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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第93話 炭焼き場の煙】



 炭焼き場跡に、煙が漂っていた。


 白灰色の煙。


 火勢は強くない。


 だが、ただの焚き火でもない。


 湿った炭の匂いに、油の匂いが混じっている。


 黒い畑の火油ほど強烈ではないが、鼻の奥に残る嫌な匂いだった。


 視界を奪うための煙。


 足を止めるための煙。


 そして、こちらが証拠を抱えていると知った者たちが仕掛けた煙。


 アレックスは、雷の刃を低く構えた。


 炭焼き場跡は、窪地になっている。


 昔、炭を焼いた丸い窯の跡。


 崩れた石組み。


 黒く乾いた土。


 倒れた丸太。


 山の者なら隠れ場所にするだろう。


 ヨルムの顔は険しい。


 自分の山に、商会の追手が入り込んでいる。


 それだけで彼の怒りは深かった。


「左へ誘う煙だ」


 ヨルムが低く言った。


「左は窪む。足を取られたら囲まれる」


 レクスターが水の本を開く。


「煙の流れは右から左。風だけでなく、奥で布を振って流れを作っています」


「人がいるな」


「はい。少なくとも四人」


 マーガレットは、偽の白紐を背負ったまま前へ出た。


 その顔に、緊張がある。


 だが、恐怖で固まってはいない。


 偽の包みは、見た目だけなら白紐の写しに似ている。


 布と紙束で重さも少し似せてある。


 本物は、アレックスの旅袋の奥。


 ミレ婆の布と油紙に包まれている。


 マーガレットが囮になる。


 追手が証拠を狙って動くなら、彼女へ注意が向く。


 その一瞬で煙を崩し、右斜面から抜ける。


 簡単に言えばそういう作戦だった。


 だが、山の中で簡単なことなど何もない。


 倒木を動かす音。


 煙の流れ。


 サヴィルの足。


 レクスターの疲労。


 追手の位置。


 すべてが噛み合わなければ、炭焼き場の窪地で囲まれる。


「マーガレット」


 アレックスが声を抑えて呼ぶ。


「無理をするな」


「うん」


「狙われたら下がる」


「うん」


「追わない」


「本当に?」


 マーガレットが少しだけ笑った。


 アレックスも苦笑する。


「本当に」


「分かった」


 レクスターが続ける。


「煙が濃くなった場合、布で口元を覆ってください。目が痛んでもこすらない」


「うん」


「倒木を動かす力は、必要最小限」


「何分の一?」


 ヨルムが横から言った。


「木に聞け」


「木!?」


「重さを感じろ。山では数字より手応えだ」


 マーガレットは真剣に頷いた。


「手応え……」


「声がでかい」


「……はい」


 サヴィルは、縄を短くされた状態でアレックスの後ろにいた。


 顔色は悪い。


 山道の疲労に加え、追手が自分を処理しようとしている恐怖がある。


 だが、その目は炭焼き場跡を注意深く見ていた。


「左の窯跡に一人いる」


 彼が小さく言った。


 アレックスは横目で見る。


「見えるのか」


「煙の揺れが不自然だ。商会の訓練で見た」


 レクスターが即座に記録するように言う。


「位置情報として有用です。続けてください」


 サヴィルは一瞬、妙な顔をした。


 感謝されたわけではない。


 ただ、情報として扱われた。


 それでも、彼は続けた。


「高所の一人は弓か投げ具。窪地の二人は近接。奥に煙を調整する者がいる」


「ネイグは?」


「いない」


「なぜ分かる」


「彼なら前に出ない。火と煙を仕掛けたら、結果を見る場所にいる。ここにはいない」


 アレックスは息を吐いた。


 ネイグは直接ここへ来ていない。


 だが、手は伸びている。


 追手を出し、山の案内人を使い、証拠を狙う。


 ハルダ村を出ても、まだ影は続いている。


「行くぞ」


