表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
94/101

【第94話 ベルク領の風】


 尾根を越えた瞬間、風の匂いが変わった。


 それは、誰かに説明されなければ分からないほどの小さな違いだった。


 けれど、ハルダ村の黒い畑の臭いと、炭焼き場の煙をくぐり抜けてきたアレックスたちには、その違いがはっきりと感じられた。


 空気が冷たい。


 湿り方が違う。


 土の匂いが深く、葉の匂いが濃い。


 そして、どこか遠くに石の匂いがある。


 ベルク領側の山影。


 ヨルムはそう言った。


 まだ領都は遠い。


 記録所も見えない。


 人里の声も聞こえない。


 それでも、尾根を一つ越えただけで、世界が少し変わったように思えた。


 アレックスは、背中の旅袋を確かめた。


 白紐の写し。


 グレイルの帳簿。


 カイの地図。


 全部、ある。


 マーガレットは、偽の白紐包みをまだ背負っていた。


 煙の中で囮になったその包みは、ところどころ煤で黒く汚れている。


 だが、形は保っていた。


 レクスターは最後尾で、水の本を抱えたまま息を整えている。


 顔色は悪い。


 けれど、目はまだ鋭い。


 サヴィルは、尾根を越えたところで膝をつきかけた。


 アレックスが縄を引いて支える。


「倒れるな」


「……倒れるつもりはない」


 サヴィルは肩で息をしながら答えた。


「だが、山道というものは、人を選ぶらしい」


 ヨルムが鼻を鳴らす。


「山はお前を選ばん」


「それは、さっきから何度も聞いた」


「なら覚えろ」


 サヴィルは苦笑したかったのかもしれない。


 だが、顔は引きつっていた。


 靴は泥だらけで、外套の裾は枝で裂けている。


 手首には拘束縄の跡。


 額には汗。


 商会の調整役として村へ来た時の整った姿は、もうほとんど残っていなかった。


 マーガレットはそれを見て、複雑そうな顔をした。


 同情ではない。


 でも、何も感じないわけでもない。


 サヴィルが苦しんでいる姿を見て、胸がすっとすると思っていた。


 けれど、実際には違った。


 彼がどれだけ苦しんでも、ハルダ村の畑は戻らない。


 トーマとミラの痛みも消えない。


 カイの手の傷も、鐘を鳴らした怖さも消えない。


 だからこそ、ただ苦しめばいいとは思えなくなっていた。


「マーガレット」


 レクスターが静かに声をかける。


「足元」


「……うん」


 マーガレットは我に返った。


 考え事で足を取られそうになっていた。


 ヨルムが振り返る。


「山で考え込むなと言っただろう」


「はい……」


「考えるなら止まって考えろ。歩くなら歩け」


「分かりました」


 今回は声を抑えた。


 ヨルムは少しだけ満足そうに頷いた。


「少しは覚えたな」


「褒めてます?」


「少しだけだ」


「やった」


 マーガレットは小さく喜んだ。


 そのやり取りに、アレックスは少しだけ笑った。


 だが、すぐに後方へ意識を向けた。


 尾根の向こうから、追手の声はまだ届かない。


 鳥笛も、今は聞こえない。


 しかし、それは完全に撒いたという意味ではない。


 炭焼き場の煙を抜け、偽の包みで混乱させ、尾根を越えた。


 こちらが有利になったのは確かだ。


 だが、追手は山道の案内人を雇っている。


 ネイグは証拠を諦めない。


 サヴィルも、まだ処理対象だ。


 油断はできなかった。


「ここからは?」


 アレックスがヨルムに聞く。


 ヨルムは斧を肩に担ぎ直した。


「下る。だが、普通の道は使わん」


「非公式道ですか」


 レクスターが言う。


「名前をつけるなと言った」


「記録上、必要です」


「勝手にしろ」


 ヨルムは前方の斜面を指した。


 道には見えない。


 木々の間に、少しだけ草の倒れた筋がある。


 獣道よりも細く、人が通るには頼りない。


 しかし、ヨルムは迷わずそこへ足を向けた。


「これは炭焼きが煙を避ける時に使った道だ。雨の後は危ない。だが、追手はまず知らん」


「煙を避ける道……」


 マーガレットが呟く。


「昨日のハルダみたい」


 レクスターが頷く。


「煙避難線に近い発想ですね」


 ヨルムは振り返った。


「ハルダの連中も、煙の道を作ったのか」


「はい」


 アレックスが答える。


「火を使われたので」


 ヨルムの目が細くなる。


「そうか」


 彼は少し黙った。


 そして、低く言った。


