【第94話 ベルク領の風】
尾根を越えた瞬間、風の匂いが変わった。
それは、誰かに説明されなければ分からないほどの小さな違いだった。
けれど、ハルダ村の黒い畑の臭いと、炭焼き場の煙をくぐり抜けてきたアレックスたちには、その違いがはっきりと感じられた。
空気が冷たい。
湿り方が違う。
土の匂いが深く、葉の匂いが濃い。
そして、どこか遠くに石の匂いがある。
ベルク領側の山影。
ヨルムはそう言った。
まだ領都は遠い。
記録所も見えない。
人里の声も聞こえない。
それでも、尾根を一つ越えただけで、世界が少し変わったように思えた。
アレックスは、背中の旅袋を確かめた。
白紐の写し。
グレイルの帳簿。
カイの地図。
全部、ある。
マーガレットは、偽の白紐包みをまだ背負っていた。
煙の中で囮になったその包みは、ところどころ煤で黒く汚れている。
だが、形は保っていた。
レクスターは最後尾で、水の本を抱えたまま息を整えている。
顔色は悪い。
けれど、目はまだ鋭い。
サヴィルは、尾根を越えたところで膝をつきかけた。
アレックスが縄を引いて支える。
「倒れるな」
「……倒れるつもりはない」
サヴィルは肩で息をしながら答えた。
「だが、山道というものは、人を選ぶらしい」
ヨルムが鼻を鳴らす。
「山はお前を選ばん」
「それは、さっきから何度も聞いた」
「なら覚えろ」
サヴィルは苦笑したかったのかもしれない。
だが、顔は引きつっていた。
靴は泥だらけで、外套の裾は枝で裂けている。
手首には拘束縄の跡。
額には汗。
商会の調整役として村へ来た時の整った姿は、もうほとんど残っていなかった。
マーガレットはそれを見て、複雑そうな顔をした。
同情ではない。
でも、何も感じないわけでもない。
サヴィルが苦しんでいる姿を見て、胸がすっとすると思っていた。
けれど、実際には違った。
彼がどれだけ苦しんでも、ハルダ村の畑は戻らない。
トーマとミラの痛みも消えない。
カイの手の傷も、鐘を鳴らした怖さも消えない。
だからこそ、ただ苦しめばいいとは思えなくなっていた。
「マーガレット」
レクスターが静かに声をかける。
「足元」
「……うん」
マーガレットは我に返った。
考え事で足を取られそうになっていた。
ヨルムが振り返る。
「山で考え込むなと言っただろう」
「はい……」
「考えるなら止まって考えろ。歩くなら歩け」
「分かりました」
今回は声を抑えた。
ヨルムは少しだけ満足そうに頷いた。
「少しは覚えたな」
「褒めてます?」
「少しだけだ」
「やった」
マーガレットは小さく喜んだ。
そのやり取りに、アレックスは少しだけ笑った。
だが、すぐに後方へ意識を向けた。
尾根の向こうから、追手の声はまだ届かない。
鳥笛も、今は聞こえない。
しかし、それは完全に撒いたという意味ではない。
炭焼き場の煙を抜け、偽の包みで混乱させ、尾根を越えた。
こちらが有利になったのは確かだ。
だが、追手は山道の案内人を雇っている。
ネイグは証拠を諦めない。
サヴィルも、まだ処理対象だ。
油断はできなかった。
「ここからは?」
アレックスがヨルムに聞く。
ヨルムは斧を肩に担ぎ直した。
「下る。だが、普通の道は使わん」
「非公式道ですか」
レクスターが言う。
「名前をつけるなと言った」
「記録上、必要です」
「勝手にしろ」
ヨルムは前方の斜面を指した。
道には見えない。
木々の間に、少しだけ草の倒れた筋がある。
獣道よりも細く、人が通るには頼りない。
しかし、ヨルムは迷わずそこへ足を向けた。
「これは炭焼きが煙を避ける時に使った道だ。雨の後は危ない。だが、追手はまず知らん」
「煙を避ける道……」
マーガレットが呟く。
「昨日のハルダみたい」
レクスターが頷く。
「煙避難線に近い発想ですね」
ヨルムは振り返った。
「ハルダの連中も、煙の道を作ったのか」
「はい」
アレックスが答える。
「火を使われたので」
ヨルムの目が細くなる。
「そうか」
彼は少し黙った。
そして、低く言った。
「なら、生きる知恵を覚えた村だ」
