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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第88話 北の林道】


 ハルダ村の朝は、昨日より少しだけ明るかった。


 空が晴れたわけではない。


 畑が戻ったわけでもない。


 黒い土はまだ黒く、南道の方にはネイグたちが残した火油の臭いがわずかに漂っている。


 鐘台の根元は焦げたままだ。


 縄も焦げ跡を残し、触れればざらりとした黒い粉が指につく。


 黒い樽は封じられているだけで、完全に消えたわけではない。


 サヴィルとギースも、それぞれ道具小屋と炭置き小屋で拘束されている。


 それでも、朝の空気は少しだけ違っていた。


 声が、村の外へ届いた。


 エルマとハンスが東宿場へ戻り、黄紐の写しと手紙を宿の主人に託した。


 ハルダ村の証言は、豆袋の底に隠され、グレイルへ向かう荷へ乗る準備が整った。


 その事実が、村人たちの胸を支えていた。


 まだ全部は救われていない。


 しかし、閉じ込められてはいない。


 それだけで、人は少し息ができる。


 石蔵の前では、朝から北の林道の話が始まっていた。


 東宿場の主人が伝えてきた道。


 商会の馬車が入りにくく、ベルク領へ抜ける可能性がある古い炭焼き道。


 ヨルムという炭焼きの老人なら案内できるかもしれない。


 その情報をどう使うか。


 ハルダ村を守りながら、証拠を次へ運ぶにはどうするか。


 サヴィルをどう連れていくか。


 ギースをどう残すか。


 朝の石蔵は、また地図と紙の場所になっていた。


 カイの地図が中央に広げられている。


 そこにはもう、多くの線と印があった。


 黒い畑。


 残す畑。


 旧水路。


 鐘台。


 角笛。


 煙避難線。


 土袋。


 南道の火油跡。


 東宿場へ声が届いた印。


 そして今日、新たに書き足されようとしているもの。


 北の林道。


 カイは筆を持っていた。


 だが、まだ書かない。


 巻かれた手を見つめ、少し顔をしかめる。


「痛むか」


 アレックスが聞く。


「ちょっと」


「ちょっとじゃない顔だ」


「じゃあ、まあまあ」


「正直」


「うん」


 カイは少しだけ笑った。


 手の痛みを隠しきらないことにも、慣れ始めている。


 レクスターが横から言った。


「今日は長時間の筆記は避けてください。必要な印だけにしましょう」


「でも地図がいる」


「口で伝えて、私が補記します」


「レクスターが?」


「はい」


 カイは少し驚いた。


「じゃあ、俺の地図にレクスターの字が入るのか」


「不都合ですか」


「いや……なんか、すごくちゃんとした地図になりそう」


「現在も十分に機能しています」


 レクスターは真面目に言った。


 カイは少し照れたように目を逸らす。


「……なら、いい」


 マーガレットが覗き込む。


「私も描く?」


「絵なら」


 カイが言う。


「何の絵?」


「角笛」


「また変な音って書く気でしょ!」


「絵ならいいだろ」


「よくない!」


 石蔵の中に笑いが広がる。


 トーマが担架の上で弱く笑い、ミラも目元を緩めた。


 その笑いの中で、ミレ婆が杖をついて地図の前に座った。


「北の林道はね、ここから入るんだよ」


 彼女は震える指で、石蔵のさらに北側、古い石垣の先を指した。


「昔は炭焼きが通っていた。細い道だ。荷車は無理だが、人なら行ける。途中で水場があるけれど、今は使えるか分からないね」


 レクスターがすぐ筆を取る。


「水場、確認必要」


「あと、倒木が多い。雨の後は滑る。山道に慣れていない者は転ぶ」


 カイが言う。


「俺、小さい頃に一回入ったことある。すぐ怒られたけど」


 ミレ婆がじろりと見る。


「怒ったのは私だよ」


「そうだった」


「炭焼き小屋の奥で、蜂の巣を突こうとしてた」


「それは言わなくていい!」


 マーガレットが笑う。


「カイ、色々やってるね」


「小さい頃だって」


