【第87話 戻ってきた声】
朝になっても、焦げた匂いは消えなかった。
鐘台の根元に残った黒い焦げ跡。
南道の端に撒かれた火油の臭い。
土袋で押し潰した火元から立ち上っていた煙の名残。
ハルダ村の空気には、まだ火の記憶が薄く貼りついていた。
けれど、村は燃えていなかった。
鐘台は立っている。
縄は焦げたが、切れていない。
角笛も石蔵の中に戻された。
北畑には、旧水路の清水が細く流れている。
“残す畑”の木札も倒れていない。
そのことを確認するだけで、村人たちは朝から何度も息を吐いた。
助かった。
まだ終わっていない。
この二つの思いが、同じ胸の中で揺れていた。
カイは、石蔵の入口に座っていた。
両手には布が巻かれている。
昨日より腫れは少し引いたが、まだ痛む。
筆を持つにも、角笛を持つにも、少し顔をしかめる。
それでも、彼は地図を膝に置いていた。
ハルダ村の地図。
最初は拙い線だけだったそれは、もうただの地図ではなくなっていた。
黒い畑。
残す畑。
旧水路。
避難線。
煙避難線。
鐘台。
角笛の位置。
土袋の場所。
焦げた場所。
危ない場所。
助かった場所。
村の傷と、村の知恵が、同じ布の上に刻まれている。
カイは、焦げた鐘台の印の横に、小さく文字を書き加えた。
“まだ鳴る”
それを見ていたマーガレットが、目を丸くした。
「いいね」
「何が?」
「まだ鳴る、って」
カイは少し照れたように目を逸らした。
「実際、鳴るし」
「うん。でも、なんかいい」
「よく分かんない」
「私も分かんないけど、いい」
マーガレットは地図を覗き込む。
昨日、彼女が吹いた角笛の位置にも印がある。
そこには、カイの字で“角笛、使える”と書かれていた。
その横に、いつの間にか小さく“変な音でも届く”と書き足されている。
マーガレットが固まった。
「カイ」
「何」
「これ」
「事実」
「消して!」
「大事な記録だってレクスターが言ってた」
「そういう記録じゃない!」
石蔵の中に笑いが起きた。
サムが覗き込んで言う。
「変な音、届いた」
「サムまで!」
ルダも小さく頷く。
「でも、怖くなかった」
マーガレットの表情が止まった。
ルダは続けた。
「鐘は怖かった。でも、角笛はちょっと変で……マーガの音だって分かった」
マーガレットの目に涙が浮かぶ。
「ルダ……」
「だから、逃げられた」
マーガレットはもう何も言えなかった。
ただ、ルダの前にしゃがみ、泣きそうな顔で笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、変な音でもいいか」
「うん」
カイが横で小さく言う。
「変な音、正式採用」
「やめて!」
笑いがまた広がった。
焦げた匂いの残る朝。
それでも、笑いがあった。
アレックスは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
昨夜、ネイグはまた逃げた。
南道の火は止めた。
鐘台も守った。
だが、商会の回収班を捕らえたわけではない。
次に何をしてくるかは分からない。
それでも、村は確かに一度、火を越えた。
鐘だけではなく角笛もある。
避難線も煙避難線も動いた。
土袋も役に立った。
準備したものが、実際に村を救った。
その事実は、村人たちの顔を変えていた。
疲れは濃い。
恐怖も消えない。
けれど、昨日までよりほんの少し、背筋が伸びている。
自分たちの手で守れた。
その感覚が、村を支えていた。
レクスターは、石蔵の奥で寝かされていた。
本人は起きると言ったが、マーガレットとミレ婆とダンの三者によって却下された。
「今回は多数決です」
ミレ婆が言った。
「多数決は正式な判断手段です」
ダンも頷いた。
「巡察としても休息を命じる」
マーガレットは胸を張った。
「水の本、また預かる!」
レクスターはしばらく抵抗した。
しかし、昨夜の消耗は明らかだった。
南道の火を抑え、黒い粉の飛散を防ぎ、煙の流れを読み、地図を修正し続けた。
彼の顔色は白く、手もわずかに震えていた。
最終的に、レクスターはため息をついた。
「三十分」
「一時間」
マーガレットが即答。
「四十五分」
レクスターが交渉。
「二時間」
ミレ婆が上乗せ。
「……一時間半」
レクスターが言った。
ダンが静かに首を横に振る。
「二時間だ」
レクスターは沈黙した。
そして、負けた。
「……二時間」
マーガレットは勝った顔をした。
