【第91話 山道に残る鐘の音】
鐘の音は、森に入ってからもしばらく耳に残っていた。
ごぉん。
一度だけ鳴った、見送りの鐘。
焦げた柱に支えられ、補修した縄に繋がれ、それでもまだ鳴った鐘。
ハルダ村が、旅立つ者たちへ向けて鳴らした音だった。
アレックスは、何度も振り返りそうになった。
だが、振り返っても、もう村は見えない。
木々が重なり、朝霧が足元を白く覆い、細い林道は少し進むたびに曲がっていく。
ハルダ村の石蔵も。
焦げた鐘台も。
北畑の木札も。
カイの姿も。
もう視界にはなかった。
けれど、見えないから消えたわけではない。
背中の旅袋には、白紐の写しがある。
カイの地図の写しがある。
“ハルダ村は残っている”
その一文がある。
それだけで、村は確かにここにあった。
アレックスたちの歩みは、早くはなかった。
先頭を行くヨルムは、小柄な老人とは思えないほど足取りが安定している。
湿った苔の上を踏まず、木の根を避け、石の角に足を置き、迷いなく進む。
一歩ずつが、山を知っている者の動きだった。
その後ろをアレックスが歩く。
サヴィルの拘束縄を持ち、周囲に雷糸を薄く伸ばしている。
サヴィルはその後ろ。
両手を縛られ、歩幅を制限されたまま、黙って歩いていた。
さらに後ろにマーガレット。
サヴィルが足を止めたり、逃げようとしたりした時に備えて補助縄を握っている。
最後尾にレクスター。
水の本を片手に、後方の気配と足跡を確認しながら進んでいる。
山道は狭かった。
場所によっては、人一人が横向きにならなければ通れない。
右手は浅い谷。
左手は苔むした斜面。
黒い畑の薬の匂いは薄いが、湿った土の中に別の危険が潜んでいる。
滑れば落ちる。
声を張れば獣が寄る。
不用意に水場へ触れれば、汚染がないとは限らない。
ハルダ村を出たのに、緊張は続いていた。
ヨルムが振り返らずに言った。
「足元を見るな」
マーガレットが驚く。
「えっ、見ないと転びますよ?」
「足元だけを見るな、という意味だ」
ヨルムは短く言った。
「山では、次の三歩を見る。足元だけ見てる奴は、四歩目で落ちる」
マーガレットは真剣に頷いた。
「次の三歩……」
「声がでかい」
「すみません」
「まだでかい」
マーガレットは口を押さえた。
サヴィルが小さく笑う。
「元気なことだ」
マーガレットの目が鋭くなる。
「あなたは黙って歩いて」
「はいはい」
「はいは一回!」
ヨルムが振り返った。
「娘」
「はい!」
「山で叱るなら短く叱れ。長いと疲れる」
「……はい」
アレックスは少しだけ笑った。
その笑いに、胸の奥の重さが少しだけほぐれた。
だが、すぐに足元へ意識を戻す。
山道は容赦がない。
ヨルムの言う通り、足元だけを見ていると次の根に引っかかる。
三歩先。
それから、周囲。
そして、背後。
追手が来る可能性もある。
ネイグは、すぐには追ってこられないかもしれない。
だが、グレイ商会がこの道を全く知らないとは限らない。
東宿場には塩商人ルベンがいる。
商会の連絡網は、こちらが思うより広い。
ヨルムが北林道を案内すると知られれば、先回りされる可能性もあった。
「ヨルムさん」
アレックスは声を抑えて呼んだ。
「この道、商会も知っていますか」
「知っているかもしれん」
ヨルムは淡々と答えた。
「ただし、知っていることと歩けることは別だ」
「罠は?」
「山そのものが罠だ」
ヨルムは木の根を跨ぎながら言った。
「濡れた苔。崩れた石。見えない穴。獣道。毒草。倒木。道を知らん奴は勝手に迷う」
「それでも来たら?」
「それは山道を知る奴を雇った時だ」
レクスターが後ろから言った。
「商会に山案内を雇われる可能性はあります」
「ある」
ヨルムは否定しなかった。
「だから、足跡を消しながら行く」
マーガレットが足元を見る。
「足跡、残ってます?」
「お前のは特に残る」
「えっ」
「力が入りすぎだ」
「何分の一?」
「山では半分以下」
「また難しい!」
ヨルムは鼻を鳴らした。
