【第89話 旅立ち前夜の地図】
ハルダ村に、夜が近づいていた。
明日の夜明け前、アレックスたちは北の林道へ向かう。
ヨルムが案内する山道。
馬車は通れない。
商会の回収班も、簡単には追ってこられない。
だが、楽な道ではない。
サヴィルを拘束したまま連れていく。
白紐の写しとグレイルの帳簿も持っていく。
ベルク領の記録所を目指す。
ハルダ村の声を、さらに遠くへ運ぶために。
その準備が、石蔵の中で進められていた。
誰も大きな声を出さない。
だが、手は止まらない。
ミレ婆は乾いた布を選んでいた。
水気を避けるための包み布。
種袋と同じ棚から取り出したものだ。
「これは使いな」
彼女はアレックスへ布を渡した。
「昔、祭りの道具を包んでいた布だよ。湿気に強い」
「大事なものでは」
「大事なものだから使うんだよ」
ミレ婆は、少し笑った。
「しまっておくだけが守ることじゃない。必要な時に役立てるのも、守るってことさ」
アレックスは布を受け取った。
厚手で、少し古い匂いがした。
土と煙と、干した草のような匂い。
ハルダ村の匂いだった。
「ありがとうございます」
「礼は、無事に声を届けてからでいい」
「はい」
レクスターは横で荷の確認をしている。
白紐の写し。
グレイルの帳簿写し。
ハルダ村の簡易地図。
北林道の写し。
サヴィルの尋問記録。
ネイグ、ギース、マルセ・リド、ベリオ・ザンの名を書いた紙。
汚染対処手順。
乾燥灰の小袋。
安全水。
薬草。
縄。
簡易拘束具。
一つずつ確認して、紐を結び直す。
「重い?」
マーガレットが覗き込む。
「重いです」
レクスターは正直に答えた。
「珍しくすぐ言った」
「今回は隠す意味がありません」
「持つ?」
「分担します」
マーガレットは嬉しそうに手を出した。
「力仕事なら任せて!」
「ただし、証拠書類はアレックスが持ちます」
「信用度!」
「あなたは戦闘時に荷を投げる可能性があります」
「投げない!」
「可能性です」
「むう……」
アレックスは苦笑しながら、白紐の写しを旅袋の奥へ入れた。
その上からミレ婆の布で包む。
さらに油紙で覆う。
レクスターが確認し、頷いた。
「これなら湿気はかなり防げます」
「山道で雨は?」
「降らないことを祈ります」
「レクトが祈るって珍しいな」
「自然現象に対しては、対策と祈りの両方が必要です」
マーガレットが感心したように言う。
「なんか深い」
「普通のことです」
準備の横で、カイは地図を描いていた。
手はまだ痛む。
だから、細かい文字はレクスターが代筆した。
だが、線だけは自分で引くと言って譲らなかった。
北林道の線。
石蔵の裏から古い石垣を抜け、苔の道を進み、湧き水の横を通り、炭焼き小屋の跡へ。
そこから先はヨルムが案内するため、カイには分からない。
だから、そこから先は点線にした。
その点線の横に、彼は小さく書いた。
“声が山を越える道”
それを見たマーガレットは、何度も泣きそうになった。
「いい言葉だね」
「何回言うんだよ」
「何回でも」
「恥ずかしい」
「でもいい」
カイは顔を赤くしながら、筆を置いた。
地図は完成に近かった。
ハルダ村の傷。
ハルダ村の水。
ハルダ村の声。
そして、旅人たちが出ていく道。
全部が同じ布に描かれている。
カイは、その地図をじっと見つめた。
「これ、村に残す」
彼は言った。
「写しは持っていって。でも、これは残す」
レクスターが頷く。
「当然です。原図は村のものです」
「原図……」
カイはその響きを少し噛みしめた。
「俺の地図が、原図」
「はい」
「なんか、変だな」
「重要な地図です」
カイは小さく笑った。
「じゃあ、ちゃんと守る」
トーマが担架の上から言った。
「……畑の位置は……まだ直すところがある……」
「明日でいいだろ」
「……地図は……正確に……」
ミラが笑う。
「あなた、明日もそれ言うのね」
「……畑だからな……」
カイは呆れたように笑った。
その笑いが、すぐに寂しさへ変わる。
明日。
明日の朝、アレックスたちはこの村を出る。
カイはそれを考えてしまったのだろう。
彼は地図を畳みかけて、手を止めた。
