【第95話 見張り塔の記録役】
ベルク領の見張り塔は、思っていたよりも古かった。
山肌から突き出すように建てられた石造りの塔は、遠くから見た時にはただの細い影に見えた。
けれど近づくと、積まれた石の一つ一つが大きく、風と雨に削られた跡がはっきり残っている。
苔が目地に入り込み、ところどころに修繕の跡がある。
新しい建物ではない。
何度も使われ、直され、守られてきた場所だった。
アレックスは、その石の匂いを吸い込んだ。
黒い畑の苦い臭いでも、火油の焦げた臭いでも、炭焼き場の煙でもない。
冷えた石。
山風。
古い木扉。
人が見張り続けてきた場所の匂い。
それだけで、ほんの少しだけ足元が戻ってくるような気がした。
だが、安心はできなかった。
塔の兵たちは、まだ槍を下ろしていない。
追手を退けてくれた。
矢を弾いてくれた。
だが、それはアレックスたちを完全に信用したからではない。
領境で武器を持った者同士が争っていたから止めた。
それだけだ。
兵隊長は、若い男だった。
二十代後半くらい。
短く整えた茶色の髪。
灰緑の外套。
胸にはベルク領の紋章らしい白縁の葉模様がある。
声は若いが、目は軽くない。
アレックスたち全員を見て、最後に拘束されたサヴィルへ視線を止めた。
「まず、武器を預かる」
兵隊長は言った。
「この塔の中で抜刀は認めない」
マーガレットの手が、ハルバードを握りしめる。
彼女にとって、武器を手放すことは簡単ではない。
まして、追手に追われ、サヴィルを連れ、白紐の写しを抱えている状況だ。
それでも、ここで抵抗すれば、ベルク領の保護は得られない。
アレックスは静かに頷いた。
「分かりました」
マーガレットが彼を見る。
「アレックス」
「預けよう」
「でも」
「ここで戦いに来たわけじゃない」
マーガレットは唇を噛んだ。
レクスターが横から言う。
「武器預かりは領境施設として妥当です。ただし、預かり記録を求めます」
兵隊長が眉を動かす。
「預かり記録?」
「はい。誰が、何を、いつ預かったか。返却条件も含めて記録してください」
塔の兵たちが少しざわめいた。
泥だらけの旅人が、いきなり記録手続きを求めたのだ。
しかし、兵隊長はレクスターを見て、少しだけ表情を改めた。
「お前が記録役か」
「はい」
「名は」
「レクスター」
「所属は」
「現在は旅の同行者です。元の所属を今ここで詳述する必要がありますか」
兵隊長は一瞬黙った。
レクスターの声は淡々としているが、妙に圧がある。
マーガレットが小声で言った。
「レクスター、塔でもレクスターだ」
「どういう意味ですか」
「頼もしい」
「ありがとうございます」
兵隊長は少し息を吐いた。
「分かった。預かり記録を作る。オリン、板を持ってこい」
若い兵が「はい」と返事をして塔の中へ駆けた。
ヨルムが横で鼻を鳴らす。
「ベルクの小僧どもも、少しは仕事を覚えたな」
兵隊長の眉がぴくりと動く。
「ヨルム爺、口を慎んでください」
「爺と呼ぶな」
「あなたが私を小僧と呼ぶなら、こちらもそう呼びます」
ヨルムは一瞬黙った。
マーガレットが目を丸くする。
「隊長さん、強い」
ヨルムがぎろりと見る。
「娘、笑うな」
「笑ってません」
「顔が笑ってる」
「すみません」
張り詰めた空気の中で、そのやり取りが少しだけ場を緩めた。
けれど、サヴィルに向けられる視線だけは冷たいままだった。
兵隊長はサヴィルへ近づいた。
「その拘束者は何者だ」
アレックスが答える。
「グレイ商会調整役、サヴィル。ハルダ村汚染事件の証人です」
サヴィルは少しだけ顔を上げた。
「証人として扱われるらしい」
兵隊長が目を細める。
「本人確認はできるのか」
レクスターが言う。
「本人の発言、ハルダ村村長オルグの証言写し、巡察ダンの証言写し、南道馬車より回収した書類に記載された商会名と照合可能です。ただし、原本級証拠の開封は記録所職員立会いを求めます」
「また記録所か」
兵隊長は言った。
だが、面倒がっているというより、慎重になっている声だった。
「ベルク領記録所へ何を求める」
アレックスは、旅袋の紐を押さえた。
「証拠保全と写しの公的受領。王都外郭管理局農地再編課、グレイ商会、ハルダ村汚染事件に関する記録の保護。そして、サヴィルの証言聴取です」
兵隊長の顔がさらに険しくなる。
「王都外郭管理局?」
周囲の兵たちも顔を見合わせた。
やはり、その名は重い。
単なる商会との争いではない。
王都の部署の名が出た瞬間、空気が変わる。
アレックスは続けた。