「面倒な娘だ」
レクスターが静かに言う。
「同感です」
「レクスターまで!」
サヴィルがまた笑いかけたが、マーガレットに睨まれて黙った。
山道を進むにつれ、空が少しずつ明るくなっていった。
枝の隙間から差す朝日が、霧の中に細い線を作る。
湿った葉が光る。
苔に小さな水滴がついている。
黒い畑の中では見られなかった光景だ。
マーガレットが小さく呟いた。
「きれい」
今度は声を抑えていた。
ヨルムは何も言わなかった。
レクスターも、周囲の水分を確認しながら少しだけ目を細める。
「汚染反応は低いですね」
「この辺りはまだ水が生きてる」
ヨルムが言う。
「だから商会に狙われる」
その言葉で、森の美しさが少し重くなった。
水が生きている。
土が生きている。
だから価値があると、誰かが見る。
そして奪おうとする。
ハルダ村と同じだ。
サヴィルがぽつりと言った。
「辺境農地再編課は、こういう林道も記録している」
アレックスは振り返る。
「何?」
「水源、林地、炭焼き道。全て土地評価に含まれる。農地だけではない」
レクスターの目が鋭くなる。
「つまり、ベルク領の山林も対象になる可能性がある」
「可能性ではなく、すでに資料はあるだろう」
サヴィルは淡々と言った。
「ハルダ村は試験区域の一つに過ぎない。水路で薬剤を流す実験。グレイルは人体支配と記録隠蔽。山林は、たぶん所有権再編だ」
マーガレットの顔が険しくなる。
「所有権再編って、また綺麗な言い方」
「奪う、という意味だ」
サヴィルは静かに言った。
その言い方が、以前とは少し違っていた。
開き直りではない。
言葉を取り繕わなくなっただけかもしれない。
ヨルムが立ち止まった。
老人は振り返り、サヴィルを睨む。
「灰色商会は、山も奪う気か」
サヴィルは肩をすくめる。
「商会にとって、山は炭と木材と水源だ」
「人は?」
ヨルムの声が低くなる。
「書類上は、居住者数」
「ふざけた連中だ」
ヨルムは吐き捨てた。
アレックスは、サヴィルの縄を握る手に力を込める。
「それもベルク領で確認する」
レクスターが頷いた。
「はい。ハルダ村の証拠は、農地再編だけでなく山林再編にも繋がる可能性が出ました」
「また重くなったな」
アレックスが言うと、マーガレットが小さく笑った。
「荷物も、話もね」
「笑い事ではありません」
レクスターが言う。
マーガレットは頷く。
「うん。でも、笑わないと重すぎる時もある」
レクスターは一瞬黙った。
そして、静かに言った。
「それは、否定しません」
しばらく進むと、最初の休憩地点に着いた。
昨日確認した湧き水の近くではなく、そこから少し外れた平らな岩場だった。
ヨルムが手を上げる。
「ここで息を整える。長く休むな」
マーガレットが小声で聞く。
「長くってどれくらい?」
「水を一口、足を確かめるくらいだ」
「短い」
「山が待ってくれると思うな」
サヴィルは岩に腰を下ろそうとして、縄を引かれた。
アレックスが言う。
「許可していない」
「少し休むだけだ」
レクスターが状態を確認する。
「足に異常は?」
「痛い」
「どこが」
「全部」
「具体性がありません」
サヴィルは疲れたように笑った。
「君は本当に細かい」
「あなたを途中で倒れさせるわけにはいきません」
「証人だからか」
「はい」
「便利な理由だ」
レクスターは淡々と答える。
「村人のためでもあります」
サヴィルは黙った。
その沈黙の中で、アレックスは水を飲んだ。
冷たい。
ハルダ村の旧水路とは違う、山の水だ。
レクスターの確認済みの水袋から一口だけ。
喉を通る冷たさに、体の奥が少し目を覚ます。
マーガレットは水を飲んだ後、空を見上げた。
「カイたち、今頃どうしてるかな」
アレックスは森の向こうを見る。
村は見えない。
「地図を直してるかもしれない」
「トーマさんに畑の位置直されてそう」
「ありそうだな」
「ミラさんに手の包帯見られて怒られてそう」
「それもありそうだ」
マーガレットは笑った。
