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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第90話 声が山を越える朝】



 夜明け前の石蔵は、息をひそめていた。


 まだ朝ではない。


 空の色は黒に近く、東の端だけがわずかに薄い灰色を帯びている。


 ランプの灯りは小さい。


 火気を避けるため、覆い付きの灯りが一つだけ。


 その薄い光の中で、ハルダ村の人々は静かに起きていた。


 誰も、よく眠れてはいなかった。


 子どもたちは毛布の中で丸まり、寝息を立てているようで、時々不安そうに身じろぎする。


 老人たちは壁際に腰を下ろし、目を閉じているだけだった。


 トーマとミラは担架の上で、息子の姿を見つめている。


 村長オルグは赤紐の原本が棚に戻っていることを何度も確認し、巡察ダンは青紐の写しを胸元に抱えたまま、石蔵の入口へ視線を向けていた。


 ミレ婆は、種袋の棚の前に立っていた。


 麦。


 豆。


 根菜。


 薬草。


 その隣に、赤紐で束ねられた記録。


 ハルダ村が未来へ残すものが、同じ棚に並んでいる。


 ミレ婆はそれらを見て、低く呟いた。


「残ったねえ」


 その言葉に、石蔵の空気が少し震えた。


 誰も大きく頷いたりはしなかった。


 ただ、それぞれが自分の胸の中で受け止めた。


 残った。


 畑の全部ではない。


 家の全部でもない。


 傷つかなかったわけでもない。


 それでも、残った。


 種が残った。


 水が残った。


 名前が残った。


 記録が残った。


 声が、村の外へ出た。


 そして今日、その声のもう一つを、アレックスたちが山の向こうへ運ぶ。


 アレックスは、旅袋の紐を締め直した。


 中には白紐の写しが入っている。


 その奥には、グレイルの帳簿写し。


 さらに、ハルダ村の北林道地図、サヴィルの証言記録、ベリオ・ザン、マルセ・リド、ネイグ、ギースの名を書き留めた紙。


 ミレ婆が渡してくれた湿気に強い布で包み、油紙で覆ってある。


 重い。


 紙としては軽いはずなのに、肩にかけると重かった。


 アレックスはその重さを、背負い直した。


 隣ではレクスターが荷の最終確認をしている。


 乾燥灰。


 薬草。


 安全水。


 簡易拘束具。


 サヴィル用の縄。


 山道用の布。


 記録紙。


 水の本。


 彼は一つずつ確認し、短く頷く。


「不足なし」


 マーガレットが覗き込む。


「本当に?」


「本当に」


「レクスター、自分の休憩は?」


「移動中に適宜」


「それ信用できない」


「では、休憩時刻を決めます」


「よし」


 マーガレットは満足そうに頷いた。


 その手にはハルバード。


 背には少し大きめの荷。


 中には食料や布、軽い土袋、マーガレット自身が描いた白ヤギさんの小さな写しも入っている。


 レクスターには不要と言われたが、彼女は「必要」と言って譲らなかった。


 アレックスも止めなかった。


 ハルダ村を背負うなら、白ヤギさんも一緒でいいと思ったからだ。


 カイは、石蔵の中央に立っていた。


 手には地図。


 原図は村に残す。


 しかし、アレックスたちへ渡す写しを、彼は最後まで手放せずにいた。


 両手にはまだ布が巻かれている。


 筆を持ちすぎて、傷は少し痛んでいるはずだ。


 それでも、彼は地図の端を丁寧に押さえていた。


 そこには、カイの字でこう書かれている。


 “ハルダ村は残っている”