「ハルダ村村長の署名偽造もあります」
「……署名偽造」
兵隊長が低く呟く。
レクスターが補足した。
「王都印付き書類上に、村長オルグの偽造署名が確認されています。本人署名の写しもあります」
「その証拠は」
「ここにあります。ただし繰り返しますが、無断開封は認めません」
兵隊長はレクスターをじっと見た。
レクスターも目を逸らさない。
山道で汚れ、疲れ切り、顔色も悪い。
それでも、証拠の話になると彼の声は揺らがなかった。
兵隊長はやがて頷いた。
「分かった。塔では封を開けない。記録所への伝令を出す」
マーガレットが小さく息を吐いた。
アレックスも、少しだけ肩の力を抜いた。
まだ完全に信じられたわけではない。
だが、話は通じた。
それだけで大きい。
武器預かりの記録板が運ばれてきた。
アレックスは雷の刃を外す。
一瞬、手が止まった。
旅の中で何度も握ってきた刃。
雷を宿す、自分の戦う力。
それを手放す不安はある。
だが、ここでは別の力が必要だった。
記録。
証言。
手続き。
剣だけでは届かない場所へ、声を通す力。
アレックスは刃を兵の前へ置いた。
「アレックス。雷の刃、一振り」
兵が記録する。
マーガレットはハルバードを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「マーガレット」
アレックスが静かに呼ぶ。
「うん」
彼女は名残惜しそうにハルバードを見る。
「あとで返してね」
兵隊長が頷く。
「塔を出る際、または記録所護送時に返却する。記録に残す」
「なら、預ける」
マーガレットはハルバードを置いた。
「マーガレット。ハルバード、一振り」
レクスターは水の本を抱えていた。
兵がそれを見て聞く。
「それも武器か」
レクスターは即答する。
「書物です」
兵が困った顔をする。
兵隊長が問う。
「術具ではないのか」
「術具として使用可能ですが、証拠保全と汚染確認に必要な記録具でもあります。預けることで現状確認が困難になります」
兵隊長は額に手を当てた。
「……扱いが難しいな」
ヨルムが鼻で笑う。
「この記録小僧から本を奪うなら、証拠が腐っても文句を言えんぞ」
「ヨルム爺」
「爺と呼ぶな」
兵隊長はしばらく考えた。
「本は預からない。ただし塔内で攻撃に使わないと誓え」
「誓います」
「記録する。レクスター、水の本、保持許可。ただし攻撃使用禁止」
レクスターは頷いた。
「妥当です」
マーガレットが小声で言う。
「本、守れたね」
「はい」
武器預かりが終わると、アレックスたちは塔の中へ入った。
石の内部は冷えていた。
階段は狭く、壁には古い火皿が取り付けられている。
火見塔として使われていた名残だろう。
上階へ続く階段の下には小さな詰所があり、木の机、簡易寝台、水桶、保存食の棚がある。
豪華ではない。
だが、整っている。
何より、乾いていた。
ハルダ村の石蔵とは違う乾き方だった。
薬の匂いがない。
黒い根がない。
火油の臭いがない。
そのことに、マーガレットが小さく息を吐いた。
「普通の場所だ……」
その声に、兵の一人が不思議そうな顔をした。
だが、アレックスには分かった。
黒い畑の中にいた後では、普通の詰所ですら救いに感じる。
レクスターも同じだったのか、壁の乾いた石を見て小さく頷いた。
「汚染反応なし」
兵隊長が聞く。
「汚染とは、ハルダ村の黒い土のことか」
「はい」
「ここにはない」
「確認しました」
「……そうか」
兵隊長は少しだけ表情を緩めた。
「座れ。だが、拘束者は壁際だ」
サヴィルは壁際へ連れて行かれた。
縄は外さず、塔の鉄環へ繋がれる。
サヴィルは抵抗しなかった。
むしろ、石壁にもたれかかった瞬間、力が抜けたように見えた。
「ようやく座れる」
彼は呟いた。
マーガレットが睨む。
「感謝する相手、間違えないで」
「山に?」
「ハルダの声に」
サヴィルは少し黙った。
「……そうだな」
マーガレットは目を丸くした。
サヴィルがまた素直に認めたからだ。
彼は疲れ切っている。
恐怖もある。
もしかすると、それだけかもしれない。
だが、ハルダ村を出た時の彼とは、少し違っていた。
兵隊長は水を用意させた。
ただし、全員に同じ器ではなく、一人ずつ別の木椀。
警戒している。
当然だった。
レクスターは水を確認し、頷いた。
「問題ありません」
兵の一人が少しむっとした。
「ベルクの水だぞ」
「安全確認です」
「信用していないのか」
「状況上、何も無条件では信用できません」