その言葉は短かった。
だが、重かった。
アレックスは胸の奥で、カイの地図を思い出した。
煙避難線。
鐘台、焦げ。
角笛、使える。
声、東宿場へ届く。
そして、ハルダ村は残っている。
ハルダ村は、ただ救われた村ではない。
生きる知恵を覚えた村になった。
そのことを、山の老人が短い言葉で認めたのだ。
「カイに聞かせたいな」
マーガレットが小さく言った。
「喜ぶだろうな」
アレックスが答える。
「照れるでしょう」
レクスターが言う。
「その後、地図に書き加えると思われます」
マーガレットが笑った。
「書きそう」
サヴィルが、その会話を黙って聞いていた。
何か言いかけて、やめた。
アレックスはそれに気づいたが、問いたださなかった。
今は歩く。
ヨルムの非公式道は、予想以上に厳しかった。
斜面を斜めに下る。
足元は枯れ葉で見えにくく、その下に石や根が隠れている。
右側には低い枝。
左側は斜面。
少し踏み外せば滑る。
アレックスはサヴィルの縄を短く持った。
「足を置く場所を見ろ」
「見ている」
「見ていない顔だ」
「顔で分かるのか」
「分かる」
サヴィルは息を吐いた。
「君たちは、ずいぶん私を見張るのがうまくなった」
「逃げようとするな」
「今逃げたら、山に殺される」
「分かっているならいい」
「山と商会、どちらがましか考えている」
マーガレットが後ろから言った。
「村を壊した人が言うことじゃない」
サヴィルは黙った。
少し歩いてから、小さく言った。
「その通りだ」
マーガレットは驚いて、少し足を止めかけた。
レクスターがすぐ声をかける。
「足元」
「うん……」
マーガレットは歩きながら、サヴィルを見る。
サヴィルは前を見ている。
疲れ切った顔。
だが、先ほどの言葉は確かに聞こえた。
その通りだ。
彼が、自分の非を真正面から認めたのは、初めてに近かった。
もちろん、それで何かが許されるわけではない。
けれど、何も変わらないわけでもない。
マーガレットは、自分の胸の中に生まれた小さな戸惑いを抱えたまま、黙って歩いた。
道の途中で、ヨルムが手を上げた。
全員が止まる。
ヨルムは地面にしゃがみ、葉をどけた。
土が削れている。
古いものではない。
小さな足跡。
人ではなく、獣。
だが、その上に別の跡があった。
細い線。
紐を引きずったような跡。
レクスターが眉を寄せる。
「罠の可能性があります」
ヨルムが頷く。
「山兎用の罠だ。だが、新しい」
「誰が?」
マーガレットが聞く。
「山の者か、追手か」
アレックスは雷糸を伸ばした。
少し先の低い枝。
そこに細い輪縄がある。
足を引っ掛けると枝が跳ね上がり、足首を取られる。
小動物用にしては強い。
人間の足にも効く。
「追手の罠か」
「たぶん」
ヨルムの声が低くなる。
「山の罠を真似ているが、雑だ」
アレックスは雷糸で輪縄を固定し、枝の張力を抜いた。
マーガレットが枝を押さえる。
「何分の一?」
ヨルムが言う。
「折れない程度」
「また難しい」
「木に聞け」
「はい……」
マーガレットは慎重に枝を押さえた。
レクスターが縄を外し、罠を無効化する。
「この道を追手も予想した?」
アレックスが聞く。
ヨルムは険しい顔で首を横に振った。
「この道そのものを知っていたわけではないだろう。山の下り筋に罠をばら撒いたんだ」
「雑だが数で止める」
レクスターが言う。
「はい。移動速度を落とす目的」
サヴィルが低く言った。
「ネイグらしい。相手を完全に読むより、選択肢を減らす」
「お前もそうしていたのか」
アレックスが問う。
「商会はそう教える」
サヴィルは言った。
「相手に選ばせているようで、実際には道を狭める。最後に都合のいい選択だけ残す」
レクスターが静かに言った。
「だから、こちらは道を増やす」
サヴィルは目を伏せた。
「そうだな」
アレックスは罠を見た。
道を狭める商会。
道を増やす村。
ハルダ村で学んだことが、ここでも生きている。
「ヨルムさん」
「分かってる」
ヨルムは斧の柄で地面を軽く叩いた。
「ここから罠を見ながら進む。足を急がせるな」