 アレックスが言った。


 マーガレットが頷き、一歩前へ出る。


 煙が彼女を包む。


 白紐に似せた包みが、背中で揺れる。


 その瞬間、炭焼き場の奥で気配が動いた。


 追手は見ている。


 包みを見ている。


 マーガレットはわざと少しだけ身体を開いた。


 背中の包みが見えるように。


 だが、無防備にはならない。


 ハルバードの柄を短く持ち、狭い場所でも動けるようにしている。


 グレイルでも、ハルダでも、彼女は学んできた。


 大きな力を振り回すだけでは守れない。


 狭い場所では、短く。


 壊したくない場所では、抑えて。


 守るものがある時は、前へ出すぎない。


 煙の中から、男の声がした。


「包みだ」


 別の声。


「女が持っている」


「証拠か」


 マーガレットの目が鋭くなる。


 アレックスは倒木の位置へ雷糸を伸ばした。


 右斜面の倒木。


 湿って重い。


 下に枯れ枝が絡まっている。


 動かせば煙の流れを遮れる。


 だが、音を立てすぎれば追手が警戒する。


 マーガレットがゆっくり倒木へ近づく。


 煙の中から、影が飛び出した。


 近接の男。


 短い鉈のような刃を持っている。


 狙いは背中の包み。


 マーガレットは振り向かない。


 背中を見せたまま、足を半歩ずらす。


 男の刃が包みへ伸びる。


 その瞬間、マーガレットはハルバードの柄を背中側へ滑らせた。


 刃を弾く。


 金属音が煙の中に鳴った。


「っ!」


 男が驚く。


 マーガレットは振り返りながら、柄で男の胸を押す。


 斬らない。


 突き飛ばす。


 男が窪地の縁へ下がる。


「本物と思った?」


 マーガレットが低く言う。


 男の顔が歪む。


「偽物か!」


「どうかな!」


 マーガレットは声を張りかけて、ヨルムの顔を思い出し、少し抑えた。


「……どうかな」


 アレックスはその隙に動いた。


「今だ」


 レクスターが水糸を伸ばす。


 煙の湿りを引き寄せ、流れを薄く変える。


 完全に消すのではない。


 煙を右から左へ流し続ける布の動きを乱し、視界に細い隙間を作る。


 同時に、マーガレットが倒木に手をかけた。


 手応えを感じる。


 木の重さ。


 水を吸った重み。


 絡まった枝。


 力を入れすぎれば折れる。


 音を立てすぎる。


 足場も崩れる。


「木に聞け……」


 彼女は小さく呟いた。


 そして、力を入れた。


 半分ではない。


 十分の一でもない。


 手に返ってくる重さに合わせる。


 ぎ、と木が鳴る。


 追手が反応する。


「倒木を動かす気だ!」


 高所から何かが飛んだ。


 小さな投げ刃。


 アレックスが雷糸で弾く。


 火花が散る。


「マーガレット、続けろ!」


「うん!」


 倒木が少し動く。


 煙の流れが変わる。


 左へ誘導されていた煙が、倒木に遮られ、炭焼き場の中央へ渦を巻く。


 追手の視界も乱れた。


 レクスターが叫ぶ。


「右斜面に隙間!」


 ヨルムが即座に動く。


「今だ。足元を見ろ。右の根を踏め。左は踏むな」


 アレックスはサヴィルの縄を引いた。


「来い!」


「見えない!」


「俺の足を見ろ!」


 サヴィルは必死に従った。


 煙で目が痛む。


 喉が苦い。


 だが、足を止めれば終わる。


 アレックスの足元を追うように、一歩ずつ進む。


 マーガレットは倒木を押さえたまま、追手の二人を牽制している。


 偽の包みに気を取られた男たちは、まだ本物の証拠の位置を掴めていない。


 レクスターは最後尾で煙の流れを維持する。


 水の本の頁が震え、彼の額に汗が浮かぶ。


 疲労が限界に近い。


 それでも、視界の隙間を保ち続ける。


 追手の一人が叫んだ。


「記録係を狙え! 煙を止めてる!」


 高所の男が今度はレクスターへ投げ刃を放った。


 アレックスはサヴィルの縄を持っている。