 アレックスは、その一文を何度も見た。


 読むたびに、胸の奥が熱くなった。


 カイは地図を差し出した。


「これ、持っていって」


 アレックスは両手で受け取った。


「ありがとう」


「なくすなよ」


「なくさない」


「濡らすなよ」


「濡らさない」


「敵に取られるなよ」


「取られない」


「……忘れるなよ」


 最後の声だけ、少し震えた。


 アレックスは地図を胸に押し当てた。


「忘れない」


 カイは唇を噛んだ。


「絶対」


「絶対」


 マーガレットが横で泣いていた。


 もう我慢する気もないらしい。


 カイはそれを見て、少しだけ笑った。


「マーガ、早い」


「もう出発だもん」


「まだ石蔵の中」


「でも、もう出発だもん」


「……うん」


 カイの顔も崩れそうになった。


 けれど、彼は一度深く息を吸った。


 名前を呼ぶように。


 自分を立たせるように。


「カイ。トーマ。ミラ。ハルダ村」


 小さな声だった。


 でも、聞こえた。


 ミラが担架の上で涙を浮かべる。


 トーマは目を閉じ、拳を握った。


 カイはアレックスたちへ向き直る。


「行ってらっしゃい」


 それは、別れの言葉ではなかった。


 帰る場所から送り出す言葉だった。


 アレックスは一瞬、言葉を失った。


 そして、静かに答えた。


「行ってきます」


 マーガレットも涙を拭きながら言った。


「行ってきます」


 レクスターも、少しだけ目を伏せて言う。


「行ってきます」


 石蔵の中に、温かい沈黙が落ちた。


 行ってきます。


 帰る場所がある言葉。


 たとえすぐに戻れなくても。


 たとえ道が遠くても。


 その言葉を交わせるだけで、旅は少し変わる。


 アレックスたちは、石蔵を出た。


 外の空気は冷たかった。


 夜明け前の村には、薄い霧がかかっている。


 黒い畑の方から、かすかな軋みが聞こえた。


 ぎし。


 ぎし。


 だが、その音は以前ほど村全体を押し潰すものではない。


 北畑の方からは、旧水路の水音が聞こえる。


 さらさら。


 さらさら。


 その音が、旅立つ者の背を押すように流れていた。


 鐘台の前を通る。


 焦げた柱。


 補修された縄。


 その横には、角笛の代替位置を示す木札。


 “まだ鳴る”