「追手は?」
「追手も罠に引っかかる可能性がある」
「自分たちで仕掛けたのに?」
マーガレットが驚く。
「ばら撒きの罠は、仕掛けた奴も忘れる」
ヨルムは冷たく言った。
「山を知らん奴のやり方だ」
道はさらに慎重になった。
一歩ごとに地面を見る。
次の三歩を見る。
枝の高さを見る。
落ち葉の不自然な盛り上がりを見る。
レクスターは水糸で湿りの違いを探り、アレックスは雷糸で金具や張り縄を探った。
マーガレットは倒れた枝を音を立てずに退ける。
サヴィルは無言でついてくる。
口数が減った。
疲労だけではない。
商会のやり方を、外側から見ることになっているからだろう。
罠を仕掛ける側だった男が、罠に怯えながら歩いている。
それは皮肉だった。
だが、アレックスは笑う気にはなれなかった。
罠は、誰にでも牙を剥く。
それを仕掛けた者自身にも。
しばらく進むと、小さな開けた場所に出た。
木々の間から、遠くの谷が見える。
朝の光が山肌を照らし、向こう側には石造りの塔のようなものがかすかに見えた。
アレックスは足を止めた。
「あれは?」
ヨルムが視線を向ける。
「ベルク領の見張り塔だ」
マーガレットが息を呑む。
「見えた……」
レクスターも目を細める。
「ベルク領の境界施設でしょうか」
「昔は山火事を見る塔だった。今は領境の監視にも使っている」
ヨルムが言う。
「そこまで行けば?」
「まだ遠い。だが、領の目が届く場所ではある」
ベルク領。
ハルダ村の声を預ける次の場所。
王都外郭管理局とは距離があると、村長オルグが言っていた領主。
堅物のハイマン子爵。
記録所を持つ領。
その気配が、初めて視界に入った。
マーガレットは小さく笑った。
「近づいてるね」
「ああ」
アレックスも頷いた。
だが、その時、遠くから鳥笛が鳴った。
三回。
今度は後方だけではない。
右下の斜面からも、別の鳥笛が返る。
レクスターの顔が険しくなる。
「合流されています」
ヨルムが舌打ちした。
「罠で足が遅れた分、追手が回った」
アレックスは見張り塔を見た。
遠い。
まだ届かない。
追手は近い。
ベルク領の風を感じたばかりなのに、追いつかれようとしている。
「ここで戦う?」
マーガレットが聞く。
アレックスは周囲を見た。
開けた場所。
見通しはいい。
だが、こちらが見えるということは、相手からも見える。
証拠を狙われやすい。
サヴィルも危ない。
「抜ける」
ヨルムが即答した。
「見張り塔が見えたなら、そっちへ降りる道がある。急だが、罠は少ない」
レクスターが問う。
「理由は」
「昔の火見道だ。人が通るために作った。商会の雑な罠は仕掛けにくい」
「行きましょう」
サヴィルが疲れた声で言った。
「私も、そろそろ領兵の目が恋しい」
「信用できるかはまだ分からない」
アレックスが言う。
「商会よりはましだろう」
「それはそうだ」
ヨルムが先へ進もうとした瞬間、右下の斜面から声が飛んだ。
「いたぞ!」
追手だ。
木々の間に人影が見える。
三人。
いや、四人。
そのうち一人は弓を持っている。
距離はまだある。
だが、視認された。
マーガレットが偽包みを背負い直す。
「また囮?」
レクスターが即答する。
「今度は効きにくいです。偽物と疑われています」
「じゃあ?」
「走らず急ぐ」
ヨルムが言う。
「斜面を下る。落ちるな」
追手の一人が弓を構えた。
狙いは、マーガレットの背中の包み。
まだ偽物と確定していないのだろう。
アレックスは雷糸を伸ばす。
矢が放たれる。
風を切る音。
アレックスが雷糸で矢の軌道を弾いた。
矢は木へ刺さる。
マーガレットが振り返り、目を見開く。
「ありがとう!」
「前を見ろ!」
「うん!」
ヨルムが火見道へ入る。
道は急だった。
だが、確かに踏み固められている。
昔、人が火を見るために使った道。
火事を知らせるために、山を下った道。
ハルダ村の鐘や角笛と同じ。
人が危険を知らせ、生き残るために作った道だった。
アレックスはそのことに気づき、胸の奥が少し熱くなった。