少し泣きそうな笑みだった。
「寂しいね」
「ああ」
「でも、行ってきますって言えたから」
「うん」
「ちゃんと戻らないとね」
「ああ」
レクスターが静かに言う。
「戻るためにも、まず到達しましょう」
「うん」
休憩を終え、再び歩き始めた。
道は少しずつ登りになっていく。
木の根が階段のように絡み、湿った土が靴にまとわりつく。
サヴィルの歩みが遅くなった。
アレックスは縄を引きすぎないよう注意しながらも、止まらせない。
「遅れるな」
「山歩きは専門外だ」
サヴィルが息を切らす。
ヨルムが振り返る。
「専門外でも足は動く」
「手厳しい老人だ」
「村を黒くするのが専門の男に優しくする山はない」
サヴィルは返事をしなかった。
マーガレットは少しだけサヴィルを見た。
同情ではない。
ただ、彼が苦しんでいる姿を見ても、前ほど単純にざまあみろとは思えなかった。
彼を許したわけではない。
けれど、彼が商会という仕組みの中で使われ、処理されかけたことも知ってしまった。
人を資源として見た男が、自分もまた資源として扱われた。
それをどう受け止めればいいのか、マーガレットにはまだ分からない。
「マーガレット」
レクスターが小さく呼ぶ。
「何?」
「足元」
「わっ」
マーガレットは木の根に引っかかりそうになり、慌てて踏み直した。
ヨルムが低く言う。
「考え事は足を取られる」
「はい……」
マーガレットは顔を赤くした。
レクスターが少しだけ言う。
「難しいことは、平地で考えましょう」
「うん」
「山では三歩先」
「ヨルム爺さんと同じこと言った」
「有効な指示です」
アレックスは二人の会話を聞きながら、周囲へ雷糸を伸ばした。
鳥の気配。
枝の揺れ。
遠くの斜面を小動物が走る音。
今のところ、人の気配はない。
だが、油断はできない。
尾根へ近づくと、ヨルムが急に手を上げた。
全員が止まる。
サヴィルも息を止めた。
ヨルムは膝をつき、地面を見た。
アレックスも見る。
足跡。
小さい。
人ではない。
いや、一つだけ違う。
獣の足跡に混じって、人の靴跡が薄くある。
レクスターがしゃがむ。
「新しい」
「今朝だな」
ヨルムが言う。
「一人か」
「いや」
アレックスは雷糸を広げる。
斜面の下。
折れた枝。
草の倒れ方。
「二人以上」
マーガレットの表情が変わる。
「追手?」
ヨルムは首を横に振った。
「まだ分からん。山の者かもしれん。だが、道を外れている」
レクスターが小声で言う。
「待ち伏せの可能性」
「ある」
ヨルムは短く答えた。
サヴィルが低く言った。
「ネイグは山道の案内人を雇ったかもしれない」
アレックスが見る。
「心当たりが?」
「商会は金を出す。山の者でも、金に困れば動く」
ヨルムの顔が険しくなる。
「山を売る奴は山に嫌われる」
「嫌われても金は入る」
サヴィルが返す。
ヨルムは黙った。
その沈黙には、怒りがあった。
アレックスは雷の刃に手を添えた。
「迂回は?」
ヨルムは少し考える。
「ある。だが、急斜面だ。こいつを連れては厳しい」
こいつ、とサヴィルを顎で示す。
サヴィルは疲れた顔で言った。
「私が足を引っ張るのは事実だな」
「自覚があるなら黙って歩け」
ヨルムが言う。
レクスターは地面を見ている。
「足跡は尾根道の先へ向かっています。こちらがそのまま進むと接触する可能性が高い」
マーガレットがハルバードを握る。
「戦う?」
アレックスは首を横に振る。
「まず避ける」
「うん」
「でも、避けられないなら止める」
「分かった」
ヨルムが言った。
「尾根の手前に、古い炭穴がある。そこを使う」
「炭穴?」
「昔、炭を焼いた後の窪みだ。身を隠せる。相手が先に進むのを待つ」
レクスターが頷く。
「待機案として有効です」
「ただし、煙の匂いが残る。サヴィル、咳をするな」
ヨルムが言う。
サヴィルは苦笑した。
「努力する」
「努力ではなく、するな」
少し進むと、確かに窪地があった。
木々に囲まれ、地面が黒っぽい。
