連絡網は広い。
そして、王都外郭管理局農地再編課の名が書類にある以上、ベルク領の中にも圧力が届く可能性はある。
声は山を越えた。
けれど、まだ奪われる可能性は残っている。
レクスターは、机の端で封印状態を確認していた。
白紐の束は、まだ旅袋の奥にある。
ルド隊長の前で外形だけを確認し、封は開けていない。
代わりに、レクスターは別紙へ細かく記録をつけていた。
封印状態。
紐の色。
包み布の種類。
油紙の重なり。
湿気の有無。
外傷の有無。
これから記録所へ移す時に、途中で何かされたか分かるようにするためだ。
マーガレットは、それを横から見ていた。
「そこまで書くんだ」
「必要です」
レクスターは筆を止めずに答えた。
「証拠は内容だけでなく、状態も重要です」
「状態?」
「封が解かれていないこと。濡れていないこと。紐がすり替わっていないこと。包みが傷ついていないこと。それらが、証拠の信用を支えます」
マーガレットは眉を寄せながら頷いた。
「じゃあ、白紐が白紐のままって大事なんだね」
「はい」
「偽物の白紐もあるけど」
「それは別記録です」
「別記録!」
レクスターは、マーガレットが背負っていた煤けた偽包みへ目を向けた。
今は机の下に置かれている。
炭焼き場の煙の中で、追手の目を引きつけた包みだ。
中身はただの紙束と布。
だが、役割は大きかった。
「偽装包みは、追手の証拠奪取意図を示す状況証拠にもなります」
「これも証拠?」
「間接的には」
「すごい。偽物なのに」
「偽物として使われた本物の記録です」
マーガレットは少し考えた。
「難しいけど、なんか分かる」
アレックスは二人の会話を聞きながら、壁際へ視線を移した。
サヴィルは、鉄環に繋がれて座っている。
彼の前にも水椀が置かれている。
飲む許可は出ているが、縄は外されていない。
塔の兵が二人、近くに立っている。
サヴィルは疲れ切っていた。
顔色は悪く、山道で泥に汚れた外套は乾き始めているが、見た目はひどい。
それでも、先ほど彼は自分の名を認めた。
グレイ商会調整役サヴィル。
ハルダ村の土壌改変剤試験、旧水路利用、黒い樽の設置、王都外郭管理局農地再編課との連絡に関与。
自分からそう言った。
理由は自己保身だ。
記録されれば、商会に処理されにくくなる。
彼はそれを隠さなかった。
だが、理由が何であれ、言葉は記録された。
ハルダ村の証言が、また一つ強くなった。
ルド隊長は、塔の入口近くで部下から報告を受けていた。
「外壁南側、火油なし。西側の草地に不審な布片あり。油の匂いはなし」
「保管袋へ。素手で触るな」
「はい」
「森側の追手は?」
「姿は見えません。ただ、下斜面に踏み跡があります。撤退したものと思われます」
「思われます、では足りない。見張りを倍にしろ。森の奥へは入るな」
「はい」
ルド隊長の指示は短く、明確だった。
若いが、軽くはない。
アレックスはその姿を見て、ベルク領の堅さを少し感じた。
ハルダ村の村長オルグが言っていた。
ベルク領主ハイマン子爵は堅物だと。
その領の見張り塔隊長も、確かに堅かった。
融通が利くというより、規則と現場の両方を見て動く。
それは今、頼もしかった。
ルド隊長は報告を終えると、アレックスたちの元へ戻ってきた。
「記録所へ伝令を出した」
「どれくらいで来ますか」
アレックスが問う。
「早ければ昼過ぎ。遅くとも夕方前には、記録所の副記録官が来る」
「副記録官」
レクスターが反応する。
「名は?」
「ヘルマン・リード。領都記録所の古参だ。口うるさいが、記録を曲げる男ではない」
ヨルムが壁際で鼻を鳴らした。
「ヘルマンか。あの紙虫、まだ生きとったか」
ルド隊長が眉を寄せる。
「ヨルム爺、知り合いですか」
「爺と呼ぶな。昔、炭の納入記録で揉めた。あいつは炭の重さを一籠ずつ量り直した」
「正確ですね」