どこにでも、誰かが守るために残した道がある。
商会の書類には、ただの経路として載るかもしれない。
だが、本当は違う。
誰かが走った道。
誰かが火を見て知らせに行った道。
誰かが次の人を助けるために残した道。
ハルダ村の避難線と同じだ。
「この道、いいですね」
レクスターが息を切らしながら言った。
ヨルムがちらりと見る。
「分かるか」
「目的が明確です」
「火を見て、知らせる道だ」
「記録に残すべきです」
「勝手に残せ」
ヨルムの声は少しだけ柔らかかった。
追手の足音が迫る。
彼らも火見道へ入った。
だが、ヨルムの動きには追いつけない。
道の癖を知らないからだ。
どの石が滑るか。
どの根が持てるか。
どの曲がりで身体を傾けるか。
知っている者と知らない者の差が、少しずつ開いていく。
それでも、弓だけは距離を詰めなくても届く。
二本目の矢が飛んだ。
今度はサヴィルの足元。
処理目的。
殺すより転ばせる。
アレックスが雷糸で弾こうとしたが、角度が悪い。
矢はサヴィルの足首の縄をかすめ、地面に刺さった。
サヴィルがつまずく。
「っ!」
アレックスが縄を引く。
マーガレットが後ろから支える。
だが、サヴィルの身体は斜面側へ傾く。
レクスターが水糸を伸ばし、近くの枝に縄を絡める。
落下が止まる。
サヴィルは顔面蒼白で息を呑んだ。
「……今のは」
「落ちたら死なないまでも、動けなくなります」
レクスターが冷静に言う。
「商会はそれを狙っています」
サヴィルは震えた。
恐怖。
明確な恐怖。
アレックスは彼の縄をさらに短くした。
「動けるか」
「……動く」
「よし」
マーガレットは追手を振り返り、歯を食いしばった。
「もう……!」
「追うな」
アレックスが言う。
「分かってる!」
彼女は悔しさを飲み込み、前を向いた。
その瞬間、火見道の先から別の音が聞こえた。
金属を打つような音。
かん。
かん。
かん。
規則正しい。
鳥笛ではない。
鐘でもない。
ヨルムが顔を上げた。
「見張り塔だ」
レクスターが目を細める。
「こちらを発見した?」
「たぶん、追手も見えた」
アレックスは前方を見た。
木々の隙間の向こうに、石造りの見張り塔が近づいている。
その上で、何かが動いた。
旗。
灰色ではない。
深い緑に、白い縁取り。
ベルク領の旗なのだろう。
塔から声が響いた。
「山道の者! 止まれ! 武器を下げよ!」
マーガレットが目を丸くする。
「領兵?」
ヨルムが低く言う。
「止まるな。塔の下まで行く。途中で止まれば追手に挟まれる」
塔の兵がまた叫ぶ。
「止まれと言っている!」
アレックスは声を張った。
「追手あり! グレイ商会の襲撃を受けている! 証拠を持っている!」
塔の上がざわめく。
追手側からも声が飛んだ。
「偽者だ! 盗賊だ! その包みを奪って逃げている!」
マーガレットが怒る。
「嘘つき!」
レクスターが低く言う。
「予想通りです。証拠奪取を盗賊行為に見せる」
塔の兵たちは迷っているようだった。
当然だ。
山から現れた武装した一行。
拘束された男。
背中に包みを持つ女。
追ってくる男たち。
どちらが正しいか、一目では分からない。
アレックスは旅袋に手を伸ばした。
白紐を見せるか。
いや、ここで見せれば狙われる。
偽包みはマーガレット。
本物を出すのは危険だ。
その時、レクスターが言った。
「村長署名の写しではなく、巡察徽章印の写しを」
アレックスは頷いた。
白紐とは別の小袋から、ダンが託した巡察徽章の写し印を取り出す。
紙を掲げる。
「ハルダ村巡察ダンの証言写しあり! 王都外郭管理局農地再編課とグレイ商会の不正証拠を保持! ベルク領記録所への保護を求める!」
塔の上の兵が反応した。
ベルク領記録所。
その名は効いた。
塔の上から別の声がした。
「追手側、停止せよ! 矢を構えるな!」
追手は止まらなかった。
一本の矢がまた飛んだ。
今度は、アレックスの掲げた紙を狙っている。
アレックスが雷糸で弾く前に、塔から別の矢が放たれた。
ベルク領兵の矢。
追手の矢を空中で弾き落とす。