だが、ハルダ村の黒い土とは違う。
古い炭の色。
乾いた、焦げた木の匂い。
ここに身を潜め、上の尾根道を通る者をやり過ごす。
全員が静かに入った。
マーガレットはハルバードを抱え、音を立てないように座る。
サヴィルは息を整えながらも、咳を堪えている。
レクスターは水糸を薄く伸ばし、上の気配を探る。
アレックスは雷糸を地面に這わせた。
しばらくして、足音が聞こえた。
二人。
いや、三人。
尾根道の上を通る。
声がした。
「本当にこっちか?」
「老人が言っていた。北林道を使うなら尾根を越える」
「灰色の商会の連中、面倒な仕事を持ってきやがる」
マーガレットの目が鋭くなる。
商会。
やはり追手。
ヨルムの顔が険しくなる。
山の案内人を雇ったのか。
上の声は続く。
「捕まえるのは王子と女と記録係。サヴィルは?」
「生きていれば回収。無理なら処理」
サヴィルの顔が白くなる。
自分の名が、また処理対象として語られている。
アレックスは彼を見た。
サヴィルは口を押さえ、声を出さなかった。
「証拠は燃やすなよ。ネイグが欲しがってる」
「燃やすんじゃなかったのか」
「村は燃やす。紙は回収して燃やすか、書き換えるんだと」
レクスターの目が細くなる。
書き換える。
証拠を奪い、内容を変える。
村長の署名を偽造したように。
ハルダ村の声を、また消すつもりだ。
マーガレットが怒りで動きかける。
アレックスがそっと手で制した。
今は待つ。
相手は三人。
こちらはサヴィルを抱えている。
山中で戦えば音が響く。
尾根の上の男たちは、しばらく周囲を探っていた。
だが、炭穴には気づかない。
「先へ行くぞ。尾根の向こうで待つ」
「逃げ道は?」
「下へ降りる道は二つ。片方は崩れてる」
ヨルムの眉が動いた。
彼だけが知る道を、相手も少し知っている。
男たちの足音が遠ざかる。
しばらく誰も動かなかった。
完全に気配が消えてから、ヨルムが低く言った。
「面倒だ」
マーガレットが小声で言う。
「追手、いたね」
「はい」
レクスターが答える。
「ネイグの指示で証拠回収、サヴィル処理、王子一行捕獲が目的」
アレックスは奥歯を噛んだ。
「尾根の向こうで待つと言っていた」
「正面から行けば鉢合わせです」
「迂回する」
ヨルムが頷く。
「崩れた方の道を使う」
サヴィルが顔を上げる。
「崩れているのでは?」
「崩れているから待ち伏せしていない」
「危険では?」
「危険だ」
ヨルムは即答した。
「だが、追手が待つ道よりましだ」
アレックスは頷いた。
「行こう」
マーガレットも頷く。
「うん」
レクスターは地図に素早く印をつけた。
「追手確認地点。尾根待ち伏せ。迂回路使用」
サヴィルは小さく息を吐いた。
「証拠が欲しい、か」
「怖いか」
アレックスが問う。
サヴィルは少し黙った。
「ああ」
正直な答えだった。
「ギースが来た時より、今の方が怖い。商会は本気で消すつもりだ」
「だから話せ」
「話している」
「まだ足りない」
サヴィルは目を伏せた。
「尾根の先に待つなら、彼らは鳥笛を使う。仲間を呼ぶための合図だ」
ヨルムが反応する。
「鳥笛?」
「高い音だ。山鳥の鳴き声に似せている」
レクスターが記録する。
「追手合図、鳥笛」
マーガレットが眉を寄せる。
「じゃあ、変な鳥の声がしたら注意?」
「はい」
レクスターが答える。
「ただし本物の鳥と区別が必要です」
ヨルムが言う。
「山鳥は夜明け後に鳴くが、同じ間隔では鳴かん。三回同じなら人だ」
「三回同じ鳥声、追手」
マーガレットが復唱する。
ヨルムは少し頷いた。
「覚えたならいい」
崩れた迂回路は、想像以上に厳しかった。
斜面の一部が崩れ、細い足場だけが残っている。
右下は深くはないが、落ちれば怪我をする。
サヴィルを連れて渡るには危険だった。
アレックスは縄を短くし、サヴィルの身体を支える。
マーガレットが後ろから補助する。
レクスターは荷を胸に固定し、足場を確認する。
ヨルムが先に渡り、滑る場所を指差す。