「なら、生きる知恵を覚えた村だ」


 その言葉は短かった。


 だが、重かった。


 アレックスは胸の奥で、カイの地図を思い出した。


 煙避難線。


 鐘台、焦げ。


 角笛、使える。


 声、東宿場へ届く。


 そして、ハルダ村は残っている。


 ハルダ村は、ただ救われた村ではない。


 生きる知恵を覚えた村になった。


 そのことを、山の老人が短い言葉で認めたのだ。


「カイに聞かせたいな」


 マーガレットが小さく言った。


「喜ぶだろうな」


 アレックスが答える。


「照れるでしょう」


 レクスターが言う。


「その後、地図に書き加えると思われます」


 マーガレットが笑った。


「書きそう」


 サヴィルが、その会話を黙って聞いていた。


 何か言いかけて、やめた。


 アレックスはそれに気づいたが、問いたださなかった。


 今は歩く。


 ヨルムの非公式道は、予想以上に厳しかった。


 斜面を斜めに下る。


 足元は枯れ葉で見えにくく、その下に石や根が隠れている。


 右側には低い枝。


 左側は斜面。


 少し踏み外せば滑る。


 アレックスはサヴィルの縄を短く持った。


「足を置く場所を見ろ」


「見ている」


「見ていない顔だ」


「顔で分かるのか」


「分かる」


 サヴィルは息を吐いた。


「君たちは、ずいぶん私を見張るのがうまくなった」


「逃げようとするな」


「今逃げたら、山に殺される」


「分かっているならいい」


「山と商会、どちらがましか考えている」


 マーガレットが後ろから言った。


「村を壊した人が言うことじゃない」


 サヴィルは黙った。


 少し歩いてから、小さく言った。


「その通りだ」


 マーガレットは驚いて、少し足を止めかけた。


 レクスターがすぐ声をかける。


「足元」


「うん……」


 マーガレットは歩きながら、サヴィルを見る。


 サヴィルは前を見ている。


 疲れ切った顔。


 だが、先ほどの言葉は確かに聞こえた。


 その通りだ。


 彼が、自分の非を真正面から認めたのは、初めてに近かった。


 もちろん、それで何かが許されるわけではない。


 けれど、何も変わらないわけでもない。


 マーガレットは、自分の胸の中に生まれた小さな戸惑いを抱えたまま、黙って歩いた。


 道の途中で、ヨルムが手を上げた。


 全員が止まる。


 ヨルムは地面にしゃがみ、葉をどけた。


 土が削れている。


 古いものではない。


 小さな足跡。


 人ではなく、獣。


 だが、その上に別の跡があった。


 細い線。


 紐を引きずったような跡。


 レクスターが眉を寄せる。


「罠の可能性があります」


 ヨルムが頷く。


「山兎用の罠だ。だが、新しい」


「誰が?」


 マーガレットが聞く。


「山の者か、追手か」


 アレックスは雷糸を伸ばした。


 少し先の低い枝。


 そこに細い輪縄がある。


 足を引っ掛けると枝が跳ね上がり、足首を取られる。


 小動物用にしては強い。


 人間の足にも効く。


「追手の罠か」


「たぶん」


 ヨルムの声が低くなる。


「山の罠を真似ているが、雑だ」


 アレックスは雷糸で輪縄を固定し、枝の張力を抜いた。


 マーガレットが枝を押さえる。


「何分の一?」


 ヨルムが言う。


「折れない程度」


「また難しい」


「木に聞け」


「はい……」


 マーガレットは慎重に枝を押さえた。


 レクスターが縄を外し、罠を無効化する。


「この道を追手も予想した?」


 アレックスが聞く。


 ヨルムは険しい顔で首を横に振った。


「この道そのものを知っていたわけではないだろう。山の下り筋に罠をばら撒いたんだ」


「雑だが数で止める」


 レクスターが言う。


「はい。移動速度を落とす目的」


 サヴィルが低く言った。


「ネイグらしい。相手を完全に読むより、選択肢を減らす」


「お前もそうしていたのか」


 アレックスが問う。


「商会はそう教える」


 サヴィルは言った。


「相手に選ばせているようで、実際には道を狭める。最後に都合のいい選択だけ残す」


 レクスターが静かに言った。


「だから、こちらは道を増やす」


 サヴィルは目を伏せた。


「そうだな」


 アレックスは罠を見た。


 道を狭める商会。


 道を増やす村。


 ハルダ村で学んだことが、ここでも生きている。


「ヨルムさん」


「分かってる」


 ヨルムは斧の柄で地面を軽く叩いた。


