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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第86話 火を待つ村】


 夜明け前のハルダ村は、息を潜めていた。


 空はまだ黒い。


 東の端だけが、ほんの少し灰色に薄まり始めている。


 だが、朝と呼ぶには早すぎた。


 鳥も鳴かない。


 風も弱い。


 黒い畑の軋みだけが、遠く、低く、眠れない村の耳に届いていた。


 ぎし。


 ぎし。


 ぎし。


 その音に、石蔵の中で眠っていた子どもが小さく身じろぎする。


 ミレ婆が毛布をかけ直した。


「大丈夫だよ」


 声は小さい。


 けれど、石蔵の中にいた者たちには届いた。


「ここにいるからね」


 誰に向けた言葉か分からなかった。


 子どもへか。


 自分へか。


 村全体へか。


 それでも、その言葉で少し空気が落ち着いた。


 石蔵の中央には、赤紐の原本が置かれている。


 その横には種袋。


 麦。


 豆。


 根菜。


 小さな薬草。


 村が未来へ残すもの。


 そして、その未来を奪われかけた記録。


 種と証言が、同じ棚に並んでいた。


 その光景を、カイは眠れないまま見ていた。


 彼の手にはまだ布が巻かれている。


 縄で擦れた手のひらは痛む。


 少し動かすだけでも、皮膚が引きつる。


 けれど、彼は何度も指を動かしていた。


 鐘を鳴らせるか。


 角笛を吹けるか。


 地図を持てるか。


 確かめずにはいられなかった。


 隣には、古い角笛が置かれている。


 祭具の箱から出されたものだ。


 木と獣角を組み合わせた古い笛で、表面には細かな傷がある。


 昔の収穫祭で使われたものだと、ミレ婆は言った。


 祭りの始まりを告げる笛。


 子どもたちがはしゃぎ、麦団子が配られ、畑の神へ感謝を捧げる日の音。


 その笛が今、避難の合図として使われようとしている。


 カイは、それが少し悔しかった。


 祭りの音は、祭りのためにあってほしかった。


 鐘も、角笛も、笑うために鳴ってほしかった。


 けれど、今は違う。


 守るために鳴らす。


 生きるために鳴らす。


 それも、村の音なのだと、昨日アレックスは言った。


 カイは角笛にそっと触れた。


 冷たい。


 古い木の匂いがした。


「眠れないの?」


 声をかけたのはミラだった。


 担架の上で横になっている母は、まだ起きていた。


 黒い筋はかなり薄くなっている。


 だが、体力は戻っていない。


 少し話すだけで息が苦しそうになる。


 それでも、カイを見ていた。


「母ちゃんも寝てないじゃん」


「母親だから」


「理由になってる?」


「なってるわ」


 ミラは弱く笑った。


 カイは少しだけ口元を緩める。


 それから、角笛を見た。


「これ、ちゃんと鳴るかな」


「昨日、少し鳴らしたでしょう」


「小さい音だった」


「初めてなら、そんなものよ」


「本番で変な音だったら?」


「変な音でも、合図ならいいの」


 カイは眉を寄せた。


「でも、みんな分かるかな」


「分かるように、昨日決めたのでしょう」


「うん」


「なら、大丈夫」


 ミラの声は、やわらかかった。


 カイは唇を噛む。


「母ちゃんは、怖くないの」


 ミラはすぐには答えなかった。


 石蔵の壁を見つめる。


 古い石。


 その隙間に積もった埃。


 ランプの薄い光。


 その全部を見てから、ゆっくり言った。


「怖いわ」


「……だよな」


「とても怖い」


 ミラは正直に言った。


「火が来るかもしれない。黒い畑がまた動くかもしれない。あなたがまた鐘や笛のところへ行くかもしれない。怖くないわけがない」


 カイは黙った。


「でもね、カイ」