 カイが地図に書いた言葉と同じものが、小さな木札にも書き写されていた。


 アレックスは足を止め、鐘台を見上げた。


 昨日、火から守った鐘。


 カイが手を痛めながら鳴らした鐘。


 マーガレットが角笛を吹き、村人たちが避難した朝。


 そのすべてが、焦げ跡に残っている。


「行こう」


 レクスターが静かに言った。


「ああ」


 三人は道具小屋へ向かった。


 サヴィルを連れ出すためだ。


 道具小屋の前には、ダンの指示でハンスとロイドが見張りに立っていた。


 ロイドの頭の傷はまだ痛むが、顔色は昨日より良い。


 ハンスは緊張した表情で頷いた。


「気をつけて」


 アレックスは頷き返す。


「ギースは?」


「炭置き小屋で拘束中。ダンさんと村の者で引き渡しまで見張る」


 レクスターが確認する。


「縄の緩みは」


「確認した」


「火気は」


「なし」


「見張り交代は」


「決めてある」


 レクスターは頷いた。


「問題ありません」


 ハンスは少し笑った。


「合格か」


「現時点では」


「厳しいな」


「必要なので」


 道具小屋の中で、サヴィルは座っていた。


 両手は縛られ、足にも逃走防止の縄がある。


 顔色は悪い。


 昨夜あまり眠れなかったのだろう。


 それでも、目は覚めている。


 アレックスたちが入ると、彼は薄く笑った。


「出発か」


「北林道を通る」


「なるほど。ネイグの馬車は入れない」


「歩かせる」


「年寄りの山道は苦手だ」


「死なない程度に歩け」


 マーガレットが低く言った。


 サヴィルは彼女を見る。


「相変わらず手厳しい」


「優しくする理由ない」


「確かに」


 サヴィルは小さく息を吐いた。


 その顔には、以前のような余裕はない。


 処理人ギースが来たことで、彼自身も商会にとって使い捨てであることを思い知らされた。


 だからといって、彼の罪が消えるわけではない。


 村人たちは許していない。


 アレックスも許していない。


 だが、サヴィルは証人だ。


 それだけで、連れていく理由になる。


 レクスターが拘束具を確認する。


「歩行可能ですか」


「可能だ」


「嘘なら山道で倒れます」


「倒れたら?」


「背負い帯で運ぶことになりますが、こちらの負担が増えます。その場合、あなたの食料配分と休憩優先度を下げます」


 サヴィルは眉を上げた。


「君は本当に容赦ない」


「必要なので」


 マーガレットが少し笑った。


「レクスターは味方にも厳しいよ」


「知っている」


 サヴィルは立ち上がった。


 足が少しふらつく。


 マーガレットがすぐ身構えたが、サヴィルは倒れなかった。


「行こうか」


 その言い方が少し軽かったため、マーガレットが睨む。


「旅みたいに言わないで」


「旅だろう」


「証人移送」


「なるほど」


 サヴィルは肩をすくめた。


 道具小屋を出ると、村人たちの視線が集まった。


 サヴィルを見た瞬間、空気が冷たくなる。


 怒り。


 憎しみ。


 恐怖。


 そのどれもが当然だった。


 ガロンは拳を握りしめ、ミレ婆は杖を強く握っていた。


 村長オルグは担架の上で唇を結び、ダンは青紐の写しを胸に抱えたままサヴィルを見ている。


 カイは、父母の近くに立っていた。


 サヴィルと目が合う。


 カイの肩が強張る。


 アレックスは間に入ろうとした。


 しかし、カイは一歩だけ前へ出た。


 マーガレットが息を呑む。


 カイはサヴィルを見た。


 声は震えていた。


 だが、逃げなかった。


「俺は、お前を許さない」


 石蔵の前が静まり返る。


 サヴィルは何も言わない。


 カイは続けた。


「父ちゃんも母ちゃんも、村も、畑も、みんな苦しんだ。お前がやったこと、許さない」


「……」


「でも、生きて話せ」


 カイの拳が震える。


「王都のやつらの名前も、商会のことも、全部話せ。黙るな。途中で死ぬな」


 サヴィルの表情がわずかに変わった。


 怒りではない。


 嘲りでもない。


 何かを飲み込むような顔だった。


 カイは最後に言った。


「ハルダ村は残ってるって、ちゃんと見てから行け」


 サヴィルは、ゆっくり村を見た。


 焦げた鐘台。


 石蔵。


 北畑へ流れる旧水路。


 “残す畑”の木札。


 赤紐の原本を抱えるミレ婆。


 担架の上のトーマとミラ。


 地図を持つカイ。


 壊したはずの村。


 試験区域として扱った村。


 資源として数えた村。


 そこには、人が立っていた。


 サヴィルは長い沈黙の後、小さく言った。


「……見た」


 カイは頷かなかった。


 ただ、目を逸らさなかった。


 アレックスはサヴィルへ言う。


「歩け」


「ああ」


 北林道の入口には、ヨルムが待っていた。


 約束通り、夜明け前。