だが、すぐに心配そうにレクスターを見る。
「ちゃんと寝て」
「はい」
レクスターは水の本をマーガレットに預け、石蔵の壁際で横になった。
今は、本当に眠っている。
呼吸が深い。
アレックスはそれを確認し、少しだけ安心した。
レクスターが倒れると、村の備えは大きく崩れる。
それは誰もが分かっていた。
だから、彼を休ませることもまた村を守る作業だった。
朝の確認が終わった頃、東側の見張りに立っていた若者が声を上げた。
「東道に人影!」
石蔵の空気が一気に張り詰めた。
南道ではない。
東道。
東宿場へ続く道。
村人たちが一斉に顔を向ける。
アレックスはすぐ立ち上がり、雷の刃へ手を添えた。
マーガレットもハルバードを握る。
カイは地図を抱えたまま立ち上がった。
「エルマさんたち?」
「確認する」
アレックスが前へ出る。
東道の向こうから、二人の人影が近づいてくる。
一人はハンス。
もう一人はエルマ。
エルマは息を切らし、服の裾が少し泥で汚れていた。
ハンスの肩には、空になった豆袋がかかっている。
村人たちの中に、ざわめきが走った。
「戻った……」
「エルマ!」
ミレ婆がエルマの子を抱いて前へ出る。
子どもは母の姿を見るなり、泣き出した。
「お母さん!」
エルマは駆け出したいのを必死に堪え、足元を見ながら歩いてきた。
そして、石蔵の手前で子どもを抱きしめた。
その場に座り込む。
子どもを抱きしめ、何度も名前を呼ぶ。
「ルカ、ルカ……ただいま……」
子どもも泣きながら母にしがみつく。
ミレ婆がそっと二人の背を撫でた。
「よく戻ったね」
エルマは泣きながら頷いた。
「戻りました……」
ハンスも石蔵の前で膝をついた。
疲れ切っている。
だが、顔には確かな光があった。
アレックスがすぐ聞く。
「写しは?」
ハンスは空の豆袋を持ち上げた。
「渡した」
石蔵が静まり返る。
「宿の主人に、直接」
その瞬間、村人たちが一斉に息を吐いた。
マーガレットは口元を押さえる。
「届いた……」
カイが一歩前へ出る。
「本当に?」
ハンスは頷いた。
「本当だ。宿の主人にだけ渡した。豆袋の底を見せたら、すぐ顔色変えて、奥へ入れてくれた」
エルマが涙を拭きながら続ける。
「塩商人ルベンもいました」
空気がまた強張る。
レクスターは眠っている。
だが、アレックスはすぐ聞いた。
「気づかれましたか」
「たぶん、怪しんではいました。でも宿の主人がうまく追い払ってくれました。『母親の土産に口を出すな』って」
マーガレットが目を丸くする。
「宿の主人さん……!」
ハンスが少し笑った。
「口は悪かったけど、味方だった」
ダンが石蔵の入口から声をかける。
「荷は?」
「今夜、グレイル方面へ向かう馴染みの荷運びに託すと言っていた。宿の主人が自分で封をした。エイナという名前も確認してくれた」
アレックスは深く息を吐いた。
胸に詰まっていたものが、少しだけ落ちる。
ハルダの声は、東宿場へ届いた。
まだグレイルまでは道の途中だ。
だが、第一の関門を越えた。
カイはその場で立ち尽くした。
「俺の字も?」
エルマは微笑む。
「届いたわ。豆袋の底に、ちゃんと入っていた」
カイの顔が歪む。
「そっか」
「宿の主人が、白ヤギさんの絵を見て少し笑っていました」
マーガレットが身を乗り出す。
「笑った!?」
「ええ。『なんでヤギがこんなに大きいんだ』って」
「白ヤギさん大事だから!」
カイが小さく笑う。
「ちゃんと突っ込まれてる」
石蔵に笑いが戻った。
エルマとハンスの報告は、村にとって大きな光だった。
東宿場には確かに商会の目があった。
塩商人ルベンは、二人を見て探るようなことを言ったらしい。
何を運んでいるのか。
村はどうなったのか。
サヴィルは無事か。
その質問の仕方が、普通の商人ではなかったとハンスは言った。
「俺たちは、豆種を宿に預けに来ただけだと言った」
「信じたか?」
アレックスが聞く。
「分からない。でも、宿の主人が間に入った。『ハルダの連中から種まで奪う気か』って怒鳴ったら、ルベンは引いた」
ミレ婆が低く笑う。
「あの男らしいね」
エルマが頷く。
「それと、宿の主人から伝言です」
「何ですか」
「“南道は使うな。塩商人が昨夜から人を待っている。東道も見られている。だが、北の林道はまだ空いている”と」
アレックスとマーガレットが顔を見合わせる。
北の林道。
ハルダ村からベルク領方面へ抜けるかもしれない道。
レクスターが起きていれば、すぐ地図を広げただろう。