アレックスは近づいた。
「少し外を歩くか」
カイは顔を上げた。
「今?」
「ああ」
「危なくない?」
「石蔵の周りだけだ。マーガレットも来る」
「私も?」
マーガレットが顔を上げる。
「来ないのか?」
「行く!」
レクスターも立ち上がろうとしたが、マーガレットがすぐ制した。
「レクスターは荷物確認と休憩!」
「北林道の最終確認が」
「終わってる!」
「しかし」
「休憩!」
レクスターはアレックスを見る。
アレックスは笑って言った。
「休め」
「……分かりました」
三人は石蔵の外へ出た。
夜の空気は冷たい。
黒い畑の匂いはまだあるが、少しだけ薄く感じた。
北畑の方から、旧水路の細い水音が聞こえる。
さらさら。
さらさら。
カイはその音を聞きながら歩いた。
まず、残す畑へ行った。
木札が立っている。
“残す畑”
夜露に濡れた文字が、ランプの弱い光で浮かんで見えた。
カイは木札の前で立ち止まった。
「ここ、明日から父ちゃんの代わりに見る」
「一人で?」
マーガレットが聞く。
「一人じゃない。ガロンのおっちゃんとか、ミレ婆とか、みんなで」
「うん」
「父ちゃんが動けるようになるまで」
「うん」
「動けるようになったら、たぶん俺のやり方に文句言う」
アレックスは笑った。
「言いそうだな」
「絶対言う」
カイも少し笑った。
「でも、聞く」
その言葉に、マーガレットが目を潤ませる。
カイはそれを見て、すぐ言った。
「泣くなよ」
「もう遅い」
「早いって」
「だって……」
マーガレットは木札を見た。
「ここ、残ったんだね」
「うん」
「カイが守るんだね」
「みんなで」
「うん。みんなで」
次に、鐘台へ行った。
焦げた根元。
少し黒くなった柱。
だが、鐘は残っている。
縄も補修され、横には予備の縄が置かれていた。
カイは縄を見上げる。
「手が治ったら、また鳴らせるかな」
「鳴らせる」
アレックスが言う。
「祭りで?」
マーガレットが聞く。
カイは少し黙った。
それから、頷いた。
「いつか」
「うん」
「今度は、避難じゃなくて」
「祭りで」
「うん」
カイは焦げた柱に手を触れようとして、布越しにそっと触れた。
「まだ鳴る」
地図に書いた言葉を、声に出した。
マーガレットが小さく言う。
「うん。まだ鳴る」
最後に、石蔵の裏手へ回った。
北林道の入口が見える。
暗い森の口。
明日の朝、アレックスたちはそこへ入っていく。
カイはしばらく何も言わなかった。
風が木々を揺らす。
黒い畑の音は遠くなり、代わりに葉の擦れる音が聞こえる。
「怖い?」
カイが聞いた。
アレックスは頷いた。
「怖い」
「明日の道?」
「それもある」
「王都?」
「ああ」
「サヴィル連れてくのも?」
「怖い」
「アレックス、怖いことばっかりだな」
「そうだな」
カイは少し笑った。
でも、すぐに目を伏せた。
「俺も怖い」
「うん」
「アレックスたちが行った後、ネイグがまた来たらどうしようって思う」
「うん」
「父ちゃんと母ちゃん、まだ動けないし。村長も。ダンさんも」
「うん」
「でも、鐘がある。角笛もある。避難線も、土袋も、地図もある」
「ああ」
「だから……たぶん、大丈夫にする」
アレックスはカイを見た。
カイは森を見ていた。
声は震えていたが、言葉は真っ直ぐだった。
「大丈夫、じゃなくて、大丈夫にする」
アレックスが言うと、カイは頷いた。
「アレックスたちが言ってたやつ」
「うん」
「俺も、そうする」
マーガレットは声を殺して泣いていた。
カイは気づいたが、今度は突っ込まなかった。
自分も泣きそうだったからだ。
アレックスは、カイの肩に手を置いた。
「君は、もう村を守る側だ」
カイの目が揺れる。
「子どもなのに?」
「子どもでも、村の人だ」
「……うん」
「でも、全部を一人で背負うな」
「うん」
「怖かったら名前を呼べ」
「うん」
「助けを呼べ」
「うん」
「泣いてもいい」
「……それは、あんまり」
「いいんだ」
カイは唇を噛んだ。
涙が落ちた。
「行ってほしくない」
初めて、はっきり言った。
マーガレットが目を見開く。
アレックスは何も言わず、待った。
カイは続けた。
「分かってる。行かなきゃいけないのも、ハルダの声を届けるのも、サヴィル連れていくのも、分かってる。でも、行ってほしくない」
声が震える。
「また何かあった時、アレックスたちがいないの、怖い」
マーガレットがたまらず一歩近づいた。
「カイ……」
「でも、引き止めない」
カイは涙を拭いた。
「引き止めたら、ハルダの声が止まるから」
その言葉が、夜の空気に落ちた。
アレックスの胸に、深く刺さった。
旅立ちは、いつも何かを残す。
グレイルでもそうだった。
ルミアたちを残して来た。
エイナを残して来た。
そして今、カイを残して行く。
守りたいものが増えるほど、足は重くなる。
だが、止まれば声は届かない。
アレックスは静かに言った。
「ありがとう」
カイは首を横に振る。
「礼じゃない」
「でも、ありがとう」
「……うん」
「俺たちは行く。でも、ハルダ村を置いていくわけじゃない」
「どういう意味?」
「持っていく。声も、地図の写しも、君の名前も」
カイの目が揺れる。
「俺の名前も?」
「ああ」
「……そっか」
カイは少し笑った。
泣きながら。
「じゃあ、ちゃんと持っていって」
「約束する」
マーガレットが両手で涙を拭いた。
「私も、持っていく」
「マーガは忘れそう」
「忘れない!」
「白ヤギさんの絵は?」
「忘れない!」
「角笛の変な音は?」
「それは忘れて!」
「忘れない」
「なんで!」
三人は少し笑った。
夜の北林道の入口で。
別れの前なのに。
それでも、笑えた。
石蔵へ戻ると、村人たちが静かに待っていた。
ミレ婆は何も聞かなかった。
ただ、カイの顔を見て、少し頷いた。
「話せたかい」
「うん」
「なら、いい」
トーマとミラも、息子の顔を見て何かを察したようだった。
ミラは手を伸ばし、カイの頬に布越しに触れた。
「泣いた?」
「……少し」
「そう」
「でも、大丈夫」
ミラは優しく言った。
「大丈夫にする、でしょう」
カイは驚いた。
そして、笑った。
「うん」
夜の最後の作業が始まった。
村人たちは、アレックスたちへ少しずつ物を託した。
ミレ婆は布。
トーマは畑の土を少し。
ミラは乾いた薬草。
ガロンは自分が書いた木札の写し。
ダンは巡察徽章の写し印。
オルグは本物の署名の写し。
カイは、北林道の写し地図。
そして、地図の端に小さく書いた言葉。
“ハルダ村は残っている”
アレックスはそれを見た。
何も言えなかった。
レクスターが静かに言う。
「重要な一文です」
マーガレットは泣いていた。
カイは顔を赤くして言う。
「レクスターが硬く言うと恥ずかしくないな」
「どういう意味ですか」
「分かんない」
少し笑いが起きた。
だが、その笑いの下には、別れの寂しさがあった。
夜が深まる。
出発は夜明け前。
眠れる時間は少ない。
それでも、誰もすぐには横にならなかった。
石蔵の中で、種袋と記録の束を囲むように、人々は静かに座っていた。
アレックスは旅袋を壁際に置き、白紐の写しを確認した。
レクスターは荷を整えながら、ようやく少し目を閉じた。
マーガレットは角笛を見つめて、また少しだけ吹き方を練習しようとしてレクスターに止められた。
カイは地図を抱えて、父と母の近くに座った。
ミレ婆は赤紐の原本を種袋の隣へ戻した。
その夜、ハルダ村は眠りきれなかった。
けれど、ただ不安で眠れない夜ではなかった。
別れを前に、それぞれが言葉を探す夜だった。
黒い畑はまだ鳴っている。
ネイグもどこかにいる。
王都の影も遠くにある。
それでも、石蔵の中には灯りがあった。
種と記録。
地図と声。
そして、明日山を越える旅人たち。
カイは眠りに落ちる直前、地図を胸に抱いたまま呟いた。
「ハルダ村は、残ってる」
その声は小さかった。
けれど、アレックスには届いた。
彼は目を閉じずに、その言葉を胸に刻んだ。
明日、この声を持って行く。
山を越え、ベルク領へ。
そしていつか、王都へ。
ハルダ村が残っていることを、消されなかったことを、誰にも忘れさせないために。
旅立ち前夜の石蔵で、灯りは静かに揺れていた。