 老人は古い斧を肩に担ぎ、背中に小さな荷を背負っている。


 不機嫌そうな顔で、アレックスたちを見た。


「遅い」


「時間通りです」


 レクスターが答える。


「わしが先に来ているなら遅い」


「理不尽です」


「山は理不尽だ」


 マーガレットが小さく笑う。


「ヨルム爺さん、強い」


「娘、山で声を張るな。獣が寄る」


「はい!」


「返事がでかい」


「すみません!」


「それもでかい」


 カイが少し笑った。


 ヨルムはカイを見る。


「地図は描いたか」


「描いた」


「見せろ」


 カイは原図ではなく、写しを見せた。


 ヨルムはしばらく地図を見る。


 眉間に皺を寄せ、何度か鼻を鳴らした。


「下手だな」


 カイの顔が引きつる。


「でも、分かる」


 ヨルムは続けた。


「村の者が描いた地図だ。外の役人より役に立つ」


 カイの目が少し大きくなった。


「……ありがとう」


「礼を言うほど褒めておらん」


「でも、ありがとう」


 ヨルムはふんと鼻を鳴らした。


 そして、アレックスへ向き直る。


「行くぞ。夜が明けきる前に林へ入る。商会の目が山裾に来る前に、最初の尾根を越える」


「サヴィルは?」


「歩かせろ。遅れたら縄を短くしろ」


 サヴィルが苦笑する。


「ひどい案内人だ」


 ヨルムはサヴィルを睨んだ。


「村を黒くした男に、山が優しいと思うな」


 サヴィルは黙った。


 出発の前、村人たちは北林道の入口に集まった。


 全員ではない。


 子どもや負傷者は石蔵近くにいる。


 それでも、見送れる者たちは来ていた。


 ミレ婆。


 ガロン。


 ロイド。


 ハンス。


 エルマ。


 ダン。


 村長オルグは担架のまま少し離れた場所に運ばれている。


 トーマとミラも、どうしてもと言って石蔵の入口まで担架を動かしてもらった。


 カイはその前に立っていた。


 アレックスは、彼へ近づいた。


 何を言えばいいのか、昨夜からずっと考えていた。


 だが、いざ向き合うと、言葉は多く出てこなかった。


「カイ」


「うん」


「村を頼む」


 カイは目を伏せた。


 それから、顔を上げる。


「うん」


「全部一人で背負うな」


「うん」


「地図、続けてくれ」


「うん」


「手が痛かったら休め」


「うん」


「怖かったら」


「名前を呼ぶ」


 カイが先に答えた。


 アレックスは頷いた。


「そうだ」


 カイは唇を噛む。


「アレックスも」


「俺も?」


「怖かったら名前を呼べよ」


 アレックスは少し驚いた。


 カイは続ける。


「アレックスの名前でも、マーガの名前でも、レクスターの名前でも、ハルダ村でも」


 マーガレットが涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。


 レクスターも静かに目を伏せていた。


 アレックスは胸の奥が詰まった。


「ああ」


 声が少し掠れた。


「呼ぶ」


 カイは小さく笑った。


「約束」


「約束だ」


 マーガレットがカイの前にしゃがむ。


「カイ」


「泣きすぎ」


「うん」


「認めるの早い」


「だって寂しい」


「……俺も」


 カイの声が小さくなる。


 マーガレットは彼を抱きしめようとして、手の傷を思い出して止まった。


 カイはそれを見て、自分から少しだけ近づいた。


 マーガレットはそっと、傷に触れないように抱きしめた。


「また会おうね」


「うん」


「白ヤギさんの返事来たら教えて」


「白ヤギさんから返事は来ないだろ」


「ルミアちゃんから!」


「分かった」


 レクスターは、カイの前に立った。


「カイ」


「うん」


「あなたの地図は、村を守るために非常に重要です。今後も更新してください」


「うん」


「ただし、手を酷使しないこと」


「うん」


「危険区域に単独で入らないこと」


「うん」


「感情で走らないこと」


「う……うん」


「本当に」


 カイは笑った。


「本当に」


 レクスターは少しだけ表情を緩めた。


「よろしい」


 そして、最後に小さく言った。


「助かりました」


 カイは目を見開いた。


「俺が?」


「はい。何度も」


 カイは言葉を失った。


 それから、少しだけ泣いた。


「……うん」


 トーマが担架の上から声を出す。


「……アレックス殿」


 アレックスはそちらへ向かった。


 トーマは弱い声で言った。


「息子を……何度も助けてもらった……」


「こちらこそ、カイに助けられました」


「……そうか……」


 トーマは目を細める。


「なら……あいつは、村の役に立ったんだな……」


「はい」


 ミラも涙を浮かべて言った。


「本当に、ありがとうございました」


 アレックスは頭を下げた。


「必ず、声を届けます」