「うん」


「怖い時に、何をするかを決めてあるのは、強いことよ」


「強い?」


「ええ」


 ミラは布越しに手を伸ばした。


 カイは自分から近づき、その手に額を寄せた。


「あなたは昨日、怖いまま鐘を鳴らした。今日は、怖いまま角笛を持っている」


「……うん」


「それは、怖くないことよりずっと強いわ」


 カイの目が熱くなる。


「俺、強いのかな」


「強くなりすぎなくてもいいのよ」


 ミラは小さく言った。


「でも、今のあなたは、とても頑張ってる」


 カイは顔を上げなかった。


 母の手の下で、少しだけ泣いた。


 声は出さない。


 石蔵の中で眠っている子どもたちを起こしたくなかった。


 けれど、涙は止まらなかった。


 少し離れた場所で、トーマが目を開けた。


「……カイ」


「何」


「……笛、吹く時は……腹で息しろ……」


 カイは涙を拭きながら振り返る。


「父ちゃん、笛吹けるの?」


「……昔、祭りで……吹かされた……」


 ミラがくすりと笑う。


「音が外れて、みんなに笑われたのよね」


「……あれは……笛が悪い……」


「そういうことにしておくわ」


 カイは思わず笑った。


 泣きながら笑った。


「父ちゃんも変な音だったんじゃん」


「……だから……変な音でも……大丈夫だ……」


「説得力あるような、ないような」


「……ある……」


 トーマは真面目な顔で言った。


 そのやり取りに、近くで起きていたミレ婆も小さく笑った。


「祭りの笛は、変な音ほど覚えてるもんだよ」


「そうなの?」


「そうさ。上手い音は空に抜ける。変な音は笑い話になって、村に残る」


 ミレ婆は角笛を見た。


「今日の音も、きっと残るよ」


 カイは角笛を見つめた。


 残る音。


 怖い音ではなく、村を守った音として。


 そうなればいいと思った。


 石蔵の外では、アレックスが見張りに立っていた。


 夜風は冷たい。


 黒い畑の匂いは、相変わらず苦い。


 南道の奥は暗く、何も見えない。


 だが、何もないとは限らない。


 ネイグ。


 髭の男。


 火油を扱う者。


 商会の回収班。


 サヴィルを消し、証拠を消し、村を焼く可能性のある相手。


 昨日は一度退いた。


 しかし、退いただけだ。


 あの男が諦めたとは思えない。


 アレックスは雷の刃へ手を添える。


 背中には白紐の写し。


 その下に、グレイルの帳簿写し。


 紙の束の重さが、夜の中で妙に強く感じられた。


 グレイルの名。


 ハルダの声。


 どちらも、消されかけたもの。


 今度は火で消そうとしている。


 許すわけにはいかない。


 けれど、怒りだけで前へ出れば、村を守れない。


 追うより止める。


 倒すより守る。


 この村で何度も選んできたことだ。


 アレックスは深く息を吸った。


 隣に、レクスターが立つ。


 水の本を抱えたまま、彼も眠っていない。


「休んでないな」


 アレックスが言うと、レクスターは淡々と答えた。


「交代時間です」


「本当に?」


「半分は」


「半分?」


「少し前から起きていました」


「マーガレットに言うぞ」


「それは困ります」


 アレックスは少し笑った。


 レクスターも、ほんのわずかに口元を緩めた。


 だが、すぐに南道へ視線を戻す。


「風向きが変わっています」


「南からか」


「はい。もし火を使われた場合、煙は石蔵側へ流れる可能性があります」


「まずいな」


「そのため、煙避難線を北東へ修正しました」


「いつの間に」


「先ほど」


「休め」


「作業は終えました」


「そういう問題じゃない」


 レクスターは少し黙った。


 それから、小さく言った。


「怖いので」


 アレックスは横を見る。


 レクスターは南道を見たまま続けた。