兵が言葉に詰まる。
兵隊長が手で制した。
「正しい。彼らは追われてきた。警戒して当然だ」
レクスターは軽く頭を下げた。
「ご理解に感謝します」
マーガレットは水を飲み、深く息を吐いた。
「おいしい……」
「普通の水だ」
兵が言う。
「普通って、すごいんです」
マーガレットは真剣に答えた。
兵は何も言えなくなった。
アレックスも水を飲んだ。
冷たく、澄んでいる。
喉を通るだけで、身体が少し戻る。
ハルダ村では、水一つ飲むにも疑わなければならなかった。
この水が普通に飲めること。
それは、当たり前ではない。
アレックスは木椀を置き、兵隊長へ向き直った。
「追手はまだ近くにいる可能性があります」
「森へ引いた。だが、完全に去ったとは限らない」
兵隊長は言った。
「すでに二名を尾行確認へ出した。ただし深追いはしない。ここは見張り塔であって討伐拠点ではない」
「それでいいと思います」
レクスターが言う。
「追手は証拠を狙っています。下手に追えば、別方向から塔を狙う可能性があります」
「塔を?」
「はい。火油を使う者がいます」
兵隊長の表情が変わった。
「火油」
ヨルムが言う。
「ハルダで火を使った。鐘台を焼きかけた」
「山でも油布を確認しています」
レクスターが補足する。
「炭焼き場跡で煙を利用されました」
兵隊長はすぐに兵へ指示した。
「外壁周りを確認。油布、火種、乾いた藁束がないか見ろ。水ではなく砂を用意しろ。火油なら水をかけるな」
レクスターが小さく頷いた。
「適切です」
兵隊長が少しだけ苦笑する。
「記録役に褒められたか」
「褒めています」
「それは光栄だ」
マーガレットが小声でアレックスに言う。
「隊長さん、レクスターと話せる人だね」
「そうだな」
「よかった」
本当に、よかった。
話が通じる。
警戒はされるが、手続きが通じる。
それだけで、これほどありがたいとは思わなかった。
ハルダ村では、王都の印が村人の判断を曇らせた。
グレイ商会の書類が巡察を止めた。
だからこそ、ベルク領の兵がすぐに書類を鵜呑みにせず、現場と手続きを確認しようとする姿勢は頼もしかった。
兵隊長は名乗った。
「私はベルク領境見張り塔隊長、ルド・カイネン。領都記録所へ伝令を出す。到着まではここで待機してもらう」
アレックスも名乗る。
「アレックスです」
ルド隊長は一瞬、アレックスの顔を見る。
「追放王子という話は本当か」
空気が少し固まる。
マーガレットが身構える。
レクスターも目を細める。
サヴィルは壁際で目を伏せている。
アレックスは、短く答えた。
「本当です」
ルド隊長はさらに問う。
「王家の身分を使って、ベルク領へ要求するつもりか」
「ありません」
「では、何として来た」
アレックスは少し黙った。
王子としてではない。
追放者としてでもない。
何としてここにいるのか。
答えは、ハルダ村を出る時にカイがくれた。
行ってきます。
ハルダの声を持っていく者。
「証言を運ぶ者として来ました」
ルド隊長は、アレックスをじっと見た。
長い沈黙。
その沈黙の間、塔の外で風が鳴った。
石壁の隙間から冷たい空気が入る。
やがて、ルド隊長は頷いた。
「分かった。では、証言を運ぶ者として扱う」
マーガレットが小さく息を吐く。
レクスターも、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
サヴィルが壁際で低く言った。
「王子の名を使わないのは、損だと思わないのか」
アレックスは彼を見る。
「使えば、証言が歪む」
「歪む?」
「追放王子が王都に逆らっている話になる。ハルダ村の声が小さくなる」
サヴィルは黙った。
ルド隊長も、その言葉を聞いていた。
アレックスは続けた。
「これは俺の名誉回復のためじゃない。ハルダ村が何をされたかを残すためだ」
マーガレットが頷く。
「グレイルのことも」
レクスターが続ける。
「王都外郭管理局とグレイ商会の構造的関与を記録するためです」
サヴィルは目を伏せた。
「名前を消す書類に、名前を戻すためか」
アレックスは頷いた。
「ああ」
ルド隊長は、しばらく黙っていた。
そして、机の上の記録板へ視線を落とす。
「なら、ここで最初の受領記録を作る」
レクスターの目が鋭くなる。
「封を開けずに、外形と持参者を記録する形でお願いします」
「そのつもりだ」
ルド隊長は兵に紙を持ってこさせた。
見張り塔の簡易記録紙。
厚くはないが、領印を押す欄がある。