 マーガレットは倒木と近接の男を抑えている。


 レクスターは避ける余裕が少ない。


 刃が煙を裂いて飛ぶ。


 その瞬間、サヴィルが動いた。


 自分の縛られた腕を、わずかに上げる。


 投げ刃は彼の拘束縄をかすめ、外側の縄を切った。


 狙いはレクスターだったが、サヴィルが身体を少しずらしたことで軌道が変わった。


 刃は木に刺さる。


 レクスターが目を見開く。


 アレックスも驚いた。


「サヴィル」


 サヴィルは顔を歪めた。


「私はまだ死にたくない。記録係が倒れたら、私もここで終わるだろう」


 マーガレットが叫ぶ。


「理由が最低!」


「生存理由だ!」


 レクスターは短く言った。


「助かりました」


 サヴィルは一瞬、言葉に詰まった。


「……どういたしまして、と言うべきか?」


「今は走ってください」


「走るなと言われている」


「急いで歩いてください」


「それならできる!」


 アレックスはサヴィルの縄を握り直した。


 外側の縄が一部切れたが、主拘束は残っている。


 逃げられない。


 だが、サヴィルの行動は確かだった。


 自己保身。


 それでも、結果的にレクスターを助けた。


 アレックスはそれを忘れないことにした。


 追手の近接男が、マーガレットへ再び迫る。


「女、包みを渡せ!」


「渡さない!」


「偽物なら捨てろ!」


「偽物でも捨てない!」


 マーガレットはハルバードの柄で刃を受け、足で倒木を押さえた。


 力が分散する。


 きつい。


 腕が震える。


 だが、彼女は下がらない。


 その背中を見て、ヨルムが低く言った。


「娘、右へ一歩。男の足場が崩れる」


「右!」


 マーガレットは言われた通り右へ一歩ずれた。


 男が追う。


 その足元の土が崩れた。


 炭焼き場の古い窪み。


 薄い土の下が空洞になっていた。


 男の足が沈む。


「なっ」


 マーガレットはその隙に柄で男の肩を押した。


 男は窪地へ転がる。


 殺さない。


 落とすだけ。


「ヨルム爺さん、すごい!」


「声がでかい!」


「すみません!」


 もう一人の男が煙の奥から飛び出す。


 狙いはアレックス。


 いや、アレックスの旅袋。


 相手も、マーガレットの包みが偽物の可能性に気づいたのだ。


 アレックスは雷の刃で受ける。


 金属音。


 男は短剣を二本持っている。


 速い。


 山道を知る動きではないが、戦闘には慣れている。


 アレックスはサヴィルの縄を左手に巻きつけたまま、右手で刃を受けた。


 動きに制限がある。


 サヴィルが邪魔になる。


 男はそれを見抜き、サヴィル側へ回り込もうとした。


 サヴィルを人質にするか、処理するか。


 どちらでもこちらの足を止める。


「くそっ」


 アレックスは雷糸を地面へ走らせる。


 男の足元の湿った炭土に、微細な雷を流す。


 強すぎれば火花が出る。


 火気は危険だ。


 だから、痺れる程度に。


 男の足が一瞬止まる。


「っ!」


 アレックスは刃の背で男の手首を打った。


 短剣が落ちる。


 ヨルムが横から杖のように斧の柄を突き出し、男の膝裏を払う。


 男が倒れる。


 アレックスは追撃しない。


 進路を開けるだけ。


「行く!」


 レクスターが叫ぶ。


 煙の隙間が広がった。


 右斜面の抜け道。


 狭いが通れる。


 ヨルムが先に抜ける。


 アレックスがサヴィルを引く。


 マーガレットが倒木から手を離し、後退しながら追手を牽制する。


 レクスターが煙を薄く保つ。


 最後に、全員が斜面を越えた。


 背後で追手が怒鳴る。


「追え!」


「証拠だ!」


「どっちが本物だ!」


 煙が再び流れを乱す。


 倒木が中途半端に道を塞ぎ、追手はすぐには抜けられない。


 マーガレットが偽の包みを背負ったまま、息を切らして笑った。


「偽物、大活躍」