「火は、水より制御が難しい。特に、汚染粉と混ざった火は未知です。想定が足りないことが怖い」


「……ああ」


「だから、考えてしまう」


 その声は静かだった。


 けれど、疲労と恐怖が滲んでいた。


 アレックスは少しだけ間を置き、言った。


「考えるのは助かる。でも、倒れるな」


「はい」


「怖いなら、言え」


「今言いました」


「そうだったな」


 レクスターは小さく息を吐く。


「アレックス」


「うん」


「今回は、追撃しないでください」


 アレックスは目を伏せた。


「分かってる」


「ネイグが逃げても、村が優先です」


「分かってる」


「本当に」


「本当に」


 レクスターは、マーガレットのようにじっと見た。


 アレックスは苦笑する。


「似てきたな」


「誰にですか」


「マーガレットに」


「不本意です」


「そうか?」


「……いえ、少しだけ光栄です」


 アレックスは笑った。


 レクスターも、今度ははっきり小さく笑った。


 その時、石蔵の横からマーガレットが顔を出した。


「今、私の話した?」


「していない」


 レクスターが即答する。


「嘘っぽい」


「休息は?」


「交代!」


 マーガレットはハルバードを担いで出てきた。


 眠れていない顔をしている。


 それでも目は強い。


「カイ、少し寝た?」


 アレックスが聞く。


「泣いて、ちょっと笑って、今たぶん寝そう」


「そうか」


「手、痛そうだった」


「ああ」


「でも、角笛持つって」


「そう言うと思った」


 マーガレットは南道を見た。


「火、来るかな」


「来る可能性は高い」


 レクスターが答える。


「じゃあ止める」


「はい」


「鐘台も守る」


「はい」


「でも村人が最優先」


「はい」


 マーガレットは深く頷いた。


「分かってる」


 彼女の声は、以前より落ち着いていた。


 怒りで飛び出すだけではない。


 守るために立ち止まることを、彼女はハルダ村で何度も選んだ。


 その手にはまだ昨日の処理人との戦いでできた浅い傷が残っている。


 けれど、彼女はそれを隠さなかった。


 痛いと認め、手当てを受け、また立っている。


 それもまた強さだった。


 夜明けが近づく。


 村人たちが少しずつ起き始めた。


 完全に眠れた者はいない。


 それでも、練習した通りに動く。


 土袋の位置を確認する。


 灰袋を乾いた場所に置き直す。


 角笛を石蔵と北東避難線の二箇所に配置する。


 鐘台の縄を確認する。


 見張りの交代。


 子どもたちへの説明。


 担架の持ち手確認。


 赤紐、青紐、白紐の所在確認。


 黄紐は東宿場へ向かっている。


 そのことを思い出すたび、皆の目が東の道へ向いた。


 エルマとハンスは無事だろうか。


 宿場へ着いただろうか。


 塩商人ルベンに見つかっていないだろうか。


 だが、今は信じるしかない。


 託した声を追いかけることはできない。


 だから、村は村で備える。


 カイは、夜明け前に少しだけ眠ったらしい。


 目を覚ました時、少しぼんやりしていた。


 だが、角笛を見るとすぐに起き上がった。


「今、何か来た?」


「まだ」


 マーガレットが答える。


「手は?」


「痛い」


「正直」


「うん」


「今日は無理しないで」


「無理じゃなくて、準備」


「その言い方、覚えたね」


「マーガが言ったんだろ」


「そうだっけ?」


「そうだよ」


 カイは角笛を持った。


 巻かれた手で持つのは難しい。


 けれど、両手で支えれば何とかなる。


 レクスターが確認した。


「手の痛みが強い場合、角笛はマーガレットに渡してください」


「分かった」


「本当に」


「本当に」


 カイはそう言ってから、少しだけ笑った。


「みんな、本当にって言う」


「重要なので」