レクスターが言う。
ヨルムは嫌そうな顔をした。
「お前と同じ匂いがする」
マーガレットがぱっと顔を上げる。
「じゃあ、いい人?」
「面倒な男だ」
「レクスターも面倒だけどいい人だよ」
「私は面倒ですか」
レクスターが静かに聞く。
マーガレットは一瞬固まった。
「いい意味で!」
「面倒に良い意味があるのですか」
「ある!」
アレックスは思わず笑った。
ルド隊長も少しだけ口元を緩めた。
だが、すぐ真面目な表情に戻る。
「副記録官が来るまで、証拠はこの部屋で保管する。扉の前に兵を置く。中に入る者は記録する」
レクスターが頷く。
「賛成です」
「拘束者サヴィルについては、記録所職員到着前に簡易聴取を行う。正式調書ではないが、証言保全のためだ」
サヴィルが顔を上げる。
「今からか」
「不満か」
ルド隊長が問う。
「疲れている」
「村を壊した証言者が、疲労を理由に黙る権利はあるのか」
ルド隊長の声は冷たかった。
サヴィルは少し目を伏せた。
「……ないな」
マーガレットが彼を見た。
アレックスも見た。
サヴィルの返事は、妙に素直だった。
彼の中で何かが折れたのか。
それとも、記録される場所へ来たことで計算を変えただけか。
まだ分からない。
ルド隊長は机の向きを変えさせた。
サヴィルを壁際に拘束したまま、隊長、レクスター、アレックス、兵一名が記録役として座る。
マーガレットは少し後ろに立つ。
ヨルムは「面倒な話は嫌いだ」と言いながらも、壁にもたれて聞く気配を消さなかった。
簡易聴取が始まった。
ルド隊長が問う。
「名を述べよ」
サヴィルは息を吐いた。
「サヴィル。グレイ商会調整役」
「ハルダ村での役割は」
「土壌改変剤試験の現地調整。村長同意書類の処理。水路利用計画の実施監督。黒い樽の設置管理」
マーガレットの拳が握られる。
黒い樽。
あの樽のせいで、村は黒い水に苦しんだ。
レクスターは淡々と筆を走らせる。
ルド隊長はさらに問う。
「王都外郭管理局との関係は」
「農地再編課の副監査官ベリオ・ザンが窓口。直接の命令系統ではないが、承認書類と実施許可は彼の署名印で処理された」
「署名印?」
「本人署名ではなく、部署印と副監査官印。実務では十分とされた」
レクスターが補足を求める。
「村長オルグの署名偽造について、誰が行った」
「グレイ商会文書課、マルセ・リド。私は偽造を知っていた」
部屋の空気が冷えた。
サヴィルは、自分の関与を認めた。
マーガレットが低く言う。
「知っててやったんだ」
サヴィルは彼女を見ない。
「ああ」
「止めなかった」
「ああ」
「村長さんの名前を勝手に使った」
「ああ」
マーガレットの声が震える。
「ハルダ村の人たちは、数字じゃなかった」
「……ああ」
その返事は小さかった。
ルド隊長はそのやり取りを止めなかった。
記録役の兵も、手を止めずに書いている。
レクスターが静かに言う。
「続けてください」
サヴィルは喉を鳴らした。
「ハルダ村は、辺境農地再編試験区域の一つだった。目的は、旧水路を使った土壌改変剤の拡散確認。植物根系への命令転写、収穫予測、土地評価額の変動、村民避難時の反応記録」
アレックスの目が細くなる。
「村民避難時の反応記録?」
サヴィルは目を閉じた。
「……村が崩れた時、どの程度で住民が退去するか。残留者がいる場合、誰が残るか。石蔵や種の保管場所に集まるか。そういった記録も求められていた」
マーガレットが一歩前へ出た。
「最低……」
声が震えていた。
「村が壊れるのも、見てたってこと?」
「……そうだ」
「助ける気は?」
「なかった」
「なかったって……」
マーガレットの目に涙が浮かんだ。
怒りで、悲しみで、言葉が詰まる。
アレックスは拳を握った。
カイが、父と母を呼んだ時。
ミレ婆が種を守っていた時。
村人たちが石蔵へ集まった時。
それらさえ、商会にとっては記録対象だった。