 レクスターが淡々と記録する。


「蜂の巣注意」


「そこ記録する!?」


「危険情報です」


 石蔵にまた笑いが起きた。


 だが、すぐにダンが現実へ戻した。


「北林道を使うなら、二つに分けて考えるべきだ」


 巡察ダンはまだ動けない。


 だが、声には力が戻っている。


「一つは、アレックス殿たちがベルク領へ抜ける道。もう一つは、商会が村へ入ってきた時の最終避難路だ」


 レクスターが頷く。


「同意します」


 カイが地図を見る。


「最終避難路?」


「もし石蔵も危なくなったら、北林道へ逃げる」


 アレックスが説明する。


 カイの顔が曇る。


「石蔵も?」


「可能性の話だ」


「……うん」


 石蔵。


 種と記録がある場所。


 父と母が寝ている場所。


 村人たちが集まった場所。


 そこが危ない場合。


 考えたくない。


 けれど、考えなければ守れない。


 カイは唇を噛み、地図を見つめた。


「じゃあ、石蔵から北林道までの道も、ちゃんと描かないと」


「はい」


 レクスターが静かに言う。


「最後まで使わずに済むのが最善です。でも、道があるだけで判断ができます」


「分かった」


 カイは深く息を吸った。


「描く」


 レクスターが筆を持つ。


 カイが口で説明する。


「石蔵の裏から古い柵を越えて、細い道。そこに大きな石がある。雨の後は滑る。右側は浅い谷。子どもは左側を歩く。担架は……無理かも」


 ダンが頷く。


「担架は厳しいな。背負い帯が必要だ」


 ミレ婆が言う。


「古い背負い帯なら、石蔵の奥にあるよ。薪を運ぶやつだ」


 マーガレットが立ち上がる。


「取ってくる!」


 レクスターがすぐ言う。


「埃に注意」


「埃!?」


「古い布は劣化している可能性があります。強く引かないでください」


「何分の一?」


「状況を見て」


「一番難しいやつ!」


 マーガレットはぶつぶつ言いながら石蔵の奥へ向かった。


 しばらくして、古い背負い帯をいくつか持って戻ってくる。


 埃まみれだったが、まだ使えそうなものもある。


 薪や炭を背負うための丈夫な布と縄。


 これを使えば、歩けない者を一時的に運べるかもしれない。


 問題はサヴィルだった。


 村人たちの前で、その話題が出ると空気が少し固くなる。


 サヴィルを北林道へ連れていくのか。


 彼は証人だ。


 しかし、村を壊した張本人でもある。


 彼を運ぶために、村の人手を使うのか。


 そのことに抵抗を覚えない者はいなかった。


 ガロンが低く言った。


「サヴィルを運ぶくらいなら、俺は土袋を運ぶ」


 ミレ婆も静かに頷く。


「あいつのために村人が傷つくのは違う」


 ダンは苦い顔をした。


「だが、証人としては必要だ。ギースも処理人として証言価値はあるが、口を割る可能性は低い。サヴィルの方が王都への繋がりを話せる」


 カイは黙っていた。


 地図を見るふりをして、拳を握っている。


 アレックスはその拳を見た。


 彼にも分かる。


 サヴィルを守る意味は頭では分かる。


 けれど、心が追いつかない。


 アレックス自身も同じだった。


 サヴィルを許したわけではない。


 彼の言葉に怒りが消えたわけでもない。


 だが、彼を生かして運ぶことが、ハルダ村だけでなく、グレイルや次の村を守ることに繋がる。


 なら、やるしかない。


「サヴィルは俺たちが連れていく」


 アレックスは言った。


 村人たちが顔を上げる。


「村の人たちには運ばせない。北林道へ出る時も、俺たちで管理する」


 マーガレットが頷く。


「うん」


 レクスターも言う。


「拘束具はこちらで用意します。歩ける限りは歩かせ、疲労で止まる場合は短時間だけ背負い帯を使用。ただし、村人の避難用背負い帯とは別にします」


 ミレ婆が少しだけ息を吐いた。


「それなら、少しは納得できる」


 ガロンはまだ苦い顔だった。


「……あいつを生かす意味があるんだな」


「あります」


 レクスターがはっきり答えた。