 レクスターが答える。


 石蔵の前に集まった村人たちへ、最後の確認が行われた。


 レクスターが地図を広げる。


「火が南道で発生した場合、鐘一回ではなく即時連続鐘。煙が石蔵へ向かう場合、角笛を二度。北東避難線へ移動します」


 ダンが補足する。


「慌てるな。担架は先頭じゃない。子ども、老人、担架、証拠、最後に歩ける大人だ」


 ミレ婆が言う。


「子どもたち、昨日の通りだよ」


 サムが頷く。


「走らない」


 ルダも小さく言う。


「ミレ婆の手、離さない」


「そうだよ」


 ガロンは土袋の前に座っている。


 立ち上がれない彼は、袋の配置を確認する役になった。


「火が来たら、ここから渡す。俺が投げようとしたら止めてくれ」


 ロイドが笑う。


「自分で分かってるなら大丈夫だ」


「焦るかもしれねえだろ」


 レクスターが頷く。


「焦る前提で手順を作るのは良い判断です」


 ガロンは苦笑した。


「褒められてる気がしねえ」


「褒めています」


 少し笑いが起きた。


 その時だった。


 南道の見張りに立っていた若者が、息を切らして走ってきた。


 いや、途中で「走るな」と自分で言うように速度を落とした。


 それでも顔は青ざめている。


「南道!」


 彼は叫んだ。


「煙が見える!」


 空気が一瞬で変わった。


 アレックスが南を見る。


 黒い畑の向こう。


 まだ朝の光が薄い空に、細い煙が立っていた。


 黒い煙ではない。


 白灰色の煙。


 だが、その根元が南道のあたりにある。


 レクスターが水の本を開く。


「風向き、南から北。煙はこちらへ来ます」


 マーガレットがハルバードを握る。


「来た」


 カイが角笛を抱える。


「鐘?」


 アレックスは南道を見る。


 まだ馬車は見えない。


 火元も遠い。


 だが、煙は確かだ。


 火を使う可能性。


 鐘台を狙う可能性。


「確認に出る」


 アレックスが言う。


 レクスターがすぐ答える。


「私も」


「マーガレットは?」


「鐘台!」


 マーガレットが即答した。


「カイと行く。鐘台を守る」


 カイの顔が強張る。


 だが、頷いた。


「行く」


 ミラが息を呑む。


「カイ……」


「母ちゃん」


 カイは振り返る。


 怖い顔をしている。


 でも、逃げていない。


「俺、鐘と笛の場所にいる。走らない。マーガと一緒。危なかったら戻る」


 ミラは唇を噛んだ。


 トーマがかすれた声で言う。


「……風を見ろ……煙を吸うな……」


「うん」


「……手が痛かったら……渡せ……」


「分かった」


 カイは角笛を抱えたまま、深く頷いた。


 マーガレットが隣に立つ。


「私が連れて戻す」


 ミラは涙を堪えて頷いた。


「お願いします」


「はい」


 鐘台班はマーガレットとカイ。


 南道確認班はアレックスとレクスター。


 石蔵指揮はダンとミレ婆。


 土袋配置はガロン、ロイド、ハンス。


 担架準備は村人たち。


 全て、昨夜決めた通り。


 ついに本番が来た。


 アレックスは南道へ向かった。


 レクスターが隣を歩く。


 煙は少しずつ濃くなっている。


 焦げた匂いが風に混じり始めた。


 ただの木の煙ではない。


 苦い。


 油の匂い。


「火油です」


 レクスターが低く言う。


「ネイグか」


「可能性が高い」


 南道の曲がり角に近づくと、黒い畑の向こうに人影が見えた。


 昨日の馬車。


 その前に髭の男、ネイグ。


 彼は手に細長い火筒を持っていた。


 周囲には商会の男が二人。


 そして、道の端に油を撒いた跡。


 火はまだ大きくない。


 わざと煙を出している。


 石蔵へ煙を流すため。


 アレックスの奥歯が鳴った。


「ネイグ!」


 声を張る。


 髭の男がこちらを見た。


 笑った。