「捨てるな」


 レクスターが言う。


「まだ使える可能性があります」


「持ってていい?」


「はい」


「やった!」


 アレックスは後方を見た。


 追手の姿は煙で見えない。


 だが、声はまだ聞こえる。


 時間は稼げた。


 完全に撒いたわけではない。


「ヨルムさん」


「このまま上がる」


 ヨルムは短く言った。


「尾根の北側に入れば、煙は届かん。足跡も岩場で切れる」


「追手は」


「まだ来る。だが遅れる」


 サヴィルが息を荒くしている。


 足取りが限界に近い。


 しかし、止まるわけにはいかない。


 アレックスは縄を引きすぎないようにしながら言った。


「あと少しだ」


「君の“あと少し”は信用できるのか」


「ヨルムさんの言葉だ」


「なら少し信用する」


 ヨルムが振り返る。


「信用などいらん。歩け」


 サヴィルは苦笑する余裕もなく、歩いた。


 尾根へ向かう道は急だった。


 息が上がる。


 荷が肩に食い込む。


 マーガレットの偽包みも、ただの囮とはいえ重い。


 レクスターの足取りも少し遅れている。


 アレックスは何度も声をかけようとして、飲み込んだ。


 レクスターは今、集中している。


 声をかけすぎれば逆に乱す。


 だが、倒れる前には止める。


 その判断もまた難しかった。


 しばらく登ると、森が少し開けた。


 尾根の上。


 風が変わる。


 ハルダ村側から吹いていた湿った風ではなく、北側から来る冷たい風。


 ベルク領側の山影へ近づいている。


 ヨルムが立ち止まった。


「ここを越えれば、ベルク側だ」


 マーガレットが息を切らしながら聞く。


「もう追手は?」


「まだ来る。だが、ここからはわしの道だ」


「今までもヨルム爺さんの道じゃなかったんですか」


「今までは皆の道だ。ここからは、わしが勝手に作った道だ」


 レクスターが少し眉を上げる。


「非公式道」


「また名前をつけるな」


「記録には必要です」


 ヨルムは鼻を鳴らした。


 尾根の上から振り返ると、遠くにハルダ村の方角が見えた。


 村そのものは見えない。


 木々と朝霧に隠れている。


 だが、あの向こうにある。


 石蔵。


 北畑。


 鐘台。


 カイ。


 アレックスは胸の中で、その名前を呼んだ。


 カイ。


 トーマ。


 ミラ。


 ハルダ村。


 そして、今度は声に出さずに、グレイルの名も呼んだ。


 ルミア。


 エイナ。


 リク。


 消されかけた名前。


 残った声。


 山を越えなければならない理由が、そこにある。


 背後で、鳥笛が鳴った。


 三回。


 遠いが、まだ諦めていない。


 ヨルムが言う。


「感傷はここまでだ。下るぞ」


 マーガレットが小さく呟く。


「厳しい」


「山だからな」


 サヴィルが息を切らして言う。


「その言葉で全てを済ませる気か」


「済む」


 ヨルムは即答した。


 アレックスは少し笑い、足を前へ出した。


 尾根を越える。


 一歩。


 ベルク領側の山影へ。


 空気が変わる。


 木の種類も少し違う。


 道もさらに細くなる。


 だが、確かに前へ進んでいる。


 炭焼き場の煙を抜けた。


 追手を一度撒いた。


 証拠は無事。


 サヴィルも生きている。


 レクスターも立っている。


 マーガレットも笑える。


 ヨルムも案内を続けている。


 まだ終わりではない。


 だが、一つ越えた。


 アレックスは旅袋の奥の白紐を意識した。


 ハルダ村は残っている。


 その一文を、絶対に届ける。


 背後の森で、追手の声が遠く響いた。


 だが、山風がそれを押し流していく。


 ベルク領へ続く道は、まだ険しい。


 それでも、声は山を越え始めていた。

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