「ベルク領境見張り塔。第七塔。隊長ルド・カイネン。ハルダ村より来訪した旅人アレックス一行を保護。グレイ商会関係者と思われる武装追跡者を領境にて確認。追跡者は名乗りを拒否し、武器使用あり」
レクスターが耳で確認している。
ルド隊長は続けた。
「持参物。封印済み証言写し一束。詳細未開封。汚染事件、署名偽造、王都外郭管理局農地再編課関与疑いに関するものと申告あり。拘束者サヴィル一名。グレイ商会調整役と申告あり。記録所職員立会いまで、塔内で保護および監視」
レクスターが頷いた。
「適切です」
「追加は」
「追手が証拠回収または改竄を目的としていた発言を確認しています。ただし直接証言は私たちのものです」
「書こう」
ルド隊長は追記した。
「山中にて証拠回収、書き換えに関する追手発言を同行者が聴取、と」
「ありがとうございます」
アレックスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
まだ簡易記録だ。
正式受領ではない。
記録所へ行かなければならない。
それでも、ベルク領の紙に、ハルダ村の声が触れた。
封を開けず、消されず、改竄されず、まず存在が記録された。
それは小さな一歩だった。
だが、とても大きかった。
マーガレットは目を潤ませていた。
「カイに言いたい……」
「まだ途中です」
レクスターが言う。
「でも、言いたい」
「それは同意します」
「レクスターも?」
「はい」
レクスターは静かに言った。
「彼の地図が、ここまで繋がりました」
その言葉に、アレックスも頷いた。
カイの地図。
ハルダ村の道。
北林道。
声が山を越える道。
その線は、本当にここまで来た。
外では、ベルク兵が火油の警戒を続けている。
追手は森へ消えた。
ネイグはまだどこかにいるかもしれない。
ルベンも東宿場にいる。
王都外郭管理局の影も消えていない。
けれど、今この塔の中で、ハルダ村の証言は初めて別の領の記録に触れた。
サヴィルは壁際でそれを見ていた。
彼はふいに口を開いた。
「ルド隊長」
隊長が振り向く。
「何だ」
「私は、グレイ商会調整役サヴィルで間違いない」
塔の中が静まった。
サヴィルは続けた。
「ハルダ村での土壌改変剤試験、旧水路利用、黒い樽の設置、王都外郭管理局農地再編課との連絡。私は関与している」
マーガレットが息を呑む。
レクスターがすぐ筆を取る。
ルド隊長も記録紙へ向き直った。
アレックスはサヴィルを見る。
「なぜ今」
サヴィルは疲れた顔で笑った。
「ここで記録されれば、商会は私を処理しにくくなる」
マーガレットが眉を寄せる。
「また自分のため」
「ああ」
サヴィルは隠さなかった。
「だが、君たちにも役立つだろう」
レクスターが静かに言った。
「役立ちます」
サヴィルは目を伏せる。
「なら、記録しろ。私はまだ死にたくない。そして、どうせ生きるなら、商会にだけ都合のいい沈黙はもうしない」
その言葉に、アレックスは小さく息を吐いた。
許しではない。
贖罪と呼ぶにも早すぎる。
それでも、証言は前へ進んだ。
ルド隊長が重い声で言った。
「この発言も記録する。正式聴取は記録所職員到着後だ」
サヴィルは頷いた。
「望むところだ」
マーガレットはサヴィルを見つめた。
怒りはまだある。
でも、その怒りの奥に別のものが混じる。
複雑で、言葉にならないもの。
彼女は小さく言った。
「ちゃんと話して」
サヴィルは彼女を見た。
「話す」
「嘘つかないで」
「可能な限り」
「そこは、はいって言うところ」
サヴィルは少しだけ苦笑した。
「……はい」
マーガレットは驚いた顔をした。
アレックスも、レクスターも、ほんの少しだけ目を見合わせた。
塔の外で、風が吹く。
ベルク領の旗が鳴る。
緑に白縁の旗。
ハルダ村の黒い畑とは違う色。
アレックスは、カイが書いた一文を思い出した。
ハルダ村は残っている。
その声は、今、見張り塔の記録紙に触れた。
完全ではない。
まだ記録所へ行かなければならない。
追手もいる。
王都の圧力もあるだろう。
だが、ひとまず、ハルダ村の声は山を越えた。
そして、消されずに、最初の記録へ届いた。
アレックスは旅袋に手を置いた。
そこにある重さは、まだ変わらない。
だが、ほんの少しだけ、支える手が増えたように感じた。
ベルク領の見張り塔で、灯りは新しい紙の上に落ちていた。
その紙には、まだ短い記録しかない。
けれど確かに、こう始まっていた。
ハルダ村より来訪した証言あり。
その一文から、次の道が開こうとしていた。