「おはようございます、追放王子殿」


 その声は穏やかだった。


 まるで商談でも始めるように。


「村の朝には、少し刺激が必要かと思いまして」


「火を消せ」


「火? これはただの狼煙です」


「油の匂いがする」


 レクスターが言う。


「黒い粉と接触すれば広がる。危険です」


 ネイグは微笑む。


「そうならないよう、あなた方が頑張ればよろしい」


 アレックスは雷の刃を抜いた。


「村には近づけない」


「近づく必要はありません」


 ネイグは火筒を持ち上げる。


「煙が行けば、人は動く。人が動けば、証拠も動く。証拠が動けば、奪いやすい」


 レクスターが顔を険しくする。


「狙いは避難中の証拠」


「ご名答」


 ネイグの笑みが深くなる。


「昨日の鐘は見事でした。ならば今日は、鐘を鳴らす前に煙で動かす」


 その時、別の場所で小さな火が上がった。


 南道ではない。


 鐘台の近く。


 アレックスの顔が変わる。


「鐘台!」


 マーガレットとカイが向かった場所だ。


 レクスターが即座に叫ぶ。


「分断です!」


 ネイグは笑う。


「さて、どちらを選びますか」


 まただ。


 また選ばせる。


 南道の火か。


 鐘台か。


 村か。


 証拠か。


 アレックスは一瞬だけ目を閉じた。


 選ばされる前に、手を増やす。


 声を残す。


 役割を分ける。


 それを、この村でやってきた。


 なら、今も。


「レクト」


「はい」


「南道の火を抑えられるか」


「時間稼ぎなら」


「頼む」


「あなたは鐘台へ」


「ネイグは?」


「追わない」


 レクスターの声は鋭かった。


「村が優先です」


「分かってる」


 アレックスは短く頷く。


 ネイグが笑う。


「逃げるのですか」


「違う」


 アレックスは雷糸を南道の火元へ走らせ、火筒の金具を弾いた。


 ネイグの手が痺れる。


 同時に、レクスターが乾燥土袋を水糸で引き寄せ、火元へ被せる。


 完全には消えない。


 だが、広がりは止まる。


「任せた!」


「はい!」


 アレックスは鐘台へ走った。


 黒い草を避け、灰の線を踏み、最短ではなく安全な道を選ぶ。


 焦りが胸を焼く。


 マーガレット。


 カイ。


 鐘台。


 火。


 そこへ着くと、煙が低く漂っていた。


 鐘台の根元に油を染み込ませた布が投げ込まれている。


 火はまだ小さい。


 だが、柱へ移れば鐘台が燃える。


 カイは角笛を抱え、煙に咳き込みながらも離れていなかった。


 マーガレットがハルバードで燃える布を押し退けようとしている。


 だが、水は使えない。


 火を叩けば油が散る。


 彼女は歯を食いしばっていた。


「マーガレット!」


 アレックスが叫ぶ。


「土袋!」


「足りない!」


 確かに、鐘台周辺に置いた土袋は一つ使われているが、火を覆うには足りない。


 カイが咳き込みながら言う。


「角笛……鳴らす……?」


 煙が石蔵へ流れている。


 鐘台が狙われた。


 合図は必要。


 だが、カイの手は痛み、煙で息が苦しそうだ。


 マーガレットが叫ぶ。


「私が吹く!」


「でも!」


「カイは下がって!」


 カイは角笛を握りしめた。


 下がるべき。


 分かっている。


 でも、合図役は自分だと思っていた。


 手が痛い。


 煙が苦い。


 怖い。


 でも。


 その時、トーマの声が頭に浮かんだ。


 手が痛かったら渡せ。


 ミラの声も。


 怖かったら名前を呼ぶ。


 カイは息を吸った。


「カイ。トーマ。ミラ。ハルダ村」


 そして、角笛をマーガレットに渡した。


「お願い」


 マーガレットは一瞬、目を見開いた。


 それから強く頷く。


「任された!」


 彼女は角笛を口元へ当てた。


 大きく息を吸う。