乾いた音がした。
塔の兵が叫ぶ。
「武装追跡者を威嚇射撃! 次は足元では済まぬ!」
追手たちの足が止まった。
マーガレットが息を呑む。
「助かった……?」
ヨルムはまだ油断していない。
「塔の下まで行け」
アレックスたちは走らず、しかし急いで進んだ。
塔の下へ。
ベルク領の兵たちが数名降りてくる。
槍を構えている。
警戒は解いていない。
当然だ。
アレックスは雷の刃をゆっくり鞘へ戻した。
マーガレットもハルバードを下げる。
レクスターは水の本を閉じた。
サヴィルは縄で拘束されたまま、ふらついている。
ヨルムが兵へ向かって言った。
「ベルクの小僧ども。山で騒ぐな」
兵の一人が目を見開く。
「ヨルム爺!?」
「爺と呼ぶな」
「いや、しかし……」
「この者らはハルダから来た。灰色商会に追われている。記録所へ繋げ」
兵たちは顔を見合わせた。
ヨルムの名は通じるらしい。
だが、すぐに信用するほど軽くはない。
隊長らしき若い兵が前へ出た。
「事情は聞く。ただし、全員武器を預けてもらう。拘束者も確認する」
マーガレットが少し身構える。
アレックスは静かに頷いた。
「分かりました。ただし、証拠書類は濡らさない、開封は記録役立会いで」
兵隊長が目を細める。
「記録役?」
レクスターが一歩前へ出る。
「私です。証拠保全のため、無断開封は認められません。ベルク領記録所へ正式に引き継ぐまで、封を保ちます」
兵隊長は少し驚いたようだった。
山を抜けてきた泥だらけの一行から、そんな言葉が出るとは思わなかったのだろう。
「……分かった。記録所へ連絡する」
その時、追手側から声が飛んだ。
「その者たちは商会の荷を盗んだ盗賊だ! 拘束して荷を返せ!」
兵隊長は追手を睨んだ。
「ならばお前たちも武器を下ろし、名と所属を述べよ」
追手たちは黙った。
名を出せない。
所属を出せない。
グレイ商会の正式部隊ではないからだ。
それが、沈黙になって現れた。
兵隊長の顔が険しくなる。
「名乗れぬ者が、領境で武器を持ち人を追うか」
追手の一人が舌打ちした。
そして、鳥笛を短く鳴らした。
撤退の合図。
彼らは森の奥へ引いていく。
完全に逃げたわけではない。
だが、ベルク領兵の前ではこれ以上動けない。
アレックスは、ようやく深く息を吐いた。
マーガレットも膝に手をついた。
「……抜けた?」
レクスターが答える。
「一時的に」
「一時的でも、よかった」
サヴィルはその場に座り込みそうになった。
アレックスが縄を引いて止める。
「まだ許可していない」
「……君は本当に手厳しい」
「証人だからな」
「便利な理由だ」
それでも、サヴィルは少し笑った。
疲れ切った、しかし生き延びた者の笑みだった。
見張り塔の上で、緑の旗が風に揺れている。
ベルク領の風。
ハルダ村を出てから初めて、商会以外の公的な目がこちらを見ている。
安全とはまだ言えない。
疑われてもいる。
武器も預けなければならない。
証拠も確認される。
だが、追手の矢を止めてくれた。
それだけで、今は大きかった。
アレックスは旅袋の奥の白紐を意識した。
ハルダ村は残っている。
その声は、山を越えた。
完全に届いたわけではない。
記録所へ渡すまで、まだ気を抜けない。
だが、確かにベルク領の風の中へ入った。
マーガレットが小さく言った。
「カイに言いたいね」
「ああ」
アレックスは頷いた。
「山、越えたって」
レクスターが静かに補足する。
「まだ途中ですが、第一段階は成功です」
「そういうところ、レクスターだね」
「事実です」
ヨルムが鼻を鳴らした。
「事実なら歩け。塔の中で茶でも出させる」
マーガレットの顔が明るくなる。
「お茶!」
「声がでかい」
「すみません」
アレックスは、ベルク領の見張り塔へ向かって歩き出した。
泥だらけの足。
煤のついた荷。
縄で繋がれた証人。
疲れ切った仲間。
それでも、誰も倒れていない。
声はまだ、守られている。
塔の扉が開く。
石の匂いが近づく。
ハルダ村の声を次に預ける場所へ、彼らはようやく辿り着こうとしていた。