「ここから罠を見ながら進む。足を急がせるな」


「追手は?」


「追手も罠に引っかかる可能性がある」


「自分たちで仕掛けたのに?」


 マーガレットが驚く。


「ばら撒きの罠は、仕掛けた奴も忘れる」


 ヨルムは冷たく言った。


「山を知らん奴のやり方だ」


 道はさらに慎重になった。


 一歩ごとに地面を見る。


 次の三歩を見る。


 枝の高さを見る。


 落ち葉の不自然な盛り上がりを見る。


 レクスターは水糸で湿りの違いを探り、アレックスは雷糸で金具や張り縄を探った。


 マーガレットは倒れた枝を音を立てずに退ける。


 サヴィルは無言でついてくる。


 口数が減った。


 疲労だけではない。


 商会のやり方を、外側から見ることになっているからだろう。


 罠を仕掛ける側だった男が、罠に怯えながら歩いている。


 それは皮肉だった。


 だが、アレックスは笑う気にはなれなかった。


 罠は、誰にでも牙を剥く。


 それを仕掛けた者自身にも。


 しばらく進むと、小さな開けた場所に出た。


 木々の間から、遠くの谷が見える。


 朝の光が山肌を照らし、向こう側には石造りの塔のようなものがかすかに見えた。


 アレックスは足を止めた。


「あれは?」


 ヨルムが視線を向ける。


「ベルク領の見張り塔だ」


 マーガレットが息を呑む。


「見えた……」


 レクスターも目を細める。


「ベルク領の境界施設でしょうか」


「昔は山火事を見る塔だった。今は領境の監視にも使っている」


 ヨルムが言う。


「そこまで行けば?」


「まだ遠い。だが、領の目が届く場所ではある」


 ベルク領。


 ハルダ村の声を預ける次の場所。


 王都外郭管理局とは距離があると、村長オルグが言っていた領主。


 堅物のハイマン子爵。


 記録所を持つ領。


 その気配が、初めて視界に入った。


 マーガレットは小さく笑った。


「近づいてるね」


「ああ」


 アレックスも頷いた。


 だが、その時、遠くから鳥笛が鳴った。


 三回。


 今度は後方だけではない。


 右下の斜面からも、別の鳥笛が返る。


 レクスターの顔が険しくなる。


「合流されています」


 ヨルムが舌打ちした。


「罠で足が遅れた分、追手が回った」


 アレックスは見張り塔を見た。


 遠い。


 まだ届かない。


 追手は近い。


 ベルク領の風を感じたばかりなのに、追いつかれようとしている。


「ここで戦う?」


 マーガレットが聞く。


 アレックスは周囲を見た。


 開けた場所。


 見通しはいい。


 だが、こちらが見えるということは、相手からも見える。


 証拠を狙われやすい。


 サヴィルも危ない。


「抜ける」


 ヨルムが即答した。


「見張り塔が見えたなら、そっちへ降りる道がある。急だが、罠は少ない」


 レクスターが問う。


「理由は」


「昔の火見道だ。人が通るために作った。商会の雑な罠は仕掛けにくい」


「行きましょう」


 サヴィルが疲れた声で言った。


「私も、そろそろ領兵の目が恋しい」


「信用できるかはまだ分からない」


 アレックスが言う。


「商会よりはましだろう」


「それはそうだ」


 ヨルムが先へ進もうとした瞬間、右下の斜面から声が飛んだ。


「いたぞ!」


 追手だ。


 木々の間に人影が見える。


 三人。


 いや、四人。


 そのうち一人は弓を持っている。


 距離はまだある。


 だが、視認された。


 マーガレットが偽包みを背負い直す。


「また囮?」


 レクスターが即答する。


「今度は効きにくいです。偽物と疑われています」


「じゃあ?」


「走らず急ぐ」


 ヨルムが言う。


「斜面を下る。落ちるな」


 追手の一人が弓を構えた。


 狙いは、マーガレットの背中の包み。


 まだ偽物と確定していないのだろう。


 アレックスは雷糸を伸ばす。


 矢が放たれる。


 風を切る音。


 アレックスが雷糸で矢の軌道を弾いた。


 矢は木へ刺さる。


 マーガレットが振り返り、目を見開く。


「ありがとう!」


「前を見ろ!」


「うん!」


 ヨルムが火見道へ入る。


 道は急だった。


 だが、確かに踏み固められている。


 昔、人が火を見るために使った道。


 火事を知らせるために、山を下った道。


 ハルダ村の鐘や角笛と同じ。


 人が危険を知らせ、生き残るために作った道だった。


 アレックスはそのことに気づき、胸の奥が少し熱くなった。