人の決死の行動を、数字と反応として見ていた。
ルド隊長の表情も硬い。
「それは、王都外郭管理局も知っていたのか」
サヴィルは少し黙った。
「全てを明文化はしていない。だが、避難反応記録の欄は農地再編課から来た書式にあった」
レクスターの筆が止まった。
「書式がある」
「ある」
「それは証拠書類に含まれていますか」
「南道馬車の箱に控えがあるはずだ」
レクスターはアレックスを見る。
アレックスは頷いた。
「白紐の中に入っている可能性が高い」
ルド隊長が低く言った。
「これは、記録所で正式確認が必要だ」
「はい」
レクスターの声も硬かった。
サヴィルは続けた。
「リゼットとの書簡は、技術相談だ。旧施療院式水路拡散理論、名称反応、植物根系への命令転写について。彼女は人への支配反応を、私は土壌と水路への拡散を扱っていた」
アレックスの胸に、グレイルの記憶がよみがえる。
ルミア。
リク。
旧施療院。
水槽。
名前を呼ぶことで揺らいだ命令。
それが、ハルダ村の根にも繋がっていた。
ルド隊長は眉を寄せた。
「リゼットとは何者だ」
アレックスが答える。
「グレイルで人を使った実験に関与していた人物です。現在逃亡中」
兵たちがざわめく。
ベルク領にとっては、初めて聞く名かもしれない。
だが、その名はこれから重要になる。
レクスターが静かに補足する。
「リゼット関連の証拠は、グレイル側に帳簿写しと証言があります。ハルダ村の書簡と合わせることで、商会と旧施療院系技術の接続が確認できます」
ルド隊長は深く息を吐いた。
「話が大きすぎる」
「はい」
アレックスは答えた。
「だから、記録が必要です」
ルド隊長はアレックスを見た。
その目には、疑いも警戒も残っている。
だが、最初より明らかに違っていた。
話を聞く目になっている。
「続ける」
彼は言った。
「グレイ商会の回収班について」
サヴィルは頷いた。
「ネイグが指揮している。火油を扱う。証拠回収、改竄、不要証人の処理を担当する。ギースは処理人。ハルダ村で私を消すために来た」
「ギースは今どこに」
「ハルダ村で拘束中」
アレックスが答えた。
「巡察ダンと村人たちに引き渡しまで管理を頼んでいます」
ルド隊長が記録役へ言う。
「ギース拘束情報も追記。巡察ダンへの連絡が必要だ」
「はい」
聴取が進むにつれ、塔の中の空気は重くなっていった。
サヴィルが話す内容は、どれも軽くない。
村長署名偽造。
避難反応記録。
旧水路拡散理論。
リゼットとの接続。
ネイグの火油。
商会の処理人。
王都外郭管理局農地再編課。
それらが少しずつ一本の線になっていく。
ハルダ村は、孤立した事故ではない。
グレイルも、孤立した事件ではない。
商会と王都の一部が、名前を消し、記録を書き換え、人や土地を数字として扱う仕組みを作っている。
その輪郭が、ベルク領の見張り塔で初めて公的な記録に近づいていた。
聴取の途中で、サヴィルの声が掠れた。
ルド隊長が水を飲ませるよう命じる。
兵が椀を近づける。
サヴィルは少し飲み、目を閉じた。
「続けられるか」
ルド隊長が問う。
「続ける」
サヴィルは答えた。
「今止めれば、私が損をする」
マーガレットが呆れた顔をする。
「最後までそれなんだ」
「正直でいることにした」
「そこだけ?」
「今はそこだけでも」
サヴィルは疲れた声で言った。
マーガレットは何か言い返そうとして、やめた。
彼を許す言葉はない。
でも、話すなら聞く。
それが今できることだった。
聴取が一区切りついた頃、外から兵が駆け込んできた。
「隊長!」
ルド隊長が顔を上げる。
「何だ」
「森側に動きあり。追手ではありません。領都側から騎馬二、記録所旗あり!」
塔の空気が変わった。
レクスターが顔を上げる。
「副記録官」
ルド隊長は立ち上がった。
「早いな」
ヨルムが鼻を鳴らす。