ダンが言った。
「北の林道は、古い炭焼き道だ。馬車は通れないが、人なら通れる」
「サヴィルの移送には?」
アレックスが問う。
「担いでいくには難しい。だが、商会の馬車は入りにくい」
つまり、証拠を運ぶには有効。
サヴィル移送には工夫がいる。
エルマはさらに続けた。
「もう一つ。宿の主人が、明日の夜までならハルダから来る者を北の林道へ案内できる人を用意すると。名前は、ヨルムという炭焼きの老人だそうです」
ミレ婆が目を細める。
「ヨルム爺か。まだ生きてたのかい」
「知っているんですか」
アレックスが聞く。
「昔、炭を売りに来てた爺さんだよ。口が悪いが、山道には強い」
ダンが頷く。
「信用できる可能性は高い。少なくとも商会の手先ではないだろう」
アレックスは考えた。
黄紐の写しは東宿場からグレイルへ向かう。
青紐は巡察へ。
白紐は自分たちが持つ。
赤紐は村に残す。
次に必要なのは、白紐を安全な中継先へ運び、サヴィルをどう移送するか決めること。
ネイグは南道を見張っている。
東宿場にはルベンがいる。
北の林道が、唯一の抜け道になるかもしれない。
旅立ちの道が、見えてきた。
だが、それはハルダ村を離れる道でもあった。
カイも、それに気づいたようだった。
彼は地図を抱えたまま、アレックスを見た。
「北の林道って……アレックスたちが行く道?」
アレックスはすぐには答えなかった。
石蔵の中の空気も、少し静まる。
マーガレットがカイを見る。
レクスターはまだ眠っている。
だから、誰もすぐに実務の答えを出さなかった。
アレックスは、カイの目を見て言った。
「たぶん、そうなる」
カイの手が、地図を少し強く握った。
「そっか」
「すぐではない」
「でも、近い?」
「近い」
カイは少し笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「分かってる」
そう言った。
「ハルダの声、持っていくんだもんな」
「ああ」
「ベルク領にも行くんだろ」
「たぶん」
「サヴィルも……連れていく?」
「まだ決める必要がある。でも、証言は必要だ」
カイは唇を噛んだ。
「分かってる」
その言葉は、何度も言ってきた言葉だった。
分かっている。
でも、寂しい。
分かっている。
でも、不安だ。
分かっている。
でも、行ってほしくない。
全部が、その一言の中にあった。
マーガレットが何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
ここで簡単に「大丈夫」と言うのは違う。
カイはもう、誤魔化せる子どもではない。
アレックスは静かに言った。
「出る前に、やることがある」
「何?」
「村を、もう少し安全にする。鐘台の補修。土袋の追加。北の林道の確認。サヴィルとギースの処遇。ネイグへの備え」
「……うん」
「それから、ちゃんと別れを言う」
カイの目が揺れた。
「別れ」
「ああ」
「……うん」
カイは小さく頷いた。
「ちゃんと言って」
「約束する」
「黙って行くなよ」
「行かない」
「絶対」
「絶対」
カイは少しだけ息を吐いた。
その後、エルマとハンスには休息が命じられた。
レクスターが起きる前に、マーガレットが代わりに言った。
「二人とも休んで!」
エルマは子どもを抱いたまま頷く。
ハンスは少し苦笑した。
「レクスター殿みたいだな」
「そう!」
「褒めていいのか?」
「いい!」
ミレ婆が笑う。
「じゃあ、二人とも休みな。村の声を戻してくれたんだ。胸を張って寝ればいい」
エルマは泣きそうな顔で頷いた。
「はい」
昼近く、レクスターが起きた。
起きた瞬間、周囲の空気を確認し、東道の報告を聞き、すぐ地図を要求した。
マーガレットが水の本を返しながら言う。
「まず水飲んで」
「報告を」
「水」
「報告後に」
「水」
レクスターは諦めて水を飲んだ。
その後、エルマとハンスの報告を受けると、目が鋭くなった。
「黄紐が宿の主人に渡ったのは大きいです。北の林道情報も重要」
彼は地図を広げる。
「南道は封鎖扱い。東道は監視あり。北の林道が脱出経路候補。サヴィル移送には担架ではなく、簡易背負い具が必要かもしれません」
マーガレットが言う。
「サヴィル、背負うの?」
「歩かせます。ただし逃走防止具をつける」
「背負いたくない」
「同感です」
アレックスは問う。
「ギースは?」
レクスターは少し考えた。