 だが、慣れていない。


 最初の音は、ひどくかすれた。


 ぶぉ……。


 カイが思わず言う。


「変な音」


「うるさい!」


 マーガレットは顔を赤くしながら、もう一度吹く。


 今度は腹から。


 父トーマが言っていた言葉を、カイが横から叫ぶ。


「腹で息!」


「分かった!」


 マーガレットは深く息を吸い、角笛を吹いた。


 ぶおおおおお――。


 太く、少し歪んだ音が、朝のハルダ村へ響いた。


 鐘とは違う。


 鋭くもない。


 きれいでもない。


 けれど、十分に届く音だった。


 角笛二度。


 煙避難。


 マーガレットはもう一度吹く。


 ぶおおおおお――。


 石蔵側で人々が動き始める。


 ミレ婆が叫ぶ。


「北東へ! 煙避難だよ!」


 ダンが人数確認を始める。


 村人たちは練習通りに動く。


 子どもを前へ。


 担架を北東線へ。


 赤紐をミレ婆が抱え、青紐をダンが持つ。


 ガロンが土袋の位置を指示する。


 ロイドとハンスが担架を支える。


 混乱はある。


 だが、動いている。


 角笛は鳴った。


 鐘台が燃えても、合図は出せた。


 アレックスは火元へ向かった。


「マーガレット、カイを下げろ!」


「うん!」


 カイは悔しそうだったが、自分で下がった。


 煙を吸いすぎないよう布を口に当てる。


 アレックスは雷糸で油布の金具を引き寄せ、火の中心を露出させる。


 水は使えない。


 土袋が足りない。


 なら、周囲の乾いた土を集める。


 雷糸で土を弾き、火へ被せる。


 マーガレットもハルバードの柄で土を寄せる。


 カイが遠くから叫ぶ。


「右の土、乾いてる!」


 アレックスはそちらへ雷糸を伸ばす。


 乾いた土が火へ被さる。


 じゅう、と嫌な音。


 油の匂いが濃くなる。


 だが、炎は少し弱まった。


「もっと!」


 マーガレットが土を押し込む。


 煙が上がる。


 目が痛い。


 喉が焼ける。


 それでも続ける。


 鐘台の柱に火が移る寸前で、炎は土に覆われた。


 まだ熱はある。


 だが、燃え広がらない。


 アレックスは息を切らしながら言った。


「止まった……」


 マーガレットも咳き込みながら頷く。


「鐘台……守れた?」


 カイが恐る恐る近づく。


 柱の根元は焦げている。


 だが、立っている。


 縄も少し焦げたが、切れていない。


 鐘は残った。


 カイの目に涙が浮かぶ。


「残った……」


 マーガレットが角笛を持ったまま笑う。


「笛も鳴った」


「変な音だったけど」


「二回目はちゃんと鳴った!」


「うん」


 カイは泣きそうな顔で笑った。


「ちゃんと鳴った」


 南道では、レクスターが火を抑えていた。


 アレックスが戻ると、ネイグたちの馬車はまた後退し始めていた。


 ただし、今回は置き土産を残していた。


 火筒の破片。


 油の染みた布。


 そして、黒い粉を撒いた跡。


 レクスターは息を荒くしていたが、火の拡大は防いでいる。


「無事ですか」


 彼が問う。


「鐘台は守った。角笛も鳴った」


「避難は?」


「動いてる」


「よかった」


 レクスターは短く息を吐いた。


 その瞬間、膝が少し揺れた。


 アレックスが支える。


「レクト」


「問題ありません」


「嘘だな」


「……少し、疲れました」


「少しじゃない」


「はい」


 レクスターは珍しく素直に認めた。


「かなり疲れました」


 アレックスは彼を支えながら南道を見た。


 ネイグの馬車は遠ざかっている。


 追えない。


 追わない。


 村を守る。


 アレックスは奥歯を噛みながら、その背を見送った。


 悔しい。


 だが、村は燃えなかった。


 鐘台も残った。


 角笛は鳴った。


 避難も動いた。