 どこにでも、誰かが守るために残した道がある。


 商会の書類には、ただの経路として載るかもしれない。


 だが、本当は違う。


 誰かが走った道。


 誰かが火を見て知らせに行った道。


 誰かが次の人を助けるために残した道。


 ハルダ村の避難線と同じだ。


「この道、いいですね」


 レクスターが息を切らしながら言った。


 ヨルムがちらりと見る。


「分かるか」


「目的が明確です」


「火を見て、知らせる道だ」


「記録に残すべきです」


「勝手に残せ」


 ヨルムの声は少しだけ柔らかかった。


 追手の足音が迫る。


 彼らも火見道へ入った。


 だが、ヨルムの動きには追いつけない。


 道の癖を知らないからだ。


 どの石が滑るか。


 どの根が持てるか。


 どの曲がりで身体を傾けるか。


 知っている者と知らない者の差が、少しずつ開いていく。


 それでも、弓だけは距離を詰めなくても届く。


 二本目の矢が飛んだ。


 今度はサヴィルの足元。


 処理目的。


 殺すより転ばせる。


 アレックスが雷糸で弾こうとしたが、角度が悪い。


 矢はサヴィルの足首の縄をかすめ、地面に刺さった。


 サヴィルがつまずく。


「っ!」


 アレックスが縄を引く。


 マーガレットが後ろから支える。


 だが、サヴィルの身体は斜面側へ傾く。


 レクスターが水糸を伸ばし、近くの枝に縄を絡める。


 落下が止まる。


 サヴィルは顔面蒼白で息を呑んだ。


「……今のは」


「落ちたら死なないまでも、動けなくなります」


 レクスターが冷静に言う。


「商会はそれを狙っています」


 サヴィルは震えた。


 恐怖。


 明確な恐怖。


 アレックスは彼の縄をさらに短くした。


「動けるか」


「……動く」


「よし」


 マーガレットは追手を振り返り、歯を食いしばった。


「もう……!」


「追うな」


 アレックスが言う。


「分かってる!」


 彼女は悔しさを飲み込み、前を向いた。


 その瞬間、火見道の先から別の音が聞こえた。


 金属を打つような音。


 かん。


 かん。


 かん。


 規則正しい。


 鳥笛ではない。


 鐘でもない。


 ヨルムが顔を上げた。


「見張り塔だ」


 レクスターが目を細める。


「こちらを発見した?」


「たぶん、追手も見えた」


 アレックスは前方を見た。


 木々の隙間の向こうに、石造りの見張り塔が近づいている。


 その上で、何かが動いた。


 旗。


 灰色ではない。


 深い緑に、白い縁取り。


 ベルク領の旗なのだろう。


 塔から声が響いた。


「山道の者! 止まれ! 武器を下げよ!」


 マーガレットが目を丸くする。


「領兵?」


 ヨルムが低く言う。


「止まるな。塔の下まで行く。途中で止まれば追手に挟まれる」


 塔の兵がまた叫ぶ。


「止まれと言っている!」


 アレックスは声を張った。


「追手あり! グレイ商会の襲撃を受けている! 証拠を持っている!」


 塔の上がざわめく。


 追手側からも声が飛んだ。


「偽者だ! 盗賊だ! その包みを奪って逃げている!」


 マーガレットが怒る。


「嘘つき!」


 レクスターが低く言う。


「予想通りです。証拠奪取を盗賊行為に見せる」


 塔の兵たちは迷っているようだった。


 当然だ。


 山から現れた武装した一行。


 拘束された男。


 背中に包みを持つ女。


 追ってくる男たち。


 どちらが正しいか、一目では分からない。


 アレックスは旅袋に手を伸ばした。


 白紐を見せるか。


 いや、ここで見せれば狙われる。


 偽包みはマーガレット。


 本物を出すのは危険だ。


 その時、レクスターが言った。


「村長署名の写しではなく、巡察徽章印の写しを」


 アレックスは頷いた。


 白紐とは別の小袋から、ダンが託した巡察徽章の写し印を取り出す。


 紙を掲げる。


「ハルダ村巡察ダンの証言写しあり! 王都外郭管理局農地再編課とグレイ商会の不正証拠を保持! ベルク領記録所への保護を求める!」


 塔の上の兵が反応した。


 ベルク領記録所。


 その名は効いた。


 塔の上から別の声がした。


「追手側、停止せよ! 矢を構えるな!」


 追手は止まらなかった。


 一本の矢がまた飛んだ。


 今度は、アレックスの掲げた紙を狙っている。


 アレックスが雷糸で弾く前に、塔から別の矢が放たれた。


 ベルク領兵の矢。


 追手の矢を空中で弾き落とす。


 乾いた音がした。