 村長オルグが、かすれた声で言う。


「ハルダ村は……貴殿らを忘れぬ……」


 アレックスは静かに答えた。


「俺たちも、忘れません」


 ミレ婆が赤紐の原本を抱えたまま、杖を鳴らした。


「もう行きな。別れは長いほど足が重くなる」


 ヨルムが鼻を鳴らす。


「やっとまともなことを言う年寄りがいた」


「誰が年寄りだい」


「お前だろう」


「同じくらいだろうが」


 二人の老人のやり取りに、村人たちが少し笑った。


 その笑いに背中を押されるように、アレックスたちは北林道へ足を向けた。


 アレックス。


 マーガレット。


 レクスター。


 サヴィル。


 ヨルム。


 少し距離を置いて、拘束されたサヴィルが歩く。


 その縄はアレックスが持ち、補助の縄をマーガレットが握る。


 レクスターは後方を確認しながら進む。


 ヨルムが先頭。


 森の入口へ入る直前、アレックスは振り返った。


 ハルダ村が見えた。


 石蔵。


 焦げた鐘台。


 北畑の木札。


 旧水路。


 村人たち。


 カイ。


 カイは泣いていた。


 でも、手を振っていた。


 布の巻かれた手を、痛そうにしながら、それでも振っていた。


 アレックスも手を上げた。


 マーガレットは大きく振った。


 レクスターは小さく頭を下げた。


 カイが叫んだ。


「行ってらっしゃい!」


 声が、朝の森へ響いた。


 アレックスは胸が詰まりながらも、答えた。


「行ってきます!」


 その声に、ハルダ村の人々が少しだけ笑った。


 そして、泣いた。


 アレックスたちは森へ入った。


 木々が視界を遮り、村の姿が少しずつ見えなくなる。


 それでも、カイの声はしばらく耳に残っていた。


 行ってらっしゃい。


 帰る場所から送られた言葉。


 山道は湿っていた。


 苔が足元を滑らせる。


 サヴィルが一度足を取られ、マーガレットが縄を引いて支えた。


「転ぶな」


「支えてくれるとは優しいね」


「証人だから」


「だろうね」


 ヨルムが振り返らずに言う。


「無駄口を叩くな。山は耳がいい」


 サヴィルは黙った。


 森の中に入ると、黒い畑の匂いが薄くなった。


 代わりに、土と葉と湿った木の匂いが濃くなる。


 朝露が草に光り、まだ昇りきらない太陽が枝の隙間から細く差し込んでいる。


 マーガレットが小さく呟いた。


「森、静か」


 レクスターが答える。


「静かすぎる場合は警戒してください」


「そうだった」


 アレックスは背中の荷を確かめた。


 白紐の写し。


 グレイルの帳簿。


 カイの地図。


 ハルダの声。


 確かにある。


 ヨルムが先を歩きながら言った。


「最初の尾根を越えるまで気を抜くな。商会の目があるなら、山裾で来る」


「追手の可能性は?」


 アレックスが聞く。


「ある。だが馬車は無理だ。人なら撒ける」


「火は?」


「森で火を使う馬鹿なら、山が先に怒る」


 ヨルムの声は低い。


「だが、商会は馬鹿を使うことがある。油の匂いがしたらすぐ言え」


「分かった」


 しばらく進むと、林道の入り口近くから村がほとんど見えなくなった。


 その時、遠くから小さく鐘の音がした。


 ごぉん。


 一度だけ。


 アレックスたちは足を止めた。


 マーガレットが振り返る。


「鐘?」


 レクスターが耳を澄ませる。


「避難合図ではありません。一度だけ。見送りの音でしょう」


 アレックスは目を閉じた。


 カイが鳴らしたのか。


 それとも村人たちが鳴らしたのか。


 分からない。


 でも、鐘は鳴った。


 焦げても、残った鐘が。


 まだ鳴ると書かれた鐘が。


 旅人たちを送るために。


 マーガレットは泣いた。


「また泣いてる」


 サヴィルが小さく言う。


 マーガレットは振り返らずに言った。


「今日はいいの」


 レクスターも静かに言う。


「妥当です」


 アレックスは森の向こうにある村を思った。


 ハルダ村は残っている。


 その言葉を、胸の奥で繰り返す。


 ハルダ村は残っている。


 グレイルも、ハルダも、名前も、声も。


 消されなかった。


 消させなかった。


 だから、次へ進む。


 アレックスは目を開けた。


「行こう」


 ヨルムが頷く。


「遅れるな」


 一行は再び山道を歩き出した。


 北林道は細く、曲がりくねっている。


 先はまだ見えない。


 ベルク領も、王都も、遠い。


 だが、背中には確かな声がある。


 ハルダ村の声。


 カイの地図。


 種と記録の匂い。


 そして、行ってらっしゃいという言葉。


 山を越える朝。


 旅はまた、始まった。


 灯りを守る旅は、まだ続いていく。

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