 それが勝利だ。


 石蔵の北東側では、村人たちが集まっていた。


 煙は薄くなりつつある。


 子どもたちは泣いているが、全員いる。


 担架も揃っている。


 赤紐も、青紐も無事。


 ミレ婆が赤紐を抱え、座り込んでいた。


「……鳴ったねえ」


 彼女は言った。


「祭りの笛が、また村を守ったよ」


 マーガレットは角笛を両手で持っていた。


 少し照れた顔。


 少し泣きそうな顔。


 カイはその隣で、布を口元に当てたまま頷いた。


「変な音だったけど」


「しつこい!」


 石蔵の北東に、笑いが起きた。


 恐怖の後の、震える笑い。


 でも、確かに笑いだった。


 トーマが担架の上でかすれた声を出す。


「……俺より……上手い……」


 ミラが笑った。


「そうね」


 マーガレットは目を丸くする。


「褒められた!?」


 カイが笑う。


「父ちゃんよりは上手いって」


「それ嬉しいのかな!?」


「たぶん」


 笑い声が少し広がった。


 煙の匂いの中で。


 土袋と灰袋に囲まれて。


 黒い畑のすぐそばで。


 それでも、人々は笑った。


 アレックスは、その光景を見て胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ネイグはまた来るかもしれない。


 商会は諦めない。


 王都の影もまだ遠くにある。


 だが、今日も村は守った。


 火を待っていた村は、火を受けても折れなかった。


 鐘台は残り、角笛は鳴り、避難線は機能した。


 そしてカイは、自分で角笛を渡す判断をした。


 それもまた、守るための強さだった。


 夕方、火元の処理を終えた後、カイは地図に新しい印を書き加えた。


 “煙避難線”


 “鐘台、焦げ”


 “角笛、使える”


 字は少し震えていた。


 手が痛むからだ。


 でも、書いた。


 マーガレットが横で見て言う。


「角笛、使える、っていいね」


「本当に使えたから」


「うん」


「マーガが吹いたけど」


「次はカイも吹けるよ」


「次、来ない方がいい」


「それはそう」


 二人は顔を見合わせ、少し笑った。


 アレックスはその地図を見た。


 ハルダ村の地図は、また一つ複雑になった。


 傷が増えた。


 でも、備えも増えた。


 危険の印と、守った印が並んでいる。


 それは、この村がただやられた場所ではなく、立ち向かった場所になっていく記録だった。


 夜が来る頃、村人たちは疲れ切っていた。


 だが、誰も昨日と同じ顔ではなかった。


 火も止めた。


 煙避難も成功した。


 ネイグの策を一つ潰した。


 それは、大きかった。


 アレックスは石蔵の入口で、南道の闇を見つめた。


 ネイグは逃げた。


 次はどう来るか分からない。


 だが、こちらももう無防備ではない。


 鐘がある。


 角笛がある。


 避難線がある。


 土袋がある。


 証言がある。


 村人たちがいる。


 そして、ハルダ村の声はすでに東宿場へ向かっている。


 アレックスは静かに息を吐いた。


 火を待つ村は、火を越えた。


 完全ではない。


 終わりでもない。


 けれど、今日も灯りは消えなかった。


 石蔵の中で、カイが母の隣に座り、角笛を抱えたまま眠りかけている。


 マーガレットはその横で、角笛の変な音についてまだ少し言い訳をしている。


 レクスターはようやく壁にもたれて目を閉じた。


 ミレ婆は赤紐の束を抱き、種袋の隣に座っている。


 ハルダ村は、疲れたまま夜を迎えた。


 それでも、誰も諦めていなかった。


 黒い畑の向こうで、風が吹く。


 焦げた鐘台の縄が、小さく揺れた。


 その縄はまだ切れていない。


 ハルダ村と同じように。

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