「王都外郭管理局農地再編課、ベリオ・ザン。グレイ商会文書課、マルセ・リド。これらの名前を繋げるために、サヴィルの証言が必要です」


 ガロンは目を伏せた。


「分かった」


 カイが小さく言った。


「許すわけじゃない」


 アレックスは頷いた。


「ああ」


「生かして連れていくのは、許すからじゃない」


「そうだ」


「次にハルダみたいな村を出さないため」


「そうだ」


 カイは深く息を吸った。


「なら……分かる」


 その声は苦しそうだった。


 でも、逃げていない。


 ミラが息子を見て、胸を押さえた。


 トーマは目を閉じ、何かを堪えるように口元を結んだ。


 カイが大人の言葉を覚えていくことは、誇らしい。


 でも、痛い。


 それを、親たちは誰より分かっていた。


 北林道の確認には、少人数で向かうことになった。


 アレックス、マーガレット、レクスター、カイ。


 そして、村からはロイドが同行する。


 ロイドはまだ頭に傷があるが、歩ける。


 北側の古い道を知っているため、補助役として必要だった。


 レクスターはしぶったが、ロイドは言った。


「座ってるだけだと、頭の痛みばかり気になる。ゆっくり歩く。無理はしない」


「本当に」


「本当に」


「異常があれば即座に申告してください」


「分かった」


 カイが横から言う。


「レクスター、みんなに本当にって言うな」


「必要です」


「俺も言われるから分かる」


「なら守ってください」


「うん」


 北林道の入口は、石蔵の裏手からさらに北へ進んだ場所にあった。


 古い石垣の切れ目。


 草に埋もれた細い道。


 人一人が通れる程度の幅。


 確かに馬車は入れない。


 荷車も無理だろう。


 商会の回収班が追ってくるなら、馬車を捨てて徒歩になる。


 それだけでも時間を稼げる。


 道の入口には、黒い草は少なかった。


 ただし、湿った苔が多く、滑りやすい。


 レクスターが水の本で確認する。


「汚染反応は低い。ただし、水場が近い可能性があります」


 カイが指差す。


「少し先に小さな湧き水があったと思う」


「確認します。飲用判断は後」


 ロイドが懐かしそうに言う。


「昔、炭焼きのヨルム爺に怒鳴られた場所だな。『子どもが山に入るな』って」


 カイが顔をしかめる。


「俺も怒鳴られた」


 マーガレットが笑う。


「みんな怒鳴られてる」


「ヨルム爺は誰にでも怒鳴るんだよ」


 ロイドは少し笑った。


「でも、山で迷った子を何度も連れて帰ってる。口は悪いが、見捨てる人じゃない」


 その言葉に、アレックスは少し安心した。


 案内人を頼むなら、道を知っているだけでは足りない。


 人を見捨てないこと。


 それが必要だった。


 林道を少し進むと、空気が変わった。


 黒い畑の匂いが薄くなる。


 代わりに、湿った木の匂い、苔の匂い、枯れ葉の匂いが鼻に届く。


 ハルダ村に来てから、ずっと黒い土と薬の匂いに包まれていたせいで、その普通の森の匂いが不思議なほど新鮮だった。


 マーガレットが小さく言う。


「森の匂い」


「うん」


 カイも頷いた。


「久しぶりに、普通の匂いする」


 その言葉が重かった。


 普通の匂い。


 それすら、村から奪われていたのだ。


 少し進むと、細い水音が聞こえた。


 湧き水だ。


 岩の隙間から水が流れ、小さな溝を作っている。


 レクスターが水糸で確認する。


 皆が息を止める。


 数秒。


 レクスターは頷いた。


「汚染反応なし。ただし煮沸推奨」


 カイの顔が明るくなる。


「ここ、使える?」


「非常時の水場になります」


 レクスターは地図に印をつける。


「北林道水場、安全候補」


 カイはその水を見る。


 触りたそうにして、レクスターを見る。


「少量なら」


 レクスターが言う。


 カイは指先で水に触れた。


 冷たい。


 きれいな水。


 彼はしばらくその冷たさを感じていた。


「ハルダの水、まだあるんだな」


 アレックスは頷く。


「ああ」


「ここも、守らないと」


「そうだな」