「ヘルマンの紙虫め、匂いを嗅ぎつけたか」
マーガレットが小さく言う。
「紙虫って、すごい呼び方」
「おそらく褒めていません」
レクスターが答える。
アレックスは旅袋へ手を置いた。
ついに来る。
ベルク領記録所の者が。
ハルダ村の声を正式に受け取る可能性のある者が。
塔の外へ出ると、山道の下から二頭の馬が上がってきていた。
先頭の馬には、痩せた中年の男が乗っている。
灰色の髪を後ろで結び、丸い眼鏡をかけている。
服は質素だが、袖口まできっちり整っている。
胸にはベルク領記録所の印。
後ろの若い職員は、革の筒と書類箱を抱えていた。
中年の男は馬から降りるなり、塔の石段を見て眉をひそめた。
「泥」
第一声がそれだった。
ルド隊長が敬礼する。
「ヘルマン副記録官」
「この石段の泥は、追跡者のものか、保護対象者のものか」
ルド隊長は一瞬黙った。
「両方かと」
「なら分けて保存すべきだった」
ヨルムが笑った。
「相変わらず紙と泥にうるさい男だな、ヘルマン」
ヘルマン副記録官は、眼鏡の奥でヨルムを見た。
「ヨルム。あなたはまだ生きていたのですか」
「お前もな」
「私は記録上、まだ死んでいません」
「面倒な返事だ」
マーガレットがぽかんとする。
「レクスターが増えた……」
レクスターが静かに言う。
「非常に正確な方のようです」
ヘルマンはその声に反応し、レクスターを見た。
「あなたが記録役ですか」
「レクスターです」
「封印状態記録は」
「こちらに」
レクスターが紙を差し出す。
ヘルマンは受け取ると、すぐに目を通した。
読み進めるうちに、眉が少し動いた。
「悪くない」
マーガレットが小声で言う。
「これ、褒めてる?」
レクスターは少しだけ目を伏せた。
「おそらく」
ヘルマンは続けた。
「包み布、油紙、白紐、外傷、湿気、未開封確認。追跡中の偽装包みの別記録もある。良い判断です」
レクスターは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
ヘルマンは次にアレックスを見た。
「証拠を持つ者」
「アレックスです」
「追放王子アレックスですか」
周囲の空気がまた少し張る。
ヘルマンは表情を変えない。
「身分ではなく、持参者として記録します。よろしいですね」
アレックスは頷いた。
「はい」
「よろしい」
ヘルマンは革の書類箱を机の上に置かせた。
「では、ベルク領記録所副記録官ヘルマン・リードの立会いのもと、ハルダ村関連証拠の外形受領を開始します。封を開けるのは領都記録所到着後。ここでは封印状態、持参経路、追跡状況、拘束証人の存在のみを確認します」
アレックスの胸が強く鳴った。
正式受領へ向けた手続きが始まる。
ハルダ村の声が、また一歩進む。
彼は旅袋から、白紐の包みをゆっくり取り出した。
手が少し重い。
紙の束なのに、やはり重い。
机の上へ置く。
ヘルマンは触れる前に言った。
「持参者、最後の確認を」
アレックスは白紐を見つめた。
カイの地図。
オルグの署名。
ミレ婆の証言。
ダンの巡察記録。
ハルダ村の声。
全部、この中にある。
アレックスは静かに言った。
「ハルダ村は残っています。この包みは、その証言です」
マーガレットが涙をこらえた。
レクスターは目を伏せた。
ヘルマンは、ほんの一瞬だけ沈黙した。
それから、紙に書いた。
“持参者発言。ハルダ村は残っている。この包みは、その証言である。”
その一文が記録された瞬間、アレックスは胸の奥で何かが震えるのを感じた。
カイ。
届いたぞ。
まだ途中だけれど。
君の言葉は、ここまで来た。
塔の外で、ベルク領の旗が風に鳴った。
その音は、ハルダ村の鐘とは違う。
けれど、アレックスには、どこか同じように聞こえた。
声を守るための音。
封を守る護送は、ここから本当の意味で始まろうとしていた。