 塔の兵が叫ぶ。


「武装追跡者を威嚇射撃! 次は足元では済まぬ!」


 追手たちの足が止まった。


 マーガレットが息を呑む。


「助かった……?」


 ヨルムはまだ油断していない。


「塔の下まで行け」


 アレックスたちは走らず、しかし急いで進んだ。


 塔の下へ。


 ベルク領の兵たちが数名降りてくる。


 槍を構えている。


 警戒は解いていない。


 当然だ。


 アレックスは雷の刃をゆっくり鞘へ戻した。


 マーガレットもハルバードを下げる。


 レクスターは水の本を閉じた。


 サヴィルは縄で拘束されたまま、ふらついている。


 ヨルムが兵へ向かって言った。


「ベルクの小僧ども。山で騒ぐな」


 兵の一人が目を見開く。


「ヨルム爺!?」


「爺と呼ぶな」


「いや、しかし……」


「この者らはハルダから来た。灰色商会に追われている。記録所へ繋げ」


 兵たちは顔を見合わせた。


 ヨルムの名は通じるらしい。


 だが、すぐに信用するほど軽くはない。


 隊長らしき若い兵が前へ出た。


「事情は聞く。ただし、全員武器を預けてもらう。拘束者も確認する」


 マーガレットが少し身構える。


 アレックスは静かに頷いた。


「分かりました。ただし、証拠書類は濡らさない、開封は記録役立会いで」


 兵隊長が目を細める。


「記録役?」


 レクスターが一歩前へ出る。


「私です。証拠保全のため、無断開封は認められません。ベルク領記録所へ正式に引き継ぐまで、封を保ちます」


 兵隊長は少し驚いたようだった。


 山を抜けてきた泥だらけの一行から、そんな言葉が出るとは思わなかったのだろう。


「……分かった。記録所へ連絡する」


 その時、追手側から声が飛んだ。


「その者たちは商会の荷を盗んだ盗賊だ! 拘束して荷を返せ!」


 兵隊長は追手を睨んだ。


「ならばお前たちも武器を下ろし、名と所属を述べよ」


 追手たちは黙った。


 名を出せない。


 所属を出せない。


 グレイ商会の正式部隊ではないからだ。


 それが、沈黙になって現れた。


 兵隊長の顔が険しくなる。


「名乗れぬ者が、領境で武器を持ち人を追うか」


 追手の一人が舌打ちした。


 そして、鳥笛を短く鳴らした。


 撤退の合図。


 彼らは森の奥へ引いていく。


 完全に逃げたわけではない。


 だが、ベルク領兵の前ではこれ以上動けない。


 アレックスは、ようやく深く息を吐いた。


 マーガレットも膝に手をついた。


「……抜けた?」


 レクスターが答える。


「一時的に」


「一時的でも、よかった」


 サヴィルはその場に座り込みそうになった。


 アレックスが縄を引いて止める。


「まだ許可していない」


「……君は本当に手厳しい」


「証人だからな」


「便利な理由だ」


 それでも、サヴィルは少し笑った。


 疲れ切った、しかし生き延びた者の笑みだった。


 見張り塔の上で、緑の旗が風に揺れている。


 ベルク領の風。


 ハルダ村を出てから初めて、商会以外の公的な目がこちらを見ている。


 安全とはまだ言えない。


 疑われてもいる。


 武器も預けなければならない。


 証拠も確認される。


 だが、追手の矢を止めてくれた。


 それだけで、今は大きかった。


 アレックスは旅袋の奥の白紐を意識した。


 ハルダ村は残っている。


 その声は、山を越えた。


 完全に届いたわけではない。


 記録所へ渡すまで、まだ気を抜けない。


 だが、確かにベルク領の風の中へ入った。


 マーガレットが小さく言った。


「カイに言いたいね」


「ああ」


 アレックスは頷いた。


「山、越えたって」


 レクスターが静かに補足する。


「まだ途中ですが、第一段階は成功です」


「そういうところ、レクスターだね」


「事実です」


 ヨルムが鼻を鳴らした。


「事実なら歩け。塔の中で茶でも出させる」


 マーガレットの顔が明るくなる。


「お茶!」


「声がでかい」


「すみません」


 アレックスは、ベルク領の見張り塔へ向かって歩き出した。


 泥だらけの足。


 煤のついた荷。


 縄で繋がれた証人。


 疲れ切った仲間。


 それでも、誰も倒れていない。


 声はまだ、守られている。


 塔の扉が開く。


 石の匂いが近づく。


 ハルダ村の声を次に預ける場所へ、彼らはようやく辿り着こうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