 林道をさらに進むと、古い炭焼き小屋の跡があった。


 丸太を組んだ小屋は半分崩れかけている。


 だが、壁の一部は残り、雨を避けるくらいはできそうだった。


 ロイドが言う。


「ここでヨルム爺が炭を焼いてた。今はもっと奥にいるかもしれない」


 レクスターが周囲を確認する。


「一時休憩地点として使えます。ただし長期滞在は不可」


 マーガレットが小屋を覗く。


「蜘蛛の巣いっぱい」


「居住不可理由に追加します」


「そこまで?」


「苦手な者がいるかもしれません」


 カイが少し笑う。


「マーガ、蜘蛛だめ?」


「だめじゃないけど、急に来るとびっくりする」


「それは分かる」


 小さな会話が、森の中にこぼれた。


 ハルダ村の緊張から少し離れたせいか、皆の声がわずかに柔らかい。


 だが、その柔らかさは長く続かなかった。


 小屋の近くで、アレックスは地面に足跡を見つけた。


 古いものではない。


 昨日か、今朝か。


 人の足跡。


 大きめ。


 炭焼きの老人のものか。


 あるいは、商会の斥候か。


 アレックスはしゃがみ込む。


「足跡がある」


 レクスターが確認する。


「一人分。靴底が山道用。商会の者の靴とは違う可能性が高い」


 ロイドが覗き込む。


「ヨルム爺かもしれない。あの爺さん、古い釘底の靴履いてた」


 カイが顔を上げる。


「近くにいる?」


 その時だった。


 森の奥から、しわがれた声が飛んできた。


「人の小屋の前で何を嗅ぎ回ってる」


 マーガレットがハルバードを構えかける。


 アレックスが手で制した。


 木々の間から、老人が現れた。


 背は低い。


 だが、腰は思ったほど曲がっていない。


 白髪混じりの髪を後ろで縛り、肩には古い斧。


 顔は深い皺だらけで、目だけがやけに鋭い。


 炭焼きの老人。


 おそらくヨルム。


 ロイドが声を上げる。


「ヨルム爺!」


 老人はロイドを見る。


 目を細める。


「誰かと思えば、ロイドの小僧か。まだ生きてたか」


「小僧って歳じゃねえよ」


「わしから見りゃ小僧だ」


 カイが小さく呟く。


「ほんとに怒鳴る人だ」


 ヨルムの目がカイへ向く。


「お前は……トーマの倅か」


「カイです」


「知っとる。昔、蜂の巣を突こうとしてた馬鹿だ」


「みんなそれ言う!」


 マーガレットが吹き出した。


 ヨルムはアレックスたちを見る。


「で、旅人ども。村が黒くなったと思ったら、今度は山道に何の用だ」


 アレックスは一歩前へ出た。


「ハルダ村から北へ抜ける道を確認しています。ベルク領へ向かう必要があります」


「商会から逃げるのか」


 ヨルムは即座に言った。


 全員の表情が変わる。


 老人は鼻を鳴らす。


「南の連中が火を使ったのは見た。煙が上がっていたからな。あの灰色の商会は、昔からろくなことをせん」


「知っているんですか」


 レクスターが問う。


「山にも来た。炭の値を買い叩き、林の権利を紙で奪おうとした。わしは字が読めんと思われたが、読めんふりをしただけだ」


 ミレ婆と同じような強さがある。


 アレックスは少しだけ笑いそうになった。


 ヨルムは続ける。


「東宿場の親父からも伝言は受けた。ハルダの声を出すなら北を使えとな」


「協力してくれるんですか」


 マーガレットが聞く。


 ヨルムは彼女を見た。


「声がでかそうな娘だな」


「よく言われます!」


「褒めておらん」


「それもよく言われます!」


 ヨルムは一瞬、面食らった顔をした。


 それから、鼻で笑った。


「面白い娘だ」


 マーガレットは嬉しそうにした。


 レクスターが小声で言う。


「褒められていますか?」


「たぶん!」


 ヨルムはアレックスへ向き直る。


「ベルク領へ抜ける道なら知っている。だが、楽な道ではない。怪我人を大量には運べん。馬車も無理。追手が来れば、山の中で撒くことはできるが、足の遅い者は危ない」


「サヴィルを連れて行く必要があります」


 アレックスが言う。


 ヨルムの目が細くなる。


「あの灰色の商会の男か」