「ギースは危険です。連れて行くなら拘束人数が増えすぎる。ハルダに残すのも危険。巡察ダンの判断が必要です」
ダンは担架の上から言った。
「ギースは巡察に引き渡すべきだ。だが、今すぐ動ける巡察がいない」
「なら、石蔵から離した場所に隔離継続か」
「そうなる」
ミレ婆が言う。
「道具小屋は二人入れるには狭いんじゃないかい」
「別の小屋が必要ですね」
カイが地図を指差した。
「鐘台の北に、古い炭置き小屋がある。今は空。火の備えにはよくないけど、周りは黒い草が少ない」
レクスターが確認する。
「位置は北林道寄りですね」
「うん」
「使えます。ギースをそこへ移し、巡察引き渡しまで隔離」
カイは地図に印を加えた。
“炭置き小屋”
そこに書きながら、ぽつりと言う。
「村、どんどん印だらけだ」
レクスターが静かに答える。
「印があるほど、判断できます」
「うん」
「危険も、安全も、書いてある」
「うん」
「それは村を守る地図です」
カイは地図を見つめた。
少しだけ嬉しそうで、少しだけ寂しそうだった。
午後は、北の林道へ向けた確認準備に費やされた。
まだ実際には出ない。
ネイグがどこで見張っているか分からないからだ。
だが、北の林道を使うなら、最低限の道具が必要だった。
乾いた食料。
灰袋。
水袋。
証拠を濡らさないための油紙。
サヴィルの拘束具。
雨具。
そして、ハルダ村からベルク領へ向かう道の聞き取り。
ミレ婆はヨルム爺の話をした。
「昔から偏屈でね。人の話を聞かない爺さんだったよ。でも、山道は誰より詳しい」
ダンが言う。
「北林道は狭い。商会の馬車は入れない。だが徒歩の追手は来る可能性がある」
マーガレットがハルバードを握る。
「来たら止める」
レクスターが釘を刺す。
「追いすぎない」
「分かってる」
「本当に」
「本当に!」
そのやり取りに、カイが笑った。
「出発しても言ってそう」
「言うでしょうね」
レクスターが答える。
「マーガレットは定期的な確認が必要です」
「私だけ!?」
「アレックスにも必要です」
「よし!」
「よしなのか?」
アレックスが聞くと、マーガレットは笑った。
「一緒ならいい」
レクスターはため息をついた。
だが、その顔は少し柔らかかった。
夕方、村人たちは北畑の前に集まった。
エルマとハンスの帰還を祝い、大きな宴をする余裕はない。
火も使えない。
食料も限られている。
それでも、ミレ婆が硬いパンを薄く切り、汚染されていない豆を少しだけ茹でずに炒らず、そのまま種としてではなく食べられる分だけ選んだ。
レクスターは量を厳しく確認した。
「種を減らしすぎないように」
「分かってるよ」
ミレ婆は笑った。
「これは、戻ってきた声への一口だ」
村人たちは、小さな欠片を分け合った。
祝うというより、確かめるために。
エルマとハンスが戻ったこと。
ハルダの声が東宿場へ届いたこと。
白ヤギさんの絵が宿の主人に笑われたこと。
それらを、口の中でゆっくり噛み締めた。
カイは豆を一粒手に乗せていた。
「これ、グレイルにも行ったんだよな」
「うん」
マーガレットが答える。
「同じ豆?」
「少しだけ」
「そっか」
カイは豆を見つめた。
「じゃあ、どこかで芽が出るかもしれない」
アレックスは頷いた。
「ああ」
「ハルダの豆が、グレイルで」
「出るかもしれない」
カイは少し笑った。
「変なの」
「いい変だね」
マーガレットが言う。
「うん。いい変」
夕暮れの北畑に、清水の音が流れていた。
黒い畑の音はまだある。
ネイグもまだいるかもしれない。
サヴィルもギースも拘束中だ。
旅立ちの準備も始まっている。
不安は尽きない。
けれど、その日、ハルダ村には確かな報せが戻った。
声は、閉じ込められなかった。
豆袋の底に隠した小さな証言は、村の外へ届いた。
それだけで、村人たちの胸に灯りが差した。
夜が来る前、カイは地図の端にまた一つ書き加えた。
“声、東宿場へ届く”
字は少し歪んでいた。
けれど、はっきり読めた。
アレックスはそれを見て、静かに頷いた。
ハルダ村編は、終わりへ近づいている。
だが、終わりとは消えることではない。
声が外へ出て、道が次へ繋がること。
その始まりなのだと、彼は思った。
焦げた鐘台の縄が、夕風に揺れる。
角笛は石蔵の中で布に包まれている。
種と記録は並んでいる。
そして、カイの地図には、今日も新しい線が増えた。
ハルダ村は、傷つきながらも、確かに明日へ向かっていた。