「そこは踏むな。右の根を掴め。娘、力を入れすぎるな。根が抜ける」
「はい……!」
マーガレットは慎重に動く。
サヴィルは息を荒くしていた。
一歩。
二歩。
三歩。
足場が崩れる。
サヴィルの足が滑った。
「っ!」
アレックスが縄を引く。
マーガレットが背中を押さえる。
サヴィルの身体が斜面へ傾く。
落ちる寸前で止まった。
マーガレットが歯を食いしばる。
「踏ん張って!」
「言われなくても……!」
サヴィルの顔は真っ青だった。
レクスターが素早く足場へ縄を回す。
「右へ体重を移してください」
「右とはどちらだ」
「あなたの利き手側です」
「今それを考える余裕がない」
マーガレットが叫ぶ。
「こっち!」
サヴィルは必死に身体を戻す。
何とか足場へ戻った。
全員が息を吐く。
ヨルムが低く言った。
「だから山は優しくないと言った」
サヴィルは肩で息をしながら、笑う余裕もなかった。
「……実感した」
アレックスは縄を握り直す。
「立てるか」
「立たなければ置いていくんだろう」
「証人だから置かない」
「それは心強い」
「嫌味を言う元気は戻ったな」
サヴィルは苦しそうに笑った。
「少しだけ」
迂回路を越えた時、全員の足は泥で汚れていた。
マーガレットの腕にも擦り傷ができ、レクスターの外套にも土がついている。
アレックスの手には縄の跡が残った。
だが、越えた。
尾根の待ち伏せを避けた。
その事実に、全員が小さく息を吐く。
ヨルムは少しだけ振り返り、アレックスたちを見る。
「遅いが、悪くない」
マーガレットが疲れた顔で笑う。
「それ、褒めてます?」
「褒めておらん」
ヨルムは言った。
だが、口元が少し緩んでいた。
レクスターが小声で言う。
「おそらく褒めています」
「やった」
休む間もなく、ヨルムは歩き出す。
「追手が尾根で待っているなら、こちらが迂回したと気づくまで少し時間がある。その間に水場まで進む」
「水場?」
「安全なら休める。危険ならさらに進む」
アレックスは頷いた。
山道は続く。
ハルダ村は遠くなった。
だが、背中にはまだ鐘の音が残っている。
ごぉん。
まだ鳴る、とカイが書いた鐘。
アレックスはその音を胸の中で聞きながら、一歩ずつ進んだ。
途中、森の奥で鳥の声がした。
高い音。
一度。
そして少し間を置いて、もう一度。
全員が止まる。
三度目。
同じ高さ。
同じ間隔。
ヨルムの顔が険しくなる。
「人だ」
レクスターが低く言う。
「追手、こちらの迂回に気づいた可能性」
マーガレットがハルバードを握る。
「来る?」
アレックスは雷の刃へ手を添えた。
「来るだろうな」
サヴィルが青ざめる。
「早いな」
「商会は早いんだろ」
アレックスが言う。
サヴィルは何も返せなかった。
ヨルムが短く指示する。
「走るな。足を滑らせる。だが急げ」
その言葉に、カイの声が重なった気がした。
走るな。
足元。
名前を呼べ。
アレックスは小さく息を吸った。
「アレックス。マーガレット。レクスター。ハルダ村」
小さな声で呼んだ。
マーガレットが横を見る。
「今、呼んだ?」
「ああ」
「カイに言われたから?」
「ああ」
マーガレットは泣きそうに笑った。
「じゃあ、私も」
彼女も小さく言う。
「マーガレット。アレックス。レクスター。ハルダ村。カイ」
レクスターは少し黙った。
それから、静かに言った。
「レクスター。アレックス。マーガレット。ハルダ村。グレイル」
サヴィルは、その声を黙って聞いていた。
彼は何も言わなかった。
だが、目を伏せた。
名前を呼ぶ旅人たち。
名前を消そうとする商会。
その違いが、山道の朝にくっきりと浮かんでいた。
追手の鳥笛が、もう一度遠くで鳴った。
今度は少し近い。
ヨルムが低く言う。
「水場までは急ぐ。そこで足跡を消す」
アレックスたちは頷いた。
山道に残る鐘の音を背負いながら、彼らはさらに森の奥へ進んだ。
ハルダ村の声を、奪わせないために。
山を越える道は、まだ始まったばかりだった。