「証人です」


「殺さず連れていくのか」


「はい」


「面倒だな」


「分かっています」


 ヨルムはしばらくアレックスを見ていた。


 追放王子だと知っているのかは分からない。


 だが、彼の目は人を見る目だった。


 肩書きではなく、立ち方を見る目。


「お前、面倒なものを背負う顔をしている」


 ヨルムが言った。


 アレックスは苦笑した。


「よく言われます」


「背負いすぎて潰れるなよ」


「それも言われます」


「なら、言われるだけの顔だ」


 ヨルムは斧を肩に担ぎ直した。


「明日の夜明け前なら案内してやる。昼は商会の目が山裾に来る。夜は黒い畑と獣が危ない。夜明け前が一番ましだ」


 レクスターがすぐ記録する。


「明日夜明け前」


「遅れるな。わしは待たん」


「待ってください」


 マーガレットが言う。


「待たんと言った」


「でも怪我人とか、サヴィルとか、準備が」


「だから今言った。準備してこい」


 ヨルムはカイを見る。


「お前は来るのか」


 カイは一瞬黙った。


 アレックスを見る。


 マーガレットを見る。


 レクスターを見る。


 そして、ハルダ村の方角を見る。


「俺は……村に残る」


 その声は小さかった。


 でも、はっきりしていた。


「北林道は案内できるところまで描く。でも、父ちゃんと母ちゃんがいる。村もまだ戻す途中だ」


 ヨルムは目を細める。


「そうか」


「うん」


「なら、地図を描け。下手でもいい。自分の村の道を、自分で残せ」


 カイは少し驚いた顔をした。


 それから、強く頷いた。


「描く」


「よし」


 ヨルムはそれだけ言うと、森の奥へ戻りかけた。


 アレックスが呼び止める。


「ヨルムさん」


「何だ」


「明日、お願いします」


 老人は振り返らない。


「村の声が山を越えるかどうかは、お前ら次第だ」


 そう言って、木々の間へ消えた。


 北林道の確認を終えて村へ戻る道中、カイはずっと黙っていた。


 マーガレットが何度か声をかけようとして、やめた。


 彼が考えているのが分かったからだ。


 村に戻ると、石蔵の前でミラが待っていた。


 カイは母の前に立つ。


「明日、アレックスたちは北林道から行く」


 ミラは息を呑んだ。


 トーマも目を開ける。


 石蔵の中の空気が少し止まる。


 カイは続けた。


「俺は残る。村の地図、完成させる。父ちゃんと母ちゃんと、北畑と、石蔵を守る」


 ミラの目から涙がこぼれた。


「カイ……」


「でも、ちゃんと別れは言う」


 カイはアレックスを振り返った。


「約束したから」


 アレックスは頷いた。


「ああ」


 マーガレットはもう泣いていた。


「まだ明日だよ?」


「今から泣くなよ」


「無理!」


 カイは少し笑った。


 その笑いも、目に涙を浮かべたものだった。


 レクスターは地図を広げた。


「では、今日中に北林道の写しを作ります。明日夜明け前に出発するため、準備を始めましょう」


 出発。


 その言葉が、ついに石蔵の中へ落ちた。


 誰も大きな声を出さなかった。


 ただ、静かに受け止めた。


 ハルダ村はまだ完全には戻っていない。


 けれど、声は外へ出た。


 水は北畑へ流れた。


 鐘と角笛は村を守った。


 証拠は分散された。


 そして、次へ進む道が見えた。


 夜へ向かう石蔵の中で、カイは地図の端に新しい線を引いた。


 北の林道。


 細く、曲がりくねった線。


 その先に、小さく書く。


 “声が山を越える道”


 字は少し震えていた。


 けれど、誰にも消せないほど、はっきりと残った。


 アレックスはその文字を見つめた。


 明日、彼らはこの道を行く。


 ハルダの声を背負って。


 グレイルの名を背負って。


 王都へ続く影へ近づくために。


 そして、カイはこの村に残る。


 残す畑と、種と、地図と共に。


 別れの朝は、もうすぐそこまで来ていた